天使の肉

 冷蔵庫の中からフリーザーバッグに詰められた肉塊を取り出して厨房ちゅうぼうに運んだ。血がしたたりそうなほどに鮮やかな赤色をした肉の正体は肝臓である。

 手入れの行き届いた包丁でスライスした後に、ハーブソルトを肉に軽く振り掛けて下味を調ととのえる。フライパンにたっぷりとオリーブオイルを注ぎ、刻んだ大蒜にんにく赤唐辛子あかとうがらしと一緒にレバーをじっくりと煮詰めていく。ローリエとローズマリーの葉を添えて香りを移すことも忘れてはならない。

 飴色あめいろの油にひたされた食材がジワジワと焼けていく様を見つめながら、私は書棚に収められた一冊の古書に思いを巡らせる。十六世紀初頭、フランス人貴族ダレット伯爵によって書かれた奇書である。その本の題名を『屍食教典儀ししょくきょうてんぎ』というが、発行後、ただちにカソリック教会から糾弾された。降霊術こうれいじゅつ食人しょくじん死姦しかんを行うという教団を目録化した四つ折り版の書籍であるが、いくつかの黒魔術や儀式の手引きも記されている。

 カニバリズム――全く、不快な響きの言葉である。理解できない概念を文化圏から排斥はいせきし、辺境に追いやることで括弧かっこに入れてしまおうという安易な考え方である。文明人らしい物知り顔をしておいて、異邦人に石礫いしつぶてを投げるやからを私は嫌悪する。そういう厚顔無恥こうがんむちな人間を見つける度に、ちょっとした調理を施して食べてやるのだ。豚のように肥えた文明人を葡萄酒ぶどうしゅのつまみにして食べる時ほど愉快なことはない。

 私はステンレス製のバッドに載せられた霜降り肉の様子を見た。十五分前から常温で馴染なじませているおかげで、サーロインの上質なあぶらが程よく融けて、うっすらと光沢を帯びている。熱したスキレットにバターを塗ると、黒胡椒くろこしょう岩塩がんえんをまぶした肉を丁寧に敷いていく。途端に芳醇ほうじゅんな香りが厨房ちゅうぼうに漂い始めた。

 肉とバターが焼ける匂いを堪能たんのうしながら、食材となった人間のことを思い出す。私は愛しい女性をくびり殺して解体した。彼女は二十五キログラムの細切れの肉塊となって冷蔵庫に収められている。今までに何人もの人間をあやめてきたが、彼女の細首に指を絡めた時だけは特別だった。

 スキレットの上であぶられている肉の具合を見ているうちに、彼女の小さな背中の様子が自然と脳裏のうりに思い浮かんだ。白磁はくじのような皮膚の肌触り、脊椎せきついに沿ってくぼんだ肉付き、キャッキャという無邪気な笑い声。彼女にまつわる記憶の全てが懐かしい。私は甘い感傷にひたりながら、天使の肉を料理し続ける。ガーリックチップが焼ける香ばしい匂いを楽しみながら、鍋に満たされた煮込み料理を温めるために、コンロに火をともした。

 両手鍋の中身はテット・ド・ヴォーである。季節の野菜と一緒に頬肉と舌、それに脳を煮込む料理だ。鳶色とびいろのスープの中でとろりとした肉が漂っている。鍋からブーケガルニを取り除き、杓子しゃくしで慎重に脳肉をすくう。馥郁ふくいくとした香りが湯気と共に立ち上る。ふるふると打ち震える肉を皿に盛り付けてスープを注いだ。仕上げに少量のパセリを散らして彩りを添える。

 冷蔵庫の中には彼女の小さな頭蓋ずがいも保存してある。瑞々みずみずしい桃色の唇、涙で濡れた長い睫毛まつげ、なだらかに膨らんだ頬、そして指に絡まる柔らかな巻き毛。私は彼女から多くの肉を奪ったが、そのあどけない相貌を鮮明に思い出すことができる。七年という歳月を共に暮らしたのだから。ああ、彼女はまさしく天使だった!

屍食教典儀ししょくきょうてんぎ』は私に様々な啓示けいじを与えてくれた。十六世紀初頭のパリには食屍鬼しょくしきによる教団が存在したという知識を得た時の喜びを言い表すことは難しい。彼らが実際に行っていたという儀式を模倣もほうすることから全ては始まった。一夜また一夜と着実に研鑽けんさんを積み、ついにはてに辿り着いた。自らの血肉を分けた仔羊・・を生贄に捧げること――それが『屍食教典儀ししょくきょうてんぎ』に記された最後の秘法であった。

 私はこの日のために仔羊・・を大切に養ってきた。七年間という歳月を掛けて肉を育てたのだ。冷蔵庫に腑分ふわけされた二十五キログラムの肉塊の質は極上である。無論、私は天使をあやめたことを悔いてはいないし、その肉を食らうことをある種の責務だとすら考えている。力が及ぶ限り、ぜいくして料理することで食材に敬意を表したい――そう願っている。

 レバー肉のコンフィとサーロインのステーキ、それにテット・ド・ヴォー。全ての料理を繊細せんさい細工さいくが施された銀食器に盛り付けてゆく。この食卓に並べられた豪勢な晩餐ばんさんを見て、食材の秘密に辿り着ける者は皆無かいむだろう。私は食事の支度したくが整ったことを確認すると、燭台しょくだい蝋燭ろうそくに火をともして席に着いた。完璧とはいかないが、心をくして調理したつもりだ。

「イア、イア、シュブ=ニグラス。千匹のれた森の黒山羊くろやぎよ!」

 私は満足して微笑むと掌を重ねて犠牲となった生命に感謝の祈りを捧げた。それは豊饒ほうじょうつかさる邪悪な女神にたてまつ祝詞のりとだった。私は満足して微笑むと食事をするために、ナイフとフォークを手に取り、期待で胸を高鳴らせながら、天使の肉を切り分けていった――。

 

  (了)


                              


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