第52話 過去との決別


 ――少し彼女たちと話をさせて――リアムに小声で頼むと、彼は心配そうにこちらを見つめてきた。オリヴィアは『大丈夫よ』としっかり頷いてみせ、なんとか彼に承諾してもらった。


 オリヴィアはマーガレットとアンバーを促し、人気(ひとけ)のない会場の隅に移動した。……ここなら小声で話せば、誰にも聞かれない。


「どういうことなの?」


 オリヴィアが尋ねると、アンバーが嘲笑的な笑みを浮かべる。オリヴィアに対してというより、マーガレットに対する憎しみが抑えられなくなっているようだ。


「私たちが紹介しているバンクス帝国産の化粧品、とても評判がいいのよ。――そもそもイーデンス帝国の女性の大半が、年齢よりもだいぶ上の見た目をしているのは、イーデンスの皇太后殿下が貴族社会に広めたという化粧品に問題があったのではないかしら。遺伝的なことが関係しているとしても、それだけでは説明のつかないことが起きている気がするものね。皆段々とそのことに気づき始めていて、皇太后殿下がこのところ臥せりがちということもあって、イーデンス帝国ではバンクス帝国産の化粧品に注目が集まり始めている」


 質問と答えがズレている気がした。アンバーがマーガレットとふたりでプロデュースした化粧品の宣伝を始めたので、オリヴィアは戸惑ってしまった。


 とはいえオリヴィアは『この話は何か関係あるのだろう』と思ったので、黙って続きを待つことにした。ところがマーガレットは我慢ということができない人だ。


「今、化粧品の話なんてどうだっていいでしょ。鬱陶しい」


 嫌味な言い方であるが、マーガレットはまだ精神的ショックを引きずっているのか、言葉に力がない。――貶されたアンバーはマーガレットを冷ややかに流し見た。


「いらぬ口を挟まないで、最後まで話を聞きなさいよ、愚かなマーガレット」


「なんですって?」


「あなた、マクドウォール公爵と不倫をして、夫人を敵に回したのよ。自分の立場がまだ分かっていないの? 私の言葉を止めている暇があるなら、自分の未来を心配なさいな。いいから黙っていなさい、あなたは他人に構っている場合じゃないのだから」


 アンバーはマーガレットに睨みを利かせてから、オリヴィアのほうに視線を戻した。


「化粧品は私とマーガレットのふたりが表に出て紹介しているけれど、実際のところ、裏で権利を握っている人は別にいるの――それはね、クロエ――あなたの義理のお母様である、ワイズ伯爵夫人よ」


 ……なるほど、そういうことだったのか……今夜何が起きたのか大体の輪郭が掴めてきたオリヴィアに対し、マーガレットにとっては寝耳に水だったらしい。口をポカンと開けているマーガレットを眺め、オリヴィアは『彼女は何も知らされていなかったのだ』と悟った。


 マーガレットは胸に手を当て、あえぐように息をしている。


「私……私、そんなの聞いていない」


「そりゃそうよ、言ったことないもの」


「それならどうして私を仲間に入れたの? 最後に弾き出すつもりなら、最初から仲間にしなければよかったじゃない!」


「ワイズ伯爵夫人はこうおっしゃっていたわ――一番の敵は近くに置いておけ」


 アンバーはとても楽しそうだった。


 聞いていたオリヴィアは『いかにもワイズ伯爵夫人らしい台詞』と考えていた。


 ……こうなってくると、夫人が娘のクラリッサをこのタイミングでこちらに寄越したのは、自分のやり方を見せて学ばせるためだったのではないかと思えてくる。クラリッサは自由意志でイーデンス帝国に来る日程を前倒しにしたと信じているが、そもそもそれをワイズ伯爵夫人が許可したのが不自然だった。


 ここ最近起きていたすべての出来事が、ワイズ伯爵夫人の手のひらの上だったのかも。


「ワイズ伯爵夫人は義理の娘のクロエがイーデンス帝国の公爵家に嫁入りして、社交界にカムバックすると決まってから、計画を練り始めた――クロエがパールバーグ国で庶民として静かに暮らしているなら放っておいたけれど、ふたたび上流社会に戻るのなら、過去の汚名は返上しておく必要がある。夫人は以前から温めていた、バンクス帝国産の化粧品をイーデンス帝国に広める計画を実行に移すことにした――そして同時に、クロエの名誉を挽回することにしたのよ。――過去の悪行がバレないように、バンクス帝国の貴族たちに口止めするというのも検討したみたいだけれど、それは得策ではないと結論を出したみたい。だって『人の口に戸は立てられぬ』と言うものね。どんなに厳重に隠そうとしても、いずれはイーデンス帝国の誰かに嗅ぎつけられるわ。だったら先に不利な情報はオープンにしてしまって、『クロエにまつわる悪い噂はすべて、お芝居をしていただけ』という筋書きにしたほうがいい。そうするには当事者であるマーガレットが、大勢の前でそれを認めるのが一番だった」


 今回の件で一番恥をかいたのはマーガレットだ。意中の男性を射止めるため、友達を悪役令嬢に仕立てて自分をいじめさせ、彼の同情を引いた。芝居はオリヴィア自身の希望でもあったけれど、第三者から見れば『マーガレットは友人を利用した、計算高い女』としか思えないだろう。


 そんな自分の恥をビッセル伯爵の夜会という目立つ場所で明かしたのだから、もう撤回できない。


「アンバー」オリヴィアには気になっていることがあった。「あなたはワイズ伯爵夫人から頼まれて、さっきあんなことをしたの?」


「そうよ。『ビッセル伯爵の夜会で、マーガレットに認めさせる――クロエに悪役令嬢の芝居をさせていたことを』――これがワイズ伯爵夫人から請け負った仕事だった。私は必ずそれをやり遂げると約束して、化粧品を紹介する際の表の顔にしていただいたの。交換条件だったのよ」


「私がこの夜会に来なかったら、どうするつもりだったの?」


 オリヴィアがここにいるのといないのとでは、マーガレットの告白がもたらす効果は大きく違ったはずだ。オリヴィアをここに呼び出したのは、アンバーではなく、マーガレットだった。


「本当は私があなたを呼び出すつもりだった」


 アンバーが肩を竦めてみせる。


「だけどあなたが玉の輿に乗ると聞いて、マーガレットが怒り狂ってね。手紙で呼び出したというから、私は見守ることにしたの――あなたはたぶんここへ来ると思ったから」


「どうして? 私、来るつもりはなかったわ。でも気が変わって……」


「あなたは来るわよ。そういう人だわ」


 アンバーの口調は自信たっぷりだった。……結局、オリヴィアはここへ来たのだから、アンバーの予想通りだったわけだ。意外と他人のほうが、本人よりも色々なことがよく見えているのかもしれない。


「こんなのひどいわ」嵌められたマーガレットの表情は硬い。屈辱からか、彼女の薄い唇は細かく震えていた。「イーデンス帝国までやって来て、これじゃとんだピエロじゃない」


「ちょっと、嘘でしょう? まだ状況が分かっていないのね」アンバーが眉根を寄せる。「あなた、マクドウォール公爵夫人からの脅しが、冗談か何かだと思っている? もうバンクス帝国には帰れないわよ――マクドウォール公爵夫人の犬小屋に放り込まれたくなければ、今夜、静かに行方をくらますことね」


「何を言っているの? そんなことができるわけないでしょう! 異国の地で、住むところだってないし、荷造りだってしていないわ!」


「贅沢を言っていられる立場? ここで大人しく消えれば、あなたの名誉は守られる――イーデンス帝国を観光している途中で、スウェイン川に転落して行方不明になったという筋書きにしてあげるから。何より、マクドウォール公爵夫人の犬小屋に閉じ込められなくて済むわよ」


「こんなの――夫が黙っていないわ。ディランが私を助けてくれるはずよ!」


「馬鹿おっしゃい」アンバーが声を立てて笑う。少しヒステリックな仕草だった。「ディランはもう帰ったと思うわ。あなたと同じ空間にいるなんて、一時たりとも耐えられないはずだから」


「え?」


「あなたが吊るし上げられている時だって、隣にいた彼は気配を消していたでしょう? ――あのね、彼は全部知っていた――あなたがあちこちの男をつまみ食いしているのも、マクドウォール公爵夫人がお怒りなこともね」


「そんなはずはない」


「どうしてそう言い切れるの? 寝室だって、結婚してすぐ別にされて、夫婦仲は冷め切っていたでしょう? 彼、いつも愚痴っていたわよ――マーガレットと結婚するんじゃなかった、って。顔も性格も全然好みじゃない、ってね。……そうそう、彼ね、愛人がいるのよ。そういえばその子、なんとなくオリヴィアに似ているかも……彼、元々こういう顔が好みだったのね。残念ね、マーガレット――オリヴィアが十七歳当時、趣味の悪い悪役令嬢の格好をしていなければ、あなたなんか初めから相手にもされなかったのよ」


 徹底的に叩きのめされたマーガレットは言葉もないようだった。彼女があまりに打ちのめされていたので、一方的にやられて可哀想にも感じられたが、だからといってオリヴィアは、攻撃しているアンバーを軽蔑する気持ちにもなれなかった。


 マーガレットはずっと大人しいアンバーを虐げ続けてきた。マーガレットは長いあいだアンバーを抑えつけ、身勝手にコントロールし、馬鹿にした態度を取ってきた。だからパワーバランスが逆転して、同じことを相手にされたとしても、文句は言えないはずだ。マーガレットは力を失う前に、いくらだってアンバーに優しくするチャンスはあったのだから。


「……夜会が終わる前に、私たちの前から消えてちょうだい」


 アンバーは冷たくそう言い置き、会場の明るいほうに歩き去ってしまった。――彼女の背中は堂々としていた。アンバーはやり切ったのだ。もう後ろは振り返らないだろう。


 ふたりきりになると、マーガレットがこちらを流し見て、自棄になったように笑い声を上げた。


「は……何よ、あなたももう行きなさいよ。それとも同情しているの?」


「いいえ、同情はしていないわ」


 マーガレットは十年間便りのひとつもくれなかったし、オリヴィアのことをすっかり切り捨てていた。別にそれを恨んではいないが、互いにそれだけの関係性だったということだ。


「じゃあ、いい気味だと思っている?」


「いいえ」


 不意にオリヴィアの胸に込み上げてくるものがあった。……あれから長い時間がたった。だけどマーガレットとふたりきりになると、九歳だった頃を思い出す。


「私はあなたのことを好きでも嫌いでもないわ、だけど……あなたは助けてくれた。九歳の時、あなたが教会に居合わせなかったら、どうなっていたか……そのことに関しては、感謝している」


 オリヴィアは心を込めて伝えたが、何かが行き違っている気がした。マーガレットは乾いた笑みを浮かべている。彼女は眉根を寄せて絨毯をじっと眺めおろしてから、何かを吹っ切った様子でオリヴィアのほうに向き直った。


「私がなぜあの時、教会にいたと思う? それはね――脅迫の材料を探すためよ」


「え?」


「当時の私には大嫌いな女がいた――クソ女のキャサリンよ――彼女には当時噂があって、それは牧師に悪戯されたらしいというものだった。私は教会に行き、キャサリンがまた来るかもしれないと思って待っていたの。現場を押さえて、あとで脅してやろうと思って。……本当に悪戯されたのだとすれば、キャサリンがまたやって来るはずもないのだけれど、子供だった私はそこまで深く考えられなかった。会衆席のあいだにうずくまって身を潜めていたら、クロエ、あなたが来たのよ。あなたは牧師に促されて、奥に入っていった。――私は当時、あなたのことも嫌いだった。皆があなたのことを可愛いって言うから、癪に障っていたのよ――たいして可愛くないじゃない、そう思っていた。それで私――あなたが牧師にひどい目に遭わされればいいと期待していたのだけれど、いざ本当にそれが起こったら、怖くなって。ドレスを脱がされてシュミーズ姿で奥から飛び出してきたあなたを見て、とんでもないことになったと青くなった。きっと大人に怒られるわ、って。どうして会衆席のあいだに隠れていたのか、詳しく理由を訊かれるだろうし、私は上手く言い逃れできる自信がなかった。だからあなたを助けて、自分の悪い行いを帳消しにしようとしたの」


 聞いていたオリヴィアは怒りを覚えた。そして同時に『キャサリンもまた被害者だったのか、お気の毒に』とも思った。キャサリンには誰か助けてくれた人がいたのだろうか――さぞかし怖かっただろう。


 どちらにせよ、マーガレットは最低だ。彼女にもっと優しさがあったなら、オリヴィアが奥の間に入る前に止めることができたのに。


 彼女はひどい人だ。だけど……


 オリヴィアの視界がぼやけた。悲しいわけではないのに、涙が溢れてきた。


「だけど私はあなたに助けられた――その事実は変わらない」


「お人好しね。だからクロエは馬鹿なのよ」


「あなたは誰にも言わなかった。私を嫌っていたはずなのに、あの教会で見聞きしたことを、誰にも漏らさなかった。――十七歳の時、私があなたの頼みを聞いて悪役令嬢の芝居をしたのは、自分のためでもあったけれど、あなたに感謝していたというのもあるのよ」


「お馬鹿さん、違うわ」


 マーガレットが笑う。ほとんど泣き笑いのようになっていたけれど。


「あなた、何も分かっていないのね。あなたの義理の母親――ワイズ伯爵夫人があの牧師に何をしたか、聞いていないの?」


「何をしたの?」


 そういえば、熱を出したオリヴィアを見舞った夫人は、『あなたが牧師に会うことは二度とない。こちらで対処したから』と言っていた。対処……対処? 一体、何をどうしたのだろう?


「身の毛もよだつことよ。私は怖かった。もしもクロエが襲われかけたことを口外すれば、私も同じ目に遭わされると思ったから」


 結局、後味の悪さばかりが残る。十年ぶりにマーガレットと再会して、オリヴィアはなんともいえない気持ちを味わわされている。


「だけどやっぱり、あなたは私の過去について言いふらさなかった」


 それがすべてではないだろうか。綺麗事を言う人がいたとしても、その人が結果的に窮地しかもたらさないとするなら、それは自分にとって相性の悪い相手だ。マーガレットはオリヴィアに対して悪意を抱いていたようだが、なぜか彼女は度々オリヴィアを救ってくれた。その事実は変わらない。


 オリヴィアは身に着けていたイヤリングを外し、それをマーガレットのほうに差し出した。


「これを持っていって」


「クロエ? だけど」


「イヤリングをお金に換えれば、いくらかの足しにはなるでしょう? ――ルビーよ。十代の頃、ワイズ伯爵夫人が社交界デビューのお祝いにくれたものなの。私にとってはなんの思い入れもないけれど、もの自体はいいはず」


 マーガレットは下唇を噛んでから、素早くイヤリングを受け取った。


「ありがとう」


「さようなら、マーガレット」


「さようなら、クロエ……私、今、ものすごく怖いわ」


 マーガレットは最後にオリヴィアの瞳を数秒間縋るように見つめてから、踵を返した。


 彼女の肩は落ち、去っていく足取りは覚束なかった。



   * * *


 明日最終回(昼・夜二回更新)


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