からふるビビっと 会えない二人

中野渡文人

1

 ビビは悩んでいた。

 眠れないのだ。

 いや、正確に言うなら、眠れないわけではない。むしろ布団に入るとものの数分経たずに眠っているし、ソファでくつろいでいてもあっさりと夢現の世界に入り込む。それどころかテレビをつけたまま、食事の最中、下手をすれば浴槽に肩まで浸かってぼんやりしている時などに、自分自身ですら気づかないままに寝落ちすることすらあった。つまり、眠るだけならなんの苦労もなかったのだ。

 しかし、にもかかわらず、なぜか決まって真夜中あたりに目が覚めてしまう。そしてそうなるともうダメで、朝まで眠れなくなってしまうのだ。

 もう少しで初夏に差し掛かろうかという、ある日の真夜中あたり。

 ビビは、今回もまた同じような事情で同じように目が覚め、そして眠れなくなってしまった。こうなるともはやどうにもならない。ジタバタしたところでなんの変化も起こらず、むしろ意識はどんどんはっきりしてくるばかり。無駄に冴え渡り、無駄に敏感になってしまう。無駄な時間だと思いながらもビビは布団の中でなんとかしようと悶えるのだが、悶えたからといってなにかがどうにかなるというわけでもなく、結果として、ビビは無駄に悶え苦しみ続けた。

 とにかく寝たい。

 けど寝れない。

 何度も何度も寝返りを打った挙句、ビビは諦めた。えいやとばかりに布団を抜け出す。

 カチコチカチコチ

 見ると、枕元に置いてある、大小の針が夜光塗料で光る置き時計は午前二時五分あたりを指していた。目が覚めてからまだ三〇分と経っていないではないか!

 愕然とするビビ。

 なんでこうなるの?

 どうしていつもこの時間に目が覚めてしまうの?

 部屋は真っ暗ではないが、それでもシンと静まり返り、真夜中特有のもの寂しげな空気が隅々にまで広がっていた。動いているのは時計だけで、規則正しく時を刻む音だけが部屋中に重く鳴り響いている。

 カチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチカチコチ…

 ビビは蛍光灯の紐を引っ張った。すると独特の金属音とともに部屋が明るくなり、時計の音も途端に静かになる。目がしばしばしたが、部屋が明るくなったことでビビは少し落ち着いた。

 広くはないが一人で暮らすには十分のスペース。具体的には四畳半の部屋に布団とタンスと収納ボックスが二つ。窓はピンクのカーテンで覆われ、その反対側には居間に続く引き戸があり、明るくなることでそれら全てがはっきりと見える。こうなると、例えこの部屋に怖い何かがいたとしても、もうどこにも隠れることなどできないだろう。 

「ふう……」

 ビビは思わず息を漏らした。うっすらと汗をかいて緊張していたのが、一気に、そして程よく脱力する。

 ビビはかなりの怖がりなのだ。函館の実家は寺で、敷地内には墓もあったし、小さい頃にはそれにまつわるそれなりに怖い話もたくさん聞いた。それどころか、ビビ自身それっぽい経験をしたことが何度もある。一度など、とある墓がぼんやり光っていた(とビビは今でもそう思っている)のを目撃してしまい、あまりの怖さに失禁してしまった。そのトラウマがあってか、以来高校生になるまで一人で夜に外出することが全くできなくなってしまったほどだ。

 もちろん、小学生、中学生、高校生と年齢を重ねるにつれ、それなりに寺の環境にも慣れていったし、幽霊なんて本当はいないと思うようにもなったが、それでも怖いものは怖い。ビビは今に至るもほぼ全く"怖い"という感覚を克服できてはいなかった。

 しかしながら、ビビのみならず、多くの人は皆そうではないだろうか?誰だって怖いものは怖い。夜の闇に慣れないという人は案外多いのではないだろうか?ビビは普通の人より少しだけ輪をかけて怖がりなだけで、実は多くの人も皆大なり小なり恐怖を持っていて、それを克服しきれていないのではないのだろうか?

 さて、ビビは恐怖にはとても敏感で、実際に恐怖を感じた時にできることはそう多くない。せいぜい二つか三つ程度であって、例えば自分の部屋にいる場合はとにかく室内を明るくすること。これは必須だった。暗いのはとにかく怖いのだ(そのわりには寝る時など蛍光灯を全部消すのだが、これはこれでビビの癖だった)。

 そして今のビビにはもう一つすることがあった。

 

 先生、起きてますか?


 返事は五分と経たずに来た。手に持った携帯電話がブルブルと震える。


 起きてるよ。眠れないのかな?


 困ってます。先生なんとかしてください


 なんとかしてあげたいけど、どうしたらいい?


 ビビにとって、メールは一種の精神安定剤になっていた。携帯電話を通じていつでも好きな人と繋がることは、ビビにとって欠かすことのできない薬なのだ。怖い時や悲しい時など、ビビはいつもこうして気持ちを落ち着かせる。実際、本当に落ち着くのだ。そして落ち着いてしまえばもうこっちのもの。いつもの自分に戻ってしまえば、もう怖いものなど何もなくなるのだ。

 今回もまた、ビビはそのようにしていつもの素の自分に戻った。するとふと疑問が湧く。

 さっきメールに書いた「なんとかしてください」だけど、具体的には私、先生に何をしてほしいんだろう?

 我ながら理不尽だと思ったのだ。自分が眠れないのは自分のせい。なのに先生になんとかしてくれと言うのはちょっと違うんじゃないか?

 けど。

 でも。

 それでもなんとかして欲しかった。具体的には一緒にいて欲しかった。だって一人は怖い。なんなら添い寝でもいいから一緒にいて欲しい。いや、むしろぜひ添い寝してほしい。メールだけじゃなく、実際に一緒に布団に入って、それで優しく腕枕してほしい。

 ああ、腕枕ってどういう感じなんだろう?

 ……けど。

 男女が一緒に添い寝したら、腕枕で歌を歌うだけでは済まないわよね。そんなことは私にだってわかる。やることをやるに決まっているのだ。

 ビビは思った。

 確かに誰だっていつかは経験するのよね。だったら最初は好きな人と経験するのがいい。けど、経験したら朝までぐっすり眠れるのだろうか?

 ビビにはそれはわからなかった。なにしろビビはまだ未経験なのだ。

 十五歳で伍郎―ビビは伍郎を先生と呼ぶ―と知り合ったビビだが、十八歳となった今でも、いまだに先生とは清き仲だ。

 もちろんそれは意図したものではない。むしろ、ビビはチャンスがあればいつでも経験して問題ないと思っていた。"あの日"以来、ビビは「この人と私は必ず一緒に暮らすんだ」と確信していたし、今でもその思いは変わらない。だからこそ、心の準備は万全なのだ。

 強引に襲ってくれてもいいのにな。

 しかし、間違ってもそんなことは言えない。

いつも私のことを考えてくれているのだ。優しい先生なのだ。ビビは伍郎に絶大なる信頼を寄せていた。だからこそ、その信頼感をぶち壊すようなことはしたくないし、言いたくもない。

 一緒に寝てほしい

 なんとも誤解を招く言い方だからこそ、ビビにはそれは言えなかった。なので、ビビはあえて話題を切り替えた。

 

 先生、今度はいつ会えますか?


 早く会いたいね。札幌に帰りたいよ


 そうなのよね。先生は今、仕事で九州にいるのよね。同じ日本だけど九州かぁ。生まれてからまだ一度も行ったことのない遠いところよね。

 ビビは少しばかり落ち込んだ。先生は帰ってくるまでに半年ばかりかかると言ってたけど、となると、あと三ヶ月は会うことができないし我慢しないとならない。

 ビビには一年にも匹敵する長さだ。


 ほんとですよ。早く帰ってきてください。


 と素直にメール。偽りない本音全開だ。

 ただでさえ一人暮らしは心細い。五月病はどうにか乗り越えたものの、札幌生活にはまだまだ不慣れなビビなのだ。

 十八歳となった今年、ビビは札幌の某大学に合格した。とはいえ、そもそもの理由はお世辞にも立派とはいえない。

「札幌は先生が住んでいるところだから」

「いつでも好きな時に先生に会いたいから」

「札幌市にある大学ならどこでもいいから」

 そんな単純な、ある意味不純な動機にも関わらず、心情的にはあまりにもあっさりと合格してしまったのだ。それなりの努力はしたが、周りの友達の頑張りを聞いていると、何か申し訳ない気持ちにすらなるくらいあっさりと合格してしまったのだ。

 なんか私、こんなんで受かっちゃったけど、これでいいんだろうか?

 もちろん、世の中は決して全てが安易なものではない。何かが出っぱると何かが引っ込む。

 無事大学に入学したのはいいが、ビビにとって予想以上に大変だったのは「一人で札幌に住む」ということそのものだった。

 まさか函館を離れることがこんなにも辛いとは!そのせいで何度泣きそうになったことか!当分の間は家にも帰れないし、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に寝ることでもきない。あの素敵な離れの温泉に入ることもできなければ、おばあちゃんの料理も食べられないし、慣れ親しんだ図書館にも行けない。

 それまではひたすら伍郎のみに想いを馳せていたビビだったが、いざ一人暮らしという大問題に直面したことで、あっさりと現実に引き戻されてしまったのだ。

 幸いなことに小学校からの親友である岸辺薫子も同じ大学に合格していたので、何かあれば薫子を頼ることができるが、さすがに部屋まで一緒というわけにはいかない。それでも家族共々中のいい二人は、お互いの家族と協力しあい、一緒にアパートを見て周り、それなりに近くのアパートに引っ越すことにした。そして実際に住み始めてからも最初の一ヶ月程度はお互いの部屋を頻繁に行き来し、そしてお泊まり会!などと称しては楽しんでいたのだが、長くは続かない。

 元々人付き合いのいい薫子は、早くも大学で友達を作ったのだ。しかもたった数ヶ月の間にその友達との付き合いの方が楽しくなってしまったようで、ビビの部屋に来なくなってしまった。もちろんビビもその友達を紹介してもらったが、まさか"男友達"だとは思わず驚愕。

 えーそっちなの?

 ビビは自分が一人ぼっちになってしまったような気がした。そしてつくづく思った。

 確かに友達って大事よね。だから薫子以外にも友達がいた方がいいわよね。けど、作れと言われてもどうやって作ったらいいのか……。

 白人で金髪。

 ビビは今でも自分のこの容姿をハンデだと感じていた。ものすごく重たい荷物だと思っていた。むしろ重すぎるので、できることならすぐにでも手放したい。けれど、それは無理難題というもので、さすがにどうにもならない。一生背負わなければならないものなのだ。

 この"心理的な壁"を感じずに済むのは、家族を除けばごくごく少数に限られていて、具体的には薫子や友美、そして伍郎(先生)ぐらいのものだ。見知らぬ人に対しては自分のこの容姿がどうしても壁になってしまう。無意識のうちに身構えてしまう。あるいは目立たぬように影に隠れてしまう。

 平成一九年の日本では、現在のように当たり前に外国人タレントがいるわけでもなく、いることはいても東南アジア系―フィリピン、台湾、韓国など―が主流であり、白人女性というのはまだまだ珍しい存在だった。いささか大袈裟に言うなら、白人はまだ市民権を獲得しておらず、あくまでも「(他所から来た)外国人」扱い。そしてその中でも金髪の白人は物珍しい好奇の目で見られることが多く、ビビもそういう経験を多くしている。

 ビビは日本人の母と外国人の父との間に生まれたハーフで、母もまたハーフ。

 親も自分も生粋の日本人ならこんなことなど考えることすらなかっただろうなぁなどと思うと、ビビはいつもため息が出た。元々外国人なら自分も外国人だとはっきり言える。けれど、ビビの場合、見た目は明らかに白人であるにもかかわらず、中身は完全に日本人。なのに家族は多国籍風で、けれども寺で育ってる。このような事情が若く多感なビビを悩ませていたし、また辛かった。

 決して訳ありではないのに、なぜか複雑な家庭。その複雑さがビビを臆病にしていたのだ。

 かくして、いまだにビビは札幌で一人ぼっちだった。そう、伍郎の存在を抜きにすれば――

 

 今週の土日、ひょっとしたら札幌に帰れるかも


 と先生の突然のメール。ビビは思わずのけぞった。


 ほんとですか?


 あくまで一時的だけど、時間は取れるんだ。ビビさえ良ければそのとき会おうか?


 ほんとですか?


 思わず同じ文面を送ってしまう。ビビは完全に目が覚めた。もはや眠りたいとも思わない。

 

 やったー嬉しいです。

 

 壁のカレンダーを見ると、今日は火曜日……じゃなくてもう朝だから水曜日。とすれば、三日後には先生に会える!あと三日!

 先ほどまでの眠れないという焦燥感はどこへやら。目の前が明るくなって、ワクワク感がビビを包み込んだ。

 どこへ行こう?何をしよう?何を食べよう?何を着ればいい?

 考えが次から次へと泡のように噴き出してくる。部屋の照明が格段に明るくなったかのようだ。暗い夜が一気に明けてしまったかのようだ。


 喜んでくれるなら帰り甲斐があるよ。じゃあなるべく早い時間に帰れるようにちょっとあれこれしてみるね。


 はい。詳しい連絡を待ってます。


 もう遅いからしっかり寝るんだよ。


 はい。先生もおやすみなさい


 メールはこれで終わった。けれど、もちろんビビはもう眠れない。大好きな緑茶をゆっくり啜りながらあれこれ思う。

 待ち遠しい。待ち遠しすぎる。

 この前はどこに行ったかな?そういえば支笏湖にドライブに行ったんだっけ。その帰りに、ええーと、名前は忘れたけどアイス!そう!手作りアイス!牧場経営しているところの直売所で、すごく美味しいって評判で、だから思わずふたつも食べちゃって、それで先生にすごく心配されたなぁ……。二つくらいなんでもないのに。ほんとはレーズンのやつも食べたかったけど、流石にみっつも食べたら驚かれるわよね。

 ビビは携帯を操作して写真を探した。旅は写真を撮ることで二度楽しめる。

「あーそうそう。これ!このアイスがすごく美味しかったのよね」

 思わず声が出る。写真にはアイスを持ってる自分の姿が写っている。自分でもいい笑顔だと思う。そのほかにもたくさんの写真があって、どれもすごく明るく綺麗で懐かしい。

 まだそこまであちこち行けてはいないものの、けどこうして写真があることで、ビビは先生とお出かけした気分に浸ることができた。しかも入学祝いで親に買ってもらった新しい携帯の画質はすこぶる良好で、プリントアウトしてもとても綺麗なのだ。

 実際にビビはそうやってプリントした何枚かをフォトフレームに入れて飾っている。神威岬で伍郎と一緒に写っている写真がことのほかお気に入りで、これはちょっと画質が悪いにも関わらず大きく引き伸ばして飾っていた。

 しかし、そうやって撮り溜めた写真を見ているうちに、ビビは自分と先生のツーショット写真が数えるほどしかないことに気づいた。いや、それどころか、そもそも先生自身の写真が極端に少ない。

 いつもいつも先生が撮ってるからなのよね。

 今度は私も頑張って写真撮らないと。

 熊さんみたいで愛らしい先生を激写!……なんて、あーもう待ち遠しいなぁ。

 一人暮らしはとても寂しい。けれども、好きな人の近くに引っ越してこれたし、時間さえあれば―とはいえ、先生のお仕事が休みの時だけだけど―気軽に会うことだってできる。

 だから寂しいのは仕方ないのだとビビは思った。

 早く先生からの詳しい連絡がないかな。もしも会える時間がずれるというなら、別に大学なんて休んでもいいわ。

 真面目に勉強して、必死に受験対策をして、一日の大半を机に向かって過ごし、それで合格した人もいるだろう。そしてそんな人からすればビビのこの態度は到底許せないことかもしれない。

 けれど、ビビには大学に対する情熱などこれっぽっちもない。

「これでいつでも先生に会える」

 あくまでもこれがモチベーションの全てで、そうでなければ函館から離れることなど絶対になかっただろう。

 ひょっとしたら自分は典型的なダメ人間の部類なのかもしれない。男性依存などと妙なレッテルを貼られるようなダメ人間なのかもしれない。

 けれど、ビビは全く気にしていなかった。

 なぜならビビは直感を信じたし、信じてるから。


 自分はこの先死ぬまでずっと先生と一緒にいるのだ。

 今はその"助走期間"なのだ。

 

 気づくと窓の外が明るくなっている。時計を見るまでもなく朝になっているのがわかった。ましてや今は初夏。太陽は当の昔に随分と上まで上がってしまっているはずだ。おそらくはもう少ししたら大学に行く準備をしなければならないだろう。

 そんな時間なのね。結局あれからずっと起きてたけど、まあいいわ。

 とにかく今日は大学に行こう。そしてその後で少し街に出てみよう。

 少しだけ残っていた緑茶を一気に飲み干すと、ビビはさっと浴室に入る。朝のシャワーはビビの日課なのだ。

 じっくりと時間をかけて熱い湯を浴びたビビはとてもさっぱりとした顔つきになっていた。

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