最終章-14 ジャンの述懐


 ジャンは通りに端に佇み、去り行く馬車を見送った。そうして少したってから、手の中の封書を見おろす。


「アルベールに殺されるな……」


 呟きは弱々しく響いた。――イヴをさかなにした猥談、とにかくあれがマズかった。序盤で大男から殴られた際も、アルベールはそこそこ怒っていたようだが、問題はそのあとだ。大男が調子に乗って、イヴを辱めてやると脅したことで、アルベールが洒落にならない殺気を放った。ジャンはこれに本能的な恐怖を感じたのだ。


 ――あ、殺られる、と思った。仮定の話ですらあの状態なんだから、イヴが実際に脅しどおりの行為を誰かにやられたりしたら、どうなるんだろう。辺り一面、血の海だろうな。


 そして今、あの馬車の中、どうなっているんだろうか。――怯える大男を、涼しい顔で足蹴にしているアルベールの姿が脳裏に浮かんだ。想像にしては妙に生々しい。


 ――そう、アルベールは見かけによらず、腕っぷしが強いのだ。ジャンがそれを知っているのは、ある出来事があったためである。


 昨日のことだ。アルベールへの反感がピークに達していたジャンは、彼を痛い目に遭わせたくなって、思わず手を出していた。暴力沙汰を嫌うジャンにしては珍しいことであったが、それだけ鬱憤が溜まっていたのだろう。


 相手に向かって手を伸ばした直後、ふと気づけば、ジャンは地面に叩き伏せられていた。肩が痛いと思ったら、後ろに腕を捻り上げられている。どうにも動けず、冷や汗が出るような体験だった。


 自分では身体を鍛えているつもりであったし、シュッとした優男のアルベールよりも、ずっと筋肉量は多いと密かに自惚れていたものだから、カウンターを食らって手も足も出なかった事実が、しばらく信じられなかった。


 しかしこの敗北を経て、ジャンはアルベールの評価を改めることになった。


 アルベールは相手に苦痛を与えず、場を制圧する技術を有しているようだが、それは逆にいえば、相手に苦痛を与えるだけ与えて、なおかつ気絶させずに拷問を長引かせる技術も有しているということなのだ。――難易度的に高いほうの技術を有しているのだから、より簡単なほうの技術は当然すでにもう習得済であるという理屈である。


 ――正直、滅茶苦茶怖い。




***




 真実はこうだ。――今回の逮捕劇は狂言で、ジャンとアルベールは組んでいた。グルなのだ。


 ジャンは自身の見た目や物腰が、カルネ婦人くらいの年代の女性に、絶対的な信頼感を抱かせることを承知していたので、カルネ婦人に『ちょっとしたお芝居のお手伝いをお願いしたい』と持ちかけて、協力いただいた。


 この『お芝居』にて一番損な役回りを演じるアルベールも、一緒にそれをお願いしたので、カルネ婦人は余興感覚で楽しんだようだ。


 彼女が余計なことを皆の前で口走る前に、『今夜のお芝居はこれで終わりです。リアリティを出すために、演者さんは退出をお願いします』と送り帰してしまったので、彼女が誰かに真相を語る頃には、すべてが片づいているだろう。


 ほかの登場人物は、ほぼ素の状態で参加している。ベイツ卿はエメラルド盗難の容疑を、アルベールにかぶせてしまいたくて必死だった。


 というのも卿はジャンから、エメラルドの首飾りはヴァネル邸に隠されていると教えられたので、もしもそのとおりならば、それで自分の悩みはすべて解決するに違いないと考えたからだ。


 なぜイヴ嬢がエメラルドの首飾りを入手することになったのか、その経緯自体はよく分からないものの、そんな些細なことなどどうでもいいとベイツ卿は考えたようだ。――要は、客観的に見た時に辻褄が合っていて、自分と関係ない誰かが罰せられればそれでいい。


 それにエメラルドがヴァネル邸から出てきて大騒ぎになれば、ずっと長いあいだ自身が悩まされてきた『あの問題』のほうだって、有耶無耶にできるかもしれない。ベイツ卿はそれを期待した。――大きな醜聞で、別の醜聞を打ち消すわけである。


 ベイツ卿はジャンと協力して、アルベールを嵌(は)めることにした。ジャンとベイツ卿の息が現場でピッタリ合っていたのは、事前に流れを打ち合わせしていたためだ。


 しかし当のベイツ卿は、ジャンとアルベールが裏で組んでいるなどとは、夢にも思っていないはずだ。それは無理もない話だった。だってあれだけ不仲だった二人が共闘関係にあるなんて、誰が想像できるだろう?


 ――そもそもジャンとアルベールは仲良しだったのか? そう問われれば、『それは違う』とジャンは応える。従兄弟同士、ずっと不仲だったあれは、芝居ではない。現にジャンは今でもアルベールが嫌いだった。


 何しろ共闘関係に入ったのは、夜会直前のことである。よって互いに意思疎通ができていなかったし、それを補うはずの打ち合わせの時間も十分に取れなかった。


 懐中時計盗難から始まる筋書きをアルベールが描いて、あとの細かいところは各自が責任をもって実行するという、流動的な計画に身を任せるしかなかった。


 アルベールからすると、ヴァネル邸を出たあとは、ただ隠れ家に直行するだけのつもりだったから、馬車には御者しかいないと考えていたのだ。それなのに中にゴロツキが待っていたため、意表を突かれたようである。


 ジャンはジャンで、黒幕に雇われたゴロツキを、上手く取り込んでおかねばならぬというつらい立場にあって、彼としてはもう正直なところ、ああするしか方法がなかったのだ。


 黒幕に雇われたゴロツキといっても、手先の、手先の、その下の手先――くらいの小物だから、そいつを締め上げても、一番上までは辿り着けない。どうせみんな金で雇われた連中だからだ。


 そんな状況下で、アルベールからゴロツキの行儀の悪さを当てこすられても、『知らねぇよ』と言いたいくらいなのである。……絶対に言えないけども。


 とはいえジャンも、アルベールが目の前でゴロツキに殴られた時は、心底ぞっとしたものだった。


 ジャンは隣国で同級生にチヤホヤされて十代を過ごしたので、男同士で殴り合いの喧嘩をした経験がなかった。アルベールには以前、『ランクレ家のせいで苦労した』などと言いがかりをつけていたのだが、それは『彼なりの苦労』という意味であり、客観的には順風満帆な青春時代を過ごしただけの、勝ち組の一人に過ぎなかった。結局、ジャンは苦労知らずのお坊ちゃんなのだ。


 それから別件で、気がかりな点が一つ。――イヴには今夜の仕かけを伝えていなかった。


 彼女は素直な性格であるから、狂言であるとあらかじめ知らされていれば、それがどうしても態度に出てしまう恐れがあった。計画は今夜が山で、どうしても失敗するわけにはいかなかったものだから、情報は伏せさせてもらった。彼女には可哀想だったが、後悔はしていない。


 一応彼女には、警戒すべき相手の名前は伝えてあった。これはジャンなりの誠意である。


 ――とにかく、イヴはまだ心配しているだろうから、取りあえず先に説明だけしに行くか。ジャンはそう考えて、彼女の元へと向かうことにした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る