案6:ヴィーナス・ライン

 夏休みが明けて最初の一週間は部活動がない。宿題を提出して、思い出話をして、久しぶりの学校での交友を探り合う。教師陣はそれらを受け止めるだけで手一杯になり、部活の顧問の兼任も多いので、一律で活動なしと定めている。


 僕には関係ない気がして部室へ向かった。黒部先輩ならきっと、そんなのを無視して待ち構えている。出会いが四月で今は九月だ。すでに五ヶ月も辛苦を共にしていた。その多くは先輩の無茶振りだが、今にして思えば、少しの頑張りで乗り越えられる程度が続いていた。黒部先輩はああ見えて相手のためを思ってくれている。僕にはそう見える。


 瑞穂くんに声をかけて部室へ向かう。上り階段がこれまでより賑やかになった。地学準備室、地学室を通りすぎて、その次の教室に手をかけた。何かが引っかかった。いや、鍵だ。


「来てないのかな」

「長命がいないとは、いや、違った」


 もっと奥から椅子を動かす音が一斉に聞こえた。三年が帰りのホームルームを終えたところだ。思い出すと昇降口で別の学年と衝突する機会はなかった。このおかげだ。


「待ってようか」

「だな」

 

 瑞穂くんと共にその場に立った。黒部先輩ならきっと気づく。そうでなくても、瑞穂くんの巨体と髪型はよく目立つ。誰かがポンパドールの話をしたら必ず気づく。


 目の前をぞろぞろと通り過ぎていく。先頭を行く元気な男子は体育の授業の直後のような臭いで、どう見ても僕が苦手とするタイプだが、隣のツッパリにはたじろいだ様子で、やや距離を取って進む。目の前の一人が廊下の左側を進むので、真後ろに並べば通り道を開けられる。と理屈を捏ねてツッパリから距離をとる。


 教室から出る勢いが収まったが黒部先輩はいない。まだ喋り声が聞こえる。話を訊きに行った。先輩の交友を詳しくは知らないが、普段の様子なら男女よりも趣味か用事あたりの狭い関わりを優先しそうだ。


 扉へ近づくと男子の騒ぎ声が聞こえた。言葉に「黒部」と聞こえたが、本人に向けた様子ではない。雰囲気からどことなく、隠れて聞くほうがよさそうに思えた。


「これ、黒部のだよな?」

「峰崎じゃないか? この席だし」


 何の話か聞き耳を立てる。外見では特定できず、ある程度の絞り込みができる品を見つけた様子とまでわかった。もしくはお揃いの品を持つのが二人だけの場合か。


「犬飼、頼む」

「おうよ。これは、黒部だな。同じ匂いがする」

「っしゃあ!」


 不穏な流れを察知し、瑞穂くんが飛び込んだ。僕が引き止めるには間に合わず、先輩方四人の前に躍り出た。


「黒部長命の、何だ?」


 凄みを効かせた声は年齢差を覆す。扉に近い都合もあり、四人がかりでの喧嘩には持ち込めない。しかも彼らの顔は僕と大差ない貧弱ぶりだった。瑞穂くんがやられる心配よりも、やりすぎる方を心配する。


「誰だよあんた」

「黒部長命の、何を見つけた? と言ったが」


 順々に手を見た。机について体重を支えたり、お菓子の袋を持っていたり、明らかに開いていて何も持っていないなどで、何かを持てるのは一人だけになる。彼の手には遠目では見えない細い物があった。これまでの話と合わせると、あれは髪だ。


 瑞穂くんも彼の手を掴む。指の間にある一筋の黒を見る。持ち主の顔が曇る。


「そういうことか」

「落ちてたんだよ。あんたも知ってるだろ。黒部長命さんの魅力をさ。あの長い髪が腰から尻のラインに流れる所を見たらもうイチコロだぜ。俺らは黒部さんに魅せられた黒部ファンクラブなの」


 早口で喚き散らす。捲し立てるのとは違って、自分が言いたい内容に終始しており、相手への影響を度外視している。口論としても無意味な、典型的な負け言葉だ。


「そうか、そうか。よくわかった。いいことを教えてやろう。これは自分の髪だ」


 瑞穂くんはポンパドールを指した。固めているので目立たないが、解けば同等の長さを持つ部分も多い。


「いや待てよ、黒部さんのシャンプーの匂いがしたぞ」

「だろうな。自分も長命が買ってきたものを使っている」

「あんたこそ、黒部さんの何なんだよ」

「弟だ」


 瑞穂くん、隠してなかったのか。だけどこの状況は長続きさせたくない。巡り巡って黒部先輩の不利益になりそうな気がする。僕には本来の目的がある。先輩の居場所を教わる。


「え、弟さん?」

「黒部先輩って弟がいるの?」

「けど下級生に黒部って聞いたことないしな」


 けれど僕も負け組仲間だ。この流れに割り込むには勇気が足りない。どう言って話を始める? こんな話題でも中断させるのは心苦しい。


「弟さん、早く行ってやりなよ」

「何だ?」

「聞いてないの? さっきの体育で倒れて早退したって」


 瑞穂くんは血相を変えて僕と目を合わせた。僕は頷く。


「自分ら、行きます。情報ありがとう。けど次そんな悪趣味を見せたら許さん」


 瑞穂くんは僕を俵担ぎにして大急ぎで帰り道を進んだ。巨体の大股で、体力もある。自分で歩くよりずっと速い。


 タクシー券を使わない意思が少しだけ揺らいでしまった。



 先輩の家についた。瑞穂くんの家でもあるので、鍵で入り、ただいまと挨拶する。続いて僕もお邪魔しますと挨拶する。正常そのものなのに、どことなく変なことをした氣分になる。


 先輩はまだ制服だった。テーブルには食べかけの食器があり、急に僕も来た事情を把握したら、座り直して続きを口へ運ぶ。その間に自称黒部ファンクラブとの一件を説明した。長い話でもないが、残りのスープは半分にも満たなかった。食べ終えるほうが早い。


「ファンクラブなんて驚きだ。特に、私が気づかない所でやるあたりね」

「長命、楽観がすぎるぞ。奴らは変態だ」

「かもね。けど私は、ちょっとは評価してるよ。変態的な欲求は時に大いなる技術の結晶を産み出す。ヴェールの質感が出た石の彫刻は、美術館へ行かずともネットで話題があるんじゃあないかな」


 先輩は立ち上がった。食器の片付けと思ったので僕は通り道を開けた。けれど先輩は逆を向いた。上半身を前に出して、頭を上に傾ける。少しずつ具合を探る。長い髪が腰から尻のラインに沿って流れた。


「私もたまには感想を貰う側になりたくなった。こういう所に魅力を感じるそうだね」


 悪戯じみた微笑が僕を突き刺す。ヴィーナスラインが僕を突き刺す。先輩の家なので匂いが僕を突き刺す。よく見ると口元にスープがついている。僕を突き刺す。


 言葉を出せずにいたら、先輩が痺れを切らせた。


「イチコロでもなかったか。他の条件もあるのかな」


 僕を突き刺す。

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