みえる先輩とムシしたい

夏野篠虫

第1話 梨杏先輩はいろいろバグってる

「いいか。100億回繰り返されたような白黒な人生を急転変化させる出来事に出会うのは隕石の直撃を食らうよりは高確率だが、もしも巡り合えたら絶対逃がしたら駄目だぞ」

 その光景を目にして思い出したのは、いつか母方の祖父に言われたような、盆暮れのドがつく田舎の古屋敷で畳の上に正座して聞かされた校長先生よりも長尺な話の一節だった。

 現実の俺は4月も早い寒々しい裸の樹に囲まれた中にいた。絶好の瞬間を逃しまいと素早くシャッターを切った。優美に宙を舞う一匹と周囲の有象無象うぞうむぞうがボケて、正面の一人の女性だけにピントがあった。その人の笑顔が角膜を抜け網膜を焦がし視床下部ししょうかぶまで届いて脳内麻薬の分泌させ、全身を支配していた徹夜の眠気はわずかな朝露と共に蒸発した。

 風が俺たちを取り巻き乾いた土と命の匂いをたっぷり含んで吹いた。寝起きの鳥があちこちで挨拶を交わしている。

 俺を変えるきっかけとなった存在は天から神々しく降ってきたわけでも秘密の扉の向こうから仰々しく登場したのでもなかった。

 たとえばそれは凍える夜の地面に途方もなく降り積もった無数の落ち葉の一枚に、蒸した気温の緑豊かな里山に、清々しい深山幽谷しんざんゆうこくの枯れた大木に、小さくも遥か昔から存在していた。

 不注意な俺の目にはまるで映っていなかった者たちへの扉を開いてくれたのはよく笑いよく怒りわがままでちょっとビビりで色々視える、最高最強な先輩だった。





 例年を下回る最高気温のせいで遅咲きとなった今年の桜がようやく揃って開いた昨日、俺は気持ちも住居も新たに大学生活をスタートさせた。

 町外れの下宿先から最寄り駅、3駅先で降車して約2キロ歩いた深い森林地帯に藍渓らんけい大学はある。その道のりは長く険しく例年新入生が一限から机に突っ伏す原因だと風の噂で聞いた。昨日の入学式なんてスーツ姿に大荷物の女子が俺の目の前で盛大に転んだりした。さすがに可哀想に思って荷物拾いを手伝った。彼女含め新入生は一日でも早く丈夫な心肺機能と足腰が欲しいと、健脚な諸先輩方の背中を追いながら思っているに違いない。

 新芽はまだ固く閉じた街路樹、日光求めて生える草花、それらに隠れた大小の溜池に沿って敷かれたアスファルトの登坂とはんは車道とセットで曲がりくねっている。足に蓄積するダメージと春真っ只中とは思えない量の汗を脇に滲ませつつ学内地図を片手に学部棟を目指す。

 藍渓大学――通称藍大――は生徒数が3000弱の郊外の総合大学でありながら敷地面積は日本1、2位を争うほど広大らしい。さらに文系、理系、医療系から芸術系まで15以上の学部と30を超える専攻数を誇る、少人数の専門的な学習環境を売りにしているとは入学時のパンフレットに書いてあった。ちなみに根っからの文系な俺は他に選択肢もなく文学部に一般合格した。

 大学という新天地にいまさら彩り豊かなフィクションのごときキャンパスライフを憧れはしないが、微量でもいいからトキメキを期待してしまう。

 悲しくないが俺の人生は他人から見ればグレー単色だ。生まれついての三白眼さんぱくがんゆえ目つきが悪いプラス読書好きインドア生活……そこから導かれる解は友人無き孤高を極めた18年間の人生のみ。

 さらに孤独の原因となる俺の趣味でありライフワークで唯一続けているのがオカルト活動だ。心霊、宇宙、超能力、妖怪等々あらゆる怪奇伝承が対象で、中学から去年までは常人に引かれるくらい興味を持っていた。受験勉強で離れていた今は少し落ち着いて冷静になったが熱はくすぶったまま、今日まで再燃の時を待っている。

 藍大は知る人ぞ知る謎といわくと噂多き場所なのだ。俺が入学したのはそれら都市伝説をこの目で確かめ正体を解明、あわよくば実際に体験してみたい、という願望に突き動かされたから。仮にこれまで同様の暗黒な日々が待っていようと、一つだけでも支えがあれば平気でいられるはず。風雨ふううに晒され続けた俺の心は岩よりも硬くできているはずなんだ。

 ひたすら坂を登った先で石畳の広場に出ると道が直進路と右折路の二股になる。右に新入生らしき集団列を発見し最後尾に加わった。のろのろ進む先頭に合わせて牛歩級の速度を保っていると騒めきが前方から聞こえてきた。新たな学友に対する緊張交じりの会話とは違う困惑した声だった。

 トラブルでもあったのかと首だけ列から出して前方を見た。歩道沿いに植わった街路樹の根元に一人の女性が四つん這いのような体勢でへばりついていた。手前の生垣が邪魔をして角度によっては下半身がないように見えるので、腕で走る上半身の怪異テケテケかと思い俺はギョッと身を乗り出してしまった。しかしすぐ冷静になり体を元に引っ込めた。

 前後からはヒソヒソ声で、

「ちょっとなにあれ」

「気持ちわるっ」

「ここの生徒なの?」と、疑念と不快感が投げかけられる。俺が言われた訳でもないのに胸に微細な棘が幾本も刺さった。

 深呼吸をしてもう一度謎の女性を見た。怪しい姿、だが人目の多い朝から本物の怪異の登場はないだろう。ただの人だと思う。それより俺は彼女がいったい何をしてるのか気になった。

 けれど何百人の注目の中彼女に駆け寄って疑問を究明できる立派な肝は持ち合わせていない。せめて周りの謂れのない言葉が本人に聞こえていないことを祈った。

 どこを見ても植物と建物が目に付く。自然豊かな環境とは対比的に施設はあえて人工物の気配をかもし出している。

 ポカポカした陽気にキャンパス全体が包まれる頃にはゆったり進んでいた列もやがてあの女性が見えなくなるくらい移動していた。先頭はすでに目的の建物に入っているようで前進速度もやや速くなった。

 昨日は入学式のあと共通事項の説明と明日以降の日程を聞かされて帰宅だったため、実は誰が同学年の文学部生か知らない。

 学部説明会が行われる講義堂はコンクリートのピロティ構造で、縦長な全体の手前にある階段をぞろぞろと生徒が登っていく。いよいよ学部の同級生と初顔合わせ。想像すると呼吸が乱れるが、今日から何か変わればきっと楽しい毎日が――そう浮かれるまもなく終わった。



 わいきゃいとパステルでカラフルな声の飛び交う第3講義室を俺は抜け出して廊下の突き当りの背無しソファに腰を下ろした。座面のクッションは硬いシート状に成り果てていた。他の教室にも他学部であろう生徒がまだいるらしかった。

 先刻終了した学部別説明会で藍大文学部1年生がまさかの俺以外全員女子という現実が判明した。受験会場には男子もいたのに定員30人のところ入学したのは30人中29人が女子なんてありえない。

 学部生が集まった教室内で一人だけ宇宙空間にいるくらい浮いている俺を周囲は一切関せず、教授の合図で自己紹介がつつがなく始まった。様々な雰囲気の生徒がけたたましい拍手で歓迎される中、やがて俺の番が来た。先駆者にならい名前と出身地、趣味、そして今年の抱負を極々普通に話したつもりだったが、

「………………」

 無音なのにシーンという効果音が聞こえそうな数秒間。湿気た線香花火のような弱弱しい拍手で文学部の4年がスタートしてしまった。

 よりによって女子のみ。最後に話したのはいつだっけか……いや、ちがう話せないわけじゃない。俺はコミュ障ではない。あくまで人付き合いが苦手なだけだ。手札の中に人と話せる話題がないので先行できないが、声を掛けられたら普通に返せると自負してる。昔から教師など年上からの評判は悪くなかった。ただ同級生以下、特に女子は趣味が合わないどころか目も合わせてもらえない。インドア三白眼オカルトマニアはいつだって対人特効なのだ。大衆受けするわけがない。

 非情な現実を振り返っても辛いだけだ。暇と手持無沙汰を解消しようと隣の自販機でコーヒーを買った。大勢の女子と空間を共にし疲弊ひへいした身体をあったか~い缶が癒してくれる。不満も幾分いくぶんか流してくれた気がした。

 冷静になると、どうして文学部はこれほど女子が多いのか疑問に思った。偶然の一言でも片づけられるけど、何か裏があるのではと勘ぐってしまう。たとえば…女性に幸運を呼ぶ噂がある説、逆に男子が入ると呪われる説、もしかすると例の“噂”かもしれないがネット上にもそれらしい情報はなく、他にも色々考えてみるがしっくりくる説は思いつかなかった。

 おやつ時も過ぎて他学部の説明会も順次終了しているようだ。窓から下を覗くと今朝登ってきた坂道の手前まで数百人という人で広場が埋め尽くされていた。繰り広げられるはサークル勧誘合戦で、混雑は初詣の伊勢神宮に匹敵する。取り込まれたら最後、新入生の帰宅時間は際限なく延びていく。

 受験前から知っていたが藍大は県内でも特にサークル活動が盛んで多種多様な小規模団体がひしめき合っており全容は学生課も把握しきれていないとかなんとか。しかもほぼ全生徒が何らかの活動に従事しており、たった一人も新入生獲得がサークル存亡に直結する死活問題らしい。

 窓枠にもたれかかり阿鼻叫喚あびきょうかんな群衆を安全圏から眺めていて気付いた。学生の男女比が圧倒的女子多数なのだ。およそ9対1、絶望的に男子が少ない。昨日もらったままの書類を鞄から取り出した。束になったコピー紙をめくり『今年度在校生内訳』の欄を見る。

 なになに、全数2944人の内一年生は703人、内男は57人! 全学年合計で男は256人。総数の一割以下……って!? 腸の内壁に経験したことない痺れが走った。

 眩しい西日とは反対に気づけば俺のキャンパスライフの先行きは曇天荒天になっているがまだ希望はある。なにせ俺が藍大に入学したのはただオカルト的噂が多いからではない。

 眼下の広場にひしめく数多のサークルの中で俺が注目するのぼり旗があった。伝統ある藍大オカルト研究サークルだ。

 昨年の学祭で見た展示のクオリティは単なる学生の趣味を越えたれっきとした研究と呼べる代物だった。彼らの仲間になって八尺様の解釈を議論したりUFO事例の真偽を考察したり、心霊スポットで幽霊を探したりツチノコの罠を作りたい。脳と胸と喉に溜まりに溜まった知識推考ちしきすいこうのエキスが放出されるときが来たのだ。青天井な期待に俺は加速する心音を意識した。

 人混みを押し退けかき分け、手書きのオカ研の旗の下に着いた。会議机を挟んで椅子が2脚、向かいに女性が一人きりで待っていた。他の1年生はいないようだ。

 ここでも女性……いやもう仕方ない。さすがにこの程度で不登校になりたくない。それに共通の話題があれば多少は話せそう。

 その先輩はマネキンのように真っすぐ正面をピンと伸びた背筋でニコニコ眺めていた。もしかして天才彫刻家が手掛けた置物かもしれない。そう思いながら近づくと先輩の眼がギョロロッと俺を動体検知して勢いよく立ち上がったと思ったら、

「君、新入生だよね! 入部希望?! うちオカルトサークルだけど大丈夫?? わたしはアケビっていうの! とりあえずパンフ使って説明するとねー、あっイス使って!」

 3秒前まで精巧なドールのごとく微動だにしなかったアケビ先輩は俺の体が吹き飛びそうな速度で言葉をぶつけてきた。

「あはいっ」

 一言だけ返事をして座ると怒涛の説明が始まった。

 最初から入部するつもりだったので聞かなくてよかったのだが舌を噛みそうな早口で隙なく喋り続けるので止めるタイミングを見失ってしまった。

 鼓膜に雪崩れ込むサークルの沿革をそっと脇に置いて、目の前の先輩をちらりと見た。頻繁に開閉する整った眉、ナチュラルメイクの肌に引かれたチークが視線を集める顔は前のめりに、大ぶりなボディランゲージの度に揺れる長い茶髪から落ち着く香りが鼻孔びこうに届く。

 先輩の全身から充実した生活感が溢れていた。暗い、怖い、怪しいイメージのオカ研に似つかわしくない雰囲気なのに溌剌とした指手の動きから先輩のサークルへの熱意が伝わる。

「もちろんオカルト全般好きなんだけど、あたしは特に幽霊が好きでね、絶対いるって思うんだけど証明する方法がやっぱり難しくてさ」

「で、ですよね…」

「あっそうだ、オカルト好きで藍大入って来たってことは当然知ってるよね!『百八奇譚ひゃくはちきたん』のこと」

「も、もちろん知ってます……! そのために受験したようなものなので……」

「アハハッすっごいねぇ! かなりのマニアってわけだ!」

「まあ…そうですね」

「でもあれって有名な割に信じてる人少なくない? 怪談集めたら願いが叶うとか言われてるのにね」

「有名と言っても、発祥はネット界隈なので、一般の人はそうでもないかも、しれないですね」

「藍大生にも知らない人意外と多いしそうなのかも。個人的に色々調べててさ、それっぽい噂も探してるんだけどぶっちゃけ大学だけで108話は集まんないよね。集める意味なんて本当はないかもだし」

「でも俺もいろいろ、できる限り調べてみたいです」

「おーうれしい! 頼もしいね~!」

「い、いえ、そんなことは……」

 慣れない言葉に後頭部がむずがゆくなる。冷たい手が自分の太ももの下でモゾモゾ動いた。

 アケビ先輩が身にまとう空気は花が咲き乱れ陽が降り注ぐ高原のようだ。それがオーラとなって俺まで包み込み、人で揉みくちゃな広場にいるのに通い慣れた図書館の隅の席にいるような感覚がした。先輩から発生する何らかの化学物質が神経系に作用しているとしか思えない状態異常が起こっていた。

 そんな感覚に陥ってまともに話が聴けるはずもなく、

「――っていう感じでわからないこともあるかもしれないけど、新入生入ってくれないと困るんだっ。悪いようにはしないからさ、ねっどう? オカ研入らない??」

「えっとは、入ります」

「ほんと?? いいの? やったっ!! オカルト1年生ゲット!!」

 あれから10分以上の長話は耳から耳をスムーズに通過してほとんど聞けていないが、まあこの人がいるなら問題ないだろう。その場で入部届に名前を記入した。

「高橋君ね。ありがとう! あっそうそう、このあと部室棟で新歓やるんだけど予定なかったら来ない??」

 来た。最初の大学生らしいビッグイベント。長年の一人生活が培った妄想力が甘美な幻想を頭上に漂わせる。

「い、行きます」

 勧誘の集団もにわかに数を減らしだし俺と先輩も席を立った。学生達を閉じ込めるよう周囲に生い茂る春の森が夕日を浴びて影となり、群れたネッシーの首のように見えた。

 今日から俺のオカルト青春がいよいよ始まる。目を閉じ想像の大国主命おおくにぬしのみことに幸運を祈った。未知との遭遇を前に血が昇り動悸がするのを抑え、滑らかに手招きする先輩へついていった。



 底冷えする無人の廊下に出ると近くの部屋から和やかな声達が聞こえる。ここでも交代の笛が鳴っているのに未練がましく季節当番に居座る冬のせいで日が沈むと分単位で気温は下降、やがて春服では防ぎきれない寒気がやってきた。上着を持ってきて正解だった。

 俺は講義堂にある昼間の自販機前に再び戻ってきて、昼間と別な銘柄の缶コーヒーのボタンを押した。温いアルミが冷え固まった指先の肉がじわじわほぐれて大きくため息をついた。

 教授陣や一部の院生、サークル向けに総務課の許可さえとれば24時間構内の利用が可能という特権を乱用してオカ研の新歓は今も続いている。参加していた俺は心のダムの貯水量が限界突破したので逃げ出してきた。

 熱意ある勧誘の先輩に連れられ向かった会場はサークル棟の一室だった。扉を開けると既に始まっていた酒盛りによって空気はアルコールに汚染されていた。酒交じりのむわっとする熱気に鈍っていた危機管理能力がビンビン働いた。神の不在がこのとき改めて明確に証明された。

 持ち前の運の悪さが発揮されたのか、予感というものは人類周知の通り悪いものほどよく当たるわけで……真面目なオカ研の実態は遊びに活発な飲みサーだったという「善意で乗せたヒッチハイカーが実は殺人鬼だった!」的D級ホラー映画のような退屈で拍子抜けなオチを迎えた。不滅と信じた城郭じょうかくが一刻で崩れ落ちた。

 引き下がれなかった俺は適当に近くの先輩方へ話を聞いた。すると昔は本当に優秀な人材と真面目な考察調査で知られる全国でも珍しいタイプのオカ研だったという。しかしいつまでも優れた部員が居続けるなんて都合よく世の中はできていない。気づけば先輩から渡されるバトンにオカルトの文字は刻まれなくなっていった。

 なら去年見た展示は? なんてことはない、先々々々々代くらいが作ったものを再利用し続けているだけ。新しい成果はもう一欠片も生まれていなかったのだ。

 それ以上に不思議なのは、広場で熱心に勧誘してきた女性の先輩がいつの間にかいなくなったことだ。思い返せば学部棟の中も各サークルの新歓でごちゃついていて道中ではぐれてしまった。迷子になりかけていた俺が人流に押され押されて辿り着いたのはオカ研前だった。

 アケビという名前と容姿を元に他のオカ研部員を尋ねても「そんな部員はいない」と口を揃えて言われた。まず数十人規模のサークルの勧誘に部員一人だけなんてことあるか? 疑問を持たなかった自分が腹立たしい。

 もしやこれが『百八奇譚』を構成する一話なのか?

 消えたオカ研先輩も言っていた『百八奇譚』とはネット上で流布される都市伝説で一般にも一部に知名度があるらしい。

 いわ

“藍大内には108つの怪奇話が存在し、全てを聞き集めれば何かが起こる”

といういい塩梅の胡散臭さを纏った王道中の王道的噂だ。

 俺は『きさらぎ駅』や『猿夢』に代表されるネット発祥の実話風怪談の変形だと思っていた。しかしどうせ一度の大学生活、送るならわずかでも興味を惹かれる場所に行きたい。そしてあわよくば(色んな意味で)いい出会いがあればと思っていた。

 結果は学部もサークルも大外れ、しかし人生初の怪奇現象を経験した。それを実感すると足裏からつむじまで体温がぐっと上昇した。

 しかし心は変に空白だった。それを満たすように適温になったコーヒーをすすった。抜け出した新歓会場では陽キャ大学生ノリに圧倒されロクな食べ物にありつけなかったため、心の代わりに空っぽの胃は多少満たされた。

 消灯済みの廊下から外を見れば目に見える範囲の建物――入学式の大講堂やまだ名前も知らない近未来的な洒落しゃれた建築――の窓に歓迎の火が灯っていた。多くのサークルが初々しい一年生を仲間にした。何も聞こえないどんちゃん騒ぎを空想だけで描いてみる。さっきまでいたオカ研の新歓にあの女の先輩がいたら、彼女と同じような熱心な部員が歓迎してくれて好きな怪異で盛り上がったり酩酊めいていして少し気の緩くなった先輩の仕草に心を乱される…………妄想は際限なく膨らみ肺の中いっぱいに甘ったるいわたあめが占有していく。なんでこんなに苦しいんだろう。

 さっきもそうだ。明らかな異常超常。言葉を交わし目線を合わせた人物が煙のように消えるという待望の怪奇現象に遭遇しながら想像以上に気持ちは上がらなかった。

 なんでだ。これは俺自身が望み続けたことじゃなかったのか?

 だとすればいったい何に期待して何を求めていたんだ?

 俺がそれを理解した時まるで心臓が薄氷はくひょうの膜に覆われた気がした。視界はひどく歪曲わいきょくした。

「そうか。俺はずっと誰かと繋がりが欲しかったんだ……」

 ぼそりと呟きが白息とともに外へ出てしまった。俺が剛毅ごうきなふりで自認していた以上に、18年間カラカラに乾いた心身は大学という新環境に希望を求めていた。誰でもいい。なんでもいい。先輩だろうと同輩だろうと、恋人だろうと友人だろうと、学部だろうとサークルだろうと関係ない。藍大を見つけ受験を決めたあの日から、ささやかでも、何か一つだけでも、華ある大学生活をここに期待していたのだ。

 そう自覚した途端、立ったまま金縛りにあったように下半身が硬直した。波打つ景色がさらに渦巻きソファに腰から落ちると思考が途絶えた。



 臀部でんぶに痛みを感じて目が覚めた。手元のスマホを触りおよそ2時間眠っていたと知った。すでに講義堂内に人の気配はなく非常口の緑灯だけがツキヨタケの群生のように点いていた。外に首を振っても賑やかな灯りはどこにもなく大学ごと完全に就寝していた。学生も皆眠っているのか、俺の鼓動と鼻息以外は何も聞こえない。無防備に気絶していたわりに四肢の末端は冷えてなかったが睡魔は絶賛滞在中だ。

 ストレッチがてら空き缶をごみ箱に放り込んだ。ミスなく穴に吸い込まれた。視界の歪みは消えたが体の内側の傷は眠っただけでは治らなかった。

 明日からは早くも順次講義が開始される。終電もなくこれから歩いて帰るのは馬鹿らしい。だが初顔合わせの同輩達とほんの少しでもうまく絡みたいなら汗としわまみれの服装は避けたい。シャワーも必須だ。

 余計な考えを巡らす前にさっさと去ればいいものをダラダラ居残ってた俺が悪い……寝起きの欠伸が出た。大人しく帰路につくことにした。

 靴音が反響する廊下を歩き出してすぐ結露した窓の一点が目の端に引っかかった。講義堂の直線上に広がる森の奥にぼやっと柔らかく球体の光が動いていた。それは林立する植物に遮られて明滅する様に陰になりながら小刻みに横方向に移動した。やがて静止したかと思うとその場で光を放ち続けているではないか。

「あれは火の玉、狐火っぽくはないな…霊魂にしては色が……球電現象の可能性も……」

 発光する球が宙を舞う未解明現象は本やネットで散々知識を得てきた。古くから世界中で目撃され続ける謎の一つ。ブツブツ声に出して情報整理を試みるがだめだ、眠気の靄かかる頭ではまともな思考ができない。

 いやそれより写真を、リュックにいつも入れている愛用の一眼レフがついに不思議を撮影する時が来た。窓を開け設定を変えつつ数枚撮影しても、まだ光は同じ地点に留まっている。

 千載一遇せんざいいちぐう、すぐ現場に行くしかない。

 俺はカメラのストラップを首に、リュックを肩にかけて夜の階段を駆け下りた。

 急く心に引っ張られて運動不足の両足は回転数を上げる。筋肉痛決定だ。視野の中心に光を置き距離を縮めていく。曖昧だった球体の輪郭は徐々に具体化していき、森の入口に来た頃には俺が胸弾ませ熱望するような類のものではないと確定してしまった。淡く黄銅味おうどうみがかった白色の光は大型の懐中電灯かキャンプ用のランタンだった。

 本日二度目の期待ハズレで悪霊に憑りつかれたように肩が重くなる。オカルトと真剣に向き合えば向き合うほど落ち込むことは多いものだ。9割は見間違いなんだから致し方無い。

 ……だとしても何故こんな深夜の森に人がいるんだ? 超常じゃないが通常でもない、むしろ謎現象どころか生命の危機的恐怖しか想像できなくなってきた。何者だとしても不審者には先の300メートル走で消費したカロリーと酸素を返してほしい。インドア男子の初心な心肺を弄ばないでくれ……。

 森の外側から見て元怪光もとかいこうの不審者がいるのは10メートル離れている。思ったより近いとわかり動脈がドクと跳ねた。雲無き半月やまばらな古い街灯と比べてずいぶん眩しく感じる。不審者だった場合を想定してスマホを握りしめた。

 森へ踏み入ると体積した落ち葉が千切れ破れる。焼けたパイ生地をフォークで突き刺したような音がした。まずい。

「誰だ!」という怒声が飛んでくると思いきや寒風かんぷうが耳にぶつかっただけで灯りを従える不審者は沈黙を保ったままだった。

 前進するには勇気が必要だが引き下がるのも情けなく、正体を確かめてスッキリしたい一念で足を動かした。

 足音に注意を払って泥棒歩きをしても落ち葉はもろく潰れて枯れ枝は容易く折れてしまう。しかし音が響いても向こうから反応はない。本当に人なのか、はたまた本物の怪異か……決定的瞬間を右手はスマホからカメラに握り替えた。もう覚悟を決めていこう。

 素早く呼吸をして残りの5メートル余りを3歩で駆けぬけた。

 雑木のない開けた場に出た。その中心には成人4、5人で抱えるほど大木の切り株がどっしりと居座り、切口にはランタンがあった。

 隣にいたのは、

「ひと、え、女の人?」

「……んんっ、おう! …なに急に、てかキミは誰?」

 うつむき加減で地面にしゃがみ込む若い女性が巨大なハテナを顔に浮かべて、あっさりとした調子で話しかけてきた。

 この人俺が声かけるまで気づいてなかった? でも話が通じるなら常識の通じる人の可能性がある。緊張が滑舌を邪魔する。

「あ、き、急にすみません。俺はその、新入生で、たっ高橋と言います」

「新入生? あそっか、新歓やってたからいつもより人が多いのか~。おかげであたしは助かったけど」

「助かった……?」

 淀まぬ小川のようにサラサラ喋る女性は一目も俺に寄越さず照らされた地面を凝視していた。俺よりだいぶ小さな体に反比例して長く伸ばした髪先はギリギリ土に着かない位置にある。発言からして同い年じゃないよな。ここの先輩か。

 正体がわかるにつれ今度は別の緊張で手汗は止めどなく視線は捕食者に追われる小魚のように泳ぎ回りだした。でも、ここにいる理由は気になる。

「えっと…な、なにしてるんですか?」

「あー待ってんの」

「まってる?」

「ウカするのを」

 何のことだがさっぱりだ。ウカって、羽化か?……いやよくわからん。

 深夜の森に佇む一人の女性。彼女は死してなお愛する人を待ち続けている。

 そうなら如何にも古典的怪異譚らしい設定だが、俺はオカルト信奉者ビリーバーじゃなく中立派だ。真っ向否定はしないけれど鵜呑みもしない。真実を知らずに大人しくいられる質ではないのだ。

 弾む胸のうずきに足のコントローラーを握られている。もう少し近づいて彼女が見ているものを確かめたい。

「近づかないで!!」

「うあいっ!」

 初めてこちらを見た彼女が一変して声を張り上げた。存在しない返事が漏れて反射的に背筋が正された。訳も分からず叱られて心が泣いている。結局火の玉じゃなかったし来なきゃよかった……。

「あごめん。大声出しちゃって」

「い、いえ、俺の方こそ勝手に。すみませんでした」

 返事はなく沈黙が続いた。腕を伸ばし直立姿勢で固まったままの俺と地面に向き直って思案顔な先輩。何か言った方がいいのか、会話スキルの経験値不足を恨んでいる内に空間の緊密度が高まっていく。

 黙って帰ろう、そう思ったとき彼女がじっと品定めする様に俺を見て口を開いた。

「……ねえキミ、高橋君だっけ」

「っは、はいそうです」

「もしかして、興味あるの?」

 今度こそ俺をはっきり見て前のめりに聞いてきたその上目はランタンの灯りではない、ハッブル望遠鏡で視た星雲のような複雑な輝きで満ちていた。

 知りたかった。彼女が時間帯も孤独も気にせず夢中になっているものを。かつて俺がオカルトに初めて出会った時のように他人に左右されず好きになれるものを知りたい。

「興味っあります! 俺に教えてください、先輩のこと!」

 言葉足らずでも今の俺のありったけを肺活量の限り伝えた。

 聞いた途端、大人しかった彼女――先輩は大好物のお菓子が盛られた器を出された幼児に似た顔に豹変した。それを見て俺はゼロ距離でショットガンを打ち込まれたような初めて味わう衝撃が心臓を貫いた。

「よく言った!!」と、先輩は獲物を見つけた空腹のチーターの俊敏さで立ち上がり、

「オッケー! 何にも知らないだろうからあたしが1から100まで教えたげるよ! ならまずは、っとそこ動かないで! それ踏んじゃうから」

 一瞬で性格だけ真逆のドッペルゲンガーと入れ替わったと思うほどキャラが違う。だが紛れもなく同一な先輩だ。あと“それ”ってどれのことだろう。

「あ~素人には見えないか。まだ大丈夫かな……よいしょっ、ほんとはあんまし動かしちゃダメなんだけど、コレねコレ!」

 先輩は俺の足元に寄ってきて、迷わず一枚の枯葉を拾い上げ俺に指さしてみせた。

「探したけど、今晩きそうなのは2つだけっぽい」

 トランプカードより一回り小さいサイズの縁が反り返った葉、何の木から落ちたのかすらわからない一枚に見慣れない黒色の物体が乗っかっている。形は先端?がわずかに尖り後方は丸みを帯びている。上から見るとくびれが、横から見ればかまぼこの様で表面に顆粒かりゅう状の突起が並んでいる。遺跡から発掘されたオーパーツ、もしくは地球を回る謎の衛星“ブラック・ナイト”にも見えなくもない。

「見たことない、何なんですかこれ」

「ギフチョウのさなぎ

「え!? なん、チョウのさなぎ?」

「羽化するのを待ってたの! もうちょっとでぜったい羽化するはずだから!」

 全く予想外の答えに呆然としてしまった。まさかの虫。特に苦手じゃないが好きでもない。ゴキブリが出たら困るし蚊の吸血は嫌だし蝉はうるさい。それ以外は18年生きて存在を意識したことがない、というのが正しい。

 俺は何か奇妙な既視感を覚えた。切り株のそばでしゃがむ先輩の姿なんて似たものすら見た記憶がないのにどうして……あ。

「今朝、ってもう日付過ぎてますけど、もしかして朝にそっちの木の下にいません…でしたか?」

「そっちの木の……いたいた!」

「あれは、あの時は何してたんですか」

「朝は去年から狙ってたお目当てのカミキリを探したけど、見つかんなくて……超ショックよ……」

「そうでしたか」

「いてもおかしくないのに~! 来年も絶対チャレンジするから!」

 まるで俺がいないかのように独り言が多い。決意を右拳に込めて一段と高揚する先輩だったが蛹付きの落ち葉は赤子を抱くような柔和な左掌ひだりてのひらに乗せていた。俺は素直な感想を口にした。

「それよりも、ど、どうしてこんな夜に一人で待ってるんですか?」

 突然堪忍袋の緒が断裂した音が聞こえた。

「そんなん決まってるでしょ!? この目で! 命の羽ばたきの瞬間を! 見たいから!! あと一人でもないし! なに言ってんのよ!?」

「すすすみません、悪気はなかったんです! き、聞き方がよくなかったです!」

「ったく……以後発言には気をつけること! いい?」

「…はい」

 不用意な俺が悪いが、感情メーターがミリ単位のペダル踏みで限界まで振り切れてしまう。この人すっごく怖い。聞きたいことは他にも山積みだが俺の好奇心は萎縮いしゅくしきってしまった。すると先輩は俺をチラチラ横目で見たあと肺の中身をすべて吐き出して、

「はあぁぁぁもう。ほら、あたしにもっと聞きたいことあるんじゃないの? 好きなもの教えて欲しいんでしょ?」としゃがみながら言った。膝を支えに頬杖を突き俺に質問を促す。顔に当てる指の隙間の頬の赤味はきっと俺の見間違いだろう。

「ああえっ、と、今夜羽化するって言っても、もう3時過ぎてますし今日は羽化しないんじゃ……」

 質問を聞いた途端、不遜ふそんだった顔付きがパーツごと取り換えたように変貌を遂げる。鼻高々にチッチッと舌打つ先輩の指と首の振れが連動した。

「わかってないな~高橋君。いまから教えてあげるから!」と優越感たっぷりなしたり顔で俺の肩を叩いた。

 ちょっと待っててと言い、先輩は蛹付き落ち葉をさっきまで自分がしゃがんでいた辺りに置き直した。そこには先輩が観察していた別の蛹もあった。眉を開き俺を手招きして、

「そこ座ってっ。近くじゃないと説明しづらいから!」

 切り株を前にして先輩の隣に座った。冷えた地表が体温を奪っていく。

「まだ羽化まで余裕あると思うけど、なるべくぱぱっと説明するからよく聞いてよ?」

「わ、わかりました」

「よしっ! じゃあギフチョウの生態から……まってチョウの基本の解説が先? それとも鱗翅目、ならいっそ昆虫全体の――」

「いやいやっま、待ってください! まずギフチョウのことだけでお願いします。時間もその、あれですし」

「そう? まあ今はそんだけでもいっか」

 制止しなければ危なかった。俺もオタクの端くれとしてよくわかるのだ。自分の得意分野は話し出せば止まらなくなり己でコントロールできず、早口でまくしたてるように際限なく脳内に沸いた言葉を紡いでしまう。先輩も恐らくスイッチが入った状態だから気を付けなければ……夜明けも羽化も見逃す事態になりかねない。

 先輩は納得してくれたようで落ち葉を座布団代わりに体操座りで蛹の様子を横目にしながら喋りだした。

「ギフチョウは昆虫の中でも日本の春を象徴する生き物で、フワッフワの毛に覆われた妖精みたいなチョウなの! 幼虫は一年かけて成長して蛹で越冬してこの時期に成虫になるのよ」

 話を聞いて改めて蛹を見た。小学校の頃学校で育てたモンシロチョウの幼虫はもっと緑色の蛹になった気がする。この焦げたニンジンのような塊からそんな美しいチョウが出てくるなんて、人面犬レベルの都市伝説というかチョウと見せかけてガというか、

「疑うわけではないですけど本当に綺麗なチョウ、なんですか? それに蛹ってこう緑色のイメージなんですけど……」

「めっちゃ綺麗よ!! 見たら絶対虜とりこになるから! それに蛹の色形は種類によって違うけど、だいたいの種は羽化前に黒っぽくなるの!」

 間髪入れず反論された。でも嫌な感じはしなかった。ずっと治らないと思っていた胸のヒビが埋まっていく感覚がした。

「ふつうギフチョウの羽化はここらへんなら例年だと3月末なのに今年は冬の平均気温が特に低かったから羽化も遅れてるわけ。ほら桜の開花も遅かったでしょ? ほんとならとっくに成虫が飛び回ってるのに……」と、ふてくされ気味に理由を口にした。

 確かに去年なら桜のピークはとうに過ぎていたはず。ちょうど花盛りを迎えているのは気温のせいか。

「虫と温度が関係してるなんて、俺考えたこともなかったです」

「ふっふっふっあたしを舐めてもらっちゃ困るね後輩。こちとら何年虫追っかけてると思ってるのさ、1歳からずーっとだよ? 一日中365日20年間、頭の中はジャングル状態、虫ウジャウジャだよ!」

「はあ、それはまあ、すごいですね」

 話盛ってますよね? とは言えなかった。この程度の空気なら俺でも読める。こちらこそ舐めてもらっては困る。

 俺の適当な返事もなかったように流して、次にギフチョウの幼虫が食べる植物について仔細しさいで詳細な講義を始めた。いまや停止したら死ぬクロマグロの如く先輩は口を閉じなかった。悪い言い方をすれば喋り上戸な酔っ払いだ。一応酒の匂いはしないが……素面とは思えない。

 丑三つ時も早過ぎ去り静けさだけが満ちていた場に気づけば喜怒哀楽全てを全力で開放する疲れ知らずな先輩の声が反響しそれについていくのがやっとな俺の相槌やたまに口にする疑問が温かなランタンの光に吸い込まれていく。

 語りがひと段落付いたとき、先輩が

「高橋君は何か趣味とかないの?」

「趣味、ですか。ないこともないですけど……」

 否定しないがやんわりと言葉を濁してしまう。中学時代にクラスメイトの意味なき日常会話を真に受け、場違いな熱量で幽霊の実在について話した結果は忘れていない。

「あるなら教えてよ~! 何が好きなのよ?」

 日中の出来事を思い出す。勧誘の時、どうしてもっと自分の思いを、知識を話さなかったのか。そうすれば違った未来があったかもしれない。あれから行き場を失くした想念そうねん咽頭いんとうまで押し寄せ呼吸がしづらい。オカ研の先輩と目の前の先輩を重ねてしまう。

 先輩と会ってたかが2時間。けれど人見知りで女性苦手な俺が何故か初見から自分でも不思議なほどすんなり会話ができている。この先輩なら俺の話も真面目に聞いてくれるだろうか。

 ついに時が来た。

「って――キタっ! ナイスタイミング!」

「なん、う羽化ですか、始まったんですか?」

「あったり前でしょ!? ここよく見て殻が割れだしてる!」

 自問の世界にいた俺は嬉々の叫びで現実に覚醒し直した。しょぼつく目をこすって力強く伸びた先輩の指先方向に顔を近づける。

 あの黒い蛹の鈍角どんかくな先端にキャップが外れるような隙間ができると同時に後背面には円周の亀裂が入り、中からわずかに黒と黄色の毛がはみ出した。苦しそうに藻掻もがいているのか中身は待望の外界に出ようと必死に体を前後に動かしている。

 先の会話の中で先輩は「ギフチョウをだけじゃなくて多く昆虫は一生の大半を幼虫で暮らして、天敵から隠れて、病気を避けて、やっと成虫になったら子孫を残すためだけに全身全霊で残された時間を生きるの」と虫全体を慈愛していた。

 爪でひっかいたらバラバラになりそうな薄さの殻すら容易に抜け出せない存在でも生きている。いま目の前で起こる躍動が命そのものも形なんだと思わされる。

「……早く出てこい」

 胸内でぐちゃぐちゃにかき混ぜられた言い表せないものが脳に送られ高速で乱反射する言葉になり出来上がった一言だけが隣に聞こえない声量で溢れた。

 18年も生きてきて俺の海馬にあるのは1ビットすら残さず消去したいゴミのような記憶か日々這い寄る孤独から逃げるために読み漁った怪奇幻想の知識ばかり。誰かのために行動したことも成し得たこともたった一度もない。“楽”を伴う逃避は刹那的で罪深い中毒性を持つ。強がっても所詮はただの凡人に孤高な生き方はできないのだ。

 じゃあ死が救済になるのか? 悩んだ末に出す結論が究極の“楽”で果たして正解か? 過去の俺は死がもたらす底なしの不安を理由にそれを否定した。今なら言葉にしてはっきり違うと言える。足元の一匹が俺の背中に翼をつけてくれた。

 人生の意味も孤独もやけに仰々しく巨大に思える理屈だってその正体はちっぽけな事実の欠片でしかなくて、自分にとって真に大切なことはありふれたものの中から自分だけの価値を見出せるものだ。なら俺にとってそれは一心同体と言ってもいいオカルト趣味……だけなのか?

「ねえ高橋君?」

 突然、観察に熱中していた先輩に呼ばれた。

「首のそれ。せっかくいいカメラ持ってるんだから写真撮ってよ」

「別に大したカメラではないですけど…わかりました」

 すぐカメラの設定を弄った。UFOや幽霊やUMAなどいつ何が出ても記録できるように常備している一眼レフだが夜間撮影は得意でない。実用した経験も乏しいため記憶にあるだけの知識を総動員して初心者同然の手つきで2、3枚撮影した。幸いランタンのおかげで光量不足にならずフラッシュも併用してそれなりの写真が撮れた。

「撮れた? あたしにも見せて! どれどれ~」

「ちょ、ちょっと近っ」

「へぇー綺麗に撮れてるじゃん!」

 俺の首にストラップがかかったままカメラを自分に引き寄せて写真を確認するが、先輩は距離感がバグってるのか腕と体はくっつきそうだし顔はカップルくらい近すぎるし髪からは果物みたいな良い香りがするし離れようにも離れられないし、俺の情報処理機能はショート寸前だった。

「ありがとっ」とカメラから離れて見せる無邪気なえくぼがさらに心臓の負担を増大させる。数分に思えた時間は実際は10秒程度しかなかった。なんなんだこの人は。あと俺の身体よ、頼むからしっかりしてくれ。

 心拍数をゆっくり下げている間に蛹はパキッと微かな音を立てて先端部から中央にかけて大きく割れた。中がより見えるようになって胴体だけでなく頭部にも黒色の毛がびっしり生えているのがよくわかった。だが先輩の言うようなフワフワでなく踏み潰れた絨毯じゅうたんのようだった。

「羽化したてはヘタってるけどこっから時間をかけて乾かしていくの。しわくちゃなはねもだんだん伸びてくからよ~く見ときな」

 毛髪より少し太い六本の脚でやっとこさ出てきたギフチョウはその言葉通り想像の半分程度のサイズの翅を持つ。明らかになった全貌は素人から見るとアゲハチョウそっくりの色合いだった。

 俺たちの存在に怯えるようにギフチョウは弱々しくも急ぎ足でどこかに移動を始めた。行先を追いかけると俺の足元に生える丈の低い草を登って先端の少し手前で止まった。どうやらここで体を乾かし飛立ちに備えるようだ。

 ふと別の蛹を思い出すと、俺たちが一匹を夢中で観察しているうちに割れて成虫が這い出し始めていた。

「先輩! こっちももう羽化してますよ!」

「しまった! こっちは動き速い、もう翅伸ばすとこ探してる」

「そっちの草の方に行ってますね」

「そうっぽい。せっかくだしたくさん写真撮っといて!」

「わかりました」

「脅かさないように、そーっとね! カメラ近づけ過ぎないように」

 注意されながら写真を撮るうちに後続個体も茎に掴まって動かなくなった。

「飛べるようになるまでどれくらいかかるんでしたっけ?」

「だいたい2、3時間だと思う」

 ……おそらく現在時刻は4時を過ぎている。直に日の出がやってくる。空はほんのり白んできた気がする。それでも周辺はまだ暗闇に支配されている。今更だがよく一人で過ごそうと思ったな先輩。

「え何してるんですか先輩、服汚れますよ」

 そんなことお構いなしで地面に寝そべり翅を伸ばすチョウと同じ目線になっていた。

「こんだけ近くて見れるのも今くらいよ。それにしっかり見るなら横になるのが一番でしょ、つべこべ言わず寝っ転がって!」

 言われるままうつ伏せになった。顎に手を当てる先輩の小さい顔が一人分の間もない距離にある。チョウに集中、意識は眼前に向けなければならない絶対に。じゃないと色々耐え切れずにおかしくなってしまう。

 翅は都度写真を撮って比較しないと視認できないほど低速で伸長していく。ベースの色は黄と黒、後翅には赤、青、橙色の模様がある。あわせて寒さから身を守る体毛も毛羽立ってきて暖かそう。

 うつ伏せ姿勢が忘れていた眠気を招来してしまい目を擦る頻度が上がった。隣はもはや俺の存在も睡眠も知らないような燦然さんぜん爛々らんらんとした瞳で飛翔までのカウントダウンを待望していた。吐息が白煙となって宙に溶けた。

 大きな欠伸をしたとき森林の奥の空がにわかに色付き始めているのを知った。静かなまま夜が明けていく。

 チョウはすっかりそれらしい翅を手に入れ離陸準備か小刻みに脚踏みしている。

「もうすぐかも、ねえカメラ――」

「もう準備できてます」

「フフッやるじゃん。なら頼んだよ」

「はい」

 俺は体を起こして片膝を着いた。切り株の背後から色の太陽が昇りチョウ越しに俺たちを照らす。チョウは体温が上がらないと飛べない。誕生して初の飛行、黒いガラスのような複眼に感情は読み取れないが極度の緊張を感じてしまう。

 シャッタースピードを上げたカメラを構えて、先輩も立ち上がり大きく伸びをして飛び上がるのをひたすら待った……。

 飛ぶ。もう飛ぶ。

 飛べる。君なら必ず。

 力強く、自由に、華麗に最期まで、飛んでいける。

 飛べ。飛べ。飛べ。飛べ。飛べ。


「「あっ!!!」」

 数時間待ち続けたその瞬間はあっさりと、にとっては当然のことわりとして起きた。ファインダー越しに捉えた一瞬の姿はまるで春到来を告げる黄金色の毛を纏った妖精だった。妖精は宙を柔らかく跳ねるように舞ってつがいを求める旅に出ていった。

「……綺麗」

「でしょでしょ!? あたしの言った通りだったでしょ?!! 最高にキレイでかわいくて、サイッコーだったわ!」

 語彙力が足りなくなるのも理解できる。羽化から飛翔の過程は直視した人にしかわからないエネルギーを放出していた。

 ただ、それだけじゃなかった。ファインダーの向こう側にはギフチョウの飛立つ姿を見てサンタから期待以上のプレゼントを貰った少女のように喜ぶ女性がいた。撮った写真を確認するのも忘れてしまうほどダ・ヴィンチにもモネにも描けない美しい光景が網膜に焼き付いた。

「はい…とても綺麗でした。生まれて初めて、美しいものを見た気がします」

「そんなに? ならあたしも教えた甲斐があったわ! 虫はね、どんな芸術にも負けない美しさとどんな文学よりも奥が深いのよ!!」

「虫は、美しい」と先輩の言葉を反芻した。

 突風を通して地面から漂ったにおいがふいに嗅覚をつついて、俺の数少ない懐かしい記憶を呼び起こした。10年以上前に預けられる形で母方の実家に滞在した夏休みは土と水と草の匂いがしていた。ただ一人の同世代の親戚と毎朝から野山を走り巡ってはセミ捕りで数を競い合い、川の上流で平泳ぎを覚え、スイカにかぶりついた。カブトムシを初めて見たのもこの時だったと思う。怪我も沢山したが笑いの絶えない日々だった。思えば人生で一番肌の焼けた時期だった。

 いつしか暗く瘴気しょうきの立ち込めるような現実の連続で思い出はかき消され今まで忘れていた。俺にも虫や自然環境に触れた経験はあったのだ。降って湧いた郷愁きょうしゅうが胸を満たした。

「ずっと忘れてました。俺、昔は人並みに虫に興味があったのに」

 俺の言葉を聞いた先輩は伏し目になり、けれどまた眉を上げてまぶたをバッチリ開いて、

「思い出せてよかったって、あたしは思う。みんな忘れてしまうもんなのよ。ちっちゃい頃に遊んでくれた自然の友達の存在なんか、ゲームやネットやクラスメイトの話題で遠い別世界のものになっちゃうんだ」と呟いた先輩は飛び去ったギフチョウの幻を探しているようだった。

 俺の胸は何故か焼けた包丁でされたように痛かった。

 空気を察したのか、やけに大げさに腕を救助隊を呼ぶように振って、

「やっぱり誰かと話しながら一緒にイイもの見るって楽しいなー!」

 先輩のわざとらしいセリフに無理しなくてもと感じたがその心遣いは沁みた。それを酌んで俺も話を合わせることにした。

「先輩はどなたか仲間と、昆虫サークルとか入ってないんですか?」

「いや~いるにはいるんだけどさ? 声かけたのにみんな『眠いから』って……あたしもその、夜はイヤだったんだけど大学内の森なら夜でも人多いし大丈夫かなって」

「そういうことだったんですね……うん?」

 夜の森に一人でいた理由はこれで全て判明した、と思ったが妙な違和感を覚えた。それに繋がる出来事を手繰っていくと先輩の言葉から時々感じた違和感が生温い湿気を伴って現れた。

 なぜ夜の森にいたのか? それはチョウの蛹を観察してたから。

『あと一人でもないし!』

『大学内の森なら夜でも人多いし』

 それぞれの言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかった。なにか気づいてはいけないことの偶然勘づいてしまったような、禁忌のコトリバコを開けてしまったような不穏な気配が背中に密着した。

「あの先輩、急に変なことを聞くかもしれませんが、」

 自分の直感なんか押し殺して黙っていた方がよかったかもれない。

 でも一度誕生した推測の欠片かけらを俺は放置できない。それにこの先も先輩と関わりたいなら、気づいたことは全て言わなければいけないと思った。

「いまこの場に、先輩以外で何人いますか?」

「急にどうした、完徹で頭おかしくなった? 何人いるかって決まってんでしょ」


「一晩ずーっと6人で観察してたんだから」


「っっっ!!?」

 ひどくあっけらかんとして、おかしな顔をしているのは俺の方だと言わんばかりの小バカにした笑みを浮かべる先輩は、念押しの確認で俺と樹木以外何もない空間の4カ所を数えて、

「それと高橋、あたしを入れて、ね、ちゃんと6人いるでしょ!」

「その4人の皆さん?は先輩の知り合い、だったり……?」

「いーやぜんぜん知らない人。大学周りは何してるかよくわかんない人たくさんいんのよ。たぶん全員学生。うち生徒多いから」

「でもおかしいと思いません? 夜の森をただうろつく人がいるのって変じゃないですか」

「それを言い出したらあたしだって一人でここ来てるわよ!」

「わかりました。けど……なんて言えばいいか……」

「あっ怖いのはやめてよ!? 変なこと言い出したらほんとっ、何するかわかんないから!! ……ビビりじゃないからあたしは!!」と、先輩は自分の発言を聞いてから思い出したかのように付け足し訂正した。

「しませんしませんって!」

「道中も森も人がいなかったらヤバかったわ。一人だったら絶対夜に来てないから。 いやいや怖くはないけどね! 女子一人だといろいろ危ないからだよ!?」と、よほど精神的に切羽詰まっているのか先輩は額から汗を垂らしていた。最早本音を隠したいのか素直でいたいのかわからない。俺は大人な対応で話を切り替えた。

「ちなみに俺以外の人は、いつからいましたっけ?」

 乱れた呼吸を手際よく整えてから、

「たしかあたしが森に入ったときにはもう2人がここを行ったり来たりしてて、『ギフチョウ見に来たのかな』って思ってたら後から1人、そんで最後に高橋と1人が一緒に来たっけか。知り合いだと思ってたけど違うのね」

「一緒に!? 確認ですけど、その4人はずっと俺と先輩とギフチョウを見てたんですよね?」

「べつに? あたしのこと見たり高橋をガン見したりしてたわ。鬱陶うっとうしかったけど4人以外にも森ん中何人かウロウロいるから無視してた。ここにいる奴みんな目的が分かんないのよ。話しかけたこともあるけど返事しないから」

 無視されたことを思い出したのか先輩は少しイラついていた。俺はさらなる事実を知って高圧電線が胴に絡みついたような衝撃にあっていた。当初から今も俺には先輩一人しか見えていない。もちろん俺もずっと一人だった……そのはずだ。

「他人だろうと生きてる人間が大勢いれば、たとえばだけど、幽霊とか暗闇が苦手な人でも夜間活動が可能ってわけ。当然あたしには関係ないけど……」

「その話は本当、ですか? 嘘じゃないですよね?」

「っう!! そっそんなしょうもないウソつくわけないでしょ! あたしが一人でく、暗いのを、こここわがるわけないじゃない!! ましてやゆゆゅゆううれいなんて信じてないから!!!」と、先輩は妙に喉を震わせわざとらしく腰に手を当てた。全身が痙攣けいれんしたようにビクビクして、なんだか様子がおかしいけれど今は考えをまとめる方に集中しよう。

 先輩は嘘じゃないと言うが、だとしても見えない人が何人もずっと近くにいただなんてまだ信じきれない。先輩が俺をからかうために即興で創りあげた怪談という方がありえる。

 そうだ写真。俺は手元のカメラのついさっき撮影した画像を確認した。縦長の構図の左上に舞うギフチョウと中央に喜びはしゃぐ先輩を囲むようにモノトーンの4人が、顔の焦点だけが激しく左右に振ったようにブレた状態で映っていた。撮ってからカメラには俺以外触れてないし当然加工なんかしていない。

 ついに撮れてしまった紛れもない事実を突きつけられて思わず体中を掻きむしりたくなった。カメラを持つ指先が震動する。

 先輩は恐らく生身と区別がつかない程にしっかりと霊――かどうか断定できないが――を知覚していながらその能力を自覚していない。話しかけても無視されると言っていたので視れるだけで相手から何らかのアクションがあっても感じ取れないと思われる。そうでなければ過去に霊的トラブルが起きて能力を自覚しているはずだからだ。

 先輩は怖がりだから自分が異界の存在を視れるなんて想像もつかないのだろう。知ったら一生引き籠るかもしれない。暴れる己の好奇心を親切心で抑えて黙っていよう。

 突然先輩の声が思考に割り込んだ。

「そうだ忘れてた!」

「なんですか?」

「違う違うさっきの話! キミの趣味って結局なんなの?」

「あ……」

 覗き込む眩しい視線から目を逸らしてしまう。

「俺、実はずっと昔から……オカルト、が好きなんです」

 先輩は両眉を吊り上げまばたきをした。

 クラスの女子の切り捨てる視線が重なる……一瞬の間隙かんげきをつくようにあの日の後悔がフラッシュバックする。あ、またやってしまった。

 地面が消えたような浮遊感に囚われたそうになったとき、声が聞こえた。

「すっごくいい趣味じゃん!」

「……へ?」

「もしかして急にあたしのとこ来たのも謎の光とか、そういう変な勘違いだったり?」

「あ、えそ、そうです」

「アハハやっぱり!」

「いやそうじゃなくてあの、先輩は……引かないんですか?」

「え? なんで?」と、先輩は俺の疑問がまるで解読不可能な暗号のように感じているらしかった。頭の血管が猛烈に熱くなった。

「なんでって……オカルトなんて怖いとか気持ちわるいとか、皆思いますよ!! わかってますよそれくらい自分が一番おかしいって。今までだって俺は……だから教室にいても話したいことを黙って、家でもいつも一人でっ。そうやって周りに迷惑かけないように、皆に馴染んで大人しくしてないと生きていけないじゃないですか!!」

 脆くなったせきからどんどん流れ出た。ぐずって荒れた俺の呼気を残し沈黙が場を侵食していく。

 俯いていた先輩は上体をくの字に曲げてため息をついたと思うと今度は背中が弓形ゆみなりに反るほど息を吸って、

「関係ない!!!」

 寝ぼけた森全体が震えるほどの大声だった。

「関係ない。好きなことに、趣味に他人の意見なんてどうでもいい! 高橋は誰に何言われたって孤独が悲しくたってオカルトをやめなかったんでしょ!?」

「は…はい……」

「何かずっと続けるのは簡単じゃない。皆ができるわけじゃない特別なことよ! オカルトを好きでい続けられるのはあんたの才能なの! だから自信を持ちなさい!!」

 先輩はごく短く息継ぎをして拳で自分の胸をち、

「あたしは死んでも虫が大好き! 誰一人それに文句は言わせない! あんたの好きなものに文句言うやつがいたら誰だろうと許さない!!」と、俺を突き飛ばすほどの力で人差し指を伸ばした。

「……」

臆病おくびょうになったらダメ!! 高橋、あんたは何も悪くないし間違ってない!! あたしみたいに好奇心のままに突き進めばいい!!!」

「先輩……」

 俺の目頭には涙が限界まで溜まっていた。先輩は肩で息をしつつ徐々に落ち着きを取り戻してきた。

「あたしは昔から幽霊とか暗いとこみたいな怖いのはきら……えふん。ほんのちょっぴり苦手だけど、面白い話は好きよ。あたしの友達にも興味あるやついると思うし……だから大丈夫、あんたは一人じゃない!」

 仄暗ほのぐらい水底まで落下していく寸前だった身体が少々荒っぽく引っ張り上げられた。先輩は怒っていた。逃げていた俺の態度に、自信ない生き方に、諦めの言葉に対して怒ってくれた。そしてその全部を受け止めてくれた。

 こんこんと湧き上がる感情が眼鼻口めはなくちすべてから溢れそうになり、目を細め勢いよく鼻をすすって唇を固く結んだ。

「ちょっと、なになに泣いてんの?」

「っく……泣いてません」

「嘘ヘタすぎ……はあ。仕方ないなぁ。たまにだったら優しいあたしが話聞いてあげるけど……それじゃ足りない?」

 先輩は前髪をいじりながら薄い唇を尖がらせて言った。目線は照れた斜め方向を見ていた。

「ありがとう、ございます」

 徐々に先輩の人柄が分かってきた気がする。たまに口調は粗野になるが心の根っこから善人なのだ。


 覚えてないくらい久しぶりに振り切れた心が平静を取り戻してきた。

 紆余曲折うよきょくせつを経て一晩の間に感じていたいくつかの直感的違和感が疑惑に、そして確信へと変わった。世界を広げてくれる人であり初めて出会う憧れの“視える”人をついに見つけた。抑えても止まらないうずきで好奇心のエンジンはかかりっぱなしで、率直に先輩のことをもっと知りたいと思った。この出会いだけは絶対手放しちゃダメだ。

 ほのかな橙色に明るくなっていく空に欠伸する先輩を見た。このままだと帰ってしまうと思った。

「ちょっと! …いいですか」

「な、なに!? やめてよびっくりすんじゃん! 急な大声禁止!」

「すみません、でもその、えっと、」

 何でもいい、何か言わないと。数万年ぶりに噴火準備をする死火山の地中深くからマグマが昇ってきたように膨大な想いが冷え固まる喉に溜まってうまく選べない。

「どうした~だいじょぶか~、お腹減ったか~?」

 長かった一日のキーワードが一つずつ思い浮かぶ。大学、サークル、百八奇譚、ギフチョウ、眠い、蛹、灯り、幽霊、先輩……虫。

「だっ大学、先輩は大学生活楽しいですか……?」

「とーぜん!」

 たった一言で自分では壊しきれない凝り固まった思考に風穴かざあなが開いた。それならもう言葉が止まることはない。

「あのよければ俺にもっと虫を、虫のことを教えてください!」

「んんー……」

 ピピピッと朝の鳥が鳴いた。空は淡い橙から青に変わってきた。

「うんいいよ」

「え、」

「採集とか掃除とか毒味とか何だかんだでちょーど人手が欲しかったの! 友達も先輩もなかなか手伝ってくれないからさぁ。そっちから来てくれるなら大歓迎よ!」

 クリスタルに輝く瞳はそのままに、闇鍋のように中身が分からない含み笑いを浮かべて先輩は俺の両腕をがっちり掴んだ。

「採り方から標本づくりまでイヤになるまで厳しく教えてあげる!! あっでもほんとに嫌いにならないでよ?! あとあんたの話も色々聞かせてもらうからね!」

「っはい! よろしくお願いします先輩!」

「……あごめん、言ってなかったっけ? めっちゃ遅くなったけどあたしは2年の蒔芽まきめ梨杏りあん! 呼び方は…ま、好きに呼んで!」

「えっと、蒔芽先輩」

「やっぱダメ」

「ええ!?」

「苗字で先輩呼びってなんか堅苦しいからヤダ。リアンって呼んでよ! 」

「じゃあ……リアンさん。よろしくお願いします」

「オッケ!!!」と、これからよろしくと力いっぱい親指を立てた拳を突き出し白い歯を見せた。釣られて俺もグーサインを初めてした。

「あとで見せてよ、ギフチョウが飛んだとこ撮れたでしょ?」と、リアンさんは大切な物を忘れていたように手を叩いて言った。

「あぁそうですよね……あれ駄目でした。さっき確認したらピンボケしていて肝心なところは撮れてなかったです」

「ええぇ!? ちょっとしっかりしてよ! 高橋の写真テクも鍛えないとダメだなこれは」

「ははは、すみません。お願いします」

 あなたは幽霊が見えてますなんて、今はまだ本人に話さない方がいい。気兼ねなくあの写真を見せて幽霊も虫も互いに語り合える日が来れば、その時は――――



 田舎の畳の上で聞いた祖父の言葉の通り絶対に手放しちゃいけないものに今日出会った。新しい道を歩けば予測不能な問題に遭遇するだろう。未来がどうなるか誰にもわからないけれど、一緒なら何とかなる気がした。

 太陽の熱を鼻先で感じながら俺はリアンさんと暗闇だった森を抜けた。


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