夜の国

泥舟

 東京都、新宿区、歌舞伎町。

 夜とネオンで着飾る街に朝日が昇る。

 散乱するゴミ、家路につく者、つけない者――喧騒の残骸を、残暑の厳しさも和らいだ光がひとしく照らし出していく。

 目抜き通りを外れたその路地も例外ではない。

 ひしめき合うビルの合間から薄闇の帳があがると、道端のビニール袋がいかがわしい文句を掲げたスタンド看板の影へと転がった。

 その光景を眼下に、白魚の指先がクレセント錠を回す。

 向かいの雑居ビルの窓辺に立つ、少女とも妙齢ともとれる美しい顔をした女である。造形の美しさに対して、何かの罰であるかのように一切の表情がない。ただ地味な服の上からでも明らかに熟れた肢体が、熱を感じさせない佇まいから唯一夜の気配を漂わせていた。

 一晩分の空気を取り替えるため、女は窓のふちに手を掛ける。しかし、窓が開くことはなかった。

 日課に取りかかろうとした手を止めたのは、衣擦れのかすかな音。

 女の背後にあるパイプベッドで宿が物言いたげに身じろいだ音だった。

「寒い――」

 ですか、と言いかけて女は口を閉じた。振り返った視界の中で、かたいマットレスの上のふくらみが静まったのを見たからだ。

 女は無意識に閉じた口の両端をゆるめた。

 もしその八月に降る雪のような微笑みを目撃するものがいれば、彼ないし彼女は己の内側から湧きだす情動を深いため息とせずにはいられなかっただろう。だがそんな果報者の登場を待たず、形を得た優美の概念は、やはり盛夏の降雪のごとく溶け消えてしまう。

 あとに残るのは、地面についたしみより陰鬱な相だったかもしれない。たった数秒の行いを恥じ入るように、彼女は俯いていた。

 それは奇しくも、彼女がなんの感慨もなく見下ろしていたあの光景にどこか似ていた。

 明けの光を恐れて暗がりへ逃げ込んだ、あの――。

「ん……」

 しかし彼女がどれだけ厚く曇った仮面を被り直そうと、その努力はなんの結果も生まない。塩化ビニル樹脂製のゴミに夜明けを止める力がなかったように、彼女にもまた布団の端からのぞいた重いまぶたが開くのを防ぐ力などないのだから。

 そうなってしまったが最後、彼女は再びそのかんばせを綻ばせずにはいられなくなる。

 灰色の雲の切れ間から冬の花が舞うように――たとえその全てが、落ちる端から溶かされて彼女の心を濡らすとしても。

 あたかも光の中では生きられないものが、光に焦がれるように。



「そういえばこの前のヤツ、あんたの言ったとおりだったよ」

 折り畳み式の卓上鏡を覗きこみながら、女は振り返りもせずに言う。

 クレンジングシートで丁寧に拭き取られていく華やかなメイクも、セットの名残が窺える明るい色の髪も、ジーパンより薄手のドレスにこそ映えるだろう。

 そこは彼女の職場のロッカールーム――ではなく、『診察室』だった。

「この前のヤツ? 何だっけ?」

 女の肩越しに怪訝そうな返事が返ってくる。

 客に見せるための顔から愛しい一人のための顔に戻るいじらしい努力の背後では、そこを『診察室』とした張本人が悠然と煙草をふかしていた。

「馬?」

「いや、そっちは大ハズレだったけど。――ほら、紹介状書いてくれたじゃん」

「ああ……」

 女の言う当該の件を思い出した――というよりは、幸運のおこぼれに預かる可能性を一蹴されたことへの落胆を滲ませた声だった。

 声の主は冗談みたいに長い脚を組みなおす。

 大都会のど真ん中で開業医を名乗るには随分若い男だ。

 よれよれのTシャツに寸足らずなチノパンを履き、冷える季節の入口だというのに裸足にサンダルをひっかけている。羽織っているものがしわひとつない清潔な白衣でなければ、遊びたい盛りの大学生を名乗っても通じるだろう。

「まぁ、書いたのは僕じゃないけどね」

 声音にこそ出なかったものの、一応『紹介状』の単語に心当たりはあったらしい。白衣の男はつまらなそうに煙を吐き出した。

 男を無視したまま、女は話を続ける。

「それでさ、大きい病院行ったらマジであんたが言ったとおりだったの。先生が言ってたよ。『キミは薬で治療できる段階で運が良かった』って」

「へぇ、それはよかったねぇ」

「うん。――なんか、ちゃんとした機械で検査しても見つかりにくいらしくてさ」

 おもむろに、他人事のような相槌をうっていた男の方を女が振り返る。

 一通りの化粧を落としたその顔は、男よりも幾分若い。

「ねぇ、ワタリ」

 白衣の男――ワタリは女を横目で一度見やっただけで、別段変わった反応は見せなかった。

 いつもと変わらない気の抜けた横顔。のんびりと煙を吐き出しながら、しなやかな指で器用に吸いさしを叩いて灰を落とす。

「あんた医者やめて占い師にでもなったら?」

 口調こそ揶揄いを含んでいたが、飾り気のない顔には疑問が、ともすれば不安にも似た色が差していた。

 目抜き通りを外れた路地にひっそりと建つアマネビルの三階には、夜の間だけ開く診療所が入っている。

 女が働く店のオーナーによれば、街の玄関口である大通りのアーチが今とは異なるデザインだった頃にも、そこにはやはり診療所があったらしい。

 しかしその存在する時間が違う二つの診療所の間には、さらにわかりやすい違いがあった。

 すなわち、である。

 今その場所の機能を主張するのは、通りに面した窓ガラスの曇りに浮かぶかろうじて『医院』と読める痕跡だけだ。それも前を通りかかっただけでは気付かないだろう。

 実際、内装も良くいえばレトロな、悪くいえば廃墟と紙一重であり、おそらくオーナーの記憶にある『診療所』の頃から、最低限の衛生を保つ清掃以外の手が入っていないことは明らかだった。

 置いてある医療器具もどれも見るからに型が古く――『ちゃんとした機械』の姿など見い出すべくもない。

「冗談でしょ。僕ほど医者に向いた男はいないのに」

 女の言わんとするところを察したのか、たばこを持っていない方の手が、事務机の上の紙の医学書やカルテを意味深に撫でる。

「そのこころは?」

「なんせ医学部へ行った」

 作り物のけぶるようなまつ毛を外してなお印象的な瞳が、思いっきり半分ほどの大きさになる。思いがけず期待を裏切られた人間がする目つきだった。

「なら、国家試験に落ちるようなマヌケはいないでしょーね」

「これは大勢の人が知らないことだけど、物事の向き不向きと結果の間に因果関係はないんだよ。どんなお偉い先生のお気に入りだろうと学年主席だろうと、例えば試験前夜に放水車いっぱいのアルコールを浴びれば、輝かしい未来なんかいともたやすく灰になるだろ?」

「あんたみたいに?」

 そんな悲劇があったか定かではないにしろ――事実として、医師免許を誰にも見せたことがない現院長は、一本取られたとばかりに笑って肩をすくめた。

 限りなく黒に近い灰色の闇医者を視界の端に追いやり、女は卓上鏡や化粧落としの道具を鞄に放り込む。

「とにかくさ、あたしはその『霊感』をもっと前に出して商売しなって言ってんの」

 変に緊張していたことが馬鹿らしくなったのは間違いないようだった。

 話題こそ続いていたが、口ぶりはどちらかといえば平生お節介を焼くときのそれに近かった。

「レーカンなんてそんな。ただの偶然だよ」

 家庭の事情で高校をまともに卒業できず、なし崩しに夜の世界に入った女にしてみれば、医者も占い師も正直に言ってしまえばそう変わらない。

 どちらも特別なことをしたようには見えなくても、どこが悪くてどうすれば治るのかぴたりと言い当ててしまうからだ。その対象が人体か人生かという点以外に、女は二つの違いをはっきりと説明できない。

「いうなれば、僕の冴え渡りまくりの知性と君の日ごろの行いに神さまが報いてくれた――みたいなものだからさ」

 ――だが、視界の端で紫煙をくゆらせる男がそれらとは違うという意識もまた、やはりうまく言語化できないまま彼女の中には確かに存在していた。

「ほら、神さまとか言っちゃってるし」

「医者が神さまって言ったらおかしい?」

「あんたが言うとヘンな感じ」

 ワタリは普段、限りなく黒に近いという事実を忘れさせるほどだった。

 聴診器やヘラのような器具とペンライトを用いる診察定番の行い。患者に書かせた問診表をもとにした聞き取り。手に負える範囲なら治療を施し、そうでなければ正規の医療機関を勧め、かなわなければどうすべきか助言する。病名や治療方法についての詳しく丁寧な説明も欠かさない。

 しかし、今回はそうではなかった。

 いつもと――今と同じように、隙間時間に世間話をしただけだ。しいて言えば、その中で最近疲れがとれないからビタミン剤か何か都合してほしいという、愚痴とおねだりの不味いカクテルみたいな話こそしたが。

 たったそれだけで、大病院への紹介状を発行できる正規の町医者宛ての依頼状が出てくることがあり得るのだろうか。

 似たような経験談なら、バラエティ番組やSNSでいくつか見たことがある。しかし真偽不明の誰かの物語に登場するのは、たいてい老齢で経験豊富なベテラン医師だ。

 まぎれもなく真実でしかない彼女の現実にいるのは、『いい加減』という字に無駄に長い手足が生えたような若造。どんなに多く見積もっても、中年にすら届かない――。

 そこで女は、この『ワタリ』としか名乗らない男のことを、よく知っているようで知らないことに気が付いた。

 見た目こそ青年だが、法的に生年月日を証明するものを見たことがない。

 日の暮れる頃に診療所を訪ねれば大抵会えるが、日中の所在は知らない。

 閉院した診療所に再び明かりをつけるより以前、どこでどうしていたのか。前院長の縁者だという者もいるが、本人の口からそんな話は聞いたことがない。

 この国の多くの人間がそうであるように、女は十二月二十四日とその翌日を祝い、一週間後には神前で手を合わせ新しい一年の幸福を祈る。

 テレビやインターネットで時折話題になる未確認飛行物体の映像や心霊写真だって、全部誰かが用意した悪ふざけだと思っている。

 だけどもし――本当に『神さま』というものがいるのだとしたら。

 それはこんな風に自然と人の営みに溶け込み、それでいてつかみどころがない存在なんじゃないか――。

「なーんかほんとにって気がしてくるのよねぇ」

「感受性が豊かで大変結構」

 呆れたように肩を揺らす男の整った顔を眺めていると、まだほんの幼かったころ抱いていた他愛のない空想が湧きだしてくる。

 ――はたして、本当に空想だったろうか。

 辿ることもできないほどはるか遠くになってしまったから、勝手に空想のカテゴリにしまい込んだだったんじゃないか――と、思ったところでドアが開く音が二人の間に落ちた静寂を破った。

「ままー!」

 続けざまに女を現在に引き戻したのは、『愛しい一人』の明るい声だった。

 女児向けの小さなリュックを背負った少女はそれまで繋いでいた女の手をふりほどいて駆け出す。

 体当たり同然に飛び込んできた小さな体を、女は――母親は力強く受け止め、そのまま抱え上げた。

「おはよう、つむぎ!」

 一夜ぶりに再会した母子は仲良く頬を寄せ合い、その少し離れたところで母親ではない女が忘れ物のように立ちつくす。

 ここではすっかりおなじみになった光景だった。母親の肩越しに、白衣の男を見つけた女児が元気なあいさつを投げるところまで含め。

 ワタリはふっと短く煙を吐いて、「おはよーつむちゃん」と片手を軽く挙げ返した。

 未就学児がいようとお構いなしの喫煙態度はおよそ褒められたものではないが、それを咎める者はこの空間にはいなかった。当事者でさえ、その関心は既に母親に移っている。

「あのね、きょうおふとんたたむおてつだいした!」

「やだ、めっちゃえらい! つむぎサイコー!」

 母親のシンプルな褒め言葉がもたらす喜びは小さな胸に余ったのだろう。

 喜びを分かち合うように、つむぎはドアの前の忘れていなかった忘れ物に屈託のない笑顔を向けた。

「あ――」

 忘れ物の方といえば、完全に油断していたらしい。

 一瞬瞠目し、それからぎこちないながらも嬉しそうに頷き返す。

「柏木さん、いつもありがとね。大丈夫だった?」

 母は娘をあやしながら、胸に柏木という手書きの名札を下げた女に眉を下げつつも微笑みかけた。

「あ……いえ――あの、はい」

 彼女はまた驚いたように身をすくめ、おずおずと言葉を選ぶ。

「問題ありません。つむぎさんは、今日もとてもいい子でした」

 つむぎの母親は、職業柄人の感情の機微を汲むことには人一倍の自信があった。

 そうでなくとも、柏木に限ってはそのたどたどしさが誠実さの結果であることは、診療所に数度足を運んだ人間なら容易に理解できるだろう。――その凍り付いたような無表情と淡々とした態度が崩れるということが、どんなに特別な事態であるかも。

 母は何かいいことを閃いたとでもいうように、腕の中の娘をのぞき込む。娘の方はきょとんと母親を見返していたが――。

「柏木さんって、このあと時間ある?」

「え?」

「良かったら一緒にどう? 朝ごはん。あ、ファミレスなんだけど」

「え」

「えっ!」

 三度みたび目を見開き柏木が漏らした戸惑いを、喜びの声でかき消した。

「ふゆおねえちゃんとあさごはん!?」

「うん。実はねぇ、ママも前からふゆお姉ちゃんとおしゃべりしてみたいなーって思ってたんだ」

「やったー! ままさいこー!」

「で、でも、あの――」

 母子二人がかりの期待に輝く眼差しから逃げまどうように、視線が二人を越していく。

 その先で目が合った男は、特に何も言わないまま煙草を口元に運んだ。彼女が期待するような助け船は出港する気配すらない。

 だから困ったように寄せられていた流麗な眉根も、あとはもうおっかなびっくりと緩んでいくしかなくなって、

「えと……お、お邪魔させていただきます――」

 それを見られるのが忍びないとばかりに頭が下がる。しかし薄い耳に浮いた恥の色までは隠すことができなかった。

 ネオン煌めく舞台に上がれば誰もが手を伸べる容姿からまろび出た純朴は、一児の母に笑みをこぼさせ、次いで娘にこれからの楽しい時間を予感させる。

 ブラインドカーテンの隙間から差し込む自然光の中、一枚の絵のような瞬間だった。

 あたたかく豊かな色彩で描かれた母子と女。見えない額の内側で、三人は確かに調和している。

 向き不向きと結果の間に因果関係がないように、いかなる過程も経緯もこの調和という結果には勝らない。

 ――そう。

 たとえその類まれに美しい女の、絹糸のような髪が朝日を浴びてきらきらと輝いていようとも。同じ色の長いまつげにふちどられた瞳が、どんな言い訳も受け付けないほど鮮やかにとも。

 目の前にあるものに一片の疑問も抱かない女は振り返り、背後の男に他愛もない話を振る。ついさきほど、存在すら疑ったはずの男。今はもう夜間に子供を預かってくれる親切な知人。

 知人は穏やかにほほ笑むと、フィルターの噛み潰された煙草を灰皿に押し付けた。


 これはそういう、人の意識の向こう側の出来事。

 誰かが見落とした現実フィクションだ。

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