第3話 太陽の国の王 ⑤


 俺はため息をついた。

 オフィスの外では相変わらず音楽が鳴りやまない。今はサカナクションの「夜の踊り子」をイーア語に歌い替えた歌が聞こえる。

 海老イーア支店の周囲に集まる人だかりは消えなかった。むしろどんどん増えている。極彩色のテントが立ち並ぶマーケットが広がり、巨大なステージが建てられ、朝から夜が明けるまでずっと音楽が続き、いつの間にか広大な空き地には即席の野球場が作られ、ときどき海に向かってホームランが飛んでいく。何故彼らがここにとどまるのか俺には分からなかったが、たぶん、もともと集まることさえできれば場所はどこでも良かったのだろう。30年式典の本番に向かって、ここが民衆にとっての本会場となりつつあるのだ。

 俺とジエンがマスタングに乗って王宮から帰ってきたときの人々の歓迎は、まるで戦争に勝って帰ってきた英雄を出迎えるような盛況ぶりだった。紙吹雪が舞い、花束がマスタングに投げ込まれ、カラマックス、カラマックスの大合唱が地鳴りのように沸き起こる中、俺は引きつった笑顔を浮かべ続けた。俺は清田課長に交渉は成功した、と電話して、「これで将来カラマックスの工場がイーアにできなかったら暴動が起きると思います」と伝えた。

 数日ひとしきり思い切り働いた後、俺達には一旦やることがなくなった。既にイーアからの輸送船は中国に向かって発ち、荷の受け渡しの段取りもこちらでできることはもう済んだ。日本から50万袋のカラマックスも無事出発し、中国でのランデブーはもう明日だった。とりあえず後は待つだけしかやることがない。港でカラマックスを検品してそのまま王宮に向かう当日は大忙しになるはずだったが、それまで俺たちは一息つくべきだった。

 ジエンが俺に声を掛けた。

「才川さん、いらっしゃいました」

 その言葉通り、カメラを持った男とレコーダーを持った記者がオフィスに入って来るところだった。王宮に俺達と一緒に行った二人だ。他の記者はもう解散して別の現場に向かって発って行った。王宮とのカラマックスの納品交渉は解決して、とりあえずもう取材することはないのだから当たり前だが、なぜかこの二人だけは残って毎日インタビュー取材を続けてくるのだった。彼らは海老自体を取材することに意味があると考えており、何故か俺という人間自体にも興味があるようだった。

 それで別に構わない。俺も考え方を変えていた。今後海老のイーア支店が本格的に稼働し、海老商品をイーア全土で売ることになった時、マスコミの協力が必要になる。その時のために今のうちからイメージを良くしておくことは意味がある、と俺は考えた。

 普段の仕事の内容を聞かれ、俺は、もともと自分はお客様相談室の出張員としてこの国にやってきている、と話した。質問の内容をそのまま明かすことはできないが、大体こんな質問が毎日やってくる、と俺は解説した。カロリーや成分を教えてください。カラマックスの原料のじゃがいもはどこで作っているか教えてください。カラマックスの作り方を教えてください……等々。

「才川さんをゲストとして即位式典に招く計画があるそうです。いかがされますか」

 ジエンが記者の言葉をそう翻訳して、俺は眉間に皺を寄せ、首を横に振った。

「さすがに冗談でしょう。私は今回のカラマックス納品の件で、王宮に迷惑をかけた。ゲストとして呼ばれるような立場ではないと思います」

 記者は眉間に皺を寄せた。

「才川さんはニュースを見ないのですか。あなたは既にこの国で英雄です。リーチの預言を受けて、王様にカラマックスを献上する。他の誰にもできないことです。みんな才川さんのことを知りたがっている。だからみんな、この会社の周りから離れない」

 俺は首を横に振った。

「自分は何もしていません。特別な技術も何もない。ジエンがいなければ誰の言っていることも分からず、何も伝えることができない。何か功績があるとしたら、ほとんど全部彼女のおかげです」

 記者は首を傾げた。

「才川さんはその若さで日本の大企業の支社長です。優秀でない人がそうなれるのでしょうか」

「私が支社長になったのは、ただやむを得ない事情のためで、自分の能力が評価されたからではありません。私は2か月半後に日本に帰りますが、代わりにやって来る新しい日本人は、もっと本物の優秀な人材です。その人物とチームがやる仕事を楽しみにしていてください」

「2か月半後に帰るというのは本当ですか」とジエンが記者の言葉を翻訳した。

 その部分が彼に引っ掛かったようだった。そうです、と俺が答えると、考えられない、と彼は答えた。

「なぜそんなに急ぐんですか。才川さんはもっとこの国にいるべきだと思います」

 俺は首を横に振った。

「初めからその予定だったのです。駐在というよりは長期出張ですね。私は少し場を繋ぐだけのワンポイントリリーフなんです」

 記者も首を横に振った。

「その予定が変わることを願っています。才川さんがそんなに早く日本に帰ってしまうとは、誰も思っていないと思います」

 その後、俺は記者たちに海老と俺にまつわるニュースと、即位30周年の祭りの準備状況を教えてもらった。海老の商品はカラマックス以外のものもすべて棚から欠品するようになり、いよいよ本格的な供給が求められるようになっている。俺のインタビュー記事を掲載するサイトは異様なアクセス数を叩き出し、俺宛てのファンレターが何通も届いているという。即位式典の準備はほとんど完璧に整い、後はカラマックスの到着を待つばかりとなっている。イーアからカラマックスを迎えに行く船には新聞記者が同乗し、王宮への納品まですべてを事細かに伝える予定だという。

 また来週よろしくお願いします、と記者は言って立ち去った。「月曜日には王宮から才川さんへの正式な招待状も届いていることでしょう」

 俺は首を横に振って記者たちを見送り、腰掛けた椅子の上で体を伸ばした。この一週間、さすがに疲れた。明日は土曜日で、イーアも休日だった。




 俺は時速60キロでマスタングを運転し、海沿いの道を走り続けた。既に俺の視界の左半分は突き抜けるような空のブルーと吸い込まれるような海のブルーでいっぱいになっていたが、俺は前だけ見て慎重にハンドルを握り続けた。街中と違ってほとんど車は走っておらず、マスタングのエンジンも機嫌よく回転し続けていたが、自分自身の運転技術には全く信頼がおけなかった。休日に社用車で事故を起こしたために書く始末書の内容など、俺は考えたくもなかった。

 前方の突き出た岬の手前に駐車スペースが見えて、俺はそこにマスタングを停車させることにした。サンダルに履き替えて、屋根を閉じて車を降りると、眼下には見事なウルトラマリン色のブルーが広がっている。誰もおらず、風の音しかしない。ジエンもアッカもパンもいない。彼らは今日は全員、来週王宮にカラマックスを納品する時のための準備に当たっていた。それは要するに、服の仕立てと親戚挨拶だ。一般のイーア国民が正式に王宮に足を踏み入れるとなれば、その威光にあやかるために大量の親戚縁者が集まって来る。俺以外の社員は皆その挨拶対応に追われているのだった。

 俺だけが何もやることが無かった。土曜日は昼近くまで眠って、午後はただホテルの周辺を散歩して、特に代わり映えのしない埃まみれの街を眺めながら、ドリンクスタンドでピーチグリーンティを飲んで歩いた。せっかくの休日をほとんど何もせずに過ごしたわけだったが、何かをする気が起きなかった。体はそれほどでもないが、神経が疲れていたのだ。そしてホテルでシャワーを浴びているときにふと思い出した。

 ジエンが言っていた、「神が休む場所」に行こう。

 俺はそう考え、日曜日の朝から一人でマスタングに乗ってイーアの南西へ向かった。

 マスタングを停めた駐車場の脇に小さく古びた看板が掲げられていて、その脇に崖下に降りていく丸太の階段があり、水着やら行きがけに買った弁当やらが入ったバッグを肩に下げて俺はそこを降りて行った。

 雑木林に覆われた階段を降り切ると、こじんまりした、真っ白い砂浜のビーチが広がっている。誰もいない。俺は崖を背負った木陰に腰を落ち着けて、ペットボトルのお茶を飲んで海を眺めた。青白い空から真っ白い光が一面に打ち下ろされ、目までブルーに染まるような見事な海が水平線まで広がっている。

 たぶんこの場所は最初に考えていた場所と少し違う、と俺は思った。ジエンは確かその場所のことを、ブルーとグリーンの中間の色で何もかもが透き通っている、と言っていた。この海はもっと青みが深い。きっと、ジエンが言っていた海岸からは少し離れているのだ。しかしこれくらいの方がいい。既に十分すぎるほど美しいし、あまりにも完璧すぎる場所だとむしろ精神が休まらない。それにきっとさすがにその場所は観光地になっていて、人がたくさんいるだろう。

 俺は寝転がって空を見上げた。スマートフォンを見ると、針が消滅して圏外表示になっている。俺はその点だけは失敗したと思った。海香からいつ電話や連絡が来るか分からないのだ。俺は彼女のことを考えた。俺はあの後彼女に体を気遣うメッセージを送ったが、返信は無かった。彼女の妊娠が本当か間違いか、そのどちらを俺は望んでいるのか考えた。そして何度考えても同じ結論に達した。俺はそれが間違いであることを望んでいる。彼女自身に出産の覚悟ができているとは俺にはどうしても思えなかったからだ。もし彼女が本当に妊娠していたら、望まずに産むか、堕胎するかの二択になる。自分が彼女にその選択を強いていると思うと眉間に深い皴が寄った。俺の帰国は2か月半後どころかもっと早くなるかもしれない。もし堕胎することになった場合、海香に一人で病院に行かせるという選択肢は俺には無かった。絶対に付き添う必要があり、そのためには退職してでも日本に帰らなければならない。

 俺は海香に隣にいて欲しかった。やはりこの海は彼女と二人で観たかった。そうすれば、子供を産むにしてもそうでないにしても、俺たちが未来に向けてどういう方針で生きていくか、少しだけ前向きに話し合える気がした。東京は基本的には既に年老いた街だ。何かを始めたり創ったりするよりも、壊れたり何とか維持したりすることの方が多い。自分の都合よりも他人の都合を聞く必要がある。そういう街で、精神に問題を抱えた女がポジティブに物事を考えるのは、構造的に難しい。

 俺は頭の下で腕を組み、水平線の海と空の境目をじっと眺め続けた。俺は明々後日にカラマックスを王宮に納品する。まだこの国にやってきて二週間足らずで、仕事はこの後も続いていくが、決定的なものはこれで終わりだろう。市場調査は行うし、問い合わせにも逐次答えるが、俺が日本を出国する前にはまだ見えなかった方針は、もう出たと言える。既に一国の王の御用達になった商品の事業展開は、サッカーの試合に間違えてバスケットボールを持っていくくらいの間違いを起こさないかぎり失敗する方が難しいだろう。俺は海香のことも含め、日本に帰るタイミングを改めて清田課長に確認しておく必要があると思った。

 俺は首を横に振った。とりあえず今だけは考えるのを止めにすべきだった。俺は水着に着替えて海に飛び込んだ。温かい波の中で、俺は数時間何も考えなかった。




 マスタングをオフィス横のガレージに返してホテルに戻り、俺はシャワーを浴びてベッドの上に横になった。日焼け止めを全身に塗っていたが、それでも体の一部がひりついていた。

 既に日が暮れてから数時間経ったが、相変わらず海香からの連絡は無い。誰からの連絡もない。柔らかいマットレスと張り替えられたばかりのシーツの上に身を横たえていると、まだ海の中に浮いているような感覚がした。俺は手持ち無沙汰になって、スマートフォンでアマゾンの日本語サイトにアクセスし、電子書籍を2冊買った。小松左京の「日本沈没」とヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」だった。

 冒頭を読み比べて、今の俺は「シッダールタ」の方の気分であることを確認して読み進めた。


  オームは弓、魂は矢、

  梵は矢の的

  断じて射あてよ。


 シッダールタが樹の下で繰り返し唱えるそのことばを、俺もスマートフォンを握って仰向けに何度も唱えた。何度も繰り返し唱えるうちに、画面の上部にメッセージ受信を知らせるバッジがポップアップした。

 ジエンからのメッセージだった。

 俺がそれをタップすると文章が現れたが、読めない。イーア語だった。俺は体を起こし、目を凝らしたが、そうしたところでうねり狂う文字は一文字も理解できない。

 読めないので日本語で頼む、と俺は返信した。そしてシッダールタの続きを読んだ。シッダールタは仏陀に出会い、世界にただ一人の人を見出した。しかし、シッダールタが己に目覚め、出奔しても、まだジエンからの返信がない。

 俺はやむを得ず、ジエンの読めないイーア語のメッセージをコピーペーストしてグーグルの英語翻訳に突っ込んだ。


 The ship carrying Karamax sank.


 カラマックスを乗せた船が沈没した。

 俺は出力された英語を頭の中でそう日本語に翻訳した。

 俺は反射的にチャットアプリを開き、ジエンに電話した。スマートフォンを耳に押し当て、呼び出し音が鳴り続けて彼女が出るのを待ったが、繋がらない。俺はベッドから立ち上がり、意味もなく部屋の中を歩いた。もう一度電話を鳴らす。窓の外の景色が見たかったが、この部屋には窓がない。

 俺は反応のないスマートフォンを耳から引きはがし、画面を見つめた。何だ、と言った。何だこれ、と言った。そして、The ship carrying Karamax sankと呟いた。念のためにその文章を更にグーグルの日本語翻訳にかけると「カラマックスを乗せた船が沈没した」と出た。

 俺は目をきつく閉じ、眉間に思い切り皺を寄せた。

 船が沈没した? そんなことがあるか?

 俺はパンに電話をし、その次にアッカに電話をした。だが二人とも出ない。俺はその間にデスクで充電中だったノートPCを開いて立ち上げ、イーアのニュースサイトにアクセスした。何も読めない中で虱潰しにリンクを辿るが、沈没した船も走っている船もどちらの写真も見当たらない。海の写真すらない。あるページで、マイクを握って歌っている女の横顔がアム・リアだと分かっただけで、他には何も分からない。俺は次にテレビを点けてチャンネルを切り替えたが、それらしい物騒なニュースは見当たらない。

 何が起こったのか分からない。本当に起こったのかどうかも分からない。グーグル翻訳の精度ではジエンのメッセージの翻訳が正確かどうかすら分からないのだ。

 何も分からないが、俺は報告するべきだった。俺は清田の携帯電話番号を鳴らした。だが清田も電話に出なかった。当たり前と言えば当たり前だ。今は既に日本時間で日曜日の1時を過ぎていて、出社時間が異様に早い習慣の海老では、大体の役職者は明日に備えてとっくに眠っている。それに結局今話したところで情報が少なすぎるし他に稼働している人間も一人もいないので、実際にはほとんど何の役にも立たない。

 俺は清田宛のメッセージを書き始めた。イーア船籍のカラマックスが沈没したという一報が社員から私宛にありました。しかし詳しい情報が分かっておらず、状況が不明です。明朝急ぎ確認してまたご連絡します、と書いて送信した。

 ふっ、と吐息のような笑いが漏れた。何だこれ? 俺の心臓は激しいビートを打っていた。とても眠れる気がしない。しかし眠らなくてはならない。今の俺にできることはもうそれしか残っていなかった。


 

 

 朝、俺はアラームが鳴るよりも早く目を覚ました。スマートフォンを取り上げて時刻を見ると、午前5時52分だった。俺はベッドライトを点けて立ち上がり、洗面所でひげを剃って顔を洗い、昨日の夜コンビニで買っておいたパンを食べてスーツに着替えた。今日着るべき服はスーツ以外ない。ジエンのメッセージが俺の理解通りなら、俺は今日おそらくまた王宮に行くことになるだろう。

 ホテルの外に出ると、あたりが妙に静かだった。人気が無いのだ。誰も歩いていないし、車の音も聞こえない。イーアに来てからこれほど朝早く起きるのは初めてだったので知らなかったが、この街が動き出すのはもう少し後からなのだろう。俺は地下鉄の駅まで歩いていき、ホームへの階段を下りて行った。

 改札を通ってホームの椅子に座り込むと、俺はスマートフォンをチェックして、ジエンに改めてメッセージを送ることにした。早朝だが仕方ない。まだ昨日から返信も折り返しの電話も無いのだ。昨日の物騒な知らせはどういうことか知りたいので急ぎ連絡が欲しい、と俺はメッセージを書いて送信した。だが、送信できない。画面の左上を見ると圏外表示になっていた。俺は誰もいない地下鉄のホームを見回した。確かこの駅はもともと電波が飛んでいたはずだ。WiFiを探したが、それも見つからない。

 俺は鼻でため息をついた。仕方が無いので、俺は海香に宛てたメッセージの下書きを書き始めた。正直なところ、そわそわして海香のことを思いやれるような文章がうまく書けるような気持ちではなかったが、内容は何でもいいので、一人でいる彼女を孤独にさせない言葉を伝えたかった。俺は昨日海を見に行った。物凄く久しぶりに車を運転して、一人で海を見に行ったが、ずいぶんリラックスできた。やはり美しいものはいい。次は君と一緒に見たい……

 そこまで書いて俺は気が付いた。

 いつまで経っても電車が来ない。

 俺はスマートフォンの時間表示を見たが、ホームに着いてから15分は経っている。時刻表を検索したかったが、ネットに繋がっていない。俺は周囲の壁を見回したが、時刻表は貼られていない。まだ始発が動いていないのだろうか。いや、確かそんなことはなかったと思う。時刻は6時45分は過ぎていて、幾ら国民たちが朝に弱くても、電車もバスも普通に動く時間だったはずだ。俺は天井の方に顔を上げて、やっと気が付いた。電光掲示板の表示が完全に消えている。表示されていた時もイーア語で俺にはどのみち読めなかったが、昨日までは次にやって来る電車の予定を示していたはずの表示が消え、真っ暗になっている。

 たぶん、電車は止まっているのだ。

 一応更に5分待って、仕方が無いので俺はホームを出ることにした。ここから海老オフィスまでは駅3つ分しか離れていない。タクシーでもバスでもいいし、歩きでも遠すぎる距離ではない。乗車駅下車になるので、俺は改札脇の駅員ボックスで駅員を呼んだ。俺にイーア語で事情を説明する能力などなかったが、駅員なのだから状況を見れば何が起きたか分かるだろう。

 だが駅員が出てこない。窓口はカーテンと白い蓋でふさがれていて、ガラスの壁に向かって俺は何度も呼び掛けたが、反応がない。

 駅自体が休止しているのだ。だったら初めから入り口にシャッターでも下ろしておいてくれ、と俺は思った。仕方が無いので、ブザーを鳴らして閉じる改札を俺は無視して乗り越えてホーム外に出た。階段を登りながら俺は思った。これはひょっとして、明後日の30年式典の前夜祭か何かが既に始まっているのだろうか。その準備か何かのために街全体が止まっているのではないだろうか。

 外に出ると相変わらず人の姿がどこにもない。人もいないし車も走っていない。延々と道の両脇を埋め尽くす違法駐輪の原付を透明な青空の光が照らしているだけだ。俺は、変だ、と思った。どう考えても変だ。仮に祭りが既に始まっていて、それの準備か何かのために国中が動員されているとして、ただの一人も家の外に出てこないなんてことがあるか? テレビで玉音放送かアポロの月面着陸でも始まらない限り、そんなことがあるとは考えにくい。

 俺はポケットからスマートフォンを取り出して通信状況を確認した。外にいるにも関わらずまだ圏外のままだった。再起動し、SIMカードを抜き差ししたところで変化はなかった。

 とにかく会社に行こうと俺は思った。ジエンに話を聞かなければ何も始まらない。タクシーもバスも走っている気配が全くなかったので、俺は駅の脇にあるレンタルサイクルスタンドで自転車を借りることにした。無人のスタンドで、電車乗車に使う電子マネーをスポットにかざせば一回10ギンで借りられる。

 前かごにカバンを入れ、スーツ姿で自転車をこいだ。油が足りていないようで、ペダルを踏みしめるたびにきいきいとか細い音が鳴る。その音しか聞こえない。

 どこまで行っても誰もいない。俺は車道を走った。埃っぽい、くすんだ灰と茶色の建物が立ち並ぶ幹線道路をあたりをきょろきょろ見回しながら走った。昨日まで、昼夜を問わず怒涛の如くこの道を駆け抜けていたぼろぼろの車たちが一台もない。建物の壁をめちゃくちゃに埋め尽くすターポリンのポスターや看板と、イーア王の巨大な肖像画だけが変わらない。俺は最初の交差点の赤信号では停車して誰もいない周囲を見回したが、2つ目からはほぼ無視して通り抜けた。

 俺は何か歌を歌おうと思った。何でもいいから何か歌おうと思った。だが一曲も頭に浮かんでこなかった。

 やがて繁華街を通り抜け、海老オフィスの最寄り駅のさびれた風景が近づいてきた。駅前にコンビニと板金屋がある以外はほとんど何もない、荒涼とした光景だ。そこも当然のように誰もいない。もともと大して繁盛していなかった場所だが、俺の心臓のビートはどんどん激しくなってきた。次の道の角を曲がると、もうそこからは、だだっ広い空き地にぽつんと立つ海老の倉庫オフィスの姿が見える。

 果たしてその通りに、海老のオフィスは昨日俺がマスタングをガレージに入れた時と同じ様子でそこに立っていた。だがそれだけだった。

 他に何もない。昨日まで周囲を埋め尽くしていた大群衆の姿は影も形もない。音楽もない、野球もない、警備の警官もいない。荒れ地に残された鉄組のステージと、あたりに散らばる大量のごみだけが熱風に吹かれている。まるで昔映像で見たウッドストック・フェスティバルが終わった後の光景のようだ。

 俺はオフィスの前に自転車を停めた。足が少し震えている。誰もいないオフィスに足を踏み入れた。速足で席まで歩いていき、ノートPCを立ち上げる。

 俺は舌打ちした。Wifiが飛んでいない。

 俺は肩で呼吸した。何度も深呼吸して、巨大な窓から光が差し込む誰もいないオフィスを見回した。何もできない、と俺は思った。

 何もできない。カラマックスを乗せた船がどうなったのか分からない。ネットも電話も繋がらない。俺の疑問に答えてくれるものはどこにもいない。今俺にできることは何もない。

 いや、と俺は思った。そして立ち上がった。

 やることが一つだけある。

 俺はオフィスの隅まで歩いていき、屈みこんだ。そして眠っていたルンバのスイッチを入れた。広大なフロアに向かってルンバがやかましく前進し始めた。

 俺はアッカの机の上にあった煙草を一本拝借して火を点けた。自分の席に腰掛け、深く煙を吸い込んで、吐き出した。俺はルンバが走り回る様子をじっと眺めて、何かが起こるのを待った。


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