第1章 花咲編

第2話 湖上警察署

 その日、佐川は所属する湖上署の大橋署長に呼び出されていた。それは扱っていた事件も一段落し、手伝いに行っていた瀬田署から引き上げる時期でもあった。彼は久しぶりに大津港に向かい、そこに停泊していた湖国に乗船した。この船に湖上署がある。

 ここを離れて2週間ほどだが、彼にはもっと長くいなかった気がしていた。まだらに塗り直した船体や階段が懐かしくさえ感じていた。まるで久しぶりに我が家に帰って来たような不思議な気分になっていた。


(まるでよその家に来たみたいだ。何か、しっくりこないな・・・)


 その緊張を振り払おうと、佐川は以前のように勢いよく甲板に上がった、そこでは航行課の水野がホースで水をまきながら甲板を掃除していた。単なる作業着でも小柄な彼女が着ると、かわいらしく見える。彼女は佐川を見るなり、笑顔で、


「佐川さん。久しぶり。」


 と手を振って声をかけてきた。佐川は彼女の歓迎が少しうれしくなり、


「おう!」


 と手を挙げて答えた。これで佐川は張りつめていた緊張感が消えていった。以前の湖上署捜査課の佐川正平巡査部長に戻れたようだ。彼は所属の捜査課にも寄らず、そのまま署長室に向かった。まずは呼び出された用件を片付けようと思ったのである。

 所長室はブリッジの下にある。佐川はまた狭い階段を下っていった。その階段に慣れない佐川にとっていつも苦痛でしかない。署長室といってもそのドアは他と同じで古びた木製である。彼はその部屋のドアをノックして声をかけてみた。


「署長。佐川です。」


 だが返事はない。大橋署長は部屋にはいないようだ。またいつものように船の中をぶらついているのだろう。偶然、通りかかった事務員に尋ねた。


「署長は?」

「多分、デッキの方かと。さっきそこで見ました。」


 佐川はやれやれと今度は狭い階段を上っていった。展望デッキの上ると、そこには確かに大橋署長の姿があった。風になびかせた制服姿は「海の男」そのものだった。

 大橋署長は背後の足音で佐川に気付いて振り返った。


「佐川君。来てくれたか?」


 佐川はこの大橋署長が苦手だった。彼はこの湖上警察署の署長であり、この湖国の船長でもある。しかし海上保安庁からの出向組で、習慣が違うのか、気質が違うのか、佐川のような警察の現場のたたき上げ組とはかみ合わないことが多々あった。実際、佐川自身も署長が何を考えているのか、よくわからないことがあり、肌が合わない気がしていた。


「はい。急なことと聞いて駆けつけました。」

「それはすまなかった。それよりどうだ? この素晴らしい景色は。」


 確かに四方に見える湖岸の景色は美しかった。桜の咲き始めでまだ満開ではないが、それでも遠くに見える木々はうすピンク色に染まりかけていた。しかし佐川にとってそれはどうでもよかった。大橋署長は赴任してきて初めて見る琵琶湖の桜だろうが、佐川には毎年見慣れた景色だった。


「ええ、今年もきれいに咲きそうですね。」

「私が巡視艇に乗っていたときは島々の山に咲く桜をたまに見かけたものだった。しかしここではしばらくこれが眺められるのだな。艶やかな、いや妖艶というべきか・・・」


 大橋署長は饒舌に話していた。だが少しも本題に入ろうとしない。しびれを切らした佐川が話の途中で水を差した。


「署長。何か私にご用があったと思うのですが・・・」

「そうだった、そうだった。ついたわいもないおしゃべりをしてしまった。君に話があるのだった。署長室に来てくれるか?」


 大橋署長はそう言ってさっさとハッチから階段をさっと降りて行った。佐川は(やれやれ)という風に、その後に続いてまたあの狭い階段を下りて行った。やはり慣れない佐川は難儀していた。


 ◇


 署長室はまるで展示室のように壁に船の様々な装備が飾られていた。舵輪に錨、浮き輪、ロープなど・・・すべて海の男の署長の趣味だろう。佐川は落ち着かない様子で部屋に入った。


「まあ、ソファにかけたまえ。」

「はい」


 佐川がソファに座ると、大橋署長は広がった机の上から綴じられた書類を手に取った。


「これを見てくれ」


 佐川は書類を渡されて中をざっと確認した。それはある事件の捜査資料のようだった。大橋署長は佐川の前のソファに座ると、急に真面目な顔になって話し始めた。


「君のような優秀な捜査員がこの署に来てくれたが、そんな大きな事件もなく、今まであちこちの署の凶悪事件のために応援に行ってもらっていた。だが今回はこの署の事案だ。」


 大橋署長の顔は緊張で引き締まったように見えた。やっとこの署にも重大な事件を扱わせてくれることになったらしい。だがそんな凶悪事件が最近、新たに起こったとは聞いていない。


「大きな事件があったのですか?」


 佐川は単刀直入に聞いてみた。


「殺人事件だ。静岡県警からだ。青山翔太という28歳の自営業の男性が殺害された。静岡県警の捜査の結果、香島良一という男が捜査線上に上った。元々、2人はこの滋賀県の日輝高校の同級生だったらしい。その香島がここに舞い戻っているらしい。」


 佐川は資料を見た。確かにその様だ。今から2日前の早朝、佐鳴湖公園の桜の木の下で死体が発見された。それが青山翔太だった。背中の傷から出血しており、ナイフで一突きされて殺されたと推測された。そのナイフは現場やその周囲から見つかっておらず、まだ犯人が所持している可能性もあった。その前の晩、通りがかった人がそこで言い争う男の声を聞いたという。調べたところ香島良一と会っていることがわかった。2人は高校の同級生であったという。つまらない喧嘩でもしてとっさに刺したのかもしれない。


(確か、新聞にも小さくだったが出ていたな。すでに容疑者は特定されているし、すぐに解決するだろう。)


 佐川は楽観的に思っていた。


(だがその資料をなぜ、自分に?・・・。)


 佐川は(これは厄介なことを引き受けさせられるかもしれない)と嫌な予感がした。


「静岡県警から山形響子警部補が派遣されて来る。君が協力してやってくれ。」


 大橋署長はそう言って私から目を放すと、窓の外に目を移した。そこには遠くに見える山々に咲き始めた桜が鮮やかに見えた。署長はそれを見てソファに深く腰掛けた。署長のあまりやる気のない態度を見て佐川は思った。


(犯人を捕まえたところで犯人は静岡県警に移送。すべて静岡県警の手柄だ。しかも潜伏する容疑者を探すのは厄介だ。だから滋賀県警の捜査1課はこの湖上署に押し付けてきたのだろう。)


 しかし佐川には断ろうとは思わなかった。久しぶりの湖上署捜査課の案件だから、少々厄介でもやり遂げようと思ったのだ。


「わかりました。それで山形警部補はどちらに?」

「ちょっと前に連絡が入った。本来ならもう着いているはずなのだが、現在、事件の関係者と思われる女性を尾行中だ。こっちには向かっているのは確かだ。」

「その女性というのは?」

「日比野香という女性だ。容疑者と同棲していた若い女性だ。偶然、京都駅で見かけたようだ。もしかしたら香島良一と接触するかもしれない。待っていても仕方がないから迎えに行ったらどうだね? スマホの番号はそこの資料に書いてあると思う。」


 佐川は渡された資料の中に日比野香の名があった。年齢は32歳で職業は静岡県警の事務職員・・・


(これは大ごとだ。もしかしたら共犯者かもしれない。警察内部の人間が犯罪にかかわっているとしたら・・・)


 佐川は事件の重要性について認識した。


(これは速やかに、かつ密かに解決しなければならない。このまま泳がして香島と接触するのを待つか、任意で引っ張って来て事情を聞くか・・・。山形警部補は前者を選んだのかもしれない。)


 そう考えながらも同封してある日比野香の履歴書の一つの項目にふと目が留まった。この日比野香という女性はその履歴書によると経歴がユニークだった。以前は舞台女優だったらしい。その名を聞いたことがないから売れなかったのだろう。それで事務職員になったのか・・・。そんな余計なことを考えつつ、佐川は大橋署長に返事をした。


「わかりました。早速、山形警部補に連絡を取ってみます。」

「じゃあ、頼むよ。」


 大橋署長はそれだけ言うと、またふらふらと署長室を出て行った。また展望デッキに行くのかもしれない。佐川はあきれた表情で渡された資料をトントントンと揃えてから署長室を出て行った。


 ◇


 佐川は署長室を出て廊下を少し歩いて、あるドアの前に立った。そこは彼の所属する捜査課だった。久しぶりの古巣になぜか胸が高鳴るのを覚えた。

 ドアを開けて中に入ると、後輩刑事の梅沢と事務員の上村さんが書類仕事をしていた。久しぶりに顔を出した佐川を見て、上村事務員が少しびっくりして、


「あら、佐川さん! 久しぶりね。」


 と声をかけた。彼女は捜査課の事務員としてはかなりのベテランで、先輩の刑事が留守がちのこの課では、上村さんが細かい書類のことで若い刑事を指導する。だから新人刑事の梅沢は彼女に頭が上がらず、書類のことでみっちりしごかれていた。

 佐川が梅沢に尋ねた。


「荒木警部は?」

「滋賀西署です。また捜査の応援だと思いますよ。」


 梅沢がそう教えてくれた。この課の課長の荒木警部は元は警視庁捜査1課の刑事だった。ある事件で責任を取って辞職したのを大橋署長が引っ張ってきたのだ。しかし各所轄の捜査課が、荒木警部の腕を見込んで応援を要請するのでここにいることは少ない。


(署長からの直接の命令だから荒木警部への報告を後にするか・・・)


 佐川は机に座り、「やれやれ・・・」と思いながらも山形警部補に電話をかけた。


「プップップップ・・・」


 だがなかなかつながらなかった。しばらく呼び出し音を聞きながらイライラして待っていると、ようやく電話がつながり、声が聞こえた。


「はい。」

「もしもし。こちら湖上警察署の佐川です。山形警部補ですか?」

「ええ。」


 なぜかその返事はうわの空という感じだった。佐川はもう一度確かめてみた。


「山形警部補ですよね?」

「ええ、そうよ。山形です。」

「湖上署捜査課の佐川です。山形警部補の案内役になりました。お迎えに行きます。」

「それはどうも・・・」


 なんだかはっきりしない人だ・・・いや、尾行中でそれどころでないのかもしれない・・・佐川はそう思いながら話を続けた。


「日比野香を尾行中と聞いています。今、どちらに?」

「ええと・・・そうですね・・・・。今、三井寺に向かっています。」


 三井寺ならこの近くで、車ならそう時間はかからない距離だった。佐川はすぐに山形警部補と合流しようと思った。尾行するなら2人の方がいい。


「わかりました。すぐに向かいます。」

「多分、三井寺の境内の中にいると思います。尾行している日比野香は長い髪で黒メガネ、濃い茶色のレザーのコートを着ています。私はショートカットで淡い紺のジャケットを着ています。では・・・。」


 電話はそれで切れた。私は立ち上がって梅沢に言った。


「出かけてくる。荒木警部には大橋署長の命令で外に出たと伝えておいてくれ。」

「わかりました。」



 佐川はすぐに湖国を下船して、近くの駐車場に停めてあった「ジープ」で三井寺に向かった。この通称「ジープ」は水陸両用の特殊SUVだ。路上走行も通常のパトカーに引けを取らないばかりか、水面をウォータージェットでモーターボート以上の速度で駆けることができる。官民共同で開発した車体だ。これも警察船「湖国」と同様に滋賀県警の自慢だ。しかし佐川は、


(宝の持ち腐れか・・・)


 と思わざるを得なかった。水陸両用車が必要な緊迫した場面がこの湖上警察署にあったためしはない。ただの時に湖国とともに観客を楽しませるために湖を走るだけになっている。今回も警部補殿の送迎に活躍するだけかもしれない。

 それにしてもこの時期、車での移動は予定が立たない。道が桜の花見の観光客のバスやタクシーで渋滞するからだ。案の定、少し走っただけで渋滞につかまった。この道を進んでもいつ着けるか、わからない。


(できるだけ急がないと・・・)


 そう思うが、赤色灯を回してサイレンを鳴らすわけにもいかない。そんなことをすれば目立ってしまって、犯人に警戒されて尾行の邪魔になるだろう。佐川はハンドルを叩いて気持ちを抑えていた。

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