尿袋

「あなたが書いた小説はどれも同じものばかりね」


 仙台市郊外にそびえ立つ山々のふもとに構えられた別荘で惨劇は起きた。木原きはら尚子しょうこが嘲笑しながら言い放った言葉を思い出す。彼女の指摘はまとていたが、必ずしも正論が人を導くとは限らない。それが他人の内奥ないおうに深く遺恨いこんしていれば尚更なおさらのことである。傷口に塩を塗られていさぎよしとしない者は多い。少なくとも、俺は尚子しょうこの意見を許容することは出来なかった。だから、彼女には死んでもらうことにした。

 

「誰かに依存いぞんしなければ生きていけないなんて寂しい人ね」

 

 その言葉が尚子しょうこの遺言となった。彼女が暖炉だんろたきぎべるために背を向けると同時に、俺はけもののような雄叫おたけびを上げて飛び掛った。正気を取り戻した時には尚子しょうこの頭蓋骨は陥没かんぼつし、床にはおびただしいまでの血と脳漿のうしょうがぶちけられていた。俺の手には重たいだけがの古めかしいクリスタル製灰皿が握られていた。

 記憶は薄靄うすもやが掛かったようで判然としないが、俺は恋人を殴り殺したということになるのだろう。俺が尚子しょうこに殺意をいだいていなかったとは断言できない。いや、俺は随分ずいぶんと以前から彼女に対して鬱屈うっくつとした感情をかかえていた。それが、ちょっとした拍子に露呈ろていしたまでのことなのだろう。

 吹きすさぶ雪が窓を激しく叩いている。早くも尚子しょうこがしようとしていた仕事の続きを引き継ぐ必要がありそうだ。俺は床に散らばったたきぎを拾うと暖炉だんろの中に次々と投げ入れた。油を吸った新聞紙に火をともし、これも炉中ろちゅうに投じた。パチパチという音を鳴らしながら炎が舌を伸ばす様を見届けると、俺は床に倒れ伏して死んでいる恋人の処置について考え始めた。

 

 ※     ※     ※

 

 木原きはら尚子しょうこ不貞ふていを働いていたことには気が付いていた。だが、彼女をただして疑惑を追及する程の勇気がなかった。小説家になることを志して五年の月日が経とうとしているが、才能が芽吹めぶくことはついになかった。尚子しょうこから援助されなければ、とうの昔に路頭ろとうに迷っていたはずだ。

 多少の浮気なら目をつむって見逃すべきである。そう自分に言い聞かせながら、俺は黙々と小説を書き続けた。将来に対する漠然とした不安が常に背中を焼いていたが、それが却って俺に執念を与えてくれた。いつしか、書くという行為だけが安息を感じさせてくれる唯一の方法となっていた。

 木原きはら尚子しょうこの言葉は些細ささいな皮肉だったかもしれない。だが、俺にとっては根幹を否定されたようなものだった。書くことによってながらえているみじめな男の脳髄がぜたのも無理からぬことのように思える。ようやく、結ぶことを許された世間との紐帯ちゅうたいを切り裂かれたような――実にいやな気分だったことだけは朧気おぼろげながらも覚えている。

 バケツに並々なみなみと満たされた木原きはら尚子しょうこの肉片と臓物ぞうもつ暖炉だんろに投げ入れる。暖炉だんろべられたたきぎの上で、彼女の臓腑ぞうふがジリジリと油をしたたらせて焼かれていく。肉が焦げる不快な臭いが部屋に充満していく。けがらわしい――と思いながらもバケツの中から尚子しょうこだった物を素手でつかみ、次々と炉中ろちゅうに投じていった。

 だらりと垂れた腸腑はらわたから黄色い液が漏れ出して、物凄ものすごいまでの臭気を放っていた。尚子しょうこはどこまで切り刻んでも不潔な女だった。だが、それもあと少しで消えてなくなるはずだ。部屋の内には耐え難い程の悪臭が漂っているが我慢する。俺はバケツの中から最後に残された臓物ぞうもつつかむと、勢いをつけて燃え盛る炉中ろちゅうに叩き捨てた。ばしゃりというかすかな水音を鳴らした後に臓腑ぞうふ轟々ごうごうと燃え始めた。間もなく、その臓器の正体が尿袋いばりぶくろだと知った。強烈なアンモニア臭が鼻をしたたかに打ったからである。

 

 ※     ※     ※

 

 尿袋いばりぶくろ、その臓器の名称を知ったのは随分ずいぶんと以前のことだった思う。あれは確か、『異聞解体新書いぶんかいたいしんしょ』と題された古書にしるされていたはずだ。「江戸時代に生きた三人の蘭学者らんがくしゃの内の一人が私家本としてひそかに所有していたらしい珍品だ」と神田の古本店主は自慢していたが真偽の程は定かでない。それは四巻で構成された医学書であったが、内容はにわかに信じ難いような妄言もうげんめいた文章であふれ返っていた。

 

尿袋いばりぶくろとはすなわ膀胱ぼうこうのことである。腎臓じんぞうからくだとおして尿いばりめる臓器であるが、虹色にじいろの水がごとむし寄生きせいすること屡々しばしばあり」

 

 膀胱ぼうこうに虫が寄生する事例があるかいなかは分からないが、それが虹色のような水であるとなれば話は別である。医学をおさめた者でなくとも、それが妄言もうげんであることくらいは察することができる。少なくとも、俺は信じる気にはなれなかった。店主には申し訳ないが、三人の蘭学者らんがくしゃの誰かが所有していた私家本であるという由来ゆらいも疑わしくなってくる。

 だが、恋人を殴り殺した末に遺体を腑分ふわけした今となっては、『異聞解体新書いぶんかいたいしんしょ』の内容を信じる他ないようだ。炉中ろちゅうで燃え盛る炎に焼かれて、尿袋いばりぶくろは悲鳴にも似た奇妙な声を上げ始めていた。それは、「テケリ・リ、テケリ・リ!」という鈴を転がしたような絶叫だった。途端とたんに俺のしたぱらをキリキリとした痛みが走った。もしや、この女に寄生したむしが俺の尿袋いばりぶくろにも……。

 

                                   (了)





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