3

 直斗の「例の友達」の存在は、既にそれだけで私の背中を押すのには充分だった。私はまたティーン向けの雑誌を読み、髪を巻き、甘い香りのするリップを塗った。

 チアリーディングではより良いポジションを得るために練習に打ち込み、成績を落とさないように勉強にも身が入る。校内で直斗を見かければ手を振って笑いかけ、共通の趣味を得るべく直斗のおすすめの音楽を聴き、直斗が持っているのと同じ本を読んだ。

 それと同時に「例の友達」の話も親身になって聞き、何かかけてあげられる言葉がないか思考を巡らせる。正体の見えない彼女になんか負けてられない。そう思った。


 中学二年になった春、またしても直斗とは同じクラスになれなかったけれど、例の友達はクラス替えでいじめをしていた生徒とは別のクラスになったことを聞いた。「良かったね!」の言葉は本物の嬉しさから出たものだったと思う。

 これで彼女の周りが少しでも落ち着けば、直斗が心配することも減るだろう。そう思った矢先、直斗から衝撃的なことを聞かされた。


「アイツ、同じ高校に行こうって」

「じゃあも。関口くんと同じ高校にいく」


 気が付けば、ほとんど反射的にそう言っていた。


「え……」

「あー……あの、行けたらいいな、なんて」


 言ってしまってから直斗の志望校を知らないことに気付いて、少し慌てる。友達のことを抜きにしてもわりと足繁く塾に通っているようだから、かなりハイレベルな高校を受験するのかも知れない。

 あはは、とお手本のように笑ってごまかしかけた時、直斗がまた眩しそうな顔をした。その表情を、ひさしぶりに見た気がしてハッとする。


「そしたら、来る? 塾の特別講習」

「え、いいの?」


 例の女子がいるのに、そこに私が行ってもいいの? ドキドキしながら聞き返すと、直斗は当然のように頷いた。


「もちろん! アイツも喜ぶと思う」


 入塾していない生徒も受けられる特別講習なるものが月末に開催されるので、お試しに受けてみたら良いのでは。そう言葉を繋げている直斗が歓迎してくれるらしいのはともかく、その女子が喜ぶかと言えば、それはどうかなと思う。思ったものの、じゃあ両親にも聞いてみる、などと答えてとりあえず笑顔を浮かべた。

 翌週、中二の娘からの「塾の特別講習に行きたい」という申し出は両親から二つ返事でお許しが出て、私は無事に対決の日を迎えることになる。

 髪を巻いてごく薄く化粧を施し、ブラウスにはアイロンをかけてスカートのプリーツを整える。おまじないのように念入りにローファーを磨く。大丈夫、きっと平気。第一、直斗が友達と呼ぶ女子だもの、きっといい子なんだろう。あんなに親身になって考えていたから……いや、そこが不安でもあるんだけど。

 いい子だったらそれはそれで嬉しいけれど、正直なところ、どうせだったら一目見て「これは敵わないな」って思うぐらい良い子だったらとも思う。けれど、やっぱり直斗のことは誰にも渡したくなくて、そもそも手に入れてなんかいなくて。もっと言えば手に入れるとか、そんな考えしてるようじゃだめなのでは。……もう、よく分からない。とにかく行こう。

 行ってきます、と告げた声がやけにきっぱり響いたように思う。団地の階段を勢いつけて駆け降りて、鞄の持ち手をぎゅっと握りしめて歩き出した。


 果たして、「例の友達」こと神崎かんざきじんは、小柄で物静かな男の子だった。

 そっと覗き込んだ慣れない塾の教室、視界の中ですぐにこちらに気付いた直斗が破顔して手招きする。高鳴る心臓を押さえながら近付くと、直斗の腰掛ける長机の隣でこちらを見ていたのは男の子だった。

 女子じゃ、ない。

 私はぱちくりと瞬きする。きっと驚いた顔だったはずなのに、その子は嫌な顔もせずに「はじめまして」と言った。少し低めの落ち着いた声。


「美原さん、これ、前の小学校からの友達で神崎陣。それで陣、こちらが美原さん」

「これとか言うなよ」


 そうかそうか。女子じゃなかった。なんで女子だと思ってたんだろう。不思議。私はたちまち安堵して、そしてかなり嬉しくて、自分でも分かるほど満面の笑みになった。


「初めまして神崎くん、よろしくね」



 それから私は部活の合間に塾通いを始めた。その生活は多忙を極めたものの学校以外で直斗に会えることが嬉しくて、忙しさはあまり気にならなかった。

 聞いていたとおり陣は頭がよく教え方も上手だったため、勉強のコツを掴んだ私の成績もそれなりの伸びを見せた。気を良くした両親は前よりも私に優しくなったし、直斗との距離も縮まって全てが順調に思えた。

 ひとつ気になる点があるとすれば、それは直斗が塾でも人気があった事で、そこでも私は自分から出てくる嫉妬の気持ちに胸をざわつかせることになった。受験が終わるまでは、同じ高校に通えるまでは、今の近からず遠からずの関係を保って居よう、そう思っていたけれど。優しい直斗のこと、誰かが勇気を出して告白なんかしたら、それを断れないのではないか。そんな妄想に取り憑かれては不安で頭の中がぐるぐるしてしまった。





「美原さんって、直斗の恋人じゃなかったんだね」


 塾の授業の終わり、テキストを鞄に仕舞い込みながら陣が言った。直斗はちょうど何かの手続きで席を外していて、教室のざわめきに包まれながらぼうっと明日の予定なんかを考えていた私はものの見事にペンケースを取り落とした。蓋が開いていたものだからシャープペンシルやら消しゴムやらが飛び散ってしまい、慌てて拾い集める。陣も、慌てた様子で席を立って一緒に片づけをしてくれた。


「……意外だったよ」

「何で?」

「……それはまぁ、その……」


 問いかけると、自分で話題を振ったくせに、消しゴムを手渡してくれながら陣は口ごもる。


「……同じ高校に行くって言ったらしいけど」

「あ、まぁ、そのつもりだけど」

「それ、結構頑張らないと難しいかもよ?」

「……そうなの?」


 まさかの難関高か。もしくはすごい学費の高い私立か。少し身構える。


「男子校だからね」

「は!?」


 予想外の単語に目を見開く。そうか、陣のこと女子だと思ってたから、私ったら勝手に共学校だとばかり。しまった。驚いた私の顔を見て、陣は肩を揺らした。そんなに笑うのかと意外に思う程しつこく笑って、私が少し怒り始めるくらいのタイミングで顔をあげる。


「変えるらしいよ、志望校」

「……え」

「小鳥遊学園にするって」


 小鳥遊学園高等学校は偏差値の高い進学校としてこの辺りでは知られているものの、男女共学の高校だ。おまけに女子の制服がかなり可愛いことでも有名だった。だから男子校から変えるだなんて、わりと思い切った決断に見える。

 その時、用事を済ませた直斗が戸口から「帰ろー」と呼んだ。困惑する私をよそに立ち上がった陣は行儀良く鞄を下げて、直斗に並ぶ。私は、呆けながらも彼らの背中に続いた。


「言ってきた」

「それで?」

「問題ないって」


 ふうん、と答えながらチラとこちらを見た陣が、薄く笑って直斗を追い越して行く。そのまま歩き進む背中を見ながら、少し歩調の緩んだ直斗は私が並ぶのを待って、それから言った。


「あの、さ……美原さん。本当に、同じ高校に行こうよ」

「え、」

「俺はその、一緒がいいんだ。美原さんと」


 そうやって直斗から告げられたのは、さっき陣から聞いたのと同じ、小鳥遊学園高校の名前だった。制服がちょっと可愛くて、でもかなりレベルが高くって、私が視野に入れるにはもう少し頑張らなくてはダメなところ。でもその時の私は、小鳥遊学園高校に必ず受かろうと決心したのだった。





 私の耳たぶは中学二年の時に生まれ変わった。夏だった。私と直斗はお互いに相手の左の耳たぶに印をつけた。


「ピアス開けたいんだ。自分じゃ自信ないからお願いできない?」


 夏休みのある日、何でもない事のように軽い口調で切り出した話に、だけど直斗はこう答えた。


「じゃあ俺にも開けてよ。お揃い」


 どんなに素敵な女の子を装っていても、わたしが本当の意味で直斗に追いつくことは出来そうにない。そんなどうしようもない想いから、自分だけの特別な何かが欲しいと思っての提案だったはずのそれは、予想外の方向へと転がった。直斗の耳に、私が印をつける。それは私の中に溢れる独占欲や、嫉妬や、自己顕示欲を、甘美に満たした。

 薄暗い室内のぬるい風を掻き回す扇風機の音も、お隣のベランダから流れ込む安っぽい風鈴の音も、マッチの燃え滓から香る煙の匂いも覚えている。何度か躊躇う内に冷凍庫から取ってきた氷が溶けてカランと鳴ったのも、指先の感覚がなくなるまで冷やした直斗の耳たぶに針を突き刺した時の感触も、何ひとつ忘れていない。私の耳たぶに針を刺す時、向かい合って座った直斗の喉仏が目の前で静かに上下したことも、その時に触ったささくれた畳の手触りも、全部。


 

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