最終章-6 強盗に襲われて……


 ――ああ、やってしまったわ。アルベールがいないと、このていたらくだ。


 イヴがハッとして顔を上げると、彼女が転ばぬよう支えてくれたのは、騎士服を身に纏った若い男だった。快活な雰囲気を漂わせたその男性は、


「お嬢さん、大丈夫ですか?」


 と元気な声で尋ねてきた。


 ――騎士はそう声をかけたあと、改めて腕の中にいる娘を見おろしたのだが、その令嬢があまりに美しい容貌をしていることに気づき、驚き固まってしまった。二の腕から指先にかけて、まるで石化でもしたかのように、ビシリと筋が強張る。


 このように造形の美しい、白百合を思わせるしっとりとした美女を、男は生まれて初めて見た。金色の髪は一本一本が美しく、その流れを目で追っているだけで、丸一日潰せそうなほどに素晴らしい。――それにこの感触といったら、もう! なんという柔らかさだろう。香りもいい。うっとりする。花畑にいるみたいだ。


 男が手の中に閉じ込めた令嬢をぼうっと見おろしていると、彼女が身じろぎした。しなやかな動きだった。彼女は左足を半歩引き、スルリと腕の中から抜け出してしまう。


「飛び出してしまい、すみませんでした」


 令嬢が素直に謝ってきたので、男はびっくりした。


 男の顔はそこそこハンサムであり、背も高く、騎士団に所属しているというのもプラスに働いて、女の子にかなりモテた。しかしそれはあくまでも中流家庭以下の町娘に限定される。誘えば安い店にでも文句を言わずについて来るような、気位の高くない女の子。


 目の前にいる令嬢はそれとはまるで違った。――高級宝石店から出て来た、いかにも育ちの良いお嬢様。おそらく貴族に違いない。


 そういった女性は大抵気位が高い。身分が下の異性に触れられれば、反射的にピシャリと頬を叩くくらいのことをやりかねない人種である。


 ところが彼女は、ぶつかりそうになったことを自らの非として認め、素直にそれを詫びてきた。男が好みのタイプだとか、そういうこともなさそうである。彼女はしなを作るでもなかったし、頬を赤らめて何かをアピールしてくるでもなかった。


 彼女の顔には『ドジを踏んだ』という後悔の念が浮かんでいて、しっとりとした色気のある顔立ちなのに、その子供のような素直さが、妙にミスマッチで可愛らしく感じられた。


 ――女神だ。騎士は思った。日の光よりも、夜の帳が合う女神。


 男は彼女と対面した状態で、必死に言葉を探した。このまま別れてはいけないと、本能が訴えてくる。しかしどうやったら上手くデートに誘えるか分からない。


 意を決して口を開こうとした時、通りのほうからバタンという大きな音が響いてきた。反射的にそちらに目をやると、粗末な一台の馬車から、二人の男が飛び出して来るのが見えた。


 おかしな二人組だった。暗色のコートに、黒っぽいズボンと、装い自体はありふれたものなのだが、異様なのはその頭部で、目の周りをくり抜いた黒っぽいズタ袋のようなものをかぶっている。


 騎士は右側にある高級宝石店を見遣った。――なるほど、宝石強盗か。騎士は素早く動いた。目の前の美しい淑女と、その後ろにいた小柄な老婦人の腕を引き、自らの背後に隠す。


「――下がっていてください」


 そう告げてから、腰に挿していた警棒を引き抜いた。


 騎士は店の入口より数歩下がった位置にいたので、強盗は手前にある宝石店の扉を掴み、そのまま中に入ろうとするだろう――そう考えていたのだが、予想に反して、強盗たちは騎士の傍らをすり抜けようとした。


 ――狙いは、店ではないのか? 騎士は一瞬虚を衝かれたものの、元々頭を使うよりは実技が得意なタイプであったので、さっと長い足を伸ばして、先頭の一人を躓かせてやった。それから警棒を下から掬い上げるように動かし、二人目の強盗の腹を打ち据える。


 そのあとは、なんともしっちゃかめっちゃかな時間が流れた。――終わってみれば、騎士服のボタンは幾つか取れて通りに転がっていたし、強盗二名はしたたかに殴られたあと、盛大に鼻血を流しながら逃げ出してしまった。


 ――ところでこの時、至近距離で格闘を見せつけられたイヴは、こっそりと鳥肌を立たせていた。


 普段ならアルベールが近くに控えていて、危険な場面では、スマートに助けてくれた。こうして離れてみると、改めて、イヴはアルベールが只者ではないことを思い知る。荒事で決着をつける時でも、彼は洗練された動きでさっと鎮圧してしまうので、イヴはその場にいても、流血沙汰を目にしたことがなかったのだ。


 ――しかしこの目の前の騎士ときたらどうだろう。太い棍棒を振り回し、犯人を何度も執拗に打ち据え、顔面を殴りもした。ぐしゃりと嫌な音が辺りに響いたし、犯人のほうも血が流れたことに興奮して、まるでケダモノのように怒声や罵声を浴びせてきた。


 一連の出来事が、野蛮人同士の喧嘩にしか見えなかった。イヴは身体が震え出すのを感じ、足に根が生えたかのように、通りに立ち尽くしていた。


 ――一方、小柄で上品なカルネ婦人はというと、彼女はこの生々しい殴り合いの喧嘩を間近で見ることができて、胸をドキドキと高鳴らせていた。


 なんとまぁ、すごい!


 彼女の日常は平坦で刺激がなく、代わり映えのしない日々だった。孫も夫も亡くし、尻つぼみの人生だと思っていた。――ところが今日は昨日とはまるで違った! 男たちは憤怒や衝動に突き動かされていて、それはカルネ婦人の中に眠っていたものを呼び覚ました。うねりに呑まれるような感覚だった。全身が痺れた。


 そして彼女が心惹かれたのは、血生臭い戦闘だけではなかった。騎士の青年は、長身で、黒髪で、婦人から見るととても好ましい容貌をしていた。もしも自分が若い娘だったなら、一目でぽうっと熱を上げていたことだろう。――いや、正確に言えば、自分が若いか若くないかは関係なく、老婦人の心は彼に囚われていたのだ。


 元気が良く、押しが強いところも素敵である。喧嘩も強くて、二人の暴漢を相手にしても、一歩も引かない男気もある。なんと逞しいことだろう。


 騎士は二人の淑女を守ることを優先したため、惜しくも強盗を取り逃してしまったが、老婦人の中で彼の評価はうなぎのぼりであった。


 ――暴漢が撤退したのを見て、騎士は美しい淑女の手を素早く取った。


「さぁ、念のため、宝石店の中に避難してください」


 イヴはこの時、ブランケットにくるまれた『猿のミイラ』を懐に抱え込んでいた。おくるみをホールドしていた腕を、騎士が乱暴に開いたものだから、当然の帰結として、像は支えを失い地面に落下して行った。――下ほうからガシャン! という破壊音が響く。


 イヴはあまりのことに悲鳴すら出なかった。心の中では「あー!!!!」と断末魔のような悲鳴を響かせていたのだが、口からはか細い吐息が少し漏れただけであった。


 信じがたい気持ちのまま、恐る恐る胸元を見おろすと、やはり包みは跡形もなく消えている。胸元の膨らみのせいで、足元が見づらいが、靴の先にブランケットの端っこが見えているので、やはり地面に落下したのは間違いがないようである。


 ――割れているかしら。割れているわよね。ガシャンといったものね。


 イヴの脳裏に様々なことが浮かんでは消えていった。――眉毛の繋がったレミー子爵。伯母の厳めしい顔。アルベールから『出立を一日延ばしましょうか?』と問われた時に、『大丈夫だから、行ってらっしゃいよ』と答えたあの場面。


 ――一方の騎士は、美しい女性が野兎のように震えていることに気づき、胸がきゅうと締めつけられるような感じがした。


 ああ、なんと可憐なのだろう! 襲われかけたことが、よほどショックだったに違いない。騎士は衝動的に手を伸ばし、ふたたびイヴの華奢な身体を抱え込んでいた。出会い頭にぶつかりそうになって抱き留めたあれとは訳が違う。今度の接触には、彼の気持ちが込められていた。


「――もう大丈夫。俺がついています。安心してください」


 彼女の背中と髪を撫でながら、そう囁きかける。


 この時、イヴはあまりにショックを受けていたため、魂が口から飛び出しかけていて、自分が何をされているのかよく分かっていなかった。肩や背中、髪に刺激を感じるのだが、現実味がない。


 そしてそれを傍らで眺めていたカルネ婦人は、若い男女が抱き合っているのを間近で見ることができ、胸をときめかせていた。


 ――まぁなんてこと、ロマンス小説のようだわ! 老婦人からすると、男女はこれ以上なくお似合いに見えた。美男美女の理想的なカップル。


 興奮冷めやらぬ老婦人は騎士に近寄り、


「あなたのお名前を教えてくださる?」


 と尋ねていた。


 騎士はイヴの柔らかい身体を堪能していたのだが、老婦人に声をかけられ、ハッと我に返った。気まずそうにモジモジしながら、腕の中に抱え込んでいた女性を解放する。


 そうして照れながら彼が名乗ると、老婦人は何かが引っかかったのか、さらに出自を尋ねて来た。その結果、老婦人と騎士は、遠縁の関係にあることが分かった。――不思議な縁もあるものだと、騎士は考えていた。


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