第8話

 僕は目覚める。午前三時半。嗚呼、また同じ夢をみていた。この内容の悪夢は、不定期に僕を襲う。

 この夢を見た日の朝は、決まって頭が痛い。イブプロフェンを口に放り込み、窓の外を見上げる。街はまだ眠っている時間だが、名二環を走るトラックのヘッドライトには切れ目がない。

 ベッドに移り、もう一度眠りにつこうとする。全身の全ての細胞が鉛に変わってしまったかのように身体が重い。でも、何故か眠れない。明日が終わって、明後日がきたらいよいよ模試だ。だるい身体をうんと力を入れて持ち上げ、パソコンの前で姿勢を正した。カフェインを摂り、自分を奮い立たせる。

 母はまだ帰ってこない。父は僕なんかに興味はない。暗い家に一人。虚しい。

 僕はパソコンを右手で払いのけると、机の引き出しから原稿用紙を一枚取り出した。書くことはもう決めている。美和さんへの応援メッセージだ。とても応援などできる気分ではなく、憂鬱が脳の大半を埋め尽くしている。しかし、僕は美和さんに喜んでほしくて、僕は美和さんの力になりたくて、ペンを手に取った。

「美和さんへ

 いよいよ模試の日がやってきましたね。緊張と不安でいっぱいになっていることと思います。今までたくさん頑張ってきたことは、知らず知らずのうちに、力になっているはずです。努力している姿は、受験の神様がきっと見てくれていたと思うよ。

 最後の最後まで、決してあきらめず、油断せず、全力で臨んでください。

 僕は勉強を教えることくらいしかできない、無力な存在です。でも、美和さんが合格できるように、この課題をクリアできるように、全力で応援します。一緒に頑張ろうね。

 三好晶より」

 書き上げると、僕はそっと全開の窓をくぐって美和さんの部屋に忍び込んだ。美和さんを起こさないように、抜き足差し足、彼女のカバンを手に取る。数学の問題集の適当なページに、今書いたばかりの原稿用紙を四つに折りたたんで挟んだ。

 僕は部屋に戻る。

 なぜか胸の奥にこみ上げるものがあった。両手で顔を覆う。泣きたいのに涙は出てきやしない。さっき払いのけたパソコンを元の位置に戻し、作業を開始する。

 しかし、まったく集中できない。仕方なく僕は着替え、窓から外に出る。まだ早いから、今日は少し遠くまで行けるだろう。いつものようにショッピングモールのある徳重方面ではなく、田畑の中を通る、細い道。一人で澄んだ空気を感じながら歩く。ゆっくりと、ゆっくりと。そうしていればいつしか、夜は明ける。オレンジ色に染まる大空。龍の形の雲は、自らがカメレオンであるかのように色を変えていく。このままどこかへ行きたい。美和さんと共に、世界中の旅に出たい。誰もいない農道で見る朝焼けは僕を強くした。何でもできる気がしてくる。アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカ。どこへ行っても、僕らはやっていける。

 たまには走らずゆっくりと満喫する。空を見て時刻を予想する。四時半頃だろうか。そろそろ美和さんは朝ごはんを食べているだろう。苦い空気の元で食べるご飯は不味い。緊張感を持って取り組むのは無論大切なことだが、息抜きは必要だ。僕は歩くのをやめ、走る。彼女のところへ早く帰ろう。僕と繋がったその場所へ。

 名二環を走る自動車は、トラックばかりだったのが変わり、一般の車が多くなっている。コンビニ前の不良はもう退散している。

 今日も朝が来た。帰ってきた途端、頭が回らなくなる。身体が重い。

 僕には美和さんさえいればいい。



「おはよう。ちょっといい?」

 いつも通りの口調で、美和さんは質問した。

「ああ。」

「これ、教えてくれない?」

「『メタンの燃焼の化学反応式を書け。』このくらい解説を読めばわかるだろ。自分でやってくれ。」

「昨日の夜、大丈夫だったの。」

「変なことを聞くな。特に何もなかったぞ。」

「嘘ついてない?」

「当たり前だ。」

「言っていいのか分からないけど、」

「何でも言えよ。」

「うなされてたんじゃない? 少し聞こえた。文化祭、そんなに大変なの?」

「君のところまで聞こえたのか。そんなに辛そうな声だったのか。」

「ええ、まあ。」

 優しさが体に沁みる。

「僕は全然大丈夫だ。それより、君は自分の心配をしろ。最後の詰め込み、しなくていいのか?」

「そうだね、頑張らなきゃ。今日はもう戻るよ。」

 美和さんは僕の方を気にしながら窓を跨ぐ。僕は懸命に平気な表情を作る。再び一人になった部屋の真ん中で、僕は大の字に寝転がる。布団などは敷かず、床に直に。

 息苦しい。辛い。どこかへ行きたい。

 玄関の鍵を掛ける音がした。母が家を出る時間だ。

 君は窓を決して閉めようとはしなかった。僕はそれの意味に気付かない。シャーペンを持ち、一応英語リーディングの最高水準用の問題集を広げる。環境保護についての長たらしい文など全く読まず、目は別の方向を向いていた。床に何も敷いていないので全身が痛いけど、だからといって動くのも面倒臭い。そのまま僕は眠る。彼女はずっと同じページを開いたまま、静かに座っていた。

 僕は一時間早く学校に行く。パソコンに向かい、作業の続きをする。部長先輩が僕の姿を見てぎょっとするのが分かった。せっかく打ち解けられた前原は僕を思いきり無視している。顔を見て思い出した。彼の応援メッセージを君に伝えなければ。僕はそんなに様子が変だろうか。いくつかの視線を感じ取りながら、僕は平然と作業を続ける。そして昼が来る。夜が来る。地球は動き、一日が進んでゆく。僕は家に帰り、ベッドに横たわる。そうして夢の世界に行っている間に、現実では、また今日と同じ明日が来る。同じなんかじゃなくもっといい日が来ていること。それを願って、眠りにつく。僕は昔の僕に戻った気がした。

 アラームが鳴る。彼女の特別な日でも、それはいつも通りの時刻に鳴り響く。

 美和さんと言葉を交わす。頑張って、いってらっしゃい、いってきます。僕は君の武運を祈る。今日が喜びの日になるか、悲しみの日になるか、それはまだわからない。悶々と一日を過ごし、何もしないうちに太陽は西へ傾いていく。大空は水色からオレンジ色に移り変わり、そしてそのグラデーションを眺めているうち、あっという間に今日は終わる。当たり前のことだけど、普段は気にしないから当たり前じゃないような感じだ。

 夕方、美和さんは帰ってきた。家に入る前にほんの少し足を止め、我が家の二階をそっと見上げた。彼女の姿からは、何も読み取れなかった。

「どうだった?」

「まあ、ぼちぼちかな。」

「そうか。君ならきっと大丈夫だ。」

「心強いね。」

 美和さんがいつもの明るさを持っていないような気がする。気のせい?

「出来たんだよな。」

「……」

「出来た、よな?」

「……。手紙入れたの、君だよね? ありがとう。感動した。」

「喜んで貰えたなら、何より。」

「久しぶりに、本当に感動した。」

 僕は無意識に微笑む。

「そんなに? たったあれだけなのに。」

「試験中なのに、泣きそうで、集中が、」

「集中出来なかったのか?」

「いや、そんな大袈裟なことでもないけど。」

「悪かったな。君はあれだけ頑張っていたのに。」

「ううん。いいの。そうじゃないの。」

「え?」

「嬉しかったから、いいの。謝らないで。」

「そうか。」

「うん。」

 美和さんが、にっこりと優しい笑顔を浮かべた。

「でも、ちょっとまずいかもね。」

「親?」

「そう。」

「だよな……。」

「啖呵切ったからね。結果がついてこなかったら一体どうなるやら。」

「その時は、僕の元へ来ていいよ。」

「じゃあ、その時には真っ先に君を頼ろうかな。」

「構わないよ。」

「逃避行とかする?」

「案外楽しいかもな。」

「どこへ行こう。」

「市内? 市外?」

「どうせなら県外もありかもね。」

「東京とか。」

「いいね。」

 僕は君との旅を妄想する。僕はもう自分に気がついている。

 いつかここを出る。息苦しくてたまらない、この家を出る。たとえそれが一時的な衝動だとしても、今の僕の気持ちには嘘はない。この場所を離れれば僕は解放されるだろうか。清々しい川沿いの街は好きだけど、それとこれとは話が違う。

「話は戻るけど、結果の詳細はいつ届くのか?」

「早くて一週間で届くそうよ。」

 もうそろそろ部活での文化祭関連の作業は佳境に入るはずだ。来週は美和さんとゆっくりしよう。AAAだったら、美和さんはさらに精進する。そうじゃなくても、何とか認めて貰えるように精進する。来週の一週間はゆっくりしよう。最後の呑気な休みかもしれない。

 僕らは深夜まで語り合う。もし家を出るならどこで暮らす? 食べ物はどうする? お金はどうやって稼ぐ?

 新たな日々が始まる時、僕たちはきっと笑っている。

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