三章 或る令嬢と血
1. Dloop
彼らに何を話せばいいのか。話してどうなるのか。利史郎は考え続けていたが、結論を出すには情報が足りなすぎた。
そう、一度だけ、Dloopについて調べたことがある。別に事件に関わりがあったわけではない。単に不思議だったのだ。
『どうして誰も、この現代社会の基本的な仕組みを、はっきり説明しない』
二十世紀堂の岩山が言っていた。そう、利史郎も不思議に思った。それで調べた。しかしやはり、自分の利害に直接関わらない問題については、なかなか力が入らないのが実情だ。散漫な記録、散漫な情報。Dloopについて論理的にまとめている資料は皆無で、やがて利史郎は不思議に思うことを忘れた。そして彼らの存在は常識となり、常識となれば疑うこともなくなる。Dloopは不変の法則として存在するのだ。
ただ、そうある。
ただそうあるものに疑問を投げかけるのは難しい。何故リンゴは落ちるのか? 何故ネコはニャーと鳴くのか? そういうものだから、という答えが一番簡単だ。そんなことを考えてどうする? それよりも顔を洗い、歯を磨き、仕事に行かなければ。そうして一日が、一年が、一生が終わる。
だから利史郎にとってDloopは、考える手がかりもない存在としてありつづけた。そんな存在に対して、どう接すればいいのか? 何を尋ねればいいのか?
考えている間に通路は尽きた。金属の扉まで数歩、利史郎は何もかも諦めた。頭を空にして足を進め、自動的に開いた扉の奥に眼を細める。
暗かった。天井全体が薄く明かりを発してはいたが、円形の部屋全体を照らし出すには不十分だった。それでも中央に円錐を横に切り落としたような段があり、問題のローブ姿があるのはわかった。山羽重工で見た相手は黒いローブだった。しかし目の前のローブは赤と黒が入り交じった色彩で、頭部の形も複雑だった。
これは彼らの社会階級を示しているのだろうか。思いながら段の前に歩み寄ると、頭部がゆっくりと動き、利史郎を正面に捕らえた。
何か言うべきだろうか? それとも向こうが何か話しかけてくるのか?
わからず、ただ立ち尽くす。どれだけの時間そうしていただろう。やがて利史郎の耳が、ある独特の音を捉えているのに気がついた。
コポコポ。プカプカ。何か粘性の液体が流動するような音――それだけは文献に記載されていた。彼らがDloopと呼ばれる由来は諸説あったが、その中の一つにこういうものがあった。彼らの身体から発せられる音の、オノマトペ。
わかるような気がする。Dloop、Dloop。この奇妙で愉快にも思えて、かつ恐ろしさを呼び起こす音は、彼らの存在を象徴づけるものであるように感じる。
この音は一体なんだろう? 彼らの呼吸音だろうか。
耳を澄まし、何かの規則性を読み取ろうとしていた時だ。彼の真鍮のような輝きを発する頭部が僅かに傾ぎ、ローブの奥深くから声が響いてきた。
〈話せ〉
それは四、五人が一度に声を発したような、複雑な色を持っていた。利史郎は我に返り、慌てて帽子を取って頭を下げた。
「アデル大使。僕は私立探偵の川路利史郎――」
〈無用だ〉
遮られ、呆気にとられた。
訳がわからない。彼ら独特の文化に非礼を働いたのだろうか。そうとしか思えなかったが、その割に大使は利史郎を見つめたまま身動き一つしない。
つまりまだ、利史郎の言葉を待ち受けている。
では何を話せばいい? 無用、とは何か? それはつまり――
「山羽美千代さんの件で来ました」いや、違う。利史郎は慌てて言葉を加えた。「それはご存じですよね。でなければ私の面会を許可するはずがない。私と大使との接点はそれしかないわけですし――」
〈黙れ〉
はっとした。
無用、黙れ。そうだ、エシルイネは言っていたではないか。
『彼らは、なんというか――とても面倒くさがり屋なの』
つまりDloopは、当然のこと、演繹的推論を極端に突き詰めているのか? 修飾、確認といったことは全て無駄で、本当に最低限の言葉しか必要としていない?
であれば彼らにとって必要な言葉は何か。彼らはこの若い人類が川路利史郎だと知っている。当然だ、面会を許可したのだから。では何故、面会を許可したのか? それは利史郎が知っていて、彼が知らないことがあり、それを求めているから。
そう、そうに違いない。だがそれが何なのかは、わからない。なにしろDloopの事は何も知らない。ただ、山羽美千代の事件と関連があるのは確かだ。そのために利史郎が彼らに面会を求めていることを知らなければ、それを許可するはずもないからだ。
であれば山羽美千代に関す連する何が、彼らの興味を惹いたのか?
それはつまり――
「山羽美千代さんの〈機関〉」
答えはない。つまり近づいてはいる。だが果たして、彼らは〈機関〉に関する何を求め、利史郎と会うことにしたのか。
「――こういうことですか。〈僕は持っていません〉」
初めて、Dloopは異なる反応を見せた。コポコポという音を複雑に唸らせ、首を傾げ、元に戻す。
〈不明確だ〉
更に近づいた。
そうだ。山羽美千代が開発した〈機関〉には、彼らも興味を惹かれた。
だが、一体どうして? いくら彼女の〈機関〉が優れた物だとしても、彼らの科学技術には――そう、百倍。あるいは千倍は及ばない。
では何故か? どうして彼らがあの装置に興味を示す?
ともかくも利史郎は手がかりを得て、更に頭の中で推論を重ねた。自分が知っていること。そしてDloopが知らないであろう事を突き詰め、必要な言葉を抽出する。
「実物も、設計図も持っていません」
これで明確になったはず。
次はどうなる?
そう待ち受けた利史郎に対し、Dloopは素早く応じた。
〈では不要だ〉
重いローブを翻し背を向けようとする大使。利史郎は慌てて更に考える。
「山羽美千代だけの問題ではありません」
Dloopは足を止めた。
当たりだ。彼は、〈機関〉の情報がどこまで拡散しているかも知りたがっている。黒薔薇会の事――これはDloopの知らない、欲している情報に違いない。
振り返り、段の中央に戻り、再び利史郎を見下ろす。
〈話せ〉
「代償を」
〈何が望みだ〉
「彼女の生命です」
〈彼女の問題だ〉
「しかし関係することは出来る」
〈――まさに〉
Dloopは鳥のような仮面を俯かせ、しばし黙り込んだ。そして右腕を――そこに腕があることも驚いたが――を水平に伸ばすと、裾から現れた骨のような人差し指を壁に向ける。
そこに、映像が浮かんだ。曲線と点が特徴的な、理解不能な文字が並ぶ。その数カ所を指先で指し示すと、映像は世界地図に切り替わり、一つの光点が瞬いた。
ローマ共和国連合――プロセイン王国の南端、ベルリンだ。
〈お前の番だ〉
言われたが、利史郎はすっかり混乱していた。
唐突すぎる。彼らは何故、山羽美千代の行方を知っている? だいたいどうして彼女は共和国に向かった? 今まで彼女と共和国を結びつける情報は何一つなかった。とても美千代が今置かれている状況と関係しているとは思えない。では一体なぜ、共和国に?
何かが妙だ。Dloopは超然とした態度と裏腹に、何かを極度に恐れているように思えてならない。何故だ? どうしてそう思える?
わからなかった。だが疑問が疑念に変わるのに、そう時間はかからない。利史郎は地図からDloopに眼を戻し、正直に尋ねた。
「理解不能です。どうしてあなた方は、それを知っているのですか」答えはなく、利史郎は問いを重ねる。「彼女とは会ったのですか」
〈僭越だ〉
息が止まった。心臓も一瞬動きを止め、次いでものすごい勢いで跳ね始める。何かは知らないが、恐ろしいほどの圧力だ。
これは気のせいか? それとも彼らの使う不可思議な声は、相手の感情を操作する力も備えているのか? ある種の怪人のように?
利史郎は自分を落ち着けようと、大きく息を吸い、吐いた。
「僕には、山羽美千代が共和国に行く理由が全くわかりません。あなたには?」
〈無関係だ〉
「山羽美千代はここに来た。あなたは彼女に、何かしたんですか」
またしても答えがなくなる。利史郎は震える喉を必死に抑え込み、言った。
「互いの信用が不足しすぎているようです。それでは、僕はこれで」
殺されるかもしれない。
そう覚悟しつつ背を向けた利史郎に対し、Dloopは彼らを象徴する音――液体が猛烈に泡立つ音を響かせた。怒りか、それとも何か別の意味があるのか。
だが、明確な反応だ。彼らは利史郎を必要としている。
利史郎は悟り、振り向き、相変わらず外見は何の感情も見せない鳥の仮面に言った。
「では、こうしましょう。彼女を共和国で見つけられたら、僕の持っている情報をお伝えします。如何ですか?」
〈不十分だ〉
「――なるほど。でも、そうさせてもらいます」
再び背を向け、去ろうとする。その時何か、ヌルリとした物が首筋を撫でたような気がした。鳥肌が立ち手を当てるが、特に何もない。彼らを恐れているが故の幻覚だろう。それよりも利史郎は扉が開かないこと、そしてこのまま殺されてしまうかもしれないことを恐れていたが、そうはならなかった。扉は問題なく開き、閉じる。
そこで利史郎は極度の疲労に襲われた。息が上擦り、膝がガクガクと震え、額から滝のように汗が流れ落ちてくる。
信じられない出来事だった。両膝に手を置いて息を整えていると、今起きたことが全て幻覚だったのではという気さえしてくる。それほど異常で不可思議で、殆どのことを理解出来なかった。
それでも幾つか、わかったことはある。その第一は――Dloopは言われているほど、不可侵な存在ではないということだ。
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