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 このところ、目覚まし時計が鳴るよりずいぶん前に目が覚めてしまう。ベッドから起き上がって、デスクの上に置いた目覚まし時計を手に取る。まだ午前十時前……目覚ましは一時間後にセットしてある。目覚まし時計をベッドの脇に戻して、ベッドの縁に腰かける。

 頭痛がした。昨夜は酒を飲み過ぎたのかもしれない。記憶が曖昧だが、今こうしていつも通りベッドで目が覚めたということは、昨夜は滞りなく全てが過ぎ去ったのだろう。

 デスクの上にノートパソコンがないことに気がついた。

 俺に任されていた課題はインディーズで販売する予定のゲーム、『ループ(仮称)』のテストプレイだった。ソースコードから懸念されるバグのチェックリストとゲームの進行を確認する必要があった。昨夜の飲みの後にやろうとしていたのだ。もうすぐ大学の学園祭だ。そこでゲーム制作部は『ループ』をお披露目する予定なのだ。別のサークルとはいえ、『繰り返し見る夢のような』のゲーム化とあっては、協力しないわけにはいかない。

 寝室を出て、廊下を通り、リビングに向かう。

 部屋の中に入った途端、小便のにおいがした。部屋の真ん中に誰かが倒れていた。岸田だった。

首に携帯のケーブルが絡まったままだ。そして、彼のズボンは濡れていて、身体のまわりに小便が水溜まりを作っていた。

「おい!」

 呼びかけるが、近寄れなかった。恐怖のせいなのか、岸田のまわりに見えない壁のようなものがあって、足を踏み出すことができなかった。岸田は呼吸をしていないようだった。

「おい、何してんだよ……」

 俺はその場にしゃがみこんで、岸田に声を掛け続けた。だが、無駄だった。

 なぜこんなことになったんだ……?

 昨夜は何事もなく過ぎ去ったんじゃなかったのか?

 一体何があったのか。誰が岸田を殺したのか。なぜ殺人という怒りをぶちまけてしまったのか。昨夜まで意思を持って生きていた岸田が、物言わぬ骸と化してしまっている事実に、どうしようもない虚しさが込み上げてきた。

 部屋を見回す。ソファの上にノートパソコンが置かれていた。

「岸田が、出た利益をもっと寄越せと言ってきたんだ」

 ゲーム制作部の部長、香椎がそう言っていた。『ループ』を売ると知った岸田が、それまで利益は要らないと言っていたにもかかわらず、態度を翻したのだ。岸田は俺が『ループ』のテストプレイの依頼を受けたことは知らない。もし知ったとしたら、岸田は俺のことを許さないだろう。

 なぜリビングにノートパソコンがあるのだろうか。昨夜のことは覚えていない。だが、もしここでパソコンの中の『ループ』を見られたのだとしたら……。

ゲームが進行できなくなったり、変な挙動をする度に笑う光景が頭に浮かび上がる。バグに出くわす度に何度も初めからやり直した。

これは昨夜の記憶なのか? だとしたら……。

 岸田の死体を見つめる。

 俺が殺していないとは言えないのではないか?

 酔っていて覚えてはいない。だが、パソコンの中の『ループ』を見られて、口論になり、思わず……というストーリーはあり得ないことではない。信じたくはないが。

 俺と岸田がここにいて、他のみんなはいない。ということは、俺は岸田をここに残して話をしようとしていたのかもしれない。

 昨夜ここにいた誰かに話を聞きたかったが、恐ろしかった。岸田が死んでしまったことが知られれば、あいつらは俺が殺したと思うかもしれない。

 本当に俺が殺したのだろうか?

 わざわざノートパソコンをリビングに持って行く意味はない。中身を見られる恐れがあるのに、岸田にバレるリスクを自分で背負おうとするだろうか?

 もし俺が犯人でないなら、誰かが俺をハメようとした? だが、誰が?

 昨夜ここにいた中に、俺が『ループ』のテストプレイを任されていたことを知っていた人物はいないはずだ。

 突然鳴り響くインターホンに心臓が止まるほど驚いた。

 恐る恐る立ち上がって、廊下に出る。もう一度インターホンが鳴る。ゆっくりと玄関まで近づく。ドアの向こうからくぐもった声が聞こえる。

「入間さーん、いらっしゃいますか?」

 知らない男の声だった。足がすくむ。玄関のドアの鍵が開いているのが見えた。体温が下がる。身体が震える。

「警察の者なんですが」

 警察? なぜ警察がここに?

 静かに沓脱に足を踏み入れ、ゆっくりとサムターンを回した。静かに、静かに。しかし、素早く。もう一度インターホンが鳴る。と、同時に鍵を掛けた。

 すぐにドアがノックされる。その鋭い音に氷水を浴びせられたような気がした。ゆっくりと後ずさりした。ドアノブが動く。ドアがドシンドシンと音を立てた。

「入間さーん!」しばらく間があって、小さく声がする。「管理人さん呼んできて。鍵屋使うかもって」

「はい」

 靴音が遠ざかる。二人組かもしれない。残った方がまたインターホンを鳴らす。俺は耳を塞いでリビングに戻った。

 岸田の死体はそこにあるままだ。どうすればいい? このままここにいれば、警察はやがて乗り込んでくる。ドアを開けなかった俺は犯人として逮捕されるだろう。だが、俺は犯人じゃない。

 なぜ警察はここに来た? 誰かが通報をしなければ、警察がああしてやって来ることなどないはずだ。

 あれは本当に警察なのだろうか? もしそうでなければ、一体誰なのだろうか? 岸田を殺した誰か?

 岸田を殺す理由があるとすれば、ゲーム制作部の人間が考えられる。金の話がこじれて、殺意に繋がったと考えても不思議ではない。それほどまでに、岸田の詰め寄り方は激しかったらしい。

 またインターホンが鳴る。

 ドアを開けたら終わりだ。あれが警察でも犯人でも。リビングの窓から外を見る。眩しい陽光が街を照らしている。ここは六階だ。玄関には警察がいる。逃げ場はない。

 どうすればいい?

 捕まるか、殺されるか、逃げるか。ベランダの二十メートルほど下には土の地面がある。一か八か、飛び降りたとしても土がクッションになるだろう。子どもの頃はよく高い所から飛び降りていた。あの時の勇気を思い出せばできるはずだ。

 またインターホンが鳴る。ドアが強く叩かれる音が聞こえる。焦燥感が募ってくる。警察の取り調べが過酷だというのはネットでもよく見る。犯人でなくとも、その辛さから罪を認めてしまう人もいるらしい。そうやって無実の罪を着せられて、塀の中で人生の大半の時間を無駄にしてしまった人もいると聞く。そうはなりたくない。今はまだ夢はないが、いつか良い毎日を送れる日が来るかもしれない。そういう未来を、ここで潰えさせてはいけない。

 玄関に向かう。靴を履いて廊下を歩く。行儀は悪いが、今はそんなことを気にしている場合ではない。窓の前で準備体操をする。着地と共に衝撃を全身で分散すれば大丈夫だ。

 またドアが叩かれる。もうあまり時間はない。

 背後を振り返る。岸田は死んだまま、そこに居続けていた。日常をぶち壊した奴を俺は許さない。

 深呼吸をする。俺ならできる。

 覚悟を決めて、窓を開いた。

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