第1話 太陽の国、初日

第1話 太陽の国、初日 ①



 色が少ないな、と俺は思った。それがイーアの第一印象だった。

 空港の連絡通路の窓の外から市街地が見渡せるのだが、基本的にどの建物もくすんだ茶色かくすんだ灰色をしていて、全体として古ぼけた印象を受ける。実際に建物自体が古いのかどうか分からないが、少なくとも頻繁に掃除されている感じはしない。

 一見して、建物の形とスタイルに統一感がない。やたら幅広で背の高い茶色のコンドミニアムのすぐ隣に、ただの巨大なコンクリートブロックを積んだだけという風情の不愛想なアパートが並んでいたり、サイコロの上に更にでかいサイコロを載せたようなビルや、横っ腹の一部を削り取られたドラム缶のようなビル、空手家が叩き割る瓦を重ねたようなビルが思い思いの方向を向いて立っている。全体的に凸凹としていて、子供がレゴで作った都市をそのまま巨大化したような感じがした。灰色や茶色の単色が中心なうえに、大体どれもガラスの面積が少ないから、余計にくすんだ印象を受ける。ざわめきの様な、せわしなく人々が動き続けている気配が遠くからでも伝わってくる。

 そういう光景を横目に見ながら歩いていると、すぐに入国管理のカウンターに辿り着いた。並んでいるのは大半はイーア人だろう。それに中華系がどれくらい混ざっているのか俺には分からない。それ以外は全員東南アジア系だった。コーカソイドやネグロイドは一人もいない。モンゴロイドしかいない。

 だが、俺は自分が目立っていることに自分でも気が付いた。ただの冴えない日本人だが、着ている服や佇まいが周りと全く違う。俺はセレクトショップで買ったドット柄のシャツと7分丈の綿パンツとレザースニーカーという、何のオリジナリティもない格好をしていたが、周りにはそんな服を着ている人間は一人もいなかった。何人かが俺の方をちらちらと見てくる。

 ほとんど全員がTシャツか、そうでなければTシャツの上にジャージジャケットを着ている。下もジャージか、そうでなければジーンズだった。俺は首をあまり動かさずに周囲を見て、ジャージがこの国の基本スタイルなら持ってくれば良かったな、と思った。中学高校と体育の授業で恐ろしくダサいグリーンのジャージを着せられて以来、俺はこの種の衣類を憎んで、長年自分のワードローブから除外してしまっていたが、郷に入りては郷に従う、というのが仕事においてはまず肝心なはずだったからだ。俺はスマートフォンの電源を入れ、メモ帳に書き込んだ。

「買い物リスト

 ・ジャージ」

 5分ほど待ってカウンターの順番が回ってくる。パスポートと入国審査のカードを提出し、指紋を取る。普通の入国審査の段取りと変わらない手続きを経て、俺は到着ロビーへ向かった。

 俺の飛行機の到着時刻に合わせて、現地の社員が俺を出迎える約束になっていた。

 日本語を話せる社員だから安心しろ、と出発前に上司は言った。会ったことあるんですか、と訊いたところ、上司は、名前はファン・ドウだ、とだけ言った。そして俺に紙の切れ端を渡した。そこには「@」が頭についた英字の羅列が書かれていた。チャットアプリのIDで、それで連絡を取り合え、ということだった。

 出発前に事前にID登録をしてやり取りしたところ、ファン・ドウの日本語は確かになかなか上手かった。

 はじめまして、才川です。どうぞよろしくお願いします。

〈はじめまして、FanDouです。こちらこそよろしくお願いします。〉

 この度は大変お世話になります。

〈こちらこそお世話になります。才川さんがいらっしゃるのを楽しみにしています。〉

 9月7日にそちらに行きます。わかりました、飛行機が何時くらい着くか分かりますか? そちらの時間で午後4時くらいの予定です—— そういったやり取りに、一般的で人間的な意思疎通の齟齬はなく、俺はある程度安心して出発日を迎えたのだった。今の世の中には翻訳ツールというものがあり、チャットアプリでのテキスト送付に求められる語学力などどうとでも誤魔化せる、という可能性に気が付いたのは羽田空港に向かう直前だった。

 しかしこれもまた、疑いだせばきりのない事だった。生来か職業柄か分からないが、俺は何事に対しても過剰な心配をする傾向がある。ファン・ドウは俺を歓迎し、俺とまともに会話する意志がある。それだけわかっていれば十分ではないだろうか。

 自動ドアをくぐり、到着ロビーで俺はあたりを見回した。Tシャツとジャージを着た十数人の人々が来訪客を待ち構えていて、俺はその顔を一人一人眺めた。

 だがファン・ドウの顔は見当たらなかった。

 俺は眉間にしわを寄せ、スマートフォンの画像フォルダを開き、保存しておいたファン・ドウの写真を確認した。顔を上げてもう一度あたりを見渡したが、習慣的に油分過多の食生活を送っている感じの中年男と同じ顔は、どこにも見当たらなかった。

 代わりに、人垣の端に、細身の人物が胸の前に抱えたボードが目に留まった。

 そのボードにはこう書かれていた。

【歓迎 才川さん ようこそイーアへ】

 俺の名前だった。そして、完璧な日本語だった。俺よりずっと字が上手い。

 それを持っていたのは少女だった。

 いや、少年かもしれない。浅く焼けた肌と頬の印象は少女だったが、体格は何かスポーツで鍛えているようでしっかりしている。背が低いが、細面で髭も生えていない高校生くらいの少年に見えなくもない。その彼か彼女は、ニューヨーク・ヤンキースのベースボールキャップをかぶり、メタリカのロゴが描かれたTシャツを着て、きょろきょろとあたりを見回していた。

 ほどなくして俺たちの視線はぶつかり合った。俺は眉間にしわを寄せたままだったが、対する彼か彼女の長い睫毛に覆われた眼は真っすぐで、大いに見開かれていた。

「才川さんですか?」

 その人物が俺に向かって大きな声でそう言った。発音は、どこにも訛っていない完璧な日本語で、女の声だった。

 俺は反射的に頷いた。そしてやむを得ず彼女に向って近付いた。

「はじめまして、才川さん。私はジエンです。迎えに来ました」

 俺は、はじめまして、と答えた。

「遠くからお疲れ様でした。バッグを一つ貸してください。私が運びます」

 俺は首をかしげて、いや、と言った。

「申し訳ない、その前にちょっと聞きたいんですが」

「はい、なんですか」

「私が聞きそびれていたのなら申し訳ない。私を迎えに来るのはファン・ドウさんだと思っていたんですが」

「はい、それは事情が変わってしまったんです。彼の代わりに、だから私が来ました」

 俺は更に首を傾げた。

「ジエンさんはとても若そうだが、彼の娘さんですか?」

「いえ、私はファン・ドウの家族ではありません。私は社員です」

 ジエンはそう言って、ポケットから取り出した名刺を俺に渡した。

 全てイーア語で書いてあるので、まったく読めない。だが、紙の左上の方に、見慣れたロゴマークが印刷されている。

 俺が勤める株式会社海老(かいろう)のロゴマークだ。

「なるほど」と俺は言った、「一応、ファン・ドウさんに連絡を取らせてもらっていいですか。確認させてもらいたい」

「ああそうか、そうなりますよね。でもそれはちょっと無理なんです」

「どうして?」

「あの人、死んじゃったんです、昨日。だからもういないんです」




 俺はジエンの案内に従って彼女とともにタクシーに乗った。結局そうする以外に取る術がなかったからだ。

 タクシーに乗り込む前に、まず俺は、空港の無線LANを使って、チャットアプリでファン・ドウの生死を確認しようとした。しかしメッセージは一向に読まれることはなく、通話も繋がらなかった。日本にいる上司にも同じ手段で連絡を取ろうとしたが、こちらも繋がらない。俺は舌打ちをこらえて、代わりに親指の関節を軽く噛んだ。とりあえずホテルに行きましょう、とジエンは十五分間指を噛んだまま椅子に座って上司からの返答を待つ俺に言った、「ファン・ドウが才川さんにお伝えしていたホテルは私も知っています。もともと私が予約したんですから」。

 そして俺はそれに同意したのだった。タクシーの後部座席で俺は首を横に振った。

「しかし、死んだというのは、あまりにも唐突すぎるし酷すぎる。ファン・ドウさんはどうして亡くなってしまったんですか?」

「交通事故です。残念ながらそれは珍しくありません。イーアでは交通事故が社会問題になっています。イーアの人口は2000万人ですが、そのうち毎年2万人が交通事故で死にます」

「それはお気の毒に」

 大丈夫です才川さん、とジエンは俺に言った。「私が必ずきちんと才川さんをお世話します。きっとファン・ドウより上手くやります。まずホテルにご案内します。そしてその後会社に行く前に、イーアで使えるSIMカードを用意しましょう」

「それはありがたいですね」

「才川さん、イーアは暑いでしょう。喉は乾いていませんか? この国はフルーツが特産だから、安くて旨いジュースがどこでも売っています。熱中症で倒れる観光客が多いので、才川さんも気を付けてくださいね」

「とりあえず今は大丈夫です。日本も最近は物凄く暑いから」と俺は言った、「ジエンさんは物凄く日本語が上手いですね」

「そうですね、めちゃくちゃ勉強しましたから」

「何故?」

「漫画が読みたかったんですよ。アキラ、火の鳥、風の谷のナウシカ。イーア語に翻訳されている漫画はほとんど無いんです。でもどうしても読みたかったので、毎日死ぬほど勉強しました。その甲斐あって、今は自分で日本の漫画の翻訳をして、友達に読ませたりできるようになりました。正直なところ私はそれで小遣いを稼いでいます」

 それは凄い、と俺は言いながら、頭の中では別のことを考えていた。ファン・ドウが死んだ? 確かに言われてみれば、出発の直前に俺が送ったメッセージには今に至るまでずっと返信が無い。代わりに来た社員? どう見ても未成年だが、イーアでは雇用ルールが日本と異なるのだろうか? 彼女が俺をだまそうとしている可能性はどれくらいあるのだろうか。彼女がタクシーの運転手にスマートフォンのマップを指さしながら指示したのを見たから、今向かっているのが俺が泊まるホテルなのは間違いない。だが、ホテルに着いた後の行動を決めるのは、上司に彼女の身元を確認させてからにするべきだろう。

 気が付くと、タクシーは恐ろしいスピードで街を走っていた。灰色で若干埃っぽく、人や看板や建物やそのほかの情報でぎゅうぎゅう詰めになった景色が、漠然とした印象だけ残しながらとんでもない勢いで後方に飛び退っていく。運転席のメーターをのぞき込むと、130キロを超えている。隣や前後を並走する乗用車も大体同じような速度だが、たまに普通のスピードで走っている車もあって、そういう車両に出くわすたびにどんどん車線変更して追い抜いていく。スクーターの数がやたら多く、タクシーはそれを踏みつぶしそうになりながらすれすれを掻い潜る。クラクションがひっきりなしに鳴らされる。この道を走っているドライバーたちは全員、産気づいた妻が待つ病院に大急ぎで向かっているに違いないと俺は思った。

 通り過ぎた交差点で、一台のスクーターが横転し、あたりに破片が散らばっているのが一瞬見えたとき、電話の着信音が鳴った。

 ジエンのスマートフォンだった。

「もしもし、ジエンです。はい、先ほどお電話しました」

 電話に出たジエンが話しているのは日本語だった。被った野球帽の鍔を指先でこすりながら、彼女は俺の方を見た。

「いえ、もうお会いしました。今は一緒にタクシーに乗っています。ホテルに向かうところです。はい。お電話代わります」

 ジエンは俺にスマートフォンを差し出した。

「清田さんです」

 俺の上司の名だった。俺はスマートフォンを受け取り、もしもし、と言った。何故俺でなくジエンに電話したのかを考える暇もなかった。

「電話代わりました。才川です。清田さんですか?」

〈お前に電話したんだけど繋がらなくてよ〉と清田は言った。〈携帯の電源入ってんのか?〉

 失礼しました、と俺は言った。まだこっちで使えるSIMカードを用意できていない、と説明したところで、会話が5分伸びた上にその内容は10パーセントも理解されないだけだ。課長は海外旅行もしたことが無い。

〈聞いたよ。ファン・ドウさんが亡くなったって?〉

「私もついさっき聞きました。だからそれが本当かどうかも、それ以外のことも何も分かりません」

〈本当だ。さっき日本にも連絡があった。代わりのお前の世話役は、ジエンがやる〉

「彼女は本当にうちの社員なんですね」

〈ああ。『歳は若いが心配は要らない』、以前採用する時に、そうファン・ドウさんが言っていた〉

 ジエンが俺の方を見ていた。しかしそれにしても若すぎる、と俺は頭の中で呟いた。戦国時代の武将に奉公する小姓のようだ。

「つまり私の仕事と予定は何も変わらない、ということですね?」

〈そう。『海老(かいろう)お客様相談室 イーア支店』だ〉

 俺が相槌を打とうとした瞬間に思い切り体が横に振られた。ドアに体が押し付けられ、舌を噛みそうになる。タクシーの運転手がいきなりハンドルを切り、急に車線変更をしたからだ。運転手はクラクションを思い切り鳴らして、何事か罵声を上げた。それに対してジエンが身を乗り出し、怒りの籠った抗議をした。二人とも何を言っているのか全く分からないが、何を言いたいのかは大体分かった。

「私が交通事故で死んだら労災とか保険とかってどうなるんでしたっけ?」

〈いきなりどうした?〉

「こっちはすべての車が日本の倍のスピードで走っているんです」

〈そうか。しかし満員電車よりましだろ?〉

「そうかも知れないですけど、満員電車は不快であっても乗っているだけで死ぬことは滅多にないですから」

〈仮にお前がケガしても死んでも海外用の保険は下りる。心配するな。しかし、いきなり暗いことを考えるのは止そう。初の海外駐在を楽しめ〉

「そうします」と俺は言った。こっちの会社に出社したらまた電話します、と続けて、俺は通話を切った。

 スマートフォンをジエンに返すと、彼女はまじまじと俺の顔を見つめていた。

「才川さん、清田さんのことが苦手なんですね」

「上司が得意な人間はそんなにいないんです。特に日本人の場合」

「わかります。私も実はファン・ドウのことは苦手でした。嫌いじゃないんですけど面倒くさかった。世界観が狭すぎるんです」

 どの国も似たようなものだね、と言おうと思った時、俺の体は既に思い切り弾かれてドアとの間でジエンを挟み込んでいた。

 ジエンが呻き声を上げていて、運転手が意味不明な言葉を絶叫したが、自分のわっとかあっとかいう声でほぼかき消された。直前に何かが大きく砕ける音が聞こえたが、その正体がわかる前に衝撃で俺はほとんどひっくり返っていて、ジエンの足の間に頭を突っ込んでいた。ゴムが焼き切れる音が聞こえ、強い遠心力が働いて、俺の体は全く動かない。運転手がクラクションを鳴らしっぱなしにして、ジエンがふざけんな、と日本語で吠え、逆さになった俺はタクシーの汚い床を見上げながら、何だ、と叫んだ。

 タクシーが静止した。タイヤの焦げた臭いがすぐ傍から立ち上ってくる。俺とジエンは同じような溜息と呻き声の中間の空気を喉からゆっくりと吐き出した。

 大丈夫ですか才川さん、とジエンが上から尋ねてくる。大丈夫ですか才川さん。ジエンは、俺が何度も瞬きをしてタクシーの天井と前座席の背もたれを交互に見て、それぞれの汚い灰色と汚い茶色を確認している間、何度もそう言った。

 俺は空を掴んでもがきながら体を起こし、何だ、ともう一度言った。

 いったい何が起きた?

「事故です」とジエンは言い、ドアを開けて外に顔を出した。「後ろに横からぶつかってきやがった」

「君は大丈夫か」と俺は訊いた。

 頭打ちましたけど多分大丈夫、とジエンは言って、野球帽をかぶりなおし、車を降りた。そして後方に向かって大きく両手を振って、イーア語で何か叫んだ。事故だ、こっちに来るな、そう言っているに違いなかった。ジエンは手を振りながらタクシーの運転手に顔を向けて、激しい口調で何か言った。

 俺も車を降りた。熱風が俺の全身を包み込みながら駆け抜けた。町のど真ん中だ。とてつもない数の看板を掲げてぎゅうぎゅう詰めに並んだ灰色のビルたちが、岸壁のように聳え立っている。油と何かよく分からないものが混じった臭いがする。傍らで、俺たちのタクシーに横から追突したホンダ・シビックが停車している。車の左目が砕けていて、運転席の中年女性はハンドルを握りしめたまま無表情で動かない。俺はジエンと並んで魚群のように突っ込んでくる車たちに向かって両手を大きく振った。だが左肩の痺れのような痛みに気づいて、すぐに右手だけで手を振った。首も痛む。だがそれ以外は、吹っ飛んだ時にジエンをクッションにしてしまったおかげか、体に異常は感じられない。

「才川さん、歩道の方に立ってください。危ないかもしれない。私は運転手と話します。タクシーとぶつかってきた方と両方。警察を呼んで片づけます」

 俺は頷いた。ジエンはぶつかってきた車の方に近づいて、窓ガラスをノックした。彼が二言三言話すとドアが開き、中年女性が下りてきた。太り気味で、幾つかの染色が混ざった後で退色した髪は、何色かよく分からない。彼女もジャージ姿だった。アディダスの黒のジャージの上下だ。

 ジエンは振り返って、タクシー運転手を手招きした。運転手は車を降りるや大股で足早に歩み寄ってきた。肩がいかっている。そして顔はもっと怒っていた。何か大声で怒鳴りながらジエンと中年女性の間に突っ込んできた。

 そして3人は凄まじい速度で話し始めた。運転手が中年女性に顔を近づけて唾がかかるような勢いで何かをまくしたて、ジエンはそれを制するように二人の間に肩を入れて、二つの顔を交互に見つめながら話し、中年女性は顔を動かさずに静かに素早く口を動かしていた。その目は恐ろしく冷たく、表情がないままだった。

 いきなりなんだこれは?

 太陽の光が強すぎて痛い。俺は眉間に深いしわを寄せ、俺は幹線道路脇の歩道に突っ立って、あたりを見回した。薄い青色のぼんやりした空の下で、車と原付の群れがクラクションを鳴らしながら、ごうごうと俺たちのすぐ脇を通り抜けていく。四方八方看板だらけの雑居ビルがぎゅうぎゅうになって立ち並んでいるが、一文字も読めないのでどれが何の店なのか全く分からない。俺が立つ道の向かい側正面の、6階建てくらいの円筒形のビルだけが、造形が異質だった。その壁の全面は最近発売されたばかりのゲームの巨大な広告ポスターで覆われていた。アメリカ西部劇の時代のサバイバルをリアルに再現したゲームだ。主人公が銃口をこちらに向けたイラストで、俺は今までこんなにでかいポスターを見たことがなかった。日本なら、ビルの壁面を覆い過ぎているので屋外広告物条例違反で設置不可能だろう。俺はそのポスターをじっと見つめていたが、巨大な男に黙って銃口を突き付けられているのが居心地悪くなり、言い争っている3人に近づいた。3人それぞれの表情を見て、それぞれの口の動きを見つめた。何を言っているのか分からないが、大いに揉めているということだけはよく分かった。ここで話し合うよりとりあえず早く警察を呼んだ方がいいのではないか、と俺は思った。

 ジエンが俺の方に振り向いた。彼女は、才川さん、ちょっといいですか、と言った。言葉の選び方といい発声の仕方といい、やはり完璧な日本語だった。俺は頷いた。

「申し訳ないんですけど、少し長引きそうです。運転手は、どちらも自分は悪くないと言っています。今から警察を呼びますが、そうするともちろんもっと長引きます。私の証言が必要になるでしょう。なので才川さんは、お一人でホテルに行っていただいて、チェックインして待っていただけませんか。ホテルはもう、このすぐ近くです」

「そういうわけにいかないだろう。私もここで待つよ」と俺は言った。

「いや、ホテルに行ってくれた方がありがたいです。チェックインが遅れるとその後の段取りも遅れますから。大丈夫です。ここは私に任せてください」

 ジエンはそう言って、ジャージのズボンの後ろポケットからスマートフォンを取り出して、押し付けるように俺に渡した。マップ画面が開いていて、GPSによる現在位置と、俺の宿泊するホテルがマークされている。

「私のスマートフォンを持って行ってください。サブ機です。パスナンバーは1945。日本語入力対応しています。とりあえずこれで連絡取りあいましょう」

 分かった、と俺は言った。確かに、俺がここでできることは多分特にないし、この間にチェックインした方が効率がいい。

 ジエンはタクシーの運転席まで歩いて行って、窓から手を突っ込んでボタンを押し、後部のトランクボックスを開いた。巨大なキャリーケース二つを引っ張り出しながら、「これは結構日常的な光景?」と俺はジエンに訊いた。

「そうですね、でもまだ暑くなります。今日は涼しい方です」

 ジエンは野球帽を脱いで額を手の甲で拭いながらそう言った。




 ジエンが言ったとおり、そしてスマートフォンのマップが示した通り、ホテルは事故現場から500メートルも離れていない場所にあった。しかし俺はたったそれだけの距離をバッグを引きずりながら歩いただけで、すでに全身汗だくになっていた。

 道は一応すべて舗装されているのだが、ところどころ石やアスファルトがめくれあがっていたり、並木の根が大きく地表に張り出してきていたり、何よりも原付バイクの路上駐車の数が物凄くて、荷物の多い俺は基本的にまっすぐ歩けない。

 空気はある程度乾燥しているので、日陰に入れば多少涼しくなるが、その分日光に直射されると直ちに、軽く刺されるような痛みを伴う暑さに全身を覆われる。俺は飛行機を降りる前に全身に日焼け止めを塗っていたが、あまり役に立っている感じがしない。俺は脳内で買い物リストに書き足した。


 ・帽子

 

 6階建ての比較的こじんまりしたホテルのカウンターで、受付の女に適当な英語で話しかけてチェックインすると、女は、すでに料金は支払われています、と英語で言って俺にカードキーを手渡した。イーア語の合成音声に案内されてエレベーターに乗り、荷物を引きずってカードキーでドアを開けると、ポケモンのイラストが壁中に描かれた8畳くらいの部屋が俺を出迎えた。ベッドの両脇にはピカチュウとイーブイのぬいぐるみが座っていて、俺は荷物を離した両手をぶらぶらと振ってベッドに腰掛け、ピカチュウの頭に手を置いた。深く息をつく。

 俺は、ジエンに借りた方ではなく、自分の日本SIMのスマートフォンを部屋のwifiに繋いでメッセージを書き始めた。


 「とりあえずホテルに着いた。外は暑いけど部屋の中は冷房がめちゃくちゃに効いている。カーディガンを引っ張り出したいくらいだ。どうもこの国ではいろんなことが極端から極端に行ったり来たりするらしい。まだ入国してから2時間も経っていないし、会社にも辿り着いてなくて、仕事も生活も何一つ始まってないけどそういう直感がする。1行目からいきなり作者の文体が刻印されている小説を読んだり、1小節目から他の誰とも似ていない走り方をする音楽を聴くようにそう思う。

 そう、まだ会社に着いてない。事情があって、俺は今ピカチュウのぬいぐるみの頭を撫でながら現地のコーディネーターを待っている。彼女は10代だ。正確な年齢をまだ聞き損ねているが、多分18歳くらいで、きっと20歳にはなっていない。それなのに既に海老で思い切り働いているらしいんだ。18歳の時俺達は何をしていた? とりあえず俺達はまだ出会ってない。お互いに働いてもいない。俺は勉強する振りをして映画ばかり見ていた。でも何を観たのかほとんど思い出せない。『インディ・ジョーンズ:最後の聖戦』に、主人公の友人役で出てきたのと同じ役者が、こう言うんだ、『おしまいというのは愛しているのに別れることだ』って。いい台詞だった。でもそれしか覚えてない。映画の内容もタイトルも全然思い出せない。

 そちらの体調は大丈夫ですか。俺は元気です。何故かよく分からないけど、直感的に何とかやれそうな気がしている。

 また連絡します」

 

 いつものことだが、俺のメッセージは長すぎる気がした。そしてほとんど意味がない。もう少し簡潔にして、書くべきことだけ書いた方がいいはずだった。それでいて、最初のコーディネーターが昨日死んでいたということや、空港を出てから30分もしないうちに交通事故に遭った、という重要な事実は書こうとしない。もちろんそういう、海香に負荷をかけるだけでそれ以外に何の意味もないことは書くべきでないから、仕方がないといえば仕方がない。

 結局ほとんど文章を修正せずにそのままメッセージを送信すると、俺はスマートフォンのマップを開いて現在位置を改めて確認した。

 自分はこの国のことをほとんど何も知らないが、代わりにグーグルが既に知っている、という事実は、これから俺の幾ばくかの助けとなるだろう。ただ、翻訳言語だけはまともに対応していない。今年のソフトウェア・アップデートでイーア語にも対応したが、精度が低すぎてまだほとんど使いものにならないらしい。特に日本語からイーア語への直接変換は全く成立していない、とファン・ドウが日本を発つ前の俺に教えた。

〈才川さん、でもだからと言ってイーア語をこちらに来て勉強しようと思わなくてもいいですよ。私が日本語をきちんと話せますから。それに、もし才川さんがイーア語を学ぼうと思っても、半年という短い任期では習得はほとんど不可能でしょう。イーア語の文法は難しくて、格の変化や活用の種類が桁外れに多いんです〉

 俺にそう言ったファン・ドウはもういない。交通事故で死んだというのはあまりにも唐突過ぎてにわかに信じがたかったが、ついさっき自分が似たような事態に巻き込まれたことを思えば、有り得る現実として考えるしかなかった。

 俺はファン・ドウの葬式に行くべきではないだろうか、とふと思った。一度も直接会うことはなかったが、何度もメッセージをやり取りした、俺にとって最初のイーア人だ。ましてや俺たちは同じ会社の社員で、俺はこの国にいる唯一の本国社員なのだから、一言お悔やみを申し上げに行くのが筋ではないだろうか。亡くなったのが昨日なのだとしたら、まだ式は終わっていないかもしれない。ファン・ドウの行き先が冥府か天国かそれ以外の場所か分からないが、死者を悼む異国の者が拒まれるかどうか、まずジエンに確認するのがいいだろう。

 腰掛けたベッドに置きっぱなしの、ジエンに借りたスマートフォンが震え、ディスプレイにジエンからのメッセージバッジが現れた。ジエンにファン・ドウの葬式がどこで行われているか聞こう、と考えながら俺はメッセージを開いた。

〈こちらはまだ解決していません。おばさんが物凄く無口で、やり取りにめちゃくちゃ時間が掛かっています。そろそろタクシー運転手に任せて去るべきですが、今私がいなくなると第三者の証言をできる者がなくなります。

 才川さん、お願いがあります。申し訳ありませんが、今から次の住所の場所に一人で向かってください。仕事が発生したのです〉

 ジエンのメッセージの最後には、5桁の数字と、文字化けのようなイーア語の羅列があった。

 俺はとりあえず返信した。

〈仕事とは何ですか?〉

 しばらくの沈黙の後、ジエンのメッセージがポップアップした。

〈もちろん、お客様からの問い合わせです。私では答えられません。現地で合流させてください。なるべく早くここを脱出して向かいます〉

 グーグルMAPを開いてジエンが送ってきた住所をコピーペーストすると、町の一角に赤いピンが立った。このホテルからの距離は約10キロといったところだ。俺は腰かけていたベッドから立ち上がり、小さな窓の向こうの、色が揮発したような白っぽい空を見上げ、原付バイクと乗用車が濁流のように流れている道を見下ろした。

〈場所は分かりました。どう行くのがいいですか? 電車か、バスか?〉

 俺がそうメッセージを送ると、ジエンから即座に〈地下鉄で〉と返事があった。〈タクシーが一番早いですが、イーア人には日本語はもちろん、英語もほとんど通じません〉

 分かった、調べて向かう、と俺は返信して、葬式どころじゃないわけだ、と思った。そしてバックパックを開いて荷物を整理した。ノートパソコンやその他の仕事道具、財布、パスポート以外の必要ないものをベッドの上に投げ出し、ハンドタオルとお茶が入ったペットボトルを代わりに突っ込んだ。バックパックを背負って、カードキーを壁のホルダーから抜いて部屋を出る前に振返ると、ベッドの端でピカチュウが俺の方を見てにっこりと笑っていた。

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