10. ガスコイン侯爵

「まったく、最悪だ。こんな僻地を五帝国会議の場所に選んだ連中を恨みたくなる」モリアティ伯爵は両手を擦り合わせながら、忌々しく空を見上げた。「晴れた日は更に悪い。太陽は暖かな恵みを与えてくれる存在じゃなかったか? だというのにどうだ、この寒さは。ラルフ、きっと神は、我々人間はこんな所に住むべきではないと考え、祝福を与えなかったのだ。だから自然の法則も狂っとる」


「それほどお寒いのなら、出迎えなどせずに中でお待ちになればいいのに」


 まったく、この小僧は貴族政治のことを何もわかっていない。


「馬鹿を言うな。相手はガスコイン候だぞ? 今は表舞台から身を引いているが、ウェストミンスターの影の支配者だ。自由党や保守党なんぞ、どちらもガスコイン候の承認がなければ組閣すらできん。あの気ままで有名な女王陛下ですら、ガスコイン候の諫言には耳を傾けるという。それだけの方なのだ、決して失礼があってはならん」


 しかしどうにもこの牧歌的な青年は政治という物が理解出来ない様子で、相変わらずの眠そうな顔で呟いた。


「ですが、どうしてそんなお方が、わざわざ地球を半周してまで、こんな呪われた所に」


「そう、ここまで来れば、神の目が届かんからだ」


 言っている間に、大使館の前庭に四頭立ての馬車が止まった。モリアティは素早く駆け寄り、扉を開ける。イギリス本土にいた頃ですら、どんな場でもガスコイン候との距離は優に三十メートルはあった。それで中から現れた鷲鼻で四角い顎の老人に用意していた挨拶をしようとしたところで、すぐに彼は遮って雪の上に飛び降りた。


「モリアティ! 貴様がモリアティか! どうしてインドで狩りをしていた私が、こんな地の果てまで来なければならなかったかわかるか!」


 矍鑠とした足取りで石段を登るガスコイン候を追いつつ、モリアティは答えた。


「それは、その、オンタリオの件かと――」


「それにドミニカもだ! 新聞に出ていたぞ! あれもお前の仕業だろう! 勝手ばかりしおって! 詳しく聞かせろ!」


 一方的に言って、まるで自らが主であるかのように大使館の中に入っていく。当惑して立ち止まるモリアティに、ラルフは尋ねた。


「大丈夫ですか大使」


「――ラルフ、二百年続いたモリアティ家も、私で終わりかもしれんな」


 彼ほどの権力があれば造作もないことだろう。しかしそれは、あのレヘイサムという男との取引を決断した時に覚悟していたことだ。


 暖炉で暖かくしてある部屋に通されたガスコイン候は、キビキビとした足取りでドリンクバーに向かい、ブランデーをグラスに注ぐ。それを一口に飲んでから二杯目を注いだ時、グラスの水面が揺れ部屋中がカタカタと音を立てて揺れた。それはすぐに収まったが、ガスコイン候は何事かと宙を見上げる。


「ここでは地震が多いのです。とはいっても小さなものばかりで、お気になさらず」


 言ったモリアティに忌々しげに鼻を鳴らし、ソファーに座ってから顎で促した。


「それで。話せ」


 モリアティは慎重に対面に座り、言った。


「侯爵。私には独自の軍隊があります」


「何者だ。お前の私兵か」


「正確に申せば、傭兵です。命令を受ければ瞬時に移動し、猛烈な力で攻撃を行い、素早く消えることが出来ます」


「オンタリオには千人、ドミニカには五百人は騎兵隊がいたはずだ。しかも精鋭が。それを一方的に壊滅させるなど、一体どれほどの連中だ」


「私の見たところ、騎兵隊は敵ではありません」


 ガスコインは小さく唸り、葉巻に火を付けながら言った。


「五帝国の軍を壊滅させられる傭兵だと? フン、Dloopの兵器でも盗んだのか。あり得ん。どうしてそれだけの力のある連中がお前の傭兵などになり、命令を聞いているのだ」


「彼らは強力ですが――少ない。ヘラクレスですら、二人相手には戦えなかった。ですから彼らには援護が必要なのです。船、弾薬、その他諸々の支援が。オンタリオとドミニカの件は、彼らの力を証明し、私が制御できることを証明したかったため実施したこと。決して侯爵の意に背くつもりは――」


「私の意、だと?」鋭く、モリアティの言葉を遮った。「お前は、私の言うことはなんでも聞くのか。ならばそいつらを、私に差し出せ」


「それは――難しい。彼らは私との取引に忠実です」


「取引とはなんだ。そいつらは何者だ。一体何を与えた」


「それはお知りにならない方がよろしいかと」


「どういう意味だ」


「連中は強力ですが――危うい。下手に侯爵、あるいは内閣に委ねれば、累が及ぶ恐れがある。しかし私の手の内に置いておけば――」


「泥は全てお前が被る? ふん、殊勝だな。だがそんなことを、私が真に受けると思うか。言ってみろ。お前の望みは何だ」


 私の望み、だと?


 モリアティは深く深く、考えに沈んだ。


 漠然としたものは存在していた。だからこそ自らの首をかけ、博打に出た。しかし今までそれを言葉にしたことも、文字に記したこともない。


 だが、私の望みとは、一体何だ? それは――


「偉大なる祖国を取り戻すことです」


 ガスコインは沈黙し、モリアティを品定めするよう眺めた。やがて彼のゆがんだ唇から言葉が発せられたが、それはモリアティが想像していたものとは、全く違っていた。


「お前は、頭がおかしいのか」


 呆気にとられる。だがすぐ、モリアティは言葉を尽くした。


「何故です。我が国は偉大な栄光に包まれていた。スペインを撃破し、ポルトガルを押さえ込み、オーストリアの皇帝を没落させた。だというのに新大陸の離反を招き、そこからは没落の一途です。悲しいとは思わないのですか」


「別に思わんな」ガスコインは躊躇なく答えた。「モリアティ。お前の言う〈偉大なる祖国〉とは何だ」


「それは――大英帝国です」


「その帝国とやらに、お前は何の借りがある」


「借り――ですか」


「そうだ。私は帝国とやらからは何も受け取っておらん。お前は何シリングか貰ったのか」


「ですが――侯爵は帝国を導いていらっしゃる」


「お前の言う〈斜陽の帝国〉を、か?」不味い、と口を噤むモリアティに、ガスコインは葉巻の先を向けた。「馬鹿め。国を導くだと? 私にはそんな気概はない。私がやっているのは、ただの調整役だ。右が暴れれば諫め、左が失敗すれば支える。それでどうなる? 我が家の資産を守っておる。混乱こそ我々の敵だ」


「しかし、CSAは――」


「奴らと戦争してどうなる! 誰が金を出す! 我々だぞ。それで勝てるのか? 勝って何が得られる。元々あった物を取り戻すだけではないか。ドミニカがお前の領地になるのか? お前がオンタリオの総督になれるとでも? あり得ん。すべて金を出した連中で分けるだけで、お前には何の関係もない」


 なんてことだ。


 モリアティは絶望していた。大英帝国には力がない。だからこそCSAの横暴に屈してきた。そう、思っていた。しかしそれは表面上のことで、実際は――大英帝国は瀕死の病に冒されていたのだ。既得権益という名の病だ。誰もが――このガスコインすら、自らが既に手にしているものを失うことを極度に恐れている。それで何処か別の貴族が権益を失おうと、知ったことかというのだ。


「ですがこのまま手をこまねいていれば、侯爵の領土すら危ういのですぞ!」モリアティは震える手を握りしめ、テーブルに打ち付けた。「連中を勢いづかせてしまえば、新大陸だけではない! 大西洋や太平洋を飛び越え、アフリカやインドも浸食されることに――」


「それはない。お前は何のためにここにいる。CSAの膨張は、他の帝国が許さん」


「閣下は、五帝国会議の実体をご存じない! ロシアは石炭が枯渇し凍死寸前です。オスマンは権力闘争に忙しく、共和国の扇動に乗ったバルカンすらまともに制御できていない。日本? こんな東洋の猿共に何が出来るのです! 連中はCSAの暴虐に無関心だ! ここで我々が我々の偉大さを証明しなければ、あっという間に帝国は崩れ去りますぞ!」


 モリアティは断言し、再び拳をテーブルに叩きつけた。もはやガスコインを説得する事は諦めていた。この連中は腐りきっている。それはわかった。しかしただ、それが悔しくてならなかった。大英帝国は既に、帝国としてのまとまりを失っているのだ。私は狂っているのか? いや違う。大英帝国は確かに偉大だった。七つの海を支配し、七つの大陸を統治した。それが今では――あれほど偉大だった帝国が、小賢しい貴族共の寄せ集めに過ぎなくなってしまっている。だからモリアティは、あのCSA。いや、バートレットの田舎者に好き勝手され、奴の品のない皮肉に耐え、頭を垂れ、意味のない虚勢を張り続けなければならない。


 酷い話だ。こんなことなら、帝国など滅んでしまった方がいい。


 そう、モリアティが涙を流した時だ。ガスコインは葉巻を深く吸い込み、信じられない言葉を吐き出した。


「ならば、お前が王になるか」


「――は?」


 そうとしか応じられなかった。彼にはモリアティの顔が、よほど間が抜けて見えたのだろう。クツクツと笑ってから続ける。


「大英帝国は腐っている。そう、思うのだろう? ならばお前が立て直せ」


「――どれだけ私を馬鹿にしたいのですか。私は真に帝国の――」


「誰が馬鹿にした。私は真実を言っておる。お前には軍隊がある。騎兵隊なぞ気にかけない、強力な軍隊が。しかし今の内閣では、それを使いこなすことは出来ん。女王? フン、あの競馬狂いに何が出来る。私は言ったぞ? 私には気概などない。私にないなら、他の貴族の誰にもない! 帝国の行く末? どうしてそんなことを考えねばならん。面倒なだけだ。しかし――お前が王になり、帝国を立て直すというなら――その話に乗ってやってもいい。本当にお前の軍隊に、CSAを駆逐する力があるのならな。どうだ? お前は、その時が来たならば――王になるか?」


 狂っているのは、私ではない。この老人の方だ。


 モリアティは愕然として、葉巻をくゆらすガスコインを見つめた。

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