3

 ……どれくらい走っただろうか?


 薄暗い船内を、羊は息を切らしてひたすら走り続けていた。階段を降りたような気もするし、昇ったような気もする。尾を引くような悲鳴がずっと背中から追いかけて来ていた。


 元から運動が得意な方ではない。すぐに息が切れた。しばらくしないうちに、もうどうにも足が回らなくなって来て……羊は崩れるようにへたり込んだ。心臓がはち切れそうだった。ひゅーひゅーと、栓が抜けた風船みたいな音が口から漏れ聞こえて来る。こめかみの辺りが自分でも驚くほど脈打って、その鼓動が何度も何度も鼓膜を震わせていた。


 ……気がつくと羊は、1人、見知らぬ部屋の前で膝を付いていた。

 後ろには誰もいない。必死の逃避行の結果、皆とはとっくに離れ離れになっていた。この辺りには窓があり、差し込んだ陽光が足元を照らしていた。フラつく視線の先が、階段側の案内図に吸い込まれていく。今はどうやら二階にいるらしい。


 羊たちに初め充てがわれていた部屋は一階だった。仮面騒ぎもあったことだし、警察も恐らくそこに集まっているだろう。何とかして一階に向かおうと、羊は持てる力を振り絞った。


 蹌踉よろめく足取りで階段を降りると、再び無明の闇が口を開けて羊を待っていた。その向こう側、深淵で蛍のようにチラつく仄かな光と、その中で蠢く影が見え隠れしていた。恐らくは警察関係者だろう。とにかく自分の部屋に行こう。一時間弱で到着だと思っていたから、貴重品以外の荷物は全てそこに置いてある。羊は一歩一歩、ゆっくりと足を踏み出した。


 しかし、不思議なことに、廊下を進めども進めども、誰とも出会わなかった。確かに人が……何者かの気配は在るのに。暗がりの中で……大勢の魑魅魍魎共が息を潜めてこちらの様子を窺っているような……そんな不気味さが船内を漂っていた。だが、今更逃げ切る体力も残っていない。羊は疲れた体を鞭打って、ただ前へ進んだ。


 やがて彼は初めの部屋の前に辿り着いた。


 相変わらず姿は見えねども、気配が消える様子はない。それどころか羊の部屋の中から何やらガサゴソと音がしていた。部屋の中に誰かいる。疲労と共に萎みかけていた緊張感が、急に蘇って来た。羊は物音を立てないようにしながら、慎重に扉を開いた。


 扉の向こうもまた闇に包まれていた。床には荷物が散らばったままの状態で、そこに何やら白いテープやら、アルファベットの札やら、警察が捜査した跡が残されている。その床に、誰かが這いつくばっていた。羊が思わず「あっ!?」と声を上げようとしたその時、


 天井から眩いばかりの光が降り注いで来て、瞬く間に闇を拭い去って行った。


 電気が復旧したのだ。


 あるいはタイミングを見計らっていたのかもしれない。ほぼ同時に、羊の背後から木村刑事が何処からともなく現れて、扉の前に立ち塞がるようにして部屋を覗き込んだ。ちょうど羊が、部屋の中に押し込まれる形になった。


「やはり……君だったか」


 木村刑事が落ち着きを払った声で、部屋の中の人物に語りかけた。羊は呆気に取られた。現れたのは木村刑事ばかりではない。一体今まで何処に潜んでいたのか、いつの間にか屈強な制服警官たちがやって来て、狭い廊下に所狭しと並んでいた。


「……我々警察が由高教授を真犯人でないと疑い出したのは、皮肉にも、あの遺書が見つかってからだった」


 訥々と、木村刑事がまるで世間話でもするかのように話し始めた。部屋の中の人物は何も答えない。ただ床に跪いたまま、黙って彫刻のように固まっていた。


「それまでは彼女が最重要容疑者だった……凶器の指紋も彼女のものだったし、毛髪など、数多くの証拠が現場に残されていたからね。君が探しているのは、これだろう?」


 そう言って木村刑事は、透明な袋に密閉された銀の十字架ロザリオを取り出した。


「これは元々君のものだね?」

「…………」

「第一の殺人の際、君はこの十字架を使って被害者の背中から心臓を一突きした……」

「一体どういうことですか?」


 羊は思わず口を挟んだ。何度も首を行き来させ、掲げられた十字架と、蹲った人物を見比べる。木村刑事は中の人物から目を逸らさなかった。


「つまりこういうことだ。最初の事件……犯人は由高教授ではなかった。ただ被害者は……恐らく先生との性行為中に刺されたんだ」

「え……」

「ある意味では腹上死とも言えなくはない。鋭く尖った十字架の先を、短剣のようにして、被害者の心臓を突き破った。それで君は、犯人は気が動転してその場を逃げ出した……」

「でも……」

「さて、残された由高教授は背中から生えた十字架を見て、これは不味いと思った。何故ならその十字架こそ、約二十年前生き別れた我が子に与えた形見だったからだ」


 木村刑事はそう言って十字架を前に突き出した。部屋の中の人物はまだ何も言わない。


 かつて潜伏キリシタンは、禁教令を掻い潜るため銭や食器、ナイフなどを十字架に見立てて密かに信仰を守っていた。銀の十字架も、そうした「隠れ」道具の一つで、元々は短剣だったようだ。


「それが……教授の形見?」

「嗚呼。元々これは教授の持ち物だった。見たまえ……ここにイニシャルも彫ってある。一目見て教授には理解できたはずだ。。だからこそ彼女はこの惨劇に加担したんだ」

「…………」

「第一の殺人は、不慮の事故アクシデントとも呼べる、衝動的な殺人だったのだろう。恐らく君は準備も何もしていなかった。ほとんど暴走気味に君は教祖代行を殺してしまった。だから不在証明アリバイだとか、密室トリックだとかそんな暇さえなかったはずだ。焦ったのは死体とともに残された教授の方だ。皮肉にも凶器の十字架により、彼女は刺したのが生き別れた自分の子供だと悟った。このままでは自分の隠し子が殺人犯になってしまう。そう思った彼女は、致命傷の周りを鉈で切り刻むことにした。んだ」


 羊は息を飲んだ。そういうことだったのか。犯人が心臓を抉り取らざるを得なかった理由。供儀のためでも、復讐のためでもなく、傷痕を破壊するためだったのだ。


 ふと、第一の死体発見後、天主堂で検死した沼上丈治の言葉を羊は思い出した。


【……彼は死後、そこにある鉈で胸を抉られた……死体の傷痕を見れば、どのような凶器が使われたのかも分かる】


 沼上医師はそれで、凶器は鉈だと断定した。

 鉈で抉られた傷痕が残っているのだから当然だ。しかし、実はそれ以前にもっと小さな凶器で被害者は死に絶えていたのだった。現場に残された鉈と傷痕が一致し、尚且つ指紋まで残されているとなれば、警察も由高教授を疑ってかかるに違いない。しかしそれこそが、教授の仕掛けた罠だった。


「血を分けた自分の子を殺人犯にする訳にはいかない……そこで彼女は傷痕の偽装、凶器を誤認させることを思いついた。派手に死体を飾って、真実を目眩ましして……しかしそこで、再びアクシデントが起きる」

「『阿修羅』が現場にやってきたんですね?」羊が合いの手を打った。

「そういうことだ。『阿修羅』もまた村長に依頼され、犯人とは別に被害者を狙っていた。結果的に先を越された形になった訳だ。天主堂で第一発見者になった彼は、律儀にも鍵をかけてから下山して行った。そうして、犯人も、その影の協力者であった教授すらも予想できなかった【密室】が出来上がったんだ」

 

 つまりあの密室は、三者が三様に行動した偶然の産物だったのである。今にして思えば……①被害者を天主堂に誘き寄せ、殺害し②死体の心臓を抉り出し、門の内側に磔にして③現場を密室にして立ち去る……全て最初から計画したにしては、あまりにも過密スケジュールだ。ちょっと考えれば誰だってこんなのは無茶だと気づくだろう。


 しかし、三人がそれぞれ役割を分担すれば、一人一人の負担も少なくて済む。言わば意図せずしての協力殺人だったのだ。


「さて……次の日死体が発見され、君は大いに面食らったはずだ。十字架を刺しただけのはずの死体が、心臓を抉られ、磔にされ、尚且つ不可解な密室まで出来上がっている。さらに君には懸念すべき材料があった。目撃者の存在だ。由高教授と『阿修羅』。殺害当時、いくら夜分で暗かったとは言え、君は教授に顔を見られた可能性があった。さらに現場からは凶器の十字架が消え去っている。これは教授が回収していたのだが……そのことを君は確かめる必要があった。さらに『阿修羅』の、あの映像。隠し撮りされた映像で、『阿修羅』はこうも言っていた……」


 そういうと、木村刑事はスマートフォンを取り出し、再生ボタンを押した。『阿修羅』のダミ声が狭い部屋に響き渡る。


【俺じゃねぇ! だが、俺が覗いた時ァ、確かに中でガサゴソ音がしてた気がしたな。そうだ、人影も見たかもしんねぇ。背の低い……確か女だったような……今思えば、アイツが殺ったのかもな】


「……この時、『阿修羅』が目撃したと言っていたのは、由高教授のことだったんだ」

 木村刑事が頭を振った。


「しかし、君はもしかしたら自分が見られたのかもしれないと危惧した。だからこそ第二の殺人に手を染めたんだ。【背丈の低い】……【女性のような】。君は後ろ姿だけ見れば、確かに女性にも見えなくもない。そうだろう、沖田君」


 羊は床に這いつくばって動こうとしない人物……沖田の顔を覗き込んだ。確かに彼はバンドマンのように髪を腰辺りまで長く伸ばしていた。そのせいで、女子チームからは「女々しい」だとか「ナヨナヨしてる」だとか散々不評だったが……。


「沖田……お前」

「…………」

「沖田翔太郎君。君がこの六門島連続猟奇殺人事件の、真犯人だ」

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