蔵を慢にすれば、盗を晦う、大切な宝が見えていると手を伸ばしてしまうもの

 士匄しかいは、宮中の内庭、人気のない場まで荀偃じゅんえんを引きずり連れてきたあと、ふらふらするその体を掴んで、吼えた。

「何をやっているんだ、中行伯ちゅうこうはく! 本当に食べているのか!」

 荀偃が、士匄の怒鳴り声にぽかんとして、やだなあ、食べていますよ、と微笑む。

「この前もおやつを共に食べたじゃないですか。こうが来てから、私も父上も食がすすむ。色々なものが美味しい。民の食事と思っていたけれど魚も食べました。肉じゃ足りなくなって。とてもとても、とても食べてます。たくさんたくさん」

 かすかすに枯れた声であった。吐く息は内臓の悪い者独特の臭みがある。昨日食べたのは、こんなに大きな瓜で、と骨の浮いた手で示す。それがあまりにも楽しそうだったために、士匄はとぐろを撒くような憤怒がわきあがってくる。

「その! 巫女のせいか、そうか。やはり、あなたはとんまだ、売女なんぞに惑わされ、淫祠いんしを祀られたとはけいを担う大夫として嘆かわしい、やはりわたしがおらねばなる、ああ許せん。そのインチキ女はどこにいる!」

 今にも倒れ飢え死にしそうな荀偃の襟元を、乱暴に掴み上げ、士匄は怒鳴った。頻出している『淫祠』とは、現代でいえばインチキ宗教詐欺、とも言えるし、正当ではない民間宗教ともいえる。どちらにせよ、教養人が祀るものではない。

 建物に囲まれた内庭特有の、じめっとした空気と腐った臭いが、かすかに漂っていた。なんとなく薄暗いような陽気の中、荀偃がのんびりした様子で首をかしげた。

「皐はきちんとした巫女です。えっと北山ほくざん三首さんしゅのうち、第二首にしゅに連なる鉤吾こうごの山にて研鑽した山の巫覡ふげきと、きちんと名乗りもございます。北山の第二首といえば、第一首恒山こうざん、第三首の太行たいこうに並ぶ北の霊山。ここからはるか遠い。すごいですよねえ。山霊さんれいの声を聞き、がんばっておられたのでしょうねえ。私の夢を見て、あわてて降りてこられたと、なんと律儀な」

「北山三つの山脈から、女一人が……しかもなんか乳臭そうな若い女が! 簡単に来られるか! そのまえに、そんなところで生きていけるか!」

 荀偃の言った北山は、現代で言えば山西省から河北省にかけて連なりる太行山脈たいこうさんみゃくの一部である。恒山でもこう都まで、北へ600キロメートル以上は離れている。正気か、と士匄は荀偃の両腕をつかみ、あほか! とゆさぶった。ふと荀偃の痩せた腕に違和感を覚える。木の棒のような感触以外に、ごつりとしたものがあった。でこぼことした手触りに、掴んだ腕そのままに荀偃の袖をまくり上げた。

「ぎ、」

 怖気に歯を食いしばり呻き声が士匄の喉奥から出る。荀偃の細い腕にはいくつもの石がむりやり埋め込まれていた。指先ほどの小石から、手の平サイズのものまで、皮膚を食い破るように埋められ、血を流し、または内出血で青痣ができている。栄養失調による肌の荒れ、湿疹も浮いており、無惨としか言いようがない。

「な、んだこれは! 中行伯! これは何のつもりだ」

 腕を引っ張り、見せつけるように掲げると、ぼんやりとした顔の荀偃がへやりと笑う。

「我が巫女が、私の護符として付けてくれたもので……」

 は!? と士匄は叫んだ。聞けば、手の平からはじまり今は腕、次は脇腹らしい。正気の沙汰ではない。ぎょくでさえそのような使い方はせぬ。だいいち、そのような儀式など、士匄は聞いたことがない。

范叔はんしゅく、いきなり、何を見て――……、ひっ」

 追いついてきた趙武ちょうぶが、荀偃の惨状を見て小さく悲鳴をあげた。そこでようやく趙武も荀偃の異常な状況に気づく。先ほどまでなぜわからなかったのか。骨と皮ばかりにやせ、さらけ出された腕は枯れ木のようである。そこに幾つも幾つもむりやり埋め込まれた石の数々は、おぞましさしかない。

「何が巫女か。淫祠に騙されやがって。とりあえず、この石を、外せ!」

 士匄は力なくフラフラとする荀偃を羽交い締めにして、腕に埋め込まれた石をひとつ、びぃっと力任せに引きちぎった。その瞬間、ぶわり、と傷口から凄まじい瘴気しょうきがあふれた。ぞおっと総毛立つほどの陰気が三人の間を駆け巡り、一気に包んでいく。昼と夜が逆転でもしたような暗さが、士匄たちを襲った。

 ごん、と腹の奥を殴るような衝撃に、士匄は膝をついた。見やれば周囲は完全に闇であり、羽交い締めしていたはずの荀偃もおらず、かけよってきた趙武も見えぬ。脳内が明滅するような圧力を、泥流のように流し込まれ、体が破裂すると士匄は目を見開く。か、と枯れた声が口をついて出た。

 このまま、立ち止まっていれば、己は壊れる、壊れないために、成したいことを成せ、己の欲望のまま、――貪れ、このままでは立ち枯れる、飢え渇く、己の望むことそのままに欲し、成せ、成したい、貪愛たんあいこそ至上であり、貪汚たんおこそ本質、貪欲貪婪どんらんに、貪虐たんぎゃくに欲深くどこまでも残酷に、己の欲を探し求め――

「うっるさい、わ!」

 士匄は怒りと意地で立ち上がり、片足を思いきり踏みならした。その足音がドンと響いた瞬間に、圧力が引いた。士匄より引いただけであり、霧散したわけではない。ざあ、と士匄の頭から白い粉末が落ちていった。冠につけている魔除けで、犬の骨の細工である。犬の吠え声は魔を祓うため、霊感体質の士匄は春すぎから身につけていた。しかし、それはどうでもよい。

「わたしの、成したいこと欲などわたしが好きにするわ、指図をするな、くそが!」

 この不祥――もはや怪異というべきか――は、こともあろうに士匄のうちになだれこみ、欲を際限なく膨らませようとした。士匄は強欲であり貪欲である。自己顕示強く、物欲も名誉欲も権勢欲も意地汚いほどである。それを成すことに躊躇はない。しかし、それがゆえに! 元々持っているもろもろを横からつついてくるなど、我慢がならぬ、許せるものか!

「言われぬでもやるわ! 誰か知らぬが指図するな!」

 赫怒かくど怨嗟えんさ込めて一気に吐き出すと、士匄は周囲を見回す。ぬめるような暗闇は消え、そこは宮中の庭のままだった。瘴気は未だ充満しており、それは足元で座り込む荀偃から発している。その荀偃は、土を手で掘りかき集めると、拝礼し、口に放り込んでいく。土などまともに全て飲み込むことなどできず、嘔吐し、今度は吐瀉物と混ざった土をかき集めて口の中に入れ食べ、えづいて吐いている。おいしい、おいしい、と微かな声が聞こえた。

「どこまで愚鈍なのだ、あなたは!」

 士匄は荀偃を掴み、動く手を払いのけると口の中に指をつっこんで、腹に収まってしまった土をむりやり吐き出させた。ようやく荀偃が苦しい、と言って泣いた。これ以上食わせるかと抱え上げようとしたら、腕に食いつかれる。弱い歯が肉を食い破ることはなかったが、その目は本気であった。荀偃は本気で、士匄を食おうとし、必至に掴んでくる。士匄は顔を歪ませながら、それでも担ぎ上げ、今度は趙武を探した。あの後輩は、荀偃などよりはまだマシであるし、無欲でもある。たいして影響は、あるまいだろうが、しかし。

 趙武は、ほんの数歩離れた場所で座っていた。常に所作美しい彼とは思えぬほど、幼いしぐさで、虚空に向けて笑顔を見せている。それもやはり幼い笑みであり、そして、無邪気でもあった。

「私、私はずっと恩返しをしたかった、そうです、ありがとうございます、思いとどまってくださり」

 幸せそうに嬉しそうに何も無い空間へ、話しかけている。まるで誰かがいるように、乗り出して話している。

程嬰ていえいがわざわざ黄泉こうせんに伺うことなど、必要ない。父祖への報告が私がします。程嬰はもう、何も心配なくゆっくりお過ごしください。長い間……本当に長い間、私を守ってくれたこと、育ててくれたこと、その無私のお心、慈しみ、感謝致します。あなただけです、あなただけなのです、私のことを見て下さっていたのは程嬰だけです」

 いっそ戯曲のような光景に、士匄は思わず立ち尽くしぼんやりとした。気持ち悪い光景だ、とも思った。

 趙武が、虚空へ手を伸ばす。幼児が親の愛を請うような笑みを浮かべたまま、その手を払われることはないと確信をもって手を伸ばしている。

「誰もおりません。だから、いいですか。いいんですね、二人だけの秘密です。じゃあ言います、呼びます、――」

 趙武の言葉と同時に瘴気が意志をもったように凄まじい速さで舞い動いた。趙武が見上げている虚空に、人影ができあがる。指先から肉が盛られてゆき、影が実体と変わっていこうとしていた。壮年の男と思われる、どっしりとした影の足先にくつが現れ、厚みのある手の平も現れる。その手は、趙武を優しく撫でようと動いていた。

「く、そ、あのバカ!」

 士匄は荀偃を抱えたまま数歩、駆け出した。走る、という速さなど出ようもない。しかし、それでもマシであろう。数歩、たった数歩である。あの、どう見てもヤバイあれを、なんとかせねばならぬ。なんと鈍くさい後輩だ、と歯ぎしりをする。あとは、反射であった。

 手持ちのもの、つまり荀偃を趙武にぶつけ、二人ごと蹴り飛ばす。そのまま帯止めに付けていたもうひとつの魔除けを引きちぎり、投げつけようとした。

 が。

 影の手が、趙武の代わりに士匄を撫でた。その瞬間、ぞりっとした摺りおろされるような感覚と共に、怖気、嫌悪、忌まわしさが脳天から足先まで駆け巡った。腹の底が破けて奈落ができるような虚無、心がカラカラに渇き枯れる飢え、孤独感寂寥感いいようもしれぬ後悔の気持ち、喪失の想い。虚脱し倒れたい、という誘惑を死んでたまるかという気合いだけでなんとか撥ねのけ、士匄は手に持った魔除けを影に投げつけた。その反動で、地に体が勢いよく叩きつけられる。

 ばらまかれた骨が、確かな犬の幻影を持って影に吼え追い立てる。影は霧散した。消えたわけではなく、散った、と額に脂汗をかきながら士匄は冷静に見た。この青年は浮かれるときはどうしようもないが、基本的には理の人間であった。激しく息を吐きながら、必至に起き上がる。脇の下まで汗がびっしょりとしていた。

「知らねば、ここまで怖じなかった、くそ」

 小さく呟く。あの影がもたらしたものは、死にゆくもの全てに与えられる臨終の瞬間であった。どのような死であろうとも、これは平等であった。死した祖を遊び半分に呼び出していたころから、何重もの布越しで知っていた感覚である。他人事のような、知識程度にしかならぬそれを、あの影はダイレクトに士匄へもたらした。己が生きている、と確信し、ふ、と息を整えた後、ふっとばした荀偃と趙武を探した。

 荀偃は気絶しているらしく、倒れ動かない。……己が助けたのだから死んでいるはずがないと言いきかせる。趙武は――。

「見ないで下さい、見ないで、見ないでえ」

 趙武は、体を丸め、地に突っ伏して泣いていた。お、おえ、と嗚咽し、見ないで、見ないで、と震え泣いている。

趙孟ちょうもう。お前が己ではじかぬから、わたしは寿命を、あれに持っていかれたわ。わたしが明日死んでしまったら、お前のせいだ、末代まで祟るぞ」

 どうなるかわからぬ、長居はできぬ。士匄は、必至に二人の元へ向かいながら吐き捨てた。趙武がはじかれたように体を起こし、顔をゆがめた。彼にとって不幸なことに、ここまで歪め泣いていても、美しいかんばせであった。士匄は得な顔かと思っていたが、損なこともあるのだと、趙武を見ながら思った。身も世も無く泣き叫んでも、この男の血を吐くほどの悲しみに人は気づけまい。それほど、優美に憂いが美しく、観賞用すぎた。人は、美しいものに感じ入っても同調はできない。

「ぐすっ、すみません、も、もうしわけ、ございません、欲しいでしょうって言われて、言われ……頷きました。あの、程嬰っは! ……私の育ての親で、父の親友で、えっと。全部投げ打って、二十年も……家も捨て妻子なく、それで、私が成人したから、えっと、すごく、よろこんでくれ、て、て、うぇ、自害――」

 混乱した趙武が、言わずでもよいことを垂れ流す。士匄はそんな話は聞きたくない。『これからはこのような失態が無いよう心がけます』のひとことだけで良い。趙武の繰り言より、荀偃である。ようやっとたどり着いた士匄は、荀偃の体を撫で、生きていることを確認すると、安堵のため息をついた。耳にはまだ、趙武の言葉が響く。後輩は、どうして良いか、もうわからなくなっているらしい。

「程嬰、死んじゃった、どうして……、私、恩返ししたかったのに、父上に黄泉で報告とか、いらないでしょう、死んじゃってる人に報告っておかしくないですか!?、私は、私はなんだったんですか! これからなんじゃないんですか!」

 嘆きと怒りと悔いで怒鳴り出す趙武は、心底うっとうしい。士匄はそう、うんざりしながらも、先達として口を開いた。

「しかし、理はあろう。てい氏という名の有力貴族はわたしは聞かぬ。であれば、お前、ちょう氏の傘下とかそのあたりの縁ではないか? そのような格の低いものが、卿を担う趙氏の長を越えて上に置いておけぬ。しかし、お前は下にもおけぬ。その男の自死は正しい、礼あり、そして理がある。お前を己の人生潰して育てたのだ、義あり、友情篤く仁深い。良き男に育てられたと胸でもはっておけ。お前のは忘れてやる」

 士匄は、今度は丁寧に荀偃を抱きかかえると、未だ座り込む趙武を軽く蹴った。趙武がうなだれ、

「趙氏なんて滅んでしまえばよかったんです」

 と、小さく呟いた。が、息を一回吐き出すと、しゃきっとした動きで立ち上がり、申し訳ございませんでした、と所作美しく立礼した。その目元は泣き腫れていたが、かわいそうなほど麗しい顔であった。士匄は鼻をならし、

「先ほどのものは消えておらぬ。散っただけだ。同じような目にあってはかなわぬ、場を変える。中行伯の邸――に強襲するは無謀だな。宮中の巫覡を患わすには状況がやっかいと見た。わたしの邸に行く」

「……あなたは未だ嗣子ししです。家のこと全て掌握されておられないでしょう。大丈夫ですか?」

 士氏の家宰かさい以下、家老たちに拒否をされないか、と趙武が暗に問うた。

じゅん氏と氏はじいさんのころからの仲だ。文句を言わせるか。士氏のものが荀氏の嗣子を見殺しにした、とされれば、じいさんが全力で祟ってくるであろうよ」

 士匄は何かを睨み付けるような目つきで言い放つ。今、不祥の気配は低い。それ以前に、今まで荀偃は何の霊障も示さなかった。石を抜き取ったとたんに、凄まじい瘴気が充満したのである。荀偃の言葉が本当であれば、石が守護となり荀偃の不祥を封じていることになる。

「どういうことだ、ったく」

 ち、と唾を吐き捨てたあと、士匄は歩き出した。趙武がわきから荀偃の体を支え、共に歩く。

「……范叔。忘れないでください。私は愚かにも、氏族でもない男を父と呼びたがりました、真に望みました。不孝であり恥ずべき行い、想いです。そういった人間であると、あなたは知っておいて下さい。私の戒めとなります」

 趙武のしずしずとした言葉は自己憐憫も媚びもなく、真摯な内省があった。士匄は、そうか、とだけ答えたあと、

「中行伯のお体は弱っている。支えるなら、きちんとしろ」

 と言った。

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