第30話




十分前に待ち合わせ場所についたが既に健人が立っているのを発見し、ポニーテール、可愛らしい小花が胸元に刺繍されたTシャツに明るめの色のクロップドジーンズ姿で朱音は慌てて駆け寄る。



「すみません!」



「急ぐなって。転ぶぞ?」



白い歯を出して笑う健人を見上げれば、髪の毛がまだ濡れているようで、いつも固そうな髪が少し柔らかそうに見えるだけで失礼ながら学生かと思うほど若いように朱音には思える。



「夕飯、なんかリクエストあるか?」



「特にないです」



「なら俺の知り合いの店で良いか?


飲み屋なんだが飯は美味いから」



そういうと、元町ショッピングストリート方向に二人は歩き出した。



元町ショッピングストリートは、JR石川町駅からとみなとみらい線元町中華街駅の間にあり、『キタムラ』、『ミハマ』、『フクゾー』という元町を代表する有名ブランドから、外国人向けの商品を扱う店、少し裏に入ればお洒落な飲み屋や昔ながらの店もある。


朱音は時々みなとみらい線元町中華街駅に近い、アメリカ山公園からこの元町ショッピングストリートに買い物に来ることはあるが、いる人が皆お洒落、売っている物もお洒落なので、必要最低限のものだけ買ってあとはウィンドウショッピングをして帰宅するだけだった。


慣れたように歩く健人の少し後ろを歩いていると、健人が気が付き歩くスピードを朱音に合わせて抑える。


朱音はそういう気遣いを男性にされると何だか恥ずかしい気持ちが沸いて、少し俯いた。



たどり着いた店は少し裏路地にあり、濃い茶色のドアをスライドすれば外からは気が付かなかったが既に人がそれなりに入っている。



「おう、橘」



食器を片付けていた男が健人に気が付き声をかけた。



「奥空いてるか?」



「空いてるよ」



そう答えた店員は健人と年が変わらなそうで、健人より身長は低いが体格も驚くほど似ている。



「また泳いでたのか?水から離れられないな」



「お互い様だろ」



店員が隣を通る健人に笑いながら声をかければ健人も笑って答え、朱音はその言葉の意味を不思議に思いながら店員に頭を下げると、驚いたような顔で朱音を見ている。



奥に行くとちょっとした引き戸のある個室で掘りごたつがあり、朱音が入り口に近い方に座ろうとしたら、健人が笑って朱音を奥に座らせた。



「朱音はソフトドリンクだよな?


肉、野菜、揚げ物、何がいい?」



「全くわからないので健人さんのおすすめで」



メニューを見てみるが、今日の渾身のサラダAとか、俺の肉(松竹梅)などと書かれていて意味が朱音にはわからず健人に任せることにした。



「俺のおすすめだと肉ばかりになるぞ?」



「サラダは食べたいです」



笑って健人が言えば、朱音は真顔で主張した。


ドアが開いてさっきの店員がおしぼりと水の入ったコップをテーブルに置く。



「君、橘の彼女?」



「へ」



店員の唐突な質問に、朱音は間の抜けた声を思わず出してしまう。



「違う違う、俺が住んでいるとこに新しく入った子なんだ。


ちょっかいだすなよ、冬真が本気で殺しにかかってくるからな」



「あの美形の彼女なの?!」



心底驚いてまじまじと店員から見られ、居心地が悪い。


どう考えても、あの美形にこんな女が?!っていうのが痛いほど伝わるし、朱音自身もそう思って何故か凹む。



「お前、そのリアクションまずいだろ」



健人の注意に、店員は慌てる。



「いや、そういう意味じゃ無くて、あの美形、女に興味があったんだなって」



「あぁそっちね」



二人してうなずき合っているのを見て、朱音は冬真が女装していた時を思い出し、大抵の女性じゃ美人とか綺麗だなんて思わなそうだという点で同感できる。



「冬真はあくまで朱音の大家。


俺が朱音にセクハラばかりするって毎度注意を受けてるよ、小舅みたく」



「なるほどねー」



置いてけぼり状態の朱音に気が付いた店員が笑う。



「橘とは水泳選手時代からの付き合いなんだ」



「水泳選手?」



「とりあえず注文取ってくれよ、腹減った」



朱音が不思議そうに尋ねると健人が耐えかねたように言い、店員は笑って注文を取って出て行った。




「まぁ別に隠していたわけじゃ無いんだが、昔は水泳ばかりやってたんだよ。


それなりに結果も出してたんだけどな。


身体壊して引退しても結局泳ぐことからは完全に離れられなくて、こうやってジムや元町公園のプールで泳いでる」



健人は苦笑いしながら初めて自分の昔話を始めた。


いかにもスポーツマンにしか見えない健人がイラストレーターをして今は売れっ子というのが朱音はなんとなく違和感を感じていたが、初めてその理由に触れられた気がした。



「昔から絵も描かれていたんですか?」



ちょうど飲み物が運ばれてきて、健人はビールのジョッキを取ってゴクゴクと飲むと、ぷは、と息を吐く。



「絵は趣味としてちょこちょこ描いてはいたが、学校の美術の授業以外で学んだことはないし、男が絵を描いてる、それも日頃は水泳選手としてそれなりにちやほやされてたからイメージを悪くしたく無いし恥ずかしいから誰にも言ってなかった。


で、大学もスポーツ推薦で入ったのにその途中で身体壊して、現実を突きつけられたんだよ、水泳取ったら何も他に俺には無いじゃないかって」



健人は特に悲壮感も無くただのおしゃべりのように話していて、KEITOの大ファンからすればあの優しげな絵は幸せな日々を送っている人だからこそ生まれた作品だと思っていたが、多くの苦悩を抱えてできあがった物だったのだと知り朱音の心は苦しい。


少しだけ特製フルーツジュースを飲んだ朱音は、じっと続きを待つ。



「んで、大学の途中でいわゆる自分探しの旅に出たわけだ。


オーストリアやフランス、そしてイギリスのロンドンに行ったときに冬真に出会ったんだよ、スリに遭って金がなくなった俺が公園のベンチで呆然としてた時に。


外国人かと思ったら流ちょうな日本語で話しかけられたから、最初は何か怪しげな奴かと思ったよ、もうなんか色々重なって不信感だらけになってたし。


そうしたら自分の家に泊まらせて、飯おごってくれて。


パスポートや飛行機のチケットはホテルに置いてたから無事だったけど、なんか居心地良くてしばらく厄介になってた」



健人は懐かしそうにビールと一緒に来た枝豆をつまんでいる。


健人が大学の夏休みに海外に行くと言ったら、親も周囲も揃って賛成して快く送り出してくれた。


それだけ進む方向を見失っていた自分を心配して周囲は後押しをしてくれたのだろうが、その時の健人には周囲が自分を腫れ物を扱うようにしているように思えて誰にも感謝するなんて事は出来なかった。


なんとなく有名どころを見て回ろうかと選んだ国や都市には素晴らしい美術館があり、そこに行く度に健人は圧倒された。


美術館自体が美術品そのもののような場所もあれば、教科書で見た絵画が所狭しと置かれている近代的な美術館、こういうものに小さい頃から触れられるこの国がただ羨ましく、でも何かが湧き上がってくるわけでは無かった。



「しばらく冬真のアパートメントの一室に転がり込んでいたわけだが、そこで冬真が講演用のパンフレットを作ってるのを見て、これがまた味気なかったんだよ。


思わずイラストくらい入れたらどうだって言ったら、もう誰かに頼む時間が無いっていうんで色鉛筆買ってきてくれって頼んだんだ、少し描くくらいならできるかなって思ってさ。


でも買ってきたのがただの色鉛筆じゃなくて高級な水彩用色鉛筆で、もったいないから水彩画に仕上げたんだ。


それを冬真が絶賛してくれて」



「じゃぁKEITOさんの作品第一号は」



朱音がドキドキしながら聞けば、健人が笑う。



「そのパンフレットが好評だったらしく、冬真はわざわざKENTOが描いたって言ったのに、どうもどっかで聞き間違いが広がったらしく、俺は気が付けばKEITOになっていた」



「ええっ?!」



てっきり自分の名前をベースに健人の意思で名前をそうしたのかと思ったら、まさかの展開にファンとして朱音は驚くとともに、こんな特別な話を聞けて、ミーハーな気分が盛り上がりそうなのを必死に押さえる。



「冬真に、この絵は素晴らしい、もったいない才能だと言われて俺も何だか良い気分になって。


で、日本に戻ってからもやりとりはしてたんだが、冬真が日本の洋館を譲り受けて住むけど部屋が空いてるから一室貸そうかって誘われて、二つ返事で転がり込んだよ。


その頃には絵の仕事も入るようになっていたけれど、あの家に住むようになってからの方がイラストレーターとして人気が出たって感じだな。


アレクがいるから描くことに集中できるし、何より冬真と出会ったのがでかかった」



途中、頼んだ食事を持ってきたさっきの店員は話しを遮らないよう静かにテーブルに置いて出て行って、健人も特に気にすること無く朱音に話していた。


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