ひとり揺れて

西野ゆう

第1話

 マフラーを取りコートを脱ぐ。ニット帽に少し積もった雪は、バスの姿が見えた時に払い落としてある。

 行き先を告げながら開いたバスの自動ドア。手すりを掴んで、ICカードを読み込ませ、ステップを上がる。

 手袋をしていてもかじかんでいる手でなんとか曇りを拭った眼鏡は、一秒ともたずに再び世界を霧に沈める。眼鏡がその役目を果たす僅かな空間で空席を探した私が、その座席に腰を下ろすまでバスは発車しなかった。

 今日の運転手は運行の安全にちゃんと気を遣っているらしい。のろまな私に対し、乗客も誰一人として嫌な顔をしていなかった。

 厳しい冬の真っただ中。

 圧雪された道の上を、ミシミシという音を立てながらゆっくり走るバスの車内が私は好きだった。

 ただし、その絨毯の上を走るような心地よい感覚を味わう前に、試練が訪れる。駅前の除雪されたロータリー。ハンドルを切ってそのアスファルトの上を走るバス。その時は、バスの大きなタイヤに巻かれた、極太のチェーンが千切れてしまわないかと心配してしまうほどの音を立てながら走る。

 目が回りそうになるほど小さく回る景色。チェーンの騒音。細かく腰に伝わる振動。それらは決して心地の良いものではない。

 それでも私は知っている。この先、私の目的地まで交通量はどんどん少なくなってゆくばかり。試練は最初の一度きり。あとは、暖房の効いた暖かい車内と、身体に伝わる優しい振動が、眠気を呼んで目的地近くのバス停まで時間を飛ばしてくれる。

 背負っていたリュックを、振動だけで知らせるアラームをセットした携帯電話と、眼鏡と共に胸に抱き、マフラーを敷いて顔を預ける。化粧移りを心配するほど顔に塗っているものもない。

 いつもならその態勢を取ってから、体感で二十分もすれば目的地に着いていた。だけれども今日はそうならず、随分と長い時間バスに揺られていた。

 最初に変化を嗅ぎ取ったのは、その動詞が表す通り、匂いだった。

 チョウやミツバチでなくとも誘われそうな、甘い匂い。

 いつの間にか、バスの窓がほんの少し開いていて、窓の外から入ってくる自然な風が頬を撫でている。

 大地を駆け上がる風で互いを優しく撫で合う葉が、さわさわと音を立てている。

 黄色い花びらが、隣の花びらをつんつんとつつく音も混じっている。

 真っ白な雪で覆われていた景色が上書きされたように、いつの間にかどこまでも続く菜の花の絨毯が敷き詰められていた。

 バスも道を外れ、黄色い絨毯の上を走り始めた。

 バスによって舞い上げられた花びらが一枚、窓の隙間から車内に入り込んで、私の頬に触れた。

「冷たっ」

 思わず口に出してそう言ったのと、携帯電話が震えたのはほぼ同時だった。

 きれいに雪を落としたつもりだったニット帽から垂れた雫が、再び頬を冷やした。窓の外は、やはり真っ白だ。道ゆく人は一人もいない。それでもまだ、微かに菜の花の香りが鼻の奥に残っている。

 私は、雪の下で準備をしている菜の花に思いを向けた。

 黄色い絨毯が辺りに広がる頃、この道には幼い笑顔が溢れているだろう。一瞬のタイムトラベルに連れて行ってくれた運転手に、私は「ありがとうございました」と告げバスを降りた。

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