最終章-8 イヴ、ありがとう


 二時間ほどふて寝をしてから起きると、具合が良くなるどころか、中途半端に眠ったせいで、頭が薄ら痛くなっていた。


 このまま寝ていても良くなるとは思えなかったから、思い切ってサロンに向かう。夕食はいらないとあらかじめ伝えてあったので、皆はとっくに食事を終えているだろう。


 安らぎを求めてサロンへ向かったのに、そこからヒステリックな怒鳴り声が聞こえて来たので、イヴはげんなりして額を押さえてしまった。――まったくいつからこのヴァネル邸は、気の立ったおサルさんたちの住処になってしまったのだろう? 縄張り争いが常時繰り広げられているような騒ぎじゃないの。


 ――喚き散らしているのは、どうやらジャンのようである。


「うちで育ててもらった恩も忘れて、不名誉にカンニング騒動で退校しやがって! 僕がそれでどれだけ苦労したのか分かっているのか? お前が評判を貶めたせいで、僕は人一倍努力しなければならなかった! なのにまたお前のせいで、すべてを失うのか!」


 ジャンはまたアルベールのカンニング事件を蒸し返して、八つ当たりをしているらしい。途端にイヴはかっと頭に血が上り、廊下を駆けてサロンに飛び込んでいた。


 ジャンはイヴが入って来たことに気づき、ハッとして身体を強張らせた。さすがに体裁が悪かったのだろうか。


 彼が気まずそうにしているのを見据えながら、イヴは背筋を伸ばし、大股に彼の元へと歩み寄った。そしてジャンと真っ向から対峙して、矢のように鋭い声で、彼を糾弾し始めたのだった。


「私ね、今日の昼間、宝石店で強盗に襲われかけたのよ。――あれって、あなたが犯人なんじゃないの? エメラルド盗難事件があまりに大事(おおごと)になってしまったものだから、焦っているのでしょう。売り払ったエメラルドを買い戻すため、お金が必要だったんじゃない?」


 イヴはエメラルド盗難事件が『実際には起きていない』ことを知っているので、先の台詞は本心からのものではなかった。大体、ジャンの四角四面な性格からして、盗みなんて働けるわけがない。彼はたとえ情を犠牲にしたとしても、嫌味なくらいに正しくあろうとする人間なのだから。


 だからエメラルド盗難事件を持ち出したのは、彼を嫌な気持ちにさせたいという、ただの意地悪だった。


 ジャンはイヴのあまりの剣幕に戸惑っていた。そして彼女が発した言葉の初めから終わりまで、ずっと驚きっぱなしだった。ジャンはイヴの言葉が途切れたところで、喘ぐように声を押し出した。


「君は、君は、なんてことを言うんだ! 血の繋がった従兄妹同士なのに、僕を信じないのか?」


 この切り返しは、すでにかなり腹を立てているイヴに対し、火に油を注ぐ結果となった。イヴは下から睨み上げるようにジャンの瞳を見つめ、彼に向かって勇ましく啖呵を切った。


「その台詞、そっくりそのまま、あなたにお返しします。だってあなたは昔、アルベールを信じなかったでしょう? ――いいえ、信じないどころか、よ。この際だから、ずっと疑惑に感じていたことを言わせてもらうわね。あのカンニング事件、あなたがアルベールを嵌めたんじゃないの? あなたは当時、率先してアルベールを貶めるような行動を取っていた」


「馬鹿な」


「だけどそう疑われても仕方ないくらいに、あなたは薄情で嫌なやつだったわ。あの時あなたは、従兄弟(アルベール)の潔白を信じなかった。それなのに、今さら何よ? 旗色が悪くなったら、都合よく助けてもらおうというの? それって虫がよすぎない? そんな甘えた理屈が通るわけないでしょう」


 怒っているイヴは、まるで人ならざる者のように、ただただ美しく鮮烈だった。彼女は腹を立てていても、生まれ持った顔立ちの美しさ、立ち姿の美しさ、言葉の発音の美しさ、それらの要素が合わさって、対峙する者を圧倒する説得力のようなものを持っていた。


 そしてイヴの物言いは、ジャンがもっとも触れられたくない点を突いていたらしい。彼は鈍器で頭を殴られて意識が飛んだみたいに、ただぼんやりとその場に立ち尽くしていた。


 ――アルベールは静かにイヴを促し、彼女の背中に手を添えて、エスコートしながら廊下に出た。


 二人並んでしばらく歩いていたら、不意にアルベールがくすくすと笑い出した。なんだかそれが、失敗を笑われたような、からかわれたような心地になって、イヴはささくれ立った気持ちのまま、隣に立つ背の高い彼の顔をジロリと睨み上げた。


「……何よ」


「いえ、威勢のよい啖呵だったな、と」


 ――分かっている。これは褒めているようで、褒めていない。だって魅力的な淑女は、あんなふうに怒りを爆発させたりしない。大人が感情的になるのは、どんな場面であっても歓迎されることではない。


「ふんだ。――大人の女が取る態度ではなかったって、私にだって分かっているわよ」


 拗ねたような言葉がイヴの口から洩れる。彼女自身、急に恥ずかしくなっていた。耳が赤くなっているのが自分でも分かった。


 アルベールはこんな私を見て、滑稽に思っているんだわ……イヴが際限なく落ち込みそうになった時、彼の囁くようなあたたかみのある声が、イヴの耳朶をくすぐった。


「――イヴ、ありがとう」


 彼のほうを見上げると、例の陽だまりのような優しい瞳が、イヴだけを見つめている。彼がその瞳を切なそうに細め、言葉を続けた。


「七年前、皆が僕のことを疑った。君みたいに無条件にかばってくれた人は、誰もいなかった」


 イヴはあの騒動が治まったあとで彼と出会った。それではすべてが遅すぎたのだ。もう少し早くにイヴが隣国に行っていて、寮住まいの彼ともっと早くに接点を持っていたならば、何かが変わっていただろうか。


 ――けれどもう終わった話だ。過去があって、今がある。あの時もっとこうしていたらとか、もしもこうだったらとか、そんなことを言ってみてもなんの意味もない。


 イヴは考えを巡らせたあとで、小首を傾げながら、悪戯めいた調子でこう返した。


「――あら、私たちって、よく似た境遇かもしれないわよ? だって私、病気で生死の境をさまよっていた時に、『助けてくれる人は誰もいない、一人ぼっちで死んでいくんだ』と思っていたの。今、私が一番頼りにしているあなたは、寮生活をしていて、傍にいなかったものね。昔、互いに何も持っていなかった時のことを考えれば、今の私たちは、うんと幸せなんじゃないかと思えるの。お互いにね」


 今ならば、あなたには私がいて、私にはあなたがいる――そんな想いを込めてそう告げれば、アルベールは素直に、短く『はい』と返事をした。


 そして彼はそっと腕を伸ばして、イヴの頭をポンポンと優しく撫でてくれた。それは幼い子供を慰めるような態度であったけれど、その不意打ちな接触にやられて、イヴは妙にドギマギしてしまった。




***




 ――それからオマケがついてきた。


「お嬢様。昼間、強盗に襲われかけたこと、すでにカルネ婦人経由で話が来ていますが、お嬢様の口から詳細をお聞かせいただけますね?」


 言われて気づく。――そういえばアルベールにまだ報告していなかったわ。帰宅時は気が立っていたし、そのままふて寝して、今に至るわけだ。


 カルネ婦人は今日の外出で、イヴを公爵夫人からお預かりしたという立場であるから、確かにそこで起きた事件については、先方から正式にお詫びがあってもおかしくない。


 もしかするとアルベールは、イヴから直接ではなく、外回りで報告が上がったことに対し怒っているのだろうか。ちらりと窺うように彼を見上げれば、にこりと綺麗な笑みを返された。


 ――あ、これ、絶対怒ってる。イヴは困ったように眉尻を下げ、彼に促されて書斎に向かったのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る