敬して五教を敷きて寛に在り、学問は徐々に教わるものですね。

 士匄しかい趙武ちょうぶに初めて会ったとき、趙武は二十才、成人を迎えたばかりであった。先日、成人の儀で各卿かくけいや先達に言祝ことほぎされ訓戒の言葉を貰ったという。士匄は少し値踏みするような目つきをむけた。あぶらのなめらかさを思わせる白い肌、夜空を切り取ったような瞳、絹糸のような髪、桃の花に似た可憐な唇。あどけなさの残るその輪郭は、絶世の佳人を約束された美しさであった。――が、士匄にとってそのようなことはどうでもよい。この青年は女の美しさならいくらでも詩を吟じ口説くであろうが、男に興味がない。見た目の良さは外交で有用である、という程度の評価であった。

 それよりも、である。

 なんとまあ、細い体であろうか。衣服に潰されそうな、ほっそりとした印象である。弓を引けるのか、と言いたいくらいであった。しかし、姿勢は良い。挨拶ひとつとっても、所作が美しい。よほど良い史官がいたのか、と考え、目の前の若輩は家が滅びかけていたことを思い出す。史官どころか家宰かさいもいなかった可能性が高く、そうなればたまたま養育者の質が良かったに違いない。

「良い儀だ。お前の所作には内側まで礼が行き届いている。教えたものが誰かは知らんが、感謝しておけ。それはお前の宝になる」

 士匄の言葉に趙武が輝かんばかりに笑んだ。心の底から嬉しい、という顔であった。

「ありがとうございます。仰るとおり感謝しましょう。范叔はんしゅくの言祝ぎを我が喜びといたします」

 言祝ぎではなく、思ったことを口に出しただけであったが、と士匄はやはり値踏みの目を向けた。言祝ぎと感想の区別がつかぬような鈍くさいこの青年を、先ほど先達から押しつけられた。面倒だな、と肩をすくめたのだった。

 それから一年、この鈍くさい後輩は、根性のある努力家であった。士匄のともすれば投げっぱなしのような指導についてきている。

 さて、趙武は放り投げても自分で追いかけてくる手間のかからぬ後輩であるが、あの先達は手を引いてやりたい、いや、手を引いてやらねばならぬのだ、と士匄は苦々しい顔をした。

 荀偃じゅんえんである。

 士匄と荀偃の仲も長い。氏はらん氏とも仲が良いが、じゅん氏とも仲が良く、そのため成人前からの顔見知りである。そのころから、士匄は荀偃のめんどうをみていた。といえば、仲良きことは美しき哉、であるが、実情は荀偃で遊んでいた、である。子供の頃、何かしらいたずらを思いついたとき、優柔不断な荀偃を丸め込んで引きずり込むのは常であったし、一番年上の荀偃がこっぴどく叱られて士匄が庇うのも常である。むろん、若輩が先達に割り込むなと士匄は怒られ、荀偃がさらに怒られる始末であったが。欒黶らんえんは悪友であり、もっといえば好き勝手しているバカを見るのがおもしろい、という交友のしかたをしているが、荀偃に対してはとにかく弄くりまわすのが愉しいのである。巻き込まれている荀偃とすれば、たまったものではないが、士匄は荀偃を無能だと断じつつ好ましいと思っていたし、小動物のような性質、決断力のない性格、おっとりとしたお人好し、と何もかもが支配欲と保護欲をかき立て

 ――かの人はわたしがおらねば生きていけぬ先達、手を引いてやらねば

 と身勝手な友情をいだいている。これで荀偃が迷惑がっていればただの地獄なのだが、このお人好しのとんまは、士匄の友情を受け入れ、やはり友情の念を返している。地獄の釜の上でタップダンスのような様相であった。

 ところが、である。頼りないはずの荀偃が、謎の巫女を手に入れて以来、頼もしくなっている。いきなり人格が変わったわけでもないが、優柔不断なそぶりはひそめ、おっとりとした雰囲気はそのままにきびきびと発言をしたりする。当初は、

中行伯ちゅうこうはくは良い恋をしたようで。あなたをそのように奮い立たせる女とはどのような美しさ聡明さであろうか。一度見てみたいものだ」

 と笑いながらあてこすって遊んでいたが、慌てて否定していた荀偃がしだいに堂々と返すようになり、とうとう

「私の巫女は花の香を愛でるというものではないのです。豊かな実をもたらしてくれるもの。今年の我がゆうは豊作とのを出していました。民は潤い備えはできるというもの、楽しみです」

 などと、余裕のある笑みをうかべたため、士匄は眉をしかめて黙り込み、そっぽを向いた。拗ねたのである。

「最近の中行伯は危うい。あのような御仁がふわふわと調子に乗り、己の分を越えた言動をして才走った様子を見せる。ああいう態度はいつかはしごを外され、落ちる。このままであればじゅん氏の終わりもよくなかろう。ああいうものを、我を忘れているというのだ。自分を見失えば道を見失う。肝に銘じておけ、趙孟ちょうもう

「……いえあの。友だちに相手にされないからといって、後輩に訓戒がてら愚痴をおっしゃるのはいかがなものでしょうか」

 士氏の整えた儀礼を教える、として二人きりで向かい合っていた時であった。士匄は苦虫を噛み潰したような顔をし、趙武がうんざりとした目を向ける。士匄が数日、苛々していたことは知っている。何か悩み事でもあるのかと思っていれば、きわめてしょうもなかった。

 場は士氏の邸である。范武子はんぶしの整えた儀礼を教えてやる、という士匄の言葉に、趙武は即答してついてきたのである。士匄の祖父、范武子という万能の天才で人格者であり数々の偉業をなしとげた宰相を趙武は尊敬し、いっそリスペクトしたいくらいなのである。もっといえば強火のファンであった。ゆえに、餌にされればほいほいついていく。そうして、最初にぶっこまれたのは、友だちに放置され拗ねている愚痴であった。

「なんだその目は。愚痴などわたしが言うか。ただ、中行伯は徳があるというほど腰のすわっておらぬ、篤敬というほど人に信用されぬ、好人物というには出来のよろしくないのんびりとしたお人好しだ。研鑽しようとするがすぐにへばるため、お前のように努力家であるとも言えぬ。頭はお悪くないため、言われたことをきちんと理解なされるが、噛み砕くまでお時間かかる、才が鋭いとは言えぬ鈍いお方。決めごとも苦手なので、即断もせず、断言もなされず、お話しすることもあいまいである。思考のキャパが少ないのかすぐパニックを起こし下手を打つ。そういった性質のかたが、女ひとりに浮かれて、ペラペラの自信を背負い、己の能を越えた動きをなさり責を越えた発言をするは、墓穴へダイビングするようなもの、いや、紐無しバンジーでもしてるのか? まあ、ああいうのは危ないし、終わりがよくない。わたしは心配しているだけだ」

 士匄の言葉は荀偃への罵倒に満ちていたが、友愛と憂慮だけはきちんとあった。趙武は、困惑し、肩をすくめる。士匄の言葉には諸々、複雑な思考と感情が入り交じっている。その全てにいちいち対応していては、本当に愚痴につき合うことになってしまう。趙武は注意深く口を開いた。

「ペラペラの自信、とはどういったことでしょうか。己の力を過信し、謙譲の心無く言葉を発し物事を行うということでしょうか」

 愚痴を議とし、問いと変えた趙武に、士匄は少し目の光を変えた。すっと背筋に力が入り、威儀正しい姿勢となる。なんとなく座っていた先ほどとは比べものにならなかった。

「まず、謙譲の心なく議を語りことを行うは、驕りというもの。驕慢と自信をはき違えるバカはいる。わかりやすく例えると欒伯らんぱくだ」

 士匄は欒黶らんえんを出す。友人に厳しすぎる言葉であったが、他に言いようがないのも事実である。趙武もおとなしく頷いた。

「自信は、己の積み重ねてきたもの、行い、経験、言葉、研鑽、全てを寄り集めそれをおのがものとしてうちに溶かしてようやく生まれるものだ。はっきり言えば男の強さは自信が土台だ。わたしは祖父の姿、父の行いでそれを学んでいる。己が見えておらぬものに自信は生まれぬ、それはまやかしというものなのだ。わたしは己の才を知り、他者に負けぬと知っている。中行伯の言動にそれはない。なのに、今、自信ありげにふるまっているのは愚人の行いに等しいから、わたしは危惧を抱いている。わたしがおらねば左右もわからぬ御仁だ。さて趙孟。お前は、己にその意味の自信が無いことを分かっている。ゆえに、努力し研鑽しているのだろう。自分を見きわめれば過信など無い。正しい謙譲は自信あってこそと過去の賢人も示している。強い大夫たいふになりたければ、自信を知ることだ」

 趙武は善き言葉ありがたく、と拝礼した。実際、士匄の言う言葉は含蓄深いと言ってよい。驕慢、過信と自信は違う。自分を客観視できてこそ、本当の自信が生まれ、物事にあたれる、ということであった。しかし、それを言う士匄は軽々しく重み無く、自信はあっても慎み深さはほとんど無い。言うことはまっとうであったが、本人は褒められた人間ではなかった。まあ、理想通りの言葉を実行できている人間はなかなかにいない。

「そのような自信をつけるためにも、我が家で整えた儀礼をお前に教えよう、というのが今日だ。ち、妙な話になったな」

 士匄の愚痴のせいであったが、慎ましい趙武は黙っていた。その後、儀の作法とそれに内包する礼に関して、士匄はきっちりと指南した。趙武は儀はわかっていても、その内側までは知らぬ、というものがいくつかあり、時には戸惑い、時には真面目に問うた。が、勘は良く理解も早い。儀礼の先には法があり、政治がある。いつのまにか、政治的な議題を交わすこととなった。

「范叔は、己の才と行いがちぐはぐであれば、危ういとおっしゃった。中行伯への愚痴はそういったことですよね。私もそれは思います。我が曾祖父に見いだされた陽処父ようしょほという男は伝え聞くに、行いと言葉大きいながらも才は少なく、結果、暗殺されました。私には己の言動で身を滅ぼしたと思えました。ここからはあなたの知見を伺いたいのです。我がちょう氏は、父が滅ぼされ、その後、大叔父たちも滅び、もうすこしで私も廃嫡となって消えるところでした。范叔は伝聞でしかご存じではないかと思いますが、だからこそ問いたい。あなたから見て、自信というものを勘違いしたものどもの末路だったのでしょうか」

 趙武の顔は、淡く感情が読み取れぬ薄さであった。士匄は器用に片眉をあげ、その腹を探るように見る。どうも、士匄の軽重を計ろうとしたわけでも、己の屈折を吐露したわけでもなく、純粋に意見を聞きたいだけのようであった。士匄はさっと考えをまとめると、口を開いた。

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