いいダチだよ




 卒業試験がはじまる、一週間ほど前のことだった。


 院の研修はスケジュールが詰まりに詰まっており、候補生たちはほとんど休みをもらえない生活だったが、考査もある程度終わった最終段階では、一日程度の休みは与えられていた。

 残っていたほかの同期は、みな家族に会いに行くなどしているようだった。

 もう家族のいないエノチカは、たったひとりで十六番街をおとずれていた。ほとんど手ぶらだったが、バットだけは欠かさずに持っていた。

 手持ち無沙汰だったから、手元で器用にバットをまわしながら、とある商業ビルをみあげた。

 周囲の人通りは多かった。そのほとんどは企業の所属マスクを着用しており、エノチカにとってなじみのあるような、柄の悪い感じはあまりなかった。


(……このあたりも、変わったもんだな)


 偉大都市では、通例、十五番以降の区画はスラムに分類されている。だが、昨今では少々事情がかわってきた。十七、八あたりはおいておいても、十五、十六番街には、まっとうな住民がずいぶんと増えてきた。

 理由は、ほかの区画が満員になってきたからだ。

 偉大都市のビジネス街といえば、依然として三から五番街のあたりが代表格だが、今まさに都市内の経済レベルを発達させている新興の企業たちは、かりに資金があったとしても、新しくそういった場所に会社を構えるのはスペース的に難があった。

 内需はますます増加している。頭のいいルイス大学校の学者たちは、まったく殊勝なことに経済学などという数字のなかでだけ生きている学問について懸命に考え、偉大都市のバブルは近々弾けるのではないかと予測していたらしいが、その予想はみごとにはずれていた。


 結果として、エノチカの出身区画にもクリーンな企業が急増している。

 いずれにせよ、エノチカにはぜんぶが気に入らなかった。

 くだらないマネーゲームだ。企業が土地の買い付けをするのはけっこうだが、もともとここに住んでいた連中は、無理やり追い出されたすえにどこに行けばいいというんだ?

 金のために平然とだれかの大切な場所を奪う連中は、だれも裁けないんじゃないか?

 マスクのなかの顔は、いつだってその外から覗くことはできない。

 だから、その商業ビルを見上げるエノチカの表情も、だれにも知られることはなかった。


「……エノチカ?」


 と、ふいに声をかけられた。

 みると、どこかの建設会社のものと思われるマスクを被った男がいた。


「おい、そのマスク、エノチカだよな。うそだろ、お前どうしてこんなところにいるんだよ!」


 その声には、たしかに聞き覚えがあった。


「……まさか、レッツか?」

「そうだよ、俺だよ! ああ、会えてよかった。俺たち、ずっとお前のことを探していたんだぜ! ひさしぶりだなぁ。ああ、ほんとうにひさしぶりだ」


 男は一瞬、マスクをはずした。目つきの悪いエノチカとは違い、くりくりした目が特徴的な幼馴染の表情は、おどろくほどに昔とかわっていなかった。






「俺さ、今、ふたつ向こうのブロックの建設会社で働いているんだ」


 道端の花壇に腰を下ろして、レッツが言った。


「経営は火の車なんだけどさ、でも、けっこういいところなんだぜ。俺と親父を含めて、九人も雇ってくれたんだ」


 エノチカはというと、レッツのすぐとなりで大股を開いて座っていた。

 幼馴染の着るツナギに目をやると、汚れてはいたが、かつて祖母の会社で働いていたときに着ていたものよりは、まだきれいだった。


「取引相手の企業がさ、ここのビルに入っているんだ。いやな連中なんだけど、金払いはいいんだ。昔みたいに平気で踏み倒そうとしてくる企業って、今はあんまりないんだぜ。それだけで最低限、いいところはあるって言えるよな」

「……だから、笑顔でここに出入りしているっていうのか? この、アタシたちのスタジアムの跡地にできたクソビルによ」


 そう口にしてから、自分の声の冷たさにエノチカは自分でおどろいた。


「悪いとは思っているよ。ほんとうだ。俺たちだって、できればここには来たくないよ」けして演技ではない声で、レッツは答えた。「でも……食わないと生きていけないんだ」

「……そうだな」そのとおりだ、とエノチカは思った。「悪い、アタシが間違っていた」


 ひさしぶりの再会だというのに、会話はいったん、そこで途切れてしまった。

 車のエンジン。人々の話し声。こすれる靴音。街の喧騒だけが、耳に入っては抜けていく。

 こんな日に限って、天気は非の付け所がないほどによかった。


「……聞いたよ、エノチカ。お前、ずいぶん危ない仕事に首をつっこんでいるんだって?」


 緊張した声色で、レッツが切り出した。


「タチの悪い地上げ屋とか金融業者を、どうこうしているんだろ? それも、個人で。騙された被害者のために、格安で闇討ちみたいなことをして生活しているって」


 エノチカは沈黙を保っていた。その態度が質問を肯定していた。


「お前のばあちゃんのことは、ほんとうに残念だったよ。俺だってあんなに悔しかったんだから、お前の心中は、俺には察せない。だからお前が、ああいう金貸しの連中を恨みに思っているのも、当然だと思う。それでも……あまり危険なことは、やるべきじゃない。そうだろ? いくらお前が能力者って言っても、リスクがありすぎるよ」

「説教はやめてくれよ、レッツ。今は聞きたくねーんだ、そういうの」

「でも、エノチカ」

「やめろって言っているんだよ。アタシもさっき、お前がここに出入りしていることを責めた。お前もいっかい、アタシに文句を言った。これでおあいこにしようぜ」


 エノチカはバツが悪い気分だった。

 なによりも、その理由がいまいちわからないのが腹立たしかった。

 レッツのことは嫌いじゃない。貴重な、昔からの知り合いだ。レッツだけじゃない、レッツの父親も、その祖父も、兄弟のことも、エノチカは知っている。

 祖母アナスタシアの持っていた零細企業の従業員たち。みな、ほんの数年前までは家族のようなものだった。ほんとうの共同体とはああいうものだったのだと、今にしてエノチカは思う。貧乏でも団結して、互いのために働き、そして同じ夢をみた。

 そう――夢だ。おそらく、それが大切なことだった。

 スタジアムとベースボール。あれは、けして祖母のひとりよがりなんかじゃなかった。


 アナスタシアの悲願だった球場は、長持ちしなかった。土地を無理やり買うために借りた金は、悪質とはいえないまでもじゅうぶんに高い金利のせいで、どんどん膨らんでいった。

 だが、それだけならまだよかったかもしれない。きっと、それだけならアナスタシアは持ちこたえたはずだ。それに、ベースボールの興行収入は少しずつだがあがっていた。

 もう少しだけ耐えれば、風向きはよくなるはずだったのだ。

 そんな折に、あの男があらわれたのだった。


 ニーガルタス・アルヘン。

 祖母にとどめを刺したのは、そういう名前の金の亡者だった。

 当時のエノチカはまだ幼く、祖母があの男とどういう取引をしたのかはわからなかった。それでも、首の皮一枚繋がったと、いっときは喜んでいた祖母の姿は覚えていた。どうやらいくつかの銀行、いくつかの消費者金融に借りていた金を、その男が肩代わりをしてくれたようだった。

 かわりの金利は、ずっとましになっているはずだった。だが、それは安いトリックだった。祖母の保管していた契約書の写しが盗まれて、次の日には書類上の金利は激変していた。

 向こうからすれば、きっと朝飯前の仕事だったのだろう。

 借金は、転がる雪だるまといっても形容できないほどにかさんでいった。

 そこに、土地の買い付けを依頼しに来る企業があらわれた。疑うまでもなく、マッチポンプのはずだった。資産はほとんど残らないが、かわりに借金がちょうど取り消しにできる金額を提示されて、アナスタシアは従業員たちの大反対を聞かずに、されど長く悩んだすえに、とうとう土地を手放す書類にサインをしてしまった。


 アナスタシアたちの夢は、そうやってあっさりうしなわれてしまった。

 当時のエノチカには、いろいろなことがわからなかった。老齢とは思えないほど元気で、力があって、最強のバッターで、だれよりも働き者だった祖母が、それを期に衰弱して、信じられないほどの速度で元気をなくし、亡くなってしまった理由が。

 だが、今ではわかる。

 夢をうしなうとは、きっとそういうことなのだ。

 金が夢を買うための手段だとするならば、それを不当に奪おうとするやつは、人の夢を踏みにじろうとしているということなのだ。

 だから、エノチカはそんな連中のことが許せなかった。


「エノチカ」意を決したように、レッツが口にした。「あのさ、よければうちの会社に来いよ。あ、いや、能力者のお前にああいう仕事をしろって言っているんじゃない。そうじゃなくて、遊びに来いよ」

「……遊びに?」

「ああ。じつは俺たち、まだベースボールをやっているんだよ」


 エノチカは目を丸くした。


「もう、スタジアムはないけどさ。それでも、今の会社の人たちを誘ったら、興味を持ってくれて、ハマってもくれたんだぜ。昔よりも従業員は多いから、社内だけで四つもチームがあるんだ。それに、取引相手の企業でもやってくれる人たちがいてさ。ちゃんと試合ができているんだよ。ちょっと遠いけど、毎週末にウォーターフロントのほうの空き地を借りてリーグ戦をやってるんだ。わざわざ試合を見に来てくれる客だっているんだぜ」


 エノチカには、返す言葉がみつからなかった。

 まだ、ベースボールが続いているとレッツは言う。この偉大都市の、どこかで。

ホームがなくても、ボールは飛び交っているというのだ。


「お前の恰好をみればわかるよ。そのユニフォームと、チームマスク。それに、バットも。お前、ベースボールが嫌いになったわけじゃないんだろ? だったら、またコートにあがってくれよ。お前がいたら百人力だ。あのばあちゃん譲りのスイングなんだからさ」

「……わりぃ、レッツ。アタシにはできないわ」


 なぜだか耐えきれなくなって、エノチカは立ち上がった。


「エノチカ!」

「それよりも聞いてくれ。さっきのお前の話だ。アタシが危ない仕事をしているっていうの。あれ、じつはもうやっていないんだ。アタシ今、官林院にいるんだよ」

「え?」


 レッツはあからさまに驚いた。


「うそだろ。中央連盟にいるのか? でも、どうやって? 俺たちみたいなのが入ろうとして入れる場所じゃないだろ」

「ある粛清官に、声をかけられたんだ。お前の言うとおり、危険な仕事をしている最中にな。そいつが言ったんだ。アタシが院に入って粛清官になって、最終的にそいつの下で働くなら、あのくそったれのニーガルタスの粛清案件を、アタシにやらせてくれるって。ニーガルタスの野郎、へまをやりやがって、今はもう連盟に目をつけられるような立派な犯罪者らしいんだ」


 だれかにこの話をしたのは初めてだった。

 院の連中とは、だれとも腹を割って話をしたことなどなかった。あきらかに下層階級の出身であるエノチカは、それ相応に態度も悪く、わざわざ近づこうとする者はいなかった。

 もっとも、かりにいたとしても、こんな事実を明かせるわけがなかったが。

 あの、リングボルドとかいう粛清官。どこで噂を聞いたのか、それとも偶然だったのか、エノチカにオファーを出してきた男のことを思い出す。

 かれが、いわゆる本物と称される粛清官であることはすぐにわかった。おもに十七番街で活動し、それなりに多くの犯罪者をみてきたエノチカだったが、あの男に比肩するような人間はいちどもみたことがなかった。

 だが、それは信頼とはべつの話だ。むしろ、あの男は信頼からは程遠い。エノチカは、自分が利用されるだけされて終わるのではないかとさえ疑っているが、それでも、この広大な偉大都市で、単身でひとりの男を探すよりは、この可能性に賭けたほうが現実的だということはわかっていた。


「ばあちゃんが生きていたとして、どう思うかはアタシにはわかんねーよ。ほんとうだ。やられたらやり返せって教わったこともあるし、過去のことは水に流して忘れちまえって教わったこともある。きっと、そういうのはどっちも正しいんだ。だからアタシは、自分がやりたいようにやるつもりだし……それでいうなら、アタシはやる気だよ」

「エノチカ……」

「だから、レッツ。アタシはコートには立てない。これからなんだ。これからようやく、アタシのくそったれのプレーがはじまるんだ。ばあちゃんが嫌いだった、暴力野郎どもの世界で」


 それだけ告げると、エノチカは歩き始めた。


「待てよ、エノチカ!」

「そんな声を出すなよ、レッツ。なにも今生の別れってわけじゃねぇ。暇ができたら会いに行くよぉ」


 意味がなかったかもしれないが、マスクの下でにへらと不器用に笑って、エノチカは去っていった。

 ほんとうのことを言えば、後ろ髪を引かれる思いはあった。

 ニーガルタスを仕留めようとしている自分を、アナスタシアがどう思うかわからないというのは本心だった。

 死んだ人の考えなんて、この世のだれがわかるというのだ?


 それでも、もし自分がまたコートに立つようなことがあれば、それはきっと、たいそう喜んでくれるだろうという確信はあった。

 だがそれは、エノチカが足を止める理由にはならなかった。

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