はじめてのその気持ち



 その日、私は父の仕事について地方に作られた新規企業の視察に参加していた。


 お父様は普段は私に会いに来ることなんてなかったけど、こうした仕事に関わる場所にはよく連れて来てくれていた。

 そこは完成したばかりだという大きなホテルで、お父様と私はそこを見回ってから、夜には会食するということになっていた。


 ホテルには大きな庭園が併設されていて、そこには色取り取りの花や、木々が植えてある。

 泊まった人たちは、その中に立ち寄り自然と触れ合うこともできる、そういう売りもあるホテルになるらしかった。


 いつものようにお父様の後ろについて行く。

 微笑みは絶やさず、御伽々に相応しい態度で、いつものように。


 でも、その庭園は子どもが歩くには少し入り組んでいて、それで立ち並ぶ木々も高くて、私はお父様たちと離れてしまったのです。


 一人になった私はどうしたらいいかわからなくて、耐えるように膝を抱えてうずくまってしまっていた。


 あの頃の私はまだ小学二年生で、自分だけでなんとかできるほど賢くはなくて、でも泣き出すことなんて出来なくて、もう、そうやってじっとしておくしかできなくなっていたのですね。

 本当に私がいなくなったことにお父様は気づいてくれるのかとか、もし気づかれたらまた怒られてしまうんじゃないかとか色々考えて、それでまた動けなくなってしまって、目頭が熱くなって。


「あれ、こんなところで何してるの? 迷子?」


 でもそんなときに、出会ったんです、あの人と。


「っかしいな、ここまだお客さん入れてないってさっき教えて貰ったんだけど……まあ、そんなことはいいか」


 その人は黒い学生服―――確か学ランという服を着て、大きなリュックサックを背負っていました。

 まだ子どもっぽいけど優しい顔立ちと、ありふれた黒髪に黒い目で、きっと『普通の日本人』の要素を集めてまとめて平均して、そして最後に優しさを加えたのなら、きっとこんなふうになるんだろうって、なんとなく思った。


 その人は膝を抱える私に目線を合わせようとしゃがむと、私の顔を覗き込んだ。


「君、どうしたの? こんなところで」


「えと、その、お父様と、はぐれてしまって……」


「ということはやっぱり迷子か」


 その人は腕を組んで「ふむ」と唸って、そしてしばらくすると私の方に手を差し出した。


「なら、俺が君のお父さん探すの手伝うよ」


 にこーっと、その人が目を細めて笑った。

 おひさまみたいに明るくて、まるで私を安心させようとする思いやりに満ちた笑顔だった。


 でも、知らない人に迷惑をかけたくはない。


 私はいつものように微笑むと、ゆるゆると首を振った。


「いえ、申し出はうれしいですけど、私はひとりでもさがしに行けるので、おきになさらず」


「あー、いや、この手はそうじゃなくてさ」


 たはは、と彼が恥ずかしそうに頭をかきながら声を転がした。


「実は俺もここらへんで迷っててさ、君が手を繋いでくれたら心強いんだよね。

 だからさ、おねがいできるかな?」


「は、はい?」


「お返事サンキュー、じゃあ行こうか」


「ちょっと待ってください、いまのはいはうなずいたんじゃなくて……」


 あまりにも嘘くさい言葉に思わず、困惑してしまった。

 あからさますぎる言葉、誤魔化すような笑い方。


 どれも、私が過度に気にしないようにわざと自分を落として、責任を自分に被せようとする言葉だ。


 なんてお人よしだろう。


 大きな手だった。硬くて、骨ばっていて、それでいて、あたたかい手だった。


 はじめて、男の人と手を繋いだ時だった。


「お嬢ちゃんはどこから来たの? へえ、そんなところから。都会なんだねえ。あ、これは昨日友だちと飯食っていた時の話なんだけどさー」


 その人は私と手を繋いで庭園を出る傍ら、いろんな話してくれた。


 自分の失敗から、友だちとのびっくりするようなエピソード、近所の犬が面白い芸を持っているとか、この前縁日で射的をしたとか、そんな話だ。

 たぶん、彼の中ではなんてことのない『普通』の話だったんだろうけど、それは私にとっては絵本の中の出来事のように、どこか遠い場所の話だった。


 でも、その人がころころと表情を変えながら、いろんな笑顔を見せながら語ってくれると、それがすっごく身近に感じて、まるで私も『普通』の中に入れたような気がした。


 そのことが嬉しくて、楽しくて、不思議と満たされてしまって、思わず感情を抑えることなく笑ってしまった。


「だから、俺が腹を冷やさないように何か温かい物持ってきてくれ、って頼んだらそいつコンビニで肉まん買ってきたんだよ。いや、そこは毛布だろってみんなにそうツッコミ食らってさ」


「ふ、ふふっ、あははっ、そんなことあるんですか?」


「マジマジ。いやあ、文脈で気づくだろ、って話だよ」


「ふ、ふふ……もうふじゃなくて……」


 私が笑うのを見て、その人は満足そうに目を細めた。


「ん、ようやく普通に笑ったなぁ」


 その言葉は、私の胸の奥にするりと滑り込んで来た。


「ふつう、ですか」


「うん。さっきまでちょっと怖かったろ? ようやく違う顔が見れて安心したかな」


 違う顔。私のいつも浮かべる顔と、『普通』の笑顔。


「それは、私のさっきまでの顔が、嘘くさいって、いう、ことでしょうか……」


 使用人たちや、会社の人が私の笑顔は嘘くさいって言っていた。まるで作り物みたいだって。

 この人も、それを感じ取ったのだろうか。


「いやそうじゃやないけど?」


「え?」


 しかし、その人は私の言葉をサクッと否定すると、ニッと唇の端を吊り上げて笑って見せた。



「だってさっきまでの強がる笑顔も、いまの子どもっぽい笑顔も、君だろ?」



 その言葉を言って貰ったときに心が震えた時のことを、今も強く覚えている。


 そうだ、私の―――『おとぎ話のお嬢様』の笑顔だって、私だ。

 ほのか姉様に憧れて、かけがえ姉様を真似した、私のものだ。


 そんな当たり前のことをいつの間にか忘れていたことを、その人の言葉で思い出した。


 いつの間にか曖昧になっていると思っていた『本物の自分』と『姉様たちの真似の笑顔』の境界。


 でも、そんなものなんかなかったんだ。


 私は、私だ。

『おとぎ話のお嬢様』と蔑まれていたとしても、


 その瞬間、私はすごく救われた。


 名前も知らないその人に、今の自分を肯定してもらえたことが、驚くくらい私の存在を確かにしてくれた。


「あそこにいるのお嬢様じゃないか?」


「あ、おい! 修学旅行のバスもう行っちまうぞ! お前どこで油売ってたんだよ!」


 その時、二方から声が聞こえた。


 片方は私、片方はその人を呼んでいるようで、私たちはそれぞれ呼ばれた方に体を向けた。


「どうやらどっちもお迎えが来たみたいだ。ここまで手を繋いでくれてありがとな、お嬢ちゃん」


「あ、あの―――」


 攻めて名前くらいは聞こうと呼び止めようとしたけど、それよりも早く彼は私から手を離して、それで最後の頭を撫でてくれた。


「じゃあね。もう迷子になっちゃだめだぜ?」


 あとで聞いたのですが、その日は修学旅行生が社会科見学の一環でやってきている日でもあったそうで、たまたまその生徒の方の一人が私を見つけてくださった、ということだったらしいです。


 どこの学校の方だったのか聞いたのですけれど、いろんな学校が見学に来ていたらしく、私の言う情報だけでは学校は絞り切れなかった。

 ホテルの人に迷惑をかけるわけにもいかず、私はその人がどこにいるのかもわからず仕舞いだった。


 そして、名前も知らない彼は去って行った。

 私を肯定する言葉と、優しくなでてくれた感触と、あのころころと変わる表情と、胸に深く残る揺らめきを残して。


 その人に言って貰えた言葉が私を支えてくれたおかげで、前ほど迷うことはなくなった。

 周囲に笑顔が嘘くさいとか、『おとぎ話のお嬢様』とか言われても、あんまり気にすることもなくなった。


 ただ、こっそり笑顔の種類を増やしてみるのはやってみた。

 脳裏に残っていた、その人のころころ変わる表情の真似っ子だった。

 それもいつしか『私』の一部になって、『普通』の私に溶けていった。


 ただ、ほのか姉様だけは「いい出会いがあったんだね~?」って言って来たから、もしかしたら私が誰かの真似をしていたのを知っていたのかもしれない。



 そうして一年が経って、二年が経って、いつの間にか五年が経った。


 五年が経っても私はまだ稽古の日々が続いていて、五年前と変わったのは身長と、あとちょっぴり胸が大きくなったことくらいだった。


 こうして私は稽古を繰り返して、大人になっていくのかな、なんて思っていた。


 でも、ある日、信じられないことが起こった。


「あれ、君迷子? こんなところでどうしたの?」


 その日、周辺工事の影響で迎えが来ずに迷子になっていた私を助けてくれた人がいた。


 あの人だった。


 すぐに分かった。

 だって、あまりにもあの日のままの笑顔で、あの日のままの口調だったのだ。


 なんでこんなところにいるのかはわからないけど、あの時迷子になっていた私に手を差し伸べてくれた人が、あの時と同じように私に声をかけてくれた。


「あ、やっぱり迷子なんだ。じゃあ、交番まで行ってみようか。そこで電話とか借りて電話してみるといいかも」


 運命だと思った。


 いや、これを運命にしたいって強く思った。


 あの日私はこの人との関係を切らしてしまった。今度もまた同じようになるのが嫌で、どうにかこの機会を逃したくなくて、私の口はひとりでに動いていた。


「あの、私の家でアルバイトする気は、ありませんか?」


 そして、その提案に彼はなんと頷いてくれて、名前も知らなかったその人は私の使用人になったのだ。


 その人の名前は「空木陸人」というらしかった。


 すごくいい名前だ。空から木に降りて、陸に根ざし人が立つ。

 いつも柳に風を受けるような、優し気な立ち姿の空木さんにぴったりだと思った。


 彼の話は昔と変わらずに面白くて、私を普通の女の子として扱ってくれて、それだけですごく満たされた。


 それなのにそこからいろいろあって、一緒に同棲することになった。


 ふふ、本当にいろいろあり過ぎですね。


 少しだけ、かけがえさんには無理を言ってしまいましたけど、かけがえさんは「深鏡に任せなさい」と胸を叩いてくれた。


 でも、そのおかげで私と空木さんは一緒に住むようになって、いろんな思い出を彼と重ねることができた。


 そこからは、夢みたいな日々だった。


 一緒に住んでからは、今まで見えていなかった空木さんの子どもっぽいところも見えてきて、それも面白かった。


 ただ、空木さんのそばにいられることで、安らいでいた。満たされていた。


「じゃあお嬢、いってきます」


「はい。いってらっしゃい、空木さん」


 今日もまた、私は空木さんを送り出す。


 そして窓の隙間から彼が自転車を漕いでいくのを見送って、家のことをしながらゆっくりと彼の帰りを待つのだ。


 時にはテレビを見て、時には空木さんが買ってきてくれた中学生向けの参考書を解きながら、時には洗濯物を畳みながら、時には今夜の料理のおかずをどうしようか考えながら。


 そんな日々が、私の幸せだった。


 ずっと続けばいいと、本気でそう思っていた。


 空木さんとの毎日は、私の憧れていた『普通』そのもので夢みたいに幸せだった。


 まるでおとぎ話のハッピーエンドみたいだったんです。


 だからこそ、戸を叩く音がして、私の目の前に現れたその人に、全てを理解してしまった。


「―――久しぶりだな、まほろ。このくだらない権力闘争を終わらせるには、お前の力がいる」


 ああ、現実に帰る時が来たのですね、と。

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