往を彰わにして来を察す、年よりの言葉は一度くらい聞いとこう

 士匄しかいにとって『祖を呼び会話する』というのは簡単というわけではないが酷く難しいというわけでもない行為で、『おのが祖父の思い出話をする”祖父”』に

「会いたいなら」

 と高祖父こうそふを呼び出したことがある。いまだ十にならぬ幼い頃であった。当時は生きていた祖父、つまり諡号しごう范武子はんぶしは驚くこともなく、士匄の呼び出した祖霊と穏やかに一言二言話し、

「あの時ご教導いただいたことがら全てが身になり、己の破滅は免れました。本来、びょうにてご報告していることでありこのように直接伺うは儀に適っておりませぬが、我が孫がわたしへの好意とこうにてお呼びしたしだい。伏してお許し願い申し上げます」

 と拝礼した。呼び出した高祖父も、何か納得したらしく、そのまま還っていった。

「じいさん、もっと話せばいいのに。えっと、じいさんは『じいさま』が好きなんだろ? たくさん話せばよかったのに」

 せっかく呼んだのに! と拗ねる士匄に范武子が苦笑しながら膝にのせ、頭を撫でた。

「祖霊の方への挨拶は廟と日々の祀りで充分。黄泉こうせんにてお過ごしになられている祖の方々を安易にお呼びしてお話してはいかんのだ。時にはご助言あろうが、こちらから請うてはならぬ。お呼びして意味の無い会話をするのは、たとえ懐かしくても決してならぬ。死者は生者と共に歩まぬ、生者は死者と共に寝ることはできぬ。なんじは幼くその境目が見えておらぬようだから、まず行いから正せ。戯れに祖を呼び出してはならぬよ」

 士匄はおとなしく説教は聞いたが、しかし祖霊は呼べば色々なことを教えてくれる便利な存在である。祖父の訓戒どおりにはならなかった。さて、范武子は息子の士爕ししょうにきちんと告げたらしい。士匄が無自覚なゆるゆるの強い霊感体質であることを知った士爕が、他者の前でするな、と強く命じたのは前述通りである。顕示欲が強くなんでも自慢したがる士匄は、他者に祖を自慢できぬとなれば、自然に呼び出すことが減った。完全にはやめておらず、先日も呼び出した祖に『字引じびきあつかいをするな!』と怒られたばかりである。

 趙武ちょうぶが期待の目を込めて見てきている。それに苦い顔を向けたあと、士匄は息を静かにすって吐いた。既に二人は床に座している。立ったままより座ったほうが早く来る、と言えば、さあ座りましょう座りましょう! とさっさと座して床を叩いたのは趙武である。向かい合っているのはたまたまであった。

 端然と正座し、士匄はぼんやりと視線を宙に漂わせる。目は開いているが、景色も何も不確かであった。そこからは、彼独特の集中力で一気に地の底へ落ちていく。体が、ではない。むろん魂魄こんぱくが落ちているわけでもない。何か、手の一部のような、気持ちのような感覚が、ずん、と落ちていく。趙武から見れば少しぼんやりしている程度であった。

 わずか、十数秒といったところであろうか。

 場に、底冷えするような寒気と、潰されそうな重圧、そして恐ろしいほどの威圧が満ち、趙武は髪の先までちりちりと焦げていく心地となった。目の前の士匄から発せられる空気が変わる。自信に満ちながらもどこか騒々しく軽々しさがある先達である。それが静かに、極めて静かでありながら重々しい雰囲気と共に獰猛な恐ろしさを纏っていく。趙武は気圧され、己が飢えた虎の前にいるのではないかという錯覚に陥った。しかし、視界に見えるのは士匄である。いや、たぶんこれはもう士匄ではないのであろう。趙武が話しかけようとすると、士匄ではないそれが、穏やかな眼差しを向けてきて手で制した。

「……少し待て」

 今までにないほど静かな声音で士匄が言う。趙武は話しかけようとした姿勢のまま、固唾を飲んで待った。『士匄』が瞑想するように目をつむり、少し小首をかしげた。そうしてまた十数秒経ち――士匄の体が投げ出されるように崩れ床に叩きつけられた。

「痛い! じいさん、痛い! 久しぶりの孫をどんだけ殴り続けるんだ!」

「他家の方の前で我が氏族の醜態をさらすこととなった己の不明を恥と思え。汝のような小僧が道を違えぬよう祖がいつもお守りくださる、などと思うな。逆に汝が我が一族を亡ぼし祖霊に詫びねばならぬと常にわきまえろ、かい

 目の前で士匄一人で繰り広げられる会話に趙武は茫然とした。本来の士匄と、口調も雰囲気も違う『士匄』の顔がころころと変わる。『士匄』が趙武へ向き直り、見事な拝礼をする。趙武は慌てて姿勢を正した。

「……さて。お恥ずかしいところをお見せした。私ははん家の前当主を務めていた范武子と申す。こちらの匄はわが孫となる。本来、我が祖の由来から始め名乗りをすべきであるが、わたしは既に死し祀られているもの。おくりなにて失礼する」

 床を額にとん、とつけたあと、范武子がゆっくりと体を起こす。その儀の美しさ、内包する礼の見事さに、趙武はほう、とため息をついた。が、呆けてはいられない。丁寧に、指先まで神経を行き渡らせて趙武は拝礼した。

「お初におめにかかります。周の惑乱を避け晋へと移りました、趙叔帯ちょうしゅくたいすえ趙孟ちょうもうと申します。范武子におかれましては、我が祖父、我が父とご面倒みていただいたと伺っております。このたび、我ら若輩ではわからぬことございまして、黄泉こうせんにてゆっくりとお過ごしいただいていたところを、范叔はんしゅくにお願い申し出て、ご足労頂いたしだいでございます」

 趙武は憧れの政治家の前で、必死に言葉を紡いだ。この范武子がどのような人間であったかをここに記すのは本題ではない。今はただ、万能の天才であり、宰相になるやいなや一年で法制を整え、その施政により反社会的な賊は国外へ逃げ国内は潤った、とだけ記載しよう。

「質問は匄から聞いている。ゆうの記録だな。匄、引き継いだ邑の祀りに山神はいなかったのか」

 范武子の問いに士匄が

「なかった。あの邑は山から少し遠く、支流が近い。黄河と支流のふたつは祀るとなっていた。山に対する儀礼は行っていた」

 と、答える。話しているのは同じ体なのであるが、いちいちそれを記述すれば煩雑であるため、割愛する。趙武も表情や声音の違いに、どちらがどちらか、などと混乱しなかった。

「山の恵みが直接いただけるような場所ではございませんね。天、地、祖は祀り、河や山は恩恵あれば祀る。恩恵も無いのに祀るは逆に取り憑かれるものですから、儀礼のみというのは妥当だと思います」

 趙武が会話に入りながら、己の書いた地図を示した。范武子がのぞきこみ、汝が書いたのか中々上手いではないか、と柔らかい口調で褒める。趙武が嬉しさのあまり卒倒しそうになるのを、士匄が慌てて引き寄せ、

「じいさん! こいつはじいさんの強火なファンなんだ! そういう軽々しいファンサービスはやめてくれ!」

 と怒鳴った。范武子が

「おお、すまん」

 と慣れた様子で言った。この死人は生前も人を心酔させてきたところがあり、趙武が過剰反応していることをすぐに察した。おおよそ、この男はとまどうということが無い。

「失礼、いたしました、失礼いたしました」

 卒倒しかけた趙武といえば、我に返って必死に謝った。いい、いい、と范武子が少しくだけた様子で手を振ると

「本来、死者はこのように生者と話せぬ。つまり、これは天地陰陽のことわりに背いている行為だが、この境界があいまいなわが孫はおこぼれをいただいている。無理をとおしているゆえ、時間は極めて少ない。手短に話す。まず、わたしの記憶によれば、趙孟の言う『空白の地』には確かに邑があった。堯帝ぎょうていの時代に周囲の邑と同じように開かれ、舜帝しゅんていの時代にもそこにあった。が、禹王うおうが世を統べる前に、その場をたたみ、移った。お察し、この度士氏が引き継いだ問題の邑だ」

 趙武が唾を飲み込み、士匄は険しい顔をした。

「じいさん。わたしが引き継いだ邑は耕作地が多く確かに悪くはない。しかしこの元の場所は山と河が良いあんばいで土も良く、漆園も考えれば捨てるが惜しい。何故移ったのか、記録はあったのか」

 士匄の言葉に范武子が頷いた。

「山津波だ。この山が川でも流すようにが土砂を運び、邑が何度も泥に飲み込まれた。治水で川の氾濫を抑えるにも大変であろうに、山が恵みを帳消しにするような祟りを毎年何度も起こしていたらしい。まあ生きてられぬと山の恵み全てを投げ捨てて逃げたというわけだ。落ち着いたところは当時誰も手を出さぬ場所であったのだ、今に至るまで大変だったろう」

 周の記録でわかるのはここまでだ。と范武子が落ち着いた様子で言った。山津波とは現代で言う土石流である。その被害は想像にあまりある。

「つまり、堯帝の時代で祀りに何か異常があったのでしょうか」

 趙武の言葉に士匄は頷く。

「山の祀りを怠っていたのではないか? なあ、じいさん」

 士匄の言葉に、范武子が一言、知らぬ、とにべもなく答えた。

「じいさんなら何かわかるんじゃないか」

「わたしはある程度想像はしている、否、きっとわかっている。が、わたしは死人であり、この顛末に責は負えぬ。また、匄はこの土地の記録をわたしから聞きたいという理由で呼びつけている。それ以上は約定を越える。我らは子々孫々を見守っているのではない。見張っているのだ。祀りを間違えれば祟るのは祖も同じ。わたしは汝を祟りたくはない。匄よ。汝は才はあるであろう。しかし、失敗してからそれに気づく愚かさ、やりすぎてから取りこぼしを知る浅慮がある。今回もそれだ。汝は結果だけに囚われこのような厄難にあっている。同じことをわたし相手にするな」

 他力本願な孫にきっちり説教をすると、范武子は趙武に目をやった。趙武が姿勢を正してじっと見て来る。どこか期待している眼差しであった。

「わたしはもう還る。さて、趙孟。そのように請われても我が身は死人、言祝ことほぎはできぬ、汝に訓戒の言葉はかけられぬ。我が息子、しょうが汝に訓戒の言葉で祝ったはずだ。それを大切にしてほしい。どのような言葉かしらぬが、あの息子はわたしなりに厳しく育て良き大夫たいふとなった。趙孟の人生に役立つ言葉であろう。人生の言葉は先人の記録か、生きている先達から学ぶことだ。死者を呼び出し学ぶは凶事、淫祠いんしに繋がる。……そんな顔でわたしを見るものではない」

 そう言うと、范武子は士匄をもう一発殴って還っていった。つまり、勝手にふっとび、再び床に叩きつけられた士匄が転がっており、趙武がそれを茫然と見ている、という絵図である。

 趙武は、士匄の状況などどうでもよく、范武子に己の浅ましさを指摘され、頬を染めていた。悔恨と自嘲が己を支配する。范武子という尊敬している人に、人生の指針がほしい、といううわついた欲を指摘され拒まれたことへの羞恥。そして、死人を呼び出すことなど考えるなという牽制に、己の底を見られたと趙武は消え入りたくなった。趙武が会いたい人のほとんどは、死んでいる。范武子はそれを察し、やめろ、と言ったのだった。

「……趙孟。泣きそうな顔してるんじゃない。見ているほうが恥ずかしい、共感性羞恥って知っているか?」

 改めて座り直した士匄が、趙武の顔を覗きこんで言った。労りの感情など全く無い。呆れた声であった。趙武はしらけた目を士匄にむけると、ふ、と安堵の笑みを浮かべて肩の力を抜いた。

「いや、あなたって本当に尊敬できるところ無いんですけど、そーゆーとこ嫌いじゃないです」

 趙武の褒めてるのか貶しているのかわからぬ言葉に、士匄が、ち、と舌打ちをした。士匄は別に慰めるつもりなどなく、言いたいことを言っただけである。この男は人に同情するということを無様な行為と思っており、趙武が最も嫌いなことは同情されることであった。

「さて、気をとりなおして、だ。この、過去の邑。空白の地だ。理由は知らぬが邑と山神の相性が悪かったのであろう。山神は何故か邑を幾度も祟り、邑は逃げた」

「……その後も邑は祟られた、というわけではないようですね」

 同じく気をとりなおした趙武が『問題の邑』を描き込んだ場所を撫でた。もし、祟りが続いていたのなら、周人も邑宰ゆうさいもその旨を士匄に引き継ぐはずである。それを隠すほどの詐欺を行う理由がない。もし、他者に祟りや呪いを肩代わりさせるにしても邑を渡すのは失う財が大きすぎる。何より、士氏は大国晋の武闘派有力貴族である。士氏に祟りをなすりつけることは己の死刑執行書にサインをするに等しい。

「あの、素衣素冠そいそかんの男が『迷惑なきちがい』ていどで終わっている。ということは、祟ることができず、しかし何故か縁が切れずつきまとっていたわけだが……。そしてもうひとつ、だ。山神に関係するであろうものが、なぜ人の形をとっている。よもや、堯帝時代に人型の祀りでもしたのか? 儀に合わなさすぎる」

 中国古代において、神はまともな人の形をしていない。龍や麒麟のような瑞獣に寄せているものもあれば、偶像化せずに、概念的に信仰しているふしもある。少なくとも、士匄は人の形をとり、斬られて死体にまでなった山神の話など聞いたことがない。祀りを行う巫覡が邑を捨てても残っていたのか、それとも人にまで堕ちた神なのか。

「じゃあ、この空白の地と山に行きましょう」

 趙武がパン、と手を叩き言い切った。士匄は、うえ、という顔をする。その顔は、その少々遠い邑を超えた場所まで行かねばならぬ面倒さと、絳都こうとを出る許しを父親にせねばならぬ、ということへの倦厭である。士爕は何も聞かずに許可するような、大雑把な男ではない。何故、何のため、いきさつ全てを語らねばならぬ。想像しただけで面倒であった。

「あの、お父上が恐ろしいのでしたら、私も同席いたしましょうか?」

 極めて屈辱的なことを言う趙武を士匄は睨み付けた。

「いらぬわ! お前がいたらさらに面倒だろうが!」

 と、怒鳴った上で、

「この場合は知伯ちはくにまずご相談し、あわよくば同席しわたしの代わりに説明していただく。もしくは裏から父の耳にいれていただく。知伯は頼れとおっしゃっていた。ここは利用させてもらう。どうせ怒鳴られ殴られるが、説教は短いほうがよい」

 と、ふんぞりかえって今後の方針を述べた。

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