6. 黒女の正体
利史郎は〈狂人の壁〉を前にして、更に幾つかの線を結んでいった。間違いなく山羽美千代は常軌を逸している。それは間違いない。
「D領に、入った? 山羽一郎氏を殺したのは、Dloop?」
「言い過ぎ」
無意識に繰り返してしまっていたらしい。利史郎はメモ用紙に〈DloopDominion〉と書き付けて壁にピンで留め、山羽美千代の名と糸で結んだ。
「まったく、混乱するばかりです。どうして美千代さんはそんな事を考えたのか。いやいや、それよりもレヘイサムはどうしてD領に入る方法なんかを知っているのか? そうか、だから彼は簡単にオリハルコンを三本も確保出来た」
「ちょっと落ち着きなさいよ」渋そうに言って、知里は新しい煙草に火を付けた。「D領に入ること自体は、別にそれほど困難じゃない。Dloopに雇われて働いてるのが百人くらいいる。レヘイサムはそこと繋がりがあるっていう程度で、オリハルコンは別口と見るべきでしょうね」
「知里さんは、そのD領で働いている人たちを知っていますか。その人たちに聞けば、レヘイサムの事がわかるかも――」
指に煙草を挟んだ片手を、利史郎に突き出す。そして暫く眉間に皺を寄せて考え込んだかと思うと、知里は目を開いて言った。
「レヘイサムに気を取られるのは止めなさい。それより重要なのは、山羽美千代の目的」
「目的? それは父親の死の原因を探ること」
「山羽美千代は、Dloopに原因があると見てる。なんで?」
「何故、って――現時点では――わかりません」
「なんでそんなこと考えるの? あのDloopよ? あのDloopが、どうしてわざわざ山羽一郎を選んで殺さなきゃならないっての? そしてレヘイサムは、その証拠を提示できた?」
「そのようですが――それは一体?」
「わからないから聞いてるの。どうして?」
利史郎は困惑し、〈狂人の壁〉に目を向けた。山羽一郎は帝国山羽重工で、あらゆるタイプの機関を研究していた。そして最終的に美千代の作った〈機関〉を発明し、記録に残し、死んだ。
「美千代さんはお父上の死に疑念を持ち、Dloopに疑いの目を向け、全てのD領を視察したりもした。何故か? どうして人類を無視しているDloopが、山羽一郎を殺しただなんて思い込んだのか?」そこで蝦夷での出来事を思い出す。「いや、Dloopは人類を無視していない。監視している。ではどうして、Dloopは山羽一郎を――」
壁に貼られた膨大な単語が、矢継ぎ早に脳に流れ込んでくる。特に注意を惹かれたのは、〈機関〉、オリハルコン――そしてそこから繋がる単語は、オリハルコン・ゼンマイ、女久重、科学者――失踪、病死。
「まさか」
利史郎は愕然とした。すぐさま新聞が積まれた山に向かい、その脇にある分厚い年度別縮小版誌に指を走らせ、一番古い物を手に取る。2030年。いや、これでは不十分だ。
「姉さん、〈科学者は短命〉という俗説がありますが、それはどの程度正確ですか」
唐突に尋ねられたハナは戸惑ったようだった。リンゴを手に首をかしげ、目を細めつつ言う。
「知らないなぁ。ただ伝記に載ってるような人は、たいてい結核とか熱病とかで死んでるけど。でもそれって学者って部屋に引きこもってて不健康だから――」
「2075年の帝国人の平準寿命は四十三歳です。それに比べたら?」
「それは――まぁ三十くらいでコロッと死んじゃうのは普通にいるけど」
「何の話?」
待ちきれない様子で知里が口を挟む。
そうだ。まずは辿り着いた推理を説明しなければ、彼らも想像力を働かせることが出来ないだろう。利史郎は帽子の鍔を掴み、朧気につかみ取っていた糸に意識を集中させた。
「そう。僕が気になっていたのは、二十世紀堂の岩山さんが仰っていた事です。〈オリハルコンは人類の軛だ〉と。その言葉の意味について姉さんにも尋ねましたが、はっきりしない回答でした。そうですね?」
「え。うん。正直よくわかんない」
「ではそれについて、もう一度考えてみましょう。〈オリハルコンは人類の軛〉。この言葉の意味をそのまま受け取れば、〈人類はオリハルコンのおかげで成長できずにいる〉ということになります。しかしこれは奇妙です。オリハルコンのおかげで飛行船は海を越え、高圧蒸気が街を覆い尽くし、圧力管がないところでもゼンマイで機械を動かせる。とても軛とは言えない。もしオリハルコンがなかったなら、人類はどうなっていたでしょう? 姉さん?」
「さぁ――どうだろね。近しい何かを作ろうと四苦八苦してただろうけど」
「Dloopによりオリハルコンがもたらされ、二百年です。姉さん、二百年もあれば、人類はオリハルコンのような物を自ら作れていたと思いませんか?」ハナは眉間に皺を寄せ、答えない。それを確かめ利史郎は続けた。「そう、無理だったかもしれない。しかし努力はしたはずです。だが現実はオリハルコンがあるおかげで――努力することを諦めてしまった。こんな凄い物が作れるはずがないと! それが〈オリハルコンは人類の軛〉。そうは考えられませんか?」
少しの沈黙の後、ハナは応じた。
「弟君の言うことは、まぁ筋が通ってるよ。でもね、人の好奇心ってのはそれほど柔じゃないよ。実際妙ちくりんな実験のために家財を売り払って没落した貴族なんて、沢山いるし」
「あるいは偉大な発明をしたにも関わらず、急死した者も」
途端に知里が鋭く目を光らせた。煙草を指に挟んだ手を突き出し、眉間に皺を寄せて考え込む。
「山羽一郎の死――それを美千代は、Dloopの仕業と考えた。そしてオリハルコンを供給しているのはDloop。更に連中は、美千代の〈機関〉に興味を寄せている。つまりDloopは、科学が発展しないよう世界中で暗躍していた――?」
利史郎は思わず指をはじいた。
「そうです! 科学者の失踪は他の帝国による誘拐、病死は不健康な生活が原因とされ、詳しく調べられることもなかった。しかしそれがDloopの仕業だとしたら? 少なくとも美千代さんがそう考えていたとすれば、あらゆる事の辻褄が合います!」
「つまり〈黒女〉を操っていたのは、Dloop――」
「えぇ! 〈黒女〉はロシアの密偵なんかじゃない! Dloopの手先なんです! 彼女は世界中の科学者に目を光らせ、何かしら偉大な発明が成し遂げられようとした場合、彼らに不慮の死をもたらした。山羽一郎を殺したのが彼女かはわかりません。黒い血を持つ者は他にも沢山いるのかもしれない。いずれにせよ彼女は山羽一郎の遺産を継いだ者がいることを知り、黒薔薇会を崩壊に追い込もうとした。ロシア人のミヤコン、そして地質学者の石川は始末した。しかし山羽美千代に反撃され、取り逃がしてしまった。そう、彼女がDloopの手下であれば、あのような不自然な改造を施されていた説明もつきます。いえ、正確に言うならば、Dloopであればあの程度のことは可能だろう、という意味ですが――あるいは田中久江も、Dloopの抹殺対象だった可能性がある。彼女はオリハルコン・ゼンマイを発明したが失踪。その真実は――彼女はDloopにより拉致され、改造されて手下となった」
「でも」と、ミッチーが片手を挙げた。「じゃあ山羽二郎を殺したのは何故です? あの人は科学者でも何でも――だいたい実際、あいつは凄い蒸気機関を何台もロシアに密輸出してたんすよね? もし田中久江とロシアに繋がりがないのだとしたら、あれはどういう――それにガスマスクの二人組は――」
「そこが事態を複雑にした点です。この事件にはもう一つの勢力が関わっていました」
「レヘイサム」
渋く言った知里に、人差し指を向ける。
「そうです。彼はDloopの正体、あるいは目的について、もっと沢山の事を知っているかもしれません。少なくとも今回の事態に関しては、〈黒女〉を上手く利用することに成功した。彼はあらゆる所にシンパを潜り込ませている。山羽二郎の秘書、森房子もその一人です。二郎氏を強請っていたのは田中久江じゃない、彼女です。彼女はあたかも自分がロシアの意図を代弁しているかのようにして二郎氏を操り、高性能のオリハルコン蒸気機関を何基もレヘイサムの組織に流すことに成功した。そしていざ田中久江が死ぬとその罪を全て彼女になすりつけようと、僕に嘘の証言をした」
「じゃあ山羽二郎を殺したのは――」
利史郎は〈ガスマスクの二人組〉と書かれた紙を示した。
「彼らも恐らく、レヘイサムの手下です。レヘイサムは〈黒女〉を利用しようと、常に動きを見張っていた。そして彼女が黒薔薇会を襲撃したと知ると、彼女の家を探り、山羽から蒸気機関を手に入れていた事実を隠すために二郎氏を殺害し、山羽美千代を、これもシンパである二十世紀堂で保護した」
「じゃあやっぱり、岩山さんは分離主義者――」
「恐らく積極的なものではないと思いますが、そうでしょう。そこでレヘイサムは山羽美千代と接触し、自分ならばDloopが暗躍している証拠を与えられる、そのために蝦夷に来いとでも伝えたのでしょう。そしてまんまと手の内に入った美千代さんに〈機関〉を作らせ――」
そして、どうなった?
「必要な物を手に入れると、レヘイサムは彼女に自らの知る秘密を伝えた。Dloopが人類を縛り付けているという、美千代さんの推理を証明するための道しるべを」
それは、どんな?
「それは――」
何だ?
わからない。レヘイサムは彼女に、何を指し示した?
もう少しだ。もう少しで手が届きそうなのに、何かが足りない。
言葉に詰まり、〈狂人の壁〉に目を向けた。利史郎は必要な情報を全て得ている。レヘイサムはそんな口ぶりだった。だとして、一体何を見落としている? レヘイサムは山羽美千代に何を伝え、そして彼女は、何処に行った? 様々な言葉が記された紙片を目で追う。だが、どれとして関連しそうな物はない。
「何だ! 僕は一体、何を見落としてる!」
思わず叫んでしまう。それほどに利史郎は追い詰められ、混乱していた。目を閉じて記憶を探っても、部屋中を見渡しても、何一つとして光る物がない。
だがその時、知里が能面のような顔をして呟いた。
「満州」
立ち上がり、コートと鞄を手に取り、青い顔で出て行こうとする。慌てて利史郎は彼女の肩を掴んだ。
「どうしたんですか。今、何と? 満州?」
「そう、満州に行かなきゃ。私は会計課から旅券を盗んでくる。時間がない。急いで!」
「待ってください、どうして満州なんです。そこに一体何が――」
面倒だ、というように、彼女は左右を見渡し新聞を手に取る。そして三面を開くと、それを利史郎に押しつけて出て行ってしまった。
一体、何がどうなっている。
呆然としつつ、利史郎は押しつけられた新聞に目を落とす。そして紙面の端にある満州の文字を見て、ようやく彼女が何を悟ったのか理解した。
「そうか、次の標的――」
何度かラジオで耳にした覚えのある、万能の特効薬を発見したと主張する医師の記事が、そこにあった。
そうだ、〈黒女〉、田中久江が未だ健在だとしたら――そして彼の発見が事実だとしたら――彼は遠からず、不慮の死を遂げる。そしてその事件を白日の下に晒すことこそが、山羽美千代が自らの推理を証明することになるのだ。
「いけない」
利史郎は呟き、鞄に必要な物を詰め込み始める。一度は銃で退けられただろうが、今度も上手くいくとは限らない。なにしろ状況からして、山羽美千代は田中久江の生け捕りを試みる可能性が高い。しかし彼女がどういう力でもって、石川を殺したのか未だ不明なのだ。
黒い血。危険すぎる。
「今度は満州っすか。じゃあちょっと俺も旅券を取りに家に――」
ミッチーはシルクハットを頭に乗せ、事務所を出かける。それを利史郎は慌てて呼び止め、少し考えてから言った。
「いえ。ミッチーさんには別の仕事をお願いしたい」
「え? 無理っすよ先生、まだ一人で動くのは。誰か介添えしないと――知里さん、そういうのやらなそうだし――」
「それは姉さんに頼みます。ミッチーさんは石狩に行ってもらわなければなりません。今度はそう――大久保候として」
嫌そうに黙り込むミッチー。彼と利史郎を眺め、ハナが不思議そうに言った。
「大久保候って、何?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます