第35話 愛して欲しいなんて言わない。愛し続けたいの。

 空気が乾き、冷えてきた夏の終わりの日。斗真が病室に入るとすでに夏苗は身を起こして構えていた。


「待ち焦がれたわ。今日もまた素敵な恋物語を聴かせてちょうだい。」


 この数日間、斗真は同じ時間にこの部屋を訪れて一日中、自身と夏苗の積み重ねてきた恋の話を聴かせているのだった。夏苗はもう古い記憶を失くしてからしばらく経っていた。斗真のことを、彼が望んだように新しい記憶として脳に刻んだらしかった。


「昨日はどこまで話をしたのだっけ?」


 毎日そう確認するのだが、夏苗はそんなことは覚えていないし、気にもしていない。


「忘れてしまったわ。でも、どこからでもいいの。わたしとあなたがどんな恋愛をしてきたのかたくさん、詳しく話してちょうだい。」


 今日は夏苗が入院してからの話をすることにした。夏苗の記憶が朧になってからのことも、斗真を拒絶する日があったことも、斗真を忘れてしまったのに笑顔で迎えてくれた日のことも。なにが愉しいのか分からないが夏苗は笑いながら話を聴いている。斗真の話がひと段落ついたときに、夏苗は言った。


「お願いがあるの。これから話すことを書き留めて欲しいの。わたしはもう文字を書くことが能わないみたい。昨日から何度もあなたに手紙を書こうと思ったけど上手くいかなかったの。」


 斗真はナースステーションに白紙を取りにいくと言ったが、夏苗がその手を掴んで制した。


「この日記帳に書いてちょうだい。わたしにとって大切なことはすべてここに書いてあるのよね。」


 日記帳を斗真に手渡してから、ゆっくりと話を始めた。


「最近少し具合がいいの。その間にたくさんのことを想い出したわ。そして、考えもした。想い出すのは斗真君のことばかりよ。


 幼い頃に砂場で遊んだことから、大学に入ってお付き合いしたことも一緒に暮らしていた部屋で接吻をしたり抱き合ったことも、みな想い出した。もちろん一日も欠かすことなくここに逢いに来てくれることも。記憶というのは不思議なものね。わたしはそれを失くしてしまうわけではないようなの。脳の中にある引き出しから取り出せなくなってしまうようなの。


 人間は脳と心を切り放して持っているのではないかしら。

 その証拠にわたしは引き出しが閉まったままでも、いつも斗真君に惹かれたわ。色んな顔色に興味を抱いたわ。明るい笑顔ばかりではなかったものね。不安そうな顔、心配そうな顔、泣き出してしまいそうな顔色。でもどんなときも優しさだけは伝わるものなの。それにいつも心が打たれるの。心でその印象を受け止めて、脳の中にしまっていたのね。


 わたしは怖いわ。再び引き出しが閉まって記憶を取り出せなくなる日がやって来るのが。


 毎晩、眠れば記憶を失くして、朝になったらまた心で斗真君を感じるという単調な仕組みなら気が楽なのでしょうけど、そういうものではないみたい。翌日に記憶を持ち越せるかもしれないという期待がかえって恐怖を煽るの。

 

 人間が人間らしく生きているとはなにかしら。少なくとも脳と心が活動していることではないかしら。それならば、わたしは生きていない日があるの。そして、それは生きている日に比べてどんどん数多くなっていくわ。


 そのことについては、わたしはやっと諦めがついたわ。哀れには思わないでちょうだい。わたしの不具合な脳よりもずっと頼れるものがあるのだから。ここにいれば毎日逢いに来てくれる人がいるわ。勝手だけど信じていいと思い込んでいる。逢うことさえ叶えば頼りはないけど心が想い出を積み重ねてくれるわ。

 

 もう少しの間だけでいいの。いずれ脳は引き出しどころかすべての機能を止めてしまうことになるでしょう。


 その日が来るまでここでずっと待っています。脳が死んでしまってはさすがにわたしも斗真君に笑顔を与えることは能わないわ。愛して欲しいなんて言わない。愛し続けたいの。脳が閉じてしまうまで斗真君を感じていたいの。

 

 ごめんなさい。長いお話になってしまって。ここまでのお話は斗真君に聴いて貰えれば良かったの。日記帳にね。これだけは書き込んでおいて欲しいの。


 立花夏苗は生きている限り間島斗真を愛します。脳が死んで息をする死体になっても変わることはありません。その誓いだけは、誰でもないわたしが忘れることのないように書き込んでおく必要があるの。」


 日記帳に夏苗の口舌を一言一句洩らさずに書き写すつもりでいたが、及び難い。ペンを持つ手も日記帳を乗せる膝もかたかたと震えてしまうのだ。


 なにより涙が溢れ出て視界が具合の悪い眼鏡でもかけているみたいに揺れて定まらない。それでも、なんとか夏苗の言を思い起して綴ることを諦めたりはしない。なんとか最後の誓いの言まで綴りきった。夏苗は少し疲れたのだろう。ベッドに凭れかかって深いため息をついた。とても充たされた面持ちをしていた。

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