第30話 愛を伝えるために必要な行為と描写

 小説は夏苗が抱える若年性アルツハイマー型認知症の悪化により、彼女が入院生活を始めたところで滞っていた。記憶を失くす人間を描写するということは思いのほか難しかった。


 思想や主張が欠けているのだからもちろんなことだろう。せめて記憶を取り戻したときだけでも奇抜な性格であれば良かったのだろうが、龍平が描く夏苗は、もともとおとなしくて、消極的な気質をしていた。それは物語の主人公としてはとてもつまらない背景である。


 夏苗を姫奈にちとだけ似せることで劇的に女として、人間として魅力が増したのだが、その塩梅には十分に気をつけなくてはならない。あまりにも姫奈に近付け過ぎると龍平の手には負えなくなる。ほどほどに夏苗を姫奈に似せることによって夏苗の個性が魅力的で鮮やかになり龍平の創作意欲が増してきた。


 斗真と夏苗の恋物語は僕と姫奈が由来であるのだ。小説を描き進めることは姫奈を想うことと想い出すことに繋がっている。だから懸命で夢中になれた。

 

 小説の主題は純愛と真実の愛である。それを表現する為に夏苗は記憶を三日に一度の頻度で奪われてしまう。もちろん斗真のことも忘れてしまう。彼の姿を見て不審者だと騒ぎ立てる日もあれば、あなたはだあれと興味を持つ日もある。そんな日こそ斗真は想いやりをもって夏苗に接する。


 自分は夏苗の幼馴染であって、今では真剣に交際する程の深い仲なのだと釈明するが、無論それだけでは夏苗は情況を飲み込めるはずがない。


 姫奈は夏苗が記憶を失くす度に斗真に一目惚れをするのが望ましいと言い張っていた。だけど、龍平はそのような描出はしたくなかった。一目惚れというものを鵜飲みに出来なかったから。存在の疑わしい代物を小説の中に持ち込むことが疎ましかったのだ。


 斗真がいくらふたりの由縁や想い出を語っても夏苗には思い当たらない。それならば、斗真は現在どれだけ夏苗を愛しているのかとひたむきに説くのだ。


 ひとりでいるときも常に夏苗のことを恋い慕っているとか、ふたりでいるときは穏和な気分にもなれるし、心地の良い興奮を味わえるのだとか。


 しかし、それがあまりに陳腐な愛の表現だと龍平は判っていた。綺麗な口先をどれだけ並べても想いが届くはずはない。夏苗が幸せを得られるわけがない。それならば当然記憶が蘇ることもない。斗真がどんな態度を示せば夏苗に憧れを伝えられて、尚且つ悦ばせることが出来るのか、龍平は随分苦悶した。  


 机に原稿用紙を並べて頭を抱えたり、突っ伏す時間が長く続いた。数時間とかいう話ではない。五六日愛しみの描写について思索した。ずっと面皰を弄っていたので余計に疼いて仕方がない。


 時間が経つにつれ龍平の中の斗真に少しずつ変化が現れた。夏苗と交わりたいと望むようになったのだ。別に世俗の人間の所見に頓着してそのようなことを言い出したわけではない。


 ひたむきに夏苗を愛そうとするならば、自然と交わりにときめくし、求めるべきだと発想するようになった。斗真が夏苗を欲しがっているのが確かに龍平に通じた。


 今、龍平はふたつの問題をあわせて背負っている。ひとつは斗真が軽はずみに性交を欲する根性の男だと形容しても良いものか。


 彼は夏苗が入院することになる前に一度、愛と性欲は切り離されて扱われるものであり、安易に性欲に従うことは愛を育むこととはまったく異なるのだという上等な口舌をしている。


 斗真は龍平の生き写しなのである。自分は易々と姫奈に性交を求めなかったし、それを否定してきた。身体の付き合いより、精神の付き合いを重んじてきた。それが真っ当であったと依然として断ずる。だからこそ、斗真は安易に夏苗を求めてはいけないのではないだろうか。

 

 もうひとつの問題は、小説を書くにあたって最も優先すべきは斗真と夏苗の主観であると考えていた為、自然と夏苗を求める斗真の気持ちに龍平が歯止めをかけることに嫌悪感があるとうことだ。斗真と夏苗は幼い頃からの馴染であり、それなりに長い時間をかけて互いに惹かれあう存在になったのだ。


 自ずと湧き出す気持ちもあるだろう。龍平の意思でふたりを動かすのではなく、ふたりの気持ちを分かりやすく描くことが仕事だと思っていた。斗真がこんなにも激しく夏苗を求めているのに、彼の気持ちを押さえ付けることは流儀に反するのではないだろうか。

 

 言うまでもなくふたつの問題は矛盾しており、ひとつの回答でどちらも解決するものではない。どちらかを尊重すればどちらかが引き下がるしかないのだ。そもそも、この恋物語は真実の愛を語る為のものである。随分長く悩んだが龍平は斗真に夏苗を対象にする性欲を与えることにした。


 もし、この背景が間違っていれば自ずとふたりの恋愛も間違った方向に進むだろう。間違った恋愛とはどんなものになるのだろう。


 龍平はその答えにも関心を持った。間違った答えが出れば物語を途中で修正すれば良い。斗真には間違った入り口から入り、少しずつ歩みを変えながら正しい出口から出て貰えば良い。

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