過去編-5 恋のおまじない


『親愛なるイヴ


 最後に君に会ってから、一年がたちます。月日の経過は本当に早いものです。


 僕は仕事で、モドという海辺の町に来ています。そこで綺麗な絵葉書を見つけたので、君に手紙を書くことにしました。


 水平線に夕日が沈みゆく一面の赤――ここに描かれている景色と同じものを、僕も今眺めています。


 実は今度、まとまった休みをもらえることになったので、収穫祭のあとになると思いますが、そちらに戻る予定です。


 ああ、そうだ――肝心なことをまだ告げていなかった。


 十七歳の誕生日おめでとう。プレゼントは直接渡したいので、後日でいいかな。君に会える日を楽しみにしています。


 では、くれぐれも身体に気をつけて。――アルベール・ランクレ』




***




 イヴは絵葉書を手に、弾むような足取りで通りを歩いていた。抑えきれず、口元には笑みが浮かんでいる。彼からの手紙があまりに嬉しくて、持ったまま屋敷を出て来てしまった。


 今ではすっかり成長し、手足もすらりと伸びて、大人の顔に変わりつつある彼女だが、アルベールと出会った四年前のイヴは、体が弱く痩せっぽっちな子供だった。


 結局、アルベールはあのあとすぐに学校を辞め、自らの意志で騎士団に入った。――騎士団に入ってからの彼は、ほとんどシモーヌ叔母さまの屋敷に戻ることはなかったのだけれど、忙しい中でも、心のこもった絵葉書や素敵なプレゼントを贈ってくれた。高価なものではなくても、香りの良いお茶だったり、細工の美しい素敵なペンだったり、可愛らしい焼き菓子だったり。彼の手紙と、このちょっとした贈りものは、いつだってイヴの心を温かくしてくれた。


 ――今日、通りには行き交う人が多い。子供と手を繋ぎ、ゆったりした歩調で進む大柄な男性や、友達と笑みを交わす女性たち。下町のこの大通りを歩いているのは、中流階級に属する者がほとんどだ。


 イヴは屋敷をこっそりと抜け出し、町娘の格好で通りを進んでいた。――というのもイヴには、ちょっとした目的があったのだ。




***




 その露店は、仲の良さそうな若いカップルで賑わっていた。客たちはペアでプレート状の鋳物(いもの)細工を買っていく。


「それって本当に効果あるの? 恋のおまじない」


 前に並んでいるハキハキした感じの赤毛の女性が尋ねると、店主が口元に笑みを浮かべて答える。


「効果は抜群だよ。だからこそ、うちの商品は売れている」


 ――分かるだろう? というふうに店主が笑みを深くすれば、


「確かにそうね」


 女性は朗らかに返し、代金を払って品物を購入した。


 ――さて、いよいよイヴの番がやって来た。彼女はメイドがここの噂話をしているのを聞いて、こっそり屋敷を抜け出してやって来たのだ。


 ここに辿り着くまでにテンションは上がっていたのだが、皆が幸せそうな顔でこれを買っていくのを見てからは、もう待ちきれずに、ウキウキワクワクしているイヴだった。――だってなんだかすごく、ご利益がありそうなんだもの! 期待に瞳を輝かせて前に出る。


「一つください」


「お嬢ちゃん、もしかして一人かい?」


「ええ、そうよ。連れがいるように見える?」


 イヴの両隣が空いているのは見て分かるはずだ。小首を傾げて問い返せば、店主からは意外な言葉が返された。


「このおまじないの品は、カップルにしか売れないんだ。そういう決まりだから」


 えー! 聞いていないわ、そんなの! イヴは目を丸くしてしまう。


「ねぇ、おじさん。カップルで来ている人に、おまじないなんて必要ないんじゃない? だって連れがいる時点で、もうとっくに両想いってことよ」


 おじさんはこのもっともな突っ込みに一瞬『うっ』という苦い顔になったのだが、商売人の意地なのか、はたまた小娘相手に言い負かされたりしないという闘争心に火が点いたのか、簡単に退きはしなかった。


「あのな、お嬢ちゃん。――男女がつき合い始めたからって、それで『はい安泰』だなんて思っているのかい? 物事っていうのは、スタートしたあとのほうが難しいんだぜ。うちのお守りは、その困難を乗り越えるためのものなんだよ」


 ――何よそれ、もっともらしいこと言っちゃって。イヴは器用に片眉を顰めてみせた。


「おじさん、それって詐欺だと思うわ。カップルにばかり売っているなら、それを買った人たちがラブラブなのは当たり前じゃない。だって破局が近いようなギスギスした二人は、そもそもこんなものを買いに来ないもの」


 おじさんはイヴのカウンターを食らい、ぐうの音も出ない様子だった。しかしそれでも、なんとか言いくるめて追い返してやろうと、大人げなく口を開きかけた、まさにその時。


「――お嬢さん、お困りですか?」


 人当たりの良い、甘さを含んだ声がすぐ近くで響き、イヴの背中に温かい何かが触れた。その感触から、誰かが背中に手を回したのだとイヴにも分かった。


 突然の不躾な接触に驚き、振り返ると、びっくりするほどすぐ近くに、見知らぬ男性の顔がある。初対面だというのに、この距離の詰め方には正直ぎょっとさせられた。


 イヴはなんだかんだいって箱入り娘であり、十七歳になった今でも、異性にほとんど免疫がなかった。自分のペースで進めていられるうちは、彼女らしい自由な振舞いができるのだが、このように相手から来られると話は別だった。イヴは思わず身体を縮こませ、置物のように固まってしまった。


 相手の男性は女慣れした感じで、イヴの背に手を回したまま、顔を上から覗き込んでくる。


「僕は友人たちと一緒にここまで来たのだけれど、独り者だから暇を持て余していたんだ。――困っているなら一緒に買おうか?」


 カップルにくっついて、グループで遊びに来たということだろうか? 元々フリーだから、あなたと過ごしても構いませんよ、ということなのかもしれない。


 イヴは口を開きかけて、閉じて、という意味のない動きを繰り返してから、視線を彷徨わせた。――どうしよう。店主には生意気な口をきいたイヴだけれど、実は彼女、このおまじないの品を手に入れるのを、ものすごく楽しみにしていたのだ。むしろ楽しみにしすぎていたからこそ、断られてもしつこく食い下がったわけである。


 ――屋敷を頻繁に抜け出すのは難しいし、祭りのあいだだけの出店なら、これが手に入れるラストチャンスかもしれない。隣に立つ男性の提案に乗れば、イヴの望みは簡単に達成される。それは悪魔の囁きにも似て、彼女の心をぐらぐらと揺さぶった。


 ――だけど待って。本当にそれでいいのかしら? ほとんど同意しかけていたイヴであるが、揺り返しのように乙女心が罪悪感を訴えてくるので、決めきれない。


 ――だってズルをしたら、効果がないかもよ? ええ、そうよね、それはマズいわ。


 イヴが固まっているので、相手はなんだか困ったような顔つきになっている。彼が小首を傾げて『どうする?』というように微笑みかけてくるのだけれど、持て余しているように見えるわりに、解放はしてくれない。


 それはまぁ、彼女のほうが拒絶をしないせいでもあった。――相手の男性からすると、イヴは『イエス』『ノー』をはっきり伝えてきそうなタイプに見えたので、本当に嫌がっているなら、はっきり拒絶してくるだろうと考えていたのだ。だから期待もするし、こうしていくらでも待つ。


 イヴはイヴでこの手のことに関しては、ある意味五歳児よりも遅れていたものだから、どう振舞ったらこの困難を切り抜けられるのか、見当もつかずにいた。


 いつもどおりの調子が出ない。自力でどうにかしないと、誰も助けてはくれないと分かっているけれど、この状況は彼女の手に余った。イヴは焦り、いっぱいいっぱいの状態になっていた。


 露店に並んでいる後列の人たちも『そろそろ前の客、捌(は)けろ』と焦れ始めている。すべてが飽和しているような居心地の悪い空気の中、不意に斜め後ろから声がかけられた。


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