毖たる彼お泉水、亦た淇に流る。湧きでた泉の水は川に流れ着くのに、私は帰ることができない。

 趙武ちょうぶは晋公州蒲しゅうほと最も年が近い大臣候補であったが、縁遠く、個人的に呼び出されたり会ったことは無い。州蒲の父が趙氏ちょうしを滅ぼそうとし、趙武の高祖父趙成子ちょうせいしに祟られたから――ではない。単に、性格が合わないのである。

 見た目の美しさに反して地道な根性マンの趙武は、享楽的で考えの浅いパリピ思考の州蒲と価値観が合わなさすぎる。また、州蒲は当時の常として女だけではなく男も好む君主であったが、趙武のような美少女タイプは対象外であった。彼は健康的で単純思考の少年を好んでいる。欒黶らんえんの弟がそのような青年であった。

 つまり、趙武が君主のプライベートな場へ向かうのは初めてであり、少々緊張していた。しかも、殺人が起きたのだという。趙武は気合いをひそかに入れながら、女官にょかんに伴われて歩く。

 君主の住居に入るにはもちろん許可がいる。趙武は門の前で端然と待った。後世で言わば、後宮への入り口である。宮中という公的な場所に私的な住居をかまえる君主というものは、偉いようで痛々しさがある。趙武は公女であった己の母を思い出した。州蒲といい、母といい、尊貴な血を持ち宮中で育ったものは、公私に歪みができるのかもしれぬ、と偏見を以て考える。

 ふと、視線を感じ見回すと、女官たちがじっと見てきていた。特に、色素の薄い女官が趙武を見てぽおっと呆けている。

「いかがなされましたか?」

 趙武は威圧せぬよう柔らかく優しく問うた。女性に対して極めて未成熟な彼は、女官がみとれていた、などと全く思っていない。仕草からまだ慣れておらぬ、新人なのだと気づき、緊張しているのだと勘違いした。

「いっ。いえ。あの、大夫たいふさまというのは、みなさま美しくてかっこいいのですね。すみません、あ! 申し訳、ございません。あなたさまのとてもお美しく典雅な姿に見とれてしまったのです。女官としての立場を忘れておりました。お許しを」

 趙武より少し年下に見えるこの女官は、年相応のかわいらしさで話していたが、途中で立場を思いだし、女官の皮をみごとにかぶってしずしずと拝礼した。趙武は、女の顔がどんどん無機質になっていくようだ、と思い、少し寂しかった。

「……言祝ことほぎありがとうございます。父祖の恵みにより、私は良き姿をいただいております。その姿を裏切らぬよう研鑽する所存です。あなたがたのような民の声は天の声、大切にいたします。それに……私の顔で、緊張がほぐれたなら良かったです。とても、とてもこわばったお顔をなされてました。宮中という清浄な場所で凶事に合うなど、思いもよらなかったでしょうし恐ろしかったことでしょう」

 褒めてきた女官だけではなく、他に侍る二名にも視線を移しながら趙武は安心させるように話しかける。肉感的な女が、さようでございます、と頷いた。南方の出身なのか肌の色が少々浅黒いようだった。肌の白さを愛でる文化圏であるが、この女官の健康的な美しさも男の目を喜ばせるであろう。ただ、趙武はそちら方面のアンテナが全く育っていない。豚に真珠、兎に祭文さいもんとはこのことである。

 さて、肉感的な女官が口を開く。

「私たちは不浄の場を掃き清めましてございます。あの……酷い、惨い死に方でかわいそうでした。でも、それよりも、あの子は埋葬されないのでございます。祟らぬよう清め祓ったあとは、都の外に追放で、放り出されるって……」

 趙武は眉をひそめた。追放されれば、どこにも戻れぬ。いや、戻らぬように死体を損壊して捨てるのかも知れない。そうなれば、死後も荒れ果てた異界で動くこともできず、絶望の中で永遠の時を過ごす。その女官がどのようなものかは知らぬが、そこまでせねばならぬ罪を背負っているとも思えぬ。奴隷であっても、死後の幸福があっても良いではないか。

 彼女たちは、同僚の悲惨な人生を嘆いているのであろう、と趙武は憐れみを感じ口を開こうとした。十五になるまで下級大夫の元で育った彼は、貴族独特の超然とした発想があまり無い。――が。趙武の憐れみは勘違いのお門違いであった。

「それで……。私たちは君主さまにお買い上げいただき、宮中できちんとした服を貰って、ごはんもいただいて、もう酷い目に合わないのだと安心していたのです。でも、死んだら、埋葬もしてもらえないなんて思わなかったんです、それが恐ろしくて」

 女官が、苦しそうな顔を向けた。趙武の口が半開きで凍る。すかさず、色素の薄い女官が必死の顔を向けてきた。

「埋葬……というか、弔っても貰えないなんて。黄泉こうせんに向かうこともできないなんて、私たちはどうすればよろしいのでしょうか、大夫さま。私たち、あんなめにあいたくない、でもここから出られないです。君主さまにお買い上げされて、身の回りのお世話をするだなんて、とても幸運だと思ったのに、死んだら弔われず、荒野に投げ捨てられるだなんて、思いもしなかったのです。とても、恐ろしい」

 すがるような目で訴えてくる二人の女官に圧され趙武は顔をこわばらせる。逃げるように二人の後ろで黙っている女官を見る。地味ながら整った顔のその女は、

「……私にはなんとも……」

 とだけ言うが、なんらかの含みがあるようであった。

 他者の死に対する悲しみではなく、己の死を思っての苦しみがぶつけられるとは思わず、趙武は

「えっと、えっと……えっと」

 と必死に言葉を探した。何か、言いたいことがあるのだが、上手く出てこない。彼女たちを薄情と責められない。同僚の死によって、己の終着点を垣間見たのである。それが単なる可能性でしかないにしても。

 同世代の女性と接することのなかった趙武は、独特の極端な発言や、その裏にある罠に気づかず、どうなだめてよいのかと途方にくれた。韓無忌であれば、職分を忘れて私語をするのはなにごとか、と叱責するであろう。士匄や欒黶は無責任な言葉で適当に口説く。彼らは女が気を引こうとしていることくらい、すぐにわかる。荀偃さえも、それは大変ですね、大変ですね、と同じ言葉をくり返しながらも、女性に対する一線を引く。趙武は、同輩でもなく、己の家臣や民でもない、君公所持の『オンナノコ』の生態がわからない。何やら、山神さんしん四凶しきょうを超える怖ろしさまで感じた。

 趙武のとまどいと恐怖に気づいた女官がすかさず、

「大夫さま。私たち下々の凶事、不祥など、さぞ不快なことだったでしょう。一度、庭にでて気分転換はいかがでしょう。このあたりの庭まで来る大夫さまは少ないのです、良い木々、花がございます、案内いたします」

 と口早に言った。

「いえ。私はここでお許しを待たねばなりませんので――」

 断ろうとする趙武の言葉に重ねるように、女官がさらに口を開いた。

「全くです、大夫さまをいつまで待たせるのかしら。ねえ、あなたたち。私は大夫さまの息抜きを介添えいたします。あなたたちは、お許しの寺人じじんを早く呼んできて」

 こういったことは、言ったもの勝ちである。女官が言い切ると他の二人を交互に見る。そのたびに、色素の薄い髪が、柔らかく舞った。地味な女は素直に頷き、肉感的な女は少し悔しそうに頷いて、去っていった。趙武は、女官たちになんらかの緊張が走ったことだけは気付いたが、何が繰り広げられたのかはわからなかった。その上、何故か女官と庭を歩くことになったらしい。さらに意味がわからなかった。

 物心ついてから今にいたるまで、趙武は男世界で生きている。彼の中の女性は不貞の母しかおらず、それ以外は、かよわい生き物らしい、という印象だけである。女嫌いというわけではない。本当に未成熟なのである。性的な耳年増とこれは違うものであった。

「大夫さま。秋の庭は良いものです。そりゃあ夕暮れがきれいですけど、朝もおつなものです」

 趙武は、半ば混乱したまま頷き、女官に連れられて庭へと向かった。

 澄み切った秋の空は、魚の鱗のような雲が天高く流れている。川面が広がって青さを溜めているようだ、と趙武は思った。

「菊の匂いが凄いですよね。このあたりにたくさん植えられてます、きれいですね。あとは蘭」

 もはや、敬語を忘れた女官がはしゃいだように言う。趙武は主役面で咲き乱れる菊に見たあと、ひっそりと咲く花の群れに顔を向けた。この『蘭』は現代で言うランではなくフジバカマのことである。古代において菊や芍薬と合わせて愛された、花であり薬草である。当時、フジバカマは菊と並んで秋の代表格であったらしい。

 菊の色とりどりで重ねられた花弁によるあでやかさは、確かに美しい。しかし、フジバカマの小さな花々はいじらしいかわいさを感じる。また、菊より生薬として幅広く使われているところも良い、と趙武は思った。実務家の彼らしく、そして女にもてる思考回路ではない。

「きっと、お役目の方々がしっかり面倒をみているのでしょうね」

 とりあえず趙武は女官に言葉を返した。男の、なんとなくとりあえず生返事というものに女は聡い。

「大夫さま、お庭は気分転換になりませんでしたか?」

 女官が、しょんぼりした顔を隠さずに言った。かすかに手が震えている。彼女は、下心は多少あったが、趙武の緊張をほぐしたいという思いも真実であった。女性に慣れていないらしい青年、と気づき、一息つかせたかったのである。まあ、下心はあったのであるが。ただ、趙武が不満であったり不快であれば、己は余計であり不敬である。良かれと思ったことが裏目に出るのは申し訳なさが強い。そして、自分は断罪されるやもしれぬ。

 趙武はこの女官の下心以外は察した。未成熟であるが鈍いわけではない。

「いえ。良い庭です、空も気持ちいい。ただ……私は庭の木々や花々より、天然自然てんねんじねんにあるものが好きなのです。山の生い茂る木々の中を歩くのも好きです。今は錦秋きんしゅう、道も美しい落ち葉で彩られてきれいなのですよ」

 育ての親である程嬰ていえいと共に山を歩き木の実を採った日々を思い出しながら趙武は照れ笑いをした。貴族とあろうものが山歩きが好きだなどと、恥ずかしいことこの上なかった。未だ山は異界である。文明人は基本的に足を踏み入れない。

 趙武の言葉に、女官が笑みを浮かべた。少々幼い、親愛の笑顔であった。

「私も山が好きです、あの、いえ。……私は、山を見ながら点々と生きてました。山の向こう、遠くに日が落ちていくのはとてもきれいで、夕暮れの山を大夫さまに見せてあげたいです。ひとつところで生きなきゃいけないのはもう諦めましたが、山で死ねないのは残念です。埋葬なんていらないです、山で弔ってほしい」

「……あなたはてきの方なのですね。狄の方々は年に何度も移動し、獣を追い山の恵みを祀り、皆で穀物を分け合っておられると聞きます。山にびょうがあるのですか?」

 春に山で見た社を思い出しながら、趙武は問うた。狄とは周の文化圏から外れた移動民族たちである。遊牧民族や狩猟民族が近いであろうか。この女官、狄女てきにょはカラカラ笑いながら、まさかあ、と言う。

「ここでは黄泉が土の下にあると聞きます、廟って土の上にあるんでしょう。私たちは山から天に昇って、黄泉へ向かうんです。きっと黄泉てたくさんあるんでしょうね。鳥はご先祖さまのお使いです。鳥に連れていってもらうために、山に体を置いてもらうのですよ」

「そうですね、鳥はご先祖さまの魂でもあります。ああして天を飛んで我らを見守り見張ってくださっている」

 狄女の言葉を受けて趙武は空を見上げた。雁が群れをなして飛んでいた。

 ――飛んで帰りたい

 狄女が小さく呟いたのを、趙武は聞かなかったふりをした。この、戦争で狩られたのか人減らしに売られたのか分からぬ異文化の女を、趙武は救うことなどできない。彼女は君主の財産である。

 が、まあここで、何事も無かったようにさらっと動けぬのが、未成熟の若者である。一人の青年として女の子の心を明るくしたい、という気持ちが生まれた。女官たちを見て思ったのが、女子というのは柔らかそうで小さく、そして笑顔のほうが見ていて気分が良いということであった。

「あなたは狄の方。山の恵みには香草も薬草もございます。きっと良き目利きなのでしょう。私のために蘭を見繕ってきてもらえませんか。もちろん国君の財産でございますので、後で私からきちんとお許しを願います。匂い袋ていどです、量はいりません」

 趙武の言葉に、狄女は頷いて駆けていく。彼女は、どこかに買い取られないかぎり、晋公所有の女官として生きていかなければならない。そのためには己の得意分野を意識してほしく、もっといえば誇りを忘れて欲しくないという気持ちをこめて、趙武は頼んだ。不器用な励ましであったが、彼の精一杯である。

 衣擦れの音、草をかきわける音がかすかに聞こえる。真剣に選んでいるのか、声も聞こえない。趙武は静かに待った。彼女が強引に庭へ連れてきた理由はわからない。のびのびと好きなものを話したのは、趙武に威圧が無いからであろう。そして弱音をもらしたのは趙武を信じたからであろう、きっと。

「……弱い立場の方の声を聞いても、何もできないのでは一緒ですね」

 趙武は自嘲しながら、呟いた。そうして、しばらく。いやかなり待つ。空を眺めたり、雲の数をかぞえたりと、子供のような暇つぶしにも限界がある。ふと、狄女の気配が、無くなっている気がした。

「もし」

 フジバカマのあたりまで歩いてみれば、狄女はいなかった。座っていた形跡はあるが、趙武に渡すための花も置いていない。

「お役目の方々に見つかって、連れて行かれたのでしょうか。私がぼんやりしていて、気づかなかったのかもしれません。悪いことをしてしまいました……」

 女官が勝手にいなくなるとは思えない。おおかた、フジバカマを世話するものに見つかり、罰を受けているのではないか。趙武は己の浅はかさを責めた。俯いてとぼとぼと歩き、近くの木に寄りかかる。その立派なブナは、美しい黄葉おうようにそまり、ちらちらと金色の葉が落ちてくる。趙武の頭にも、一葉いちよう、かさりと落ちた。その後、ぼっとりと落ちてくるものがある。

「え?」

 己の頭になまぐさいもの、生温かいものが落ちてきたと、趙武はとまどいながら上を向いた。

 木の枝から、どぼっと、血の塊が落ちてきて、趙武は顔にひっかぶった。凄まじい臭気、なまぐささである。血の中にあった、何かが口に入ってしまったため、慌てて吐き出した。

 己の心臓の音がうるさい。とても大きくうるさい。頭がガンガンと痛くなってきた。逃げだしたく、そして逃げだすべきだと思っていたのに、趙武はこわごわと、もう一度木の上を見た。

 宮中の庭で、いつも木の実や虫、トカゲを食べているであろう、鳥が、いた。たくさん、いた。血まみれのそれをつついて、少しずつ食べているようであった。頭を半分かち割られたそこから、脳みそが垂れてきている。趙武はこれをかぶったらしい。

「ひっ」

 腹も手足も裂かれ、頭が半分潰されて、首がのけぞってドロドロとボタボタと流れ、落葉と共にふわふわとフジバカマも落ちてくる。

「い、やああああああああああああああああああああああっ」

 趙武は狄女の血と脳みそと脳漿をひっかぶりながら、悲鳴をあげた。

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