第26話 豊かさとの境界線

 昼と夜を一つずつ超えて、シルバーバレットは走る。

王都に到着するのは七日目の朝になる。

六日目の夕刻に到着する駅が、最後の停車駅だ。


 俺は外の空気が吸いたくて、剥き出しになった連結部分の通路に足を運んだ。

相変わらず、ただ荒野が続く景色しか見えなかったが、なんとなく風が心地いい。

乾ききった空気のそれではなく、少しだけ水の匂いがする。

ほとんど嗅いだことのない筈の匂いだ。

俺がぼんやり外を眺めていると、通りかかった乗務員のおっさんが足を止めた。


「そろそろですね」


 朗らかに、そう言われて俺は何のことだかわからず、きょとんとする。


「そろそろ……?」


「はい、あれを御覧になりに来られたのではないんですか?

私も、このあたりを通るとき、見るのが楽しみでして」


 なんのことだかわからなくて訊き返すと、おっさんは不思議そうに首を傾げてから、また明るく笑った。


「何を?景色なんて、今までと変わりねえと思うけど」


「あれですよ。見えてきました」


 おっさんは、真っ直ぐに前方を指さした。

俺はその指の示す先へ、視線をやる。

つづいて見えたものに驚いて、手すりから身を乗り出すようにしてしまった。


「……!!」


 弾丸のように速い、シルバーバレットエクスプレス。

列車はまるで波をかき分けるように、それへと飛び込んだ。

風圧で、水面を波が広がるように地面が逆巻く。


 いや、地面じゃない。


「……麦。もしかして、これ全部、麦畑か……!!」


 荒野は、突然に姿を変えた。

分け入った、麦穂の海。

一面のそれは、どこまでも漣が連なるようで果てがない。

グレネデンの荒れた土地しか見たことのない俺には、信じられないような光景だった。


「遠方から来られたお客様は、たいてい驚かれるんですよ。

なかなかの景色でしょう?」


 ちょっと自慢げに言ったおっさんは、では、と言い置いて隣の客車へと消えた。

俺は、しばらく海原のように広がる光景に見入る。

一面の麦穂。


 王都は水の都と呼ばれ、豊かな土地だという。

そこに近づいているのだと、あらためて実感した。



 列車は麦の海を貫くように進んでゆく。

海は青くない、金色の海だ。

グレネデンの周囲は海と荒れ地しかなかった。

海はともかく、大地が、これほどに豊かな風景を見るのは生まれて初めてだった。


 このあたりが国有数の穀倉地帯なのだと、やはり通りかかった乗務員が教えてくれた。

俺は、その少し乾いた匂いを胸一杯に吸い込んで大きく呼気を吐き出す。


 気持ちよく麦畑を眺めていると、がちゃりとドアが開いて姫さんがやってきた。

俺の姿を見つけて、微笑う。

戻ってこない俺を、探しに来たのかもな。

さぼり癖のある護衛だから、仕方ない。


「……この景色は、見飽きませんか」


 訊ねられて俺は笑う。

姫さんも、どこか眩しそうに麦の海へ視線を向けた。


「ああ。飽きねえなあ。

……姫さんは、こんな景色を見るのは初めてじゃねえのか?」


「はじめてです。わたくしの国は、切り立った崖に四方を海に囲まれた島ですから。

 少し前から農業も盛んにはなりましたが、主な産業は鉱山から出る鉱物類です。

 ──でも、この光景は海の波のようで。故郷を思い出します」


「王都は、もっと豊かなんだろう?」


「そう聞いていますね。

水の豊かな都。東部の住民からは想像もつかないものかもしれません」


 姫さんは手をかざして、麦畑だけが続く景色へと顔を向けた。

今はヴェールで隠れた瞳は見えない。


「……前から気になってたんだけどさ。

姫さんは、なんでそうやって顔隠してんだい?宗教の教義とかの問題?」


 訊いたのは、気になってはいたが何気ないことだった。

絶対に隠す、という意味合いもなさそうなのに、時々、さえぎられる視線をふと見たいと思ったから。

姫さんは、少しだけ黙ってから、小さく口許を笑みにする。


「自分の顔が嫌い……だからでしょうか」


「なんでさ。美人なのに」


 そんな容姿に生まれれば、女は誰でも誇るものかと思ってた。

美人ってな、それだけで許されるって部分もあるしな。


「わたくしを生んだ人に──そっくりなのだそう……だからです」


「……」


 咄嗟に、悪かったと言いそうになって言葉を飲み込んだ。

育ての母親だという、北の魔女。

その人のことは、あれほど嬉しそうに語る彼女が、嫌いだと明言する実の母親。


 俺には、そもそも親なんてものがいないが、実の親を嫌いだと口にするのが気持ちのいいことだとは思えない。

姫さんは今は、ほんの少しだけ俯いている。

俺は手を伸ばして、その頬に触れる。

抵抗なく、白い頬は俺の手の中に納まった。


「俺は……姫さんの顔、好きだけどな。姫さんだから」


 指先を少しだけずらせば、ヴェールが持ち上がって蒼い瞳の戸惑ったような瞬きが見えた。

昨日、赤かった目尻を親指の腹で撫でてやると、細められる双眸は柔い色しかない。


「……ありがとう」


 告げて一度、閉じられた瞳。

開いたときには、また少し色合いが違って見えた。

濃い青色は、どこか不思議な色だと思う。


「でも、わたくしは……そんな風に言ってもらえるような人間ではないのですよ」


 珍しい姫さんの自嘲めいた言葉に、俺は違和感を感じてしまう。

なんだって、そんなことを言い出すんだよ。

らしくないなあ。


「──どのへんが?」


「たとえば」


 姫さんは逃げはしなかったが、どこか拒むようでもあった。

立ち竦むみたいに、動かない表情が。

だが問えば、唇は淀みなく言葉を綴る。


「ダークは、前にわたくしに。もし間に合わなかったら何か策はあるのかと訊きましたね」


「……あったかもな。そんなことも」


 他愛のない会話だったように思う。

物のついでの問いかけだった。

たしか、あの時は言いたくなさそうに黙り込まれて答えてくれなかったが。


「──父を。亡いものにしてしまえば、もはや裁判そのものが成立しません。

もっとも簡単で、確実な解決方法です」


「……」


 思いもかけない物騒なことを言い出されて、俺はさすがに固まった。

たとえば俺自身がそれをするのならば、さほど躊躇うこともない。

だが、姫さんの口から言われると、それは違うって気がした。


「あの時、それを言わなかった、わたくしは狡い人間です」


「……でも姫さんは、そうしたくないから、こうやって王都に向かってるんだろ?」


「それもまた、言い訳ではありませんか?」


 姫さんは、小さく笑う。

ここで変に弱音じみたことを吐かない姫さんは、小生意気な女だと思う。

わたくしって可哀想って言ってりゃいいじゃねえか。

たいていの女は、そうする。


「じゃあ俺も狡い大人なんで言うけど」


 そう前置きすると、姫さんは瞬きして俺を見上げた。

思ってた反応と違うって顔つきだった。

馬鹿め。

俺なんざ、あんたの万倍は狡いことを平気でやるんだよ。


「表向きにだって正義を唱える側は、それをやっちゃ駄目だ。

そういうのは、俺みたいなのの仕事だろ」


「ダーク……」


 大きく見開かれた青い瞳の彼女は、俺の言葉に絶句する。

悪党、なめんな。

そこんところの正義なんてものを切り捨てることは、あんたより俺らの方が上なんだ。


「でなきゃ信用は得られなくなる。どうしてもそれが必要になったら、そん時ゃ」


 俺は何でもないように言った。

実際、なんでもないことだ。特に胸も痛まない。


「俺に言えよ」


 言うと、姫さんは悲しそうに俯いた。


 ごめんな。

もう誰を殺しても何で手を汚しても、傷つくほどの誠実さを、俺はどこにも持ち合わせてないんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る