ファビュラスベートビブリオテーク

柚里カオリ

第1章 霧と刑事と管理人

『行方不明者多数! 市内にて失踪相次ぐ! 人為的誘拐事件か? 警察の捜査難航』


 手に持った新聞の大々的な見出しを見て、大通りを横道にそれた路地の壁にもたれかかっていたロイド・ティンガー刑事は眉をひそめた。


 シルクハットをかぶり、モノクルを付け、コートを着ているその姿は、厳格なベテランの刑事の姿そのもので、帽子から覗く白髪と眉間に深く刻まれた皺は、ロイド刑事が多くの修羅場を潜り抜けてきたことを物語っている。


 馬鹿馬鹿しいというように新聞を閉じ、ロイド刑事は壁から背を離すと、懐中時計を取り出して時刻を確認する。一秒のズレも許されないロイド刑事の時計は、待ち合わせ時間から数分が経っていることを示していた。


「ロイド刑事―!」


 聞こえてきた声に、ロイド刑事が煩わし気に声のした方を向く。新米刑事で、最近ロイド刑事とペアになることになったピエール・ウィルバン刑事が走って来ていた。その手にはロイド刑事と同じ新聞が握られている。


 ロイド刑事と同じようなコートを着ているが、刑事としての威厳は微塵も感じられない。赤茶色のくせ毛が走るたびに揺れる姿や、目の下のそばかすが、若者らしい若々しさを醸し出している。


「今、そこで新聞買ってきたんですけど、いやー、記事になってますね! まあ、あれだけ行方不明者が出たらそうなりますかー」


「……まず、時間に遅れたことを詫びるべきだと思うのだがね」


 ロイド刑事の鋭い眼光に、先ほどまで明るい表情をしていたピエール刑事が姿勢を正し、すくみ上った。


「も、申し訳ありません! でも、数分程度じゃ……」


「数分でも遅刻は遅刻。以後、気を付けるように」


「す、すみません……」


 ロイド刑事の叱責を受けたピエール刑事は肩をすくめてしょんぼりし、歩き出したロイド刑事の後についていく。大通りに出たロイド刑事は持っていた新聞をゴミ箱に捨てた。


「世間の馬鹿げた意見に踊らされるべきではない。犯人は怪人やら、行方不明者はすでに死んでいるやら、様々な憶測が飛び交っているようだが、警察が調べたことが全てだ」


「ですが……捜査が難航しているのは確かですよ? 目撃者の証言によると、行方が分からなくなった人は、目の前を確かに歩いていたにも関わらず、忽然と姿を消したこともあるようですし……とても人間の仕業とは……」


「それなら人の仕業ではないだけだ」


「へ?」


 ロイド刑事の予想外の返答に、ピエール刑事が気の抜けた声を出す。間抜けな表情をするピエール刑事に、ロイド刑事はあきれたような顔をした。


「何かおかしなことを言ったかね?」


「い、いえ……その……馬鹿げていると言われると思ったので……」


「……生まれつきの体質か、こういう摩訶不思議な事件に巻き込まれることが多くてな。こういう類の事件は、一般的な人間が解決できるものではない」


「はあ……それで、今日会う人はどういう方なんですか?」


「こういう事件においてのプロと言っていい者だ。だが、あまり関与し過ぎるのは好ましくないな」


「あー、なるほど! ロイド刑事はその方が嫌いなので、ここまで捜査が難航するまで頼らなかったんですね!」


 明るく言い放ったピエール刑事をロイド刑事が睨みつけた。その顔にピエール刑事は慌てて口をつぐみ、ピエール刑事を無視して歩いていくロイド刑事を追いかける。


 ロイド刑事は大通りをしばらく歩いていくと、また横道にそれて路地に入っていった。人気のない路地を歩き、壁に貼られたポスターの前で立ち止まる。


「……あまり目を合わせすぎるなよ」


「え? あの……待ち合わせ場所ってここで合ってるんですか?」


 ピエール刑事の質問に答えようとせず、ロイド刑事は険しい顔をしてポスターを見つめている。長い月日を雨風にさらされたらしいポスターの絵や文字は、かすれたり滲んだりして読めなくなっていて、かろうじて何かしらの動物が描かれていることはわかるが、それが何の動物なのかわからない。


 不意に強い風が吹き、ポスターをさらって、空の上へと飛ばした。ピエール刑事は荒ぶる髪が目に入りそうになって目をつぶり、ロイド刑事はシルクハットが風に飛ばされないように手で押さえる。ロイド刑事はシルクハットを押さえながら振り向いたが、路地には人ひとり現れていないのに、影ができていた。


 ロイド刑事がはっと気が付いて上を見上げる。ロイド刑事の目に飛び込んできたのは、ロイド刑事が待ち合わせをした人物たちが、空から降りてくる光景だった。


「頭上からで申し訳ありません」


 ピエール刑事が呆然とその光景を眺める中、その人物たちはゆっくりと地面に足を付けて着地した。


 白いぼさぼさの髪を低い位置で一つにくくり、年季の入った薄汚ないコートを着た若い男。左耳には雫の形を反対にしたような形の、白い耳飾りを付けている。


 その手には、黒い風船らしきものが握られていて、男がそれから手を離すと、風船は羽を広げて男の頭上を旋回した。よく見れば、それは一本足の大きな蝙蝠のような生き物で、男がコートの中から本を取り出し、片手で開くと、その生き物は本に向かって飛んでいき、本の中に入って消えた。


 ピエール刑事の開いた口はふさがらない。男は片手で抱き上げていた少女をゆっくりと地面に降ろした。美しい金色の髪を一つくくりにして編み込んでいる少女は、目の前にいる二人の刑事を見つめる。


 長いまつ毛に縁どられた瞳はエメラルドグリーンで、閉じられた小さな唇は、ほんのりとしたピンク色をしていた。身に着けたブラウスはふんわりと膨らんだバルーン状の袖をしており、袖口は黒いリボンがあしらわれていて、目が覚めるような青色のスカートから覗く足は白いタイツで包まれ、黒いストラップシューズを履いている。右耳には、男が付けているものと同じ耳飾りを付けていた。肌は雪のように白く、無表情で立っている姿は生きた人形そのもので、ピエール刑事はその美しい少女に思わず目を奪われた。


 少女と比べて、清潔感があるとは言えない恰好をした男は、紺色の目を細め、人の良さそうな笑みを浮かべる。その表情はかえって胡散臭く見えた。


「あれ? ロイド刑事だけではないんですね」


 ピエール刑事を見てそう言った男を、ロイド刑事は険しい顔で見つめている。男に寄り添って動かない少女も、不思議そうにピエール刑事を見つめていた。


「お初目にかかります。私はディティエール・ヴァン・レモンドという者でして、ロイド刑事とはこのような事件で数回お会いしています。ディティ、とでも気さくに呼んでください。そして……」


 ディティが少女の方を向き、そっと肩に手を回す。


「こちらはマライア・ベティー。私の大切な女性です」


「へ?」


 予想外の紹介にピエール刑事が気の抜けた声を出した。


「妹とかではなく……?」


「はい。ですので、いくらマライアが可愛いからと言って手を出したりしないでくださいね?」


 ね? とさらに釘を刺したディティの目は笑っておらず、ピエール刑事が顔を引きつらせる。変に流れた沈黙を掻き消すようにロイド刑事が咳払いをして、鋭い眼光をディティに向けた。


「御託はけっこう。早く本題に入らせてもらおう」


「そんなに怖い顔しないでくださいよ、ロイド刑事。マライアが怯えてしまうじゃないですか。ねぇ、マライア」


 ディティがマライアを抱き寄せようとして、マライアがすっとそれを避けた。ディティが「え……」とあからさまに傷ついた顔をする。その様子を見ながら、ロイド刑事が苛立っていることに気がついたピエール刑事は、怯えながら事の成り行きを見守っていた。


「その茶番はいつ終わる?」


「……あ、申し訳ありません。事件の話ですね。詳細をどうぞ」


 たいして悪びれた様子もなく、さらりと言ってのけたディティに、ロイド刑事の眉間に皺が寄った。ロイド刑事は怒りを静かに飲み込んで、事件の詳細を話し始める。


「三週間ほど前から相次いで人々が失踪している。失踪者は全員、大通りをそれた路地に入ったところで消息を絶った。消えた時間は決まって早朝。目撃者は多数いるが、中には失踪者が隣にいたにもかかわらず、気が付いた時には消えていた、という証言もある。そして、人が消えた日の早朝、路地に朝霧が立ち込めていたという証言もあった。霧に入った直後、人が消えた、ともな」


「朝霧ですか……」


 ディティが手であごに触れる。ピエール刑事はロイド刑事が一般人に情報を漏らしたことに驚きつつ、考え込んでいるディティを見つめた。


「とにかく現場に行った方がよさそうです。案内してくれますか」


 ロイド刑事が歩き出し、ピエール刑事が慌ててそのあとを追いかける。ディティはロイド刑事を追って歩き出そうとし、マライアに手を差し出したが、マライアはそれを無視して歩き出した。ディティが悲しそうな顔をする。


 ピエール刑事は足早に歩いてロイド刑事の隣まで行くと、顔色をうかがいながら問いかけた。


「あの……ロイド刑事? いいんですか、あんなに簡単に事件の情報を話してしまって……。それに、あの人はいったい何者なんです?」


「……人間ではない。魔法使いと呼ばれるものだ」


「魔法使い⁈」


 大きな声を出したピエール刑事は、後ろのディティたちに話が聞こえることに気が付き、あわてて口を閉じた。声をすぼめ、ひそひそと会話を続ける。


「本気ですか……?」


「……見ただろう、奴が空から降りてくるところを。奴は不思議な力を使う者、魔法使い。そして、管理人アドミニストレーターと呼ばれる者だ」


「アドミニストレーター?」


「その通り!」


 突然声をかけてきたディティに、ピエール刑事が飛び跳ねそうな勢いで驚き、情けない声を上げた。ピエール刑事がおそるおそる振り返ると、笑顔のディティと目が合う。


「私は魔法使い。そしてアドミニストレーター。ファビュラスベートを管理、保護することが役目です」


「ふぁ、ファビュラスベート?」


「ピエール刑事もご覧になったでしょう?」


 ディティが歩きながらコートの下から本を取り出した。赤い背表紙のその本は、とても古いように見えるが、何度も修復を繰り返し、大切にされているのがうかがえる。


「人が住む世界とは異なる世界に住まう、不思議で魅力的な生き物たち。それがファビュラスベートです。普通の人が普通に生きていれば、まず遭遇することはありません。ファビュラスベートが住む世界は、人の世界と同じ場所に存在していますが、存在する時空が違うので、お互いの世界がお互いを認識せず、干渉することもないですからね。ただ、まれに、ファビュラスベートが人の世界に迷い込む事例が発生するんですよ。ファビュラスベートは不思議な力を持っていますから、いろんな事件を起こしてしまうんですよねぇ。……理解できてます?」


 ディティがぽかんとした顔をしているピエール刑事に問いかける。その時、不意にディティのコートのポケットがもぞもぞと動き出した。気が付いたマライアがディティのコートの裾を引っ張る。


「ん? どうしたの、マライア———」


 ディティがマライアの方を見ようとした瞬間、ポケットの中から小さい何かが飛び出した。


「マラン‼」


 ディティが叫ぶのと同時に、ポケットから飛び出した何かは一目散に逃げだし、それを追いかけてマライアが駆け出す。マランと呼ばれたファビュラスベートは、突然のことに動けなかった刑事二人に向かって走っていき、立ち尽くしていたピエール刑事の身体をよじ登った。


「わわわ⁉」


 ピエール刑事の髪をかき分け、頭の上に到達したマランが前を向いた瞬間、マライアの手が目の前に迫っていた。突然すぐそばまで迫っていたマライアに驚いて、ピエール刑事がバランスを崩す。マライアの手はマランを掴んだが、マライアもバランスを崩し、そのままピエール刑事に覆いかぶさるように倒れていく。


 尻餅をついたピエール刑事は倒れてくるマライアを受け止めようと手を伸ばしたが、マライアの身体は倒れる前に空中で止まった。


「マ~ラ~ン~」


 ディティの怒りに震えた声が響く。よく見れば、マライアの身体には木の枝のようなものが巻き付いていて、身体を支えていた。木の枝はディティが持っている、ページが開かれた本から飛び出していて、マライアがバランスを持ち直して立つのを確認すると、本の中へと戻っていった。


「僕、ついてくるなって言ったよね~?」


 マライアの手の中でじたばたと暴れているマランは、リスぐらいの大きさの、小猿のようなファビュラスベートだった。淡い桃色の毛並みに、大きな耳。尻尾はリスのように大きく、内側に巻いていて、まるで小猿とリスを混ぜたような姿をしている。


 短い手足を動かして、「キイ! キイ!」と鳴きながら、懸命に手から逃れようと頑張っていたマランは、マライアによって本を閉じてゆっくりと近づいてきたディティに手渡され、ディティと目を合わせないようにそっぽを向いた。


「悪戯ばかりしていると、きつ~いお仕置きをするぞ~?」


 ディティの言葉にマランが「キイ……」と情けない声を出し、しょんぼりと両手で自分の耳をふさいだ。その様子にディティが軽くため息をつくと、マランを自分の肩の上にのせて、ポケットから飴を取り出し、包み紙を取ってマランに差し出した。マランは嬉しそうに飴を受け取り頬張ると、マランの頬袋が膨らむ。


「あげるから、大人しくしてて……」


 ディティは、尻餅をついたまま呆然とその光景を眺めていたピエール刑事に手を差し伸べ、ピエール刑事がはっとしてその手を取ると、ディティがピエール刑事を立ち上がらせた。


「大変お騒がせしました。このように、ファビュラスベートは様々な事件を引き起こしますので……。私の仕事は迷い込んだファビュラスベートを保護し、元の世界へと帰すことなんですよ。今回の事件も、ロイド刑事の話を聞いたところ、おそらくファビュラスベートが関与しているでしょうから、ロイド刑事が私を呼び出した、というわけです。様子を見た限り、本当に何も知らないようでしたから、軽い説明をさせてもらいましたが……あなたもひどい上司ですねぇ、ロイド刑事」


 不適な笑顔を向けてきたディティに、ロイド刑事はフンと鼻を鳴らした。


「大きなお世話だ。早くいくぞ」


「案内お願いしますね」


「言われなくても」


 仏頂面で歩き出したロイド刑事に、ディティがやれやれというようにピエール刑事に笑いかけ、今度こそさりげなくマライアの手を取ると、ロイド刑事を追いかけて歩き出した。ディティの肩の上でマランが頬袋に飴を入れたまま、毛繕いを始める。


 一人取り残されたピエール刑事は、しばらく目の前で起こった夢のような出来事に呆然としていたが、おいて行かれたことに気が付き、慌ててロイド刑事たちを追いかけて行った。


    ◇


「ここが現場ですかぁ……。立ち入り禁止とかにしないんですね」


 ロイド刑事の案内で現場である路地の入口に到着したディティがロイド刑事に問いかける。ディティに手をつながれたままのマライアは、離してほしそうに少しだけ手を引いたが、逆に握り返されて怪訝そうな顔をした。


「失踪の理由がわからないままでは規制することもできん」


「あぁ、なるほど。面倒ですね、お堅い警察というものは」


 笑顔で言ったディティを睨みつけ、ロイド刑事は「行くぞ」と歩いていく。ディティは睨まれたことなど微塵も気にしていないというように、マライアの手を引いて歩き出した。後ろで不安げな表情をしていたピエール刑事が慌ててついていく。


「話を聞いて、なんとなく誰の仕業かはわかっているんですけどね。朝に来た方が見つけやすかったかもしれません」


「誰なんですか?」


「それは見つけてからのお楽しみとしましょう。まぁ、ロイド刑事と僕がいればすぐ現れるでしょうが……」


 ロイド刑事は二人の話を聞いているのかいないのか、一人で前に前にと歩いていく。マライアは先ほどからずっと不服そうに、ディティに繋がれた手を見つめていたが、何もないところでつまづいて、ガクンと体勢を崩した。


「!」


 ディティがとっさに手を引いて、マライアが倒れないようにする。マライアが立ち止まってしまった。


「大丈夫かい?」


 ピエール刑事がマライアに問いかける。マライアはピエール刑事をじっと見つめると、小さくコクリと頷いて、まるで早く進もうと言うようにディティの手を引いた。言葉を発さないマライアに、ピエール刑事が少し悲しそうな顔をする。


「すみません。人見知りする子なんです。しゃべらないのは別に嫌っているのではなく、飴を食べているのでしゃべれないだけですよ」


「飴?」


「えぇ。まぁ、今は何もないところでつまづいて、恥ずかしくなって顔を見れないだけだと思いますけどね。ねぇ、マライア」


 ディティがそう言った瞬間、マライアが強めにディティの腕を叩いた。余計なことを言うなというようにディティを睨みつけ、ディティが「ごめん、ごめん」と謝る。


 不意に前を歩いていたロイド刑事が立ち止まり、振り返った。


「ここが、人が消えた場所だ」


 ついにマライアはディティの手を振り払い、ディティを急かすように肩で背中を小突いた。ディティが困ったように笑い、その様子を見ていたロイド刑事が顔をしかめる。


「ここですか……入れるような扉も、小道もないですね。とても人が消えるようには思いませんが……ね」


 ディティがあごに手を当てながら周りを見回す。路地は冷たい壁に挟まれて、扉も小道もなく、人が消えそうな場所はない。あたりをグルッと見回して、ディティはロイド刑事に不適な笑みを浮かべた。


「やっぱり、人間の仕業とは思えないですね」


「だからそう言っている。さっさと解決してくれ」


「まぁまぁ、そう急かさずに。それにしても、新聞を読みましたよ。最初の事件は数週間前ですよね? なんでもっと早く私を呼び出さなかったんです?」


「……本当に人為的なものではないのか確認するためだ」


「そうですか。相変わらず警察はお堅いですね」


 ディティとロイド刑事がバチバチと火花を散らすのを、ピエール刑事がオロオロしながら見守っている。その時、一歩後ろで様子を見ていたマライアが何かに気が付いたように路地の先を見た。路地の先には何もない。マライアがよく見ようと目を凝らした瞬間、あたりに霧が立ち込め始めた。


「わわっ! 何ですか、これは⁉」


 ピエール刑事が慌てふためき、ロイド刑事が険しい顔をする。霧は徐々に濃くなっていき、近くにいるはずの人の顔が見えないほどだった。


「……お出ましですね。そろそろ」


 ディティの声だけが響き、ピエール刑事が息を飲む。霧はあたりを隠すように濃くなり、視界が霧に完全に閉ざされたその時、霧の中から足音が聞こえた。カツカツと石畳を硬いものを履いて歩いているような、人のものとは思えない足音。


「動かないで」


 ディティの声に、ピエール刑事が身体を強張らせる。ロイド刑事は険しい顔をして、霧の中に目を凝らした。


 霧の中から姿を現したのは、馬のような四足歩行のファビュラスベート。身体中にツタが巻き付き、白い花を咲かせている。毛はなく、目の周辺にはヒビが入っていて、白い石灰のようにボロボロと崩れていた。額には一本の角が生えており、その角にもツタが巻き付き、花が咲いている。ブルブルと鼻を鳴らしながら、ゆっくりと歩いてくるその姿は、動く馬の像のようだ。


 現れたファビュラスベートにピエールが目を見開いた。ロイド刑事はその姿を睨みつけるように見つめている。


「ピャアアアア‼」


 突然、ファビュラスベートがラッパのような甲高い鳴き声を上げると、こちらに向かって突進してきた。ピエール刑事がビクッと肩を震わせるが、あまりの迫力に動くこともできない。ファビュラスベートは角を突き出しながら突進し、ピエール刑事がぎゅっと目をつぶった。


 ピエール刑事が覚悟を決めたその時、どこにいるのか見えなかったディティがピエール刑事の前に立ちはだかり、ファビュラスベートに向かって右手を突き出した。


 その手に握られているのは、銀色の大きなベル。ファビュラスベートが近づいてきた瞬間、ディティがそのベルを鳴らすと、ベルはその大きさからは想像できないほどの大きな音を鳴らした。


「ピギャアアア‼」


 ベルの音は響き渡り、ファビュラスベートは音に驚いて急ブレーキをかけると、悲鳴に近い鳴き声を出して前足を上げた。その瞬間、あたりに煙のように霧が立ち込め、その場にいた全員を包み込む。真っ白で何も見えない中、ファビュラスベートは方向を変え、足音を響かせながら走り去っていった。


 あたりは霧に包まれ何も見えなくなる。ピエール刑事は怯え切って、近くにいる誰かの服の裾を掴んだ。


「……いつまで掴んでいるつもりだ」


「……へ……?」


 目をつぶっていたピエール刑事が聞こえた声に恐る恐る目を開けた。そして、飛び込んできた光景に目を見開く。


 そこは街の路地などではなく、鬱蒼とした木々が立ち並ぶ、不気味な森の中だった。立ち込める霧のせいで、少し先の景色も見えない。あたりには人間の世界にはないような不思議な花が咲き、木々は怪しげに揺らめいている。白と黒の色彩に包まれた森の中に、ピエール刑事とロイド刑事は立っていた。


「離せと言っているのだが?」


「……はっ! す、すみません!」


 ピエール刑事がようやくロイド刑事のコートを掴んでいたことに気が付き、慌てて手を離す。キョロキョロとあたりを不安そうに見回し、ピエール刑事は情けない声でロイド刑事に問いかけた。


「こ、ここは……?」


「……」


 ロイド刑事は答えない。ピエール刑事が不安そうに、泣きべそをかく。


「答えてくださいよぉ……」


「私も知らん。元居た場所ではないことは確かだろう」


「どうするんですかぁ……」


「いま考えている」


 ロイド刑事は険しい顔で一点を見つめている。ピエール刑事が不安気にあたりを眺めていると、近くでガサガサと物音が聞こえた。


「ぎゃああっ‼」


「うるさい」


「け、けけ、刑事‼ ロイド刑事‼ いま何か動きましたよ⁉ ぼ、僕たち襲われるんじゃ……‼」


「襲われたくないなら静かにしろ」


「うわああっ‼ そこ‼ そこ‼ 動いてますって‼」


 ピエール刑事が指差した茂みが動いている。ロイド刑事が怪訝そうに茂みに近づいて行って、ピエール刑事は怯えて後退さった。


 その瞬間、茂みから何かが飛び出して、ピエール刑事の視界が真っ暗になった。


「ぎいやああああっ‼」


 ピエール刑事が盛大に尻餅をつく。バタバタと手足をばたつかせ、顔にくっついた何かを取ろうともがく姿を見かねたロイド刑事が、ピエール刑事の顔から飛び出してきたものを引っぺがした。


「キキッ‼」


「お前は何をしているんだ」


 ピエール刑事に飛びついたマランはロイド刑事に首の後ろをつままれ、逃げ出そうと暴れている。驚きのあまり、目に涙を浮かべたピエール刑事は、マランを見て「あ……ディティさんの……」と呟いた。


「キーッ‼」


 マランがロイド刑事の手から逃げ出して、地面に着地する。尻尾をゆらゆらと揺らしながら、マランは飛び出してきた茂みの前まで走っていくと、振り返って「キキッ」と一声鳴いた。そして、ついて来いというように茂みの中に潜っていき、それを見たロイド刑事が、マランの後に続いて茂みをかき分けていく。


「‼ 待ってください‼」


 ピエール刑事が慌てて立ち上がり、ロイド刑事を追いかけて茂みをかき分けていく。


 ピエール刑事が茂みを抜けて、目を開くと、あたりの景色は先ほどまでの森とは違い、街中の路地に戻っていた。先に茂みを抜けていたロイド刑事が目の前に立っていて、マライアと手をつないだディティがピエール刑事を見てほほ笑んだ。


「いやあ、申し訳ない。私が手を取らなかったばっかりに、『ファントムパラディ』に二人して迷い込んでしまいましたね」


「ファ、ファントム……?」


幻の楽園ファントムパラディ。ファビュラスベートが住まう、異界です。この世界と並行して存在しているもう一つの世界。お二人はそこに迷い込んだのですよ」


「……そ、そうだ! あの化け物は⁈」


「化け物ではありません。ブルイヤールボアというファビュラスベートです」


「……説明を」


「言われずとも」


 ロイド刑事に促され、ディティがにっこりと笑う。


霧に隠れし一角獣ブルイヤールボア。空気中の水分を吸収し、養分にするツタ科の花に寄生された、霧を司るファビュラスベートです。花が余分になった水分を霧として放出するため、ボアの周りには常に霧が発生します。ファントムパラディの夢見の森レーブフォレに住む、温厚で穏やかなベートなのですが、少々問題がありまして」


「問題?」


「霧は昔から境界線を曖昧にするものとされています。世界の境界線、時空の境界線。それらの境界を曖昧にし、度々迷い込む者を別の場所へといざなってしまうのです。ボアの周りには常に霧が立ち込めている。それはつまり、ボアの近くに不用意に近づくと、別のどこかへと飛ばされる、ということです。ボアがこちらの世界に来てしまうと、今回のように、失踪事件が多発します」


「で、でも……‼ 証言者はあんなものを見たなんて、誰も言っていなかったですよ?」


 ピエール刑事が口を挟んだ。ディティは当たり前だとでもいうようにピエール刑事に笑いかける。マランがマライアの身体をよじ登り、肩の上に乗って耳の後ろを足でかいた。


「まぁ、そうでしょうね。ファビュラスベートは普通の人には見えませんから」


「え? でも、僕とロイド刑事は見えますよ?」


「ファビュラスベートは別の世界に住まう者。ファントムパラディは同じ場所にありながら、異なる時空に存在する世界です。それはつまり、同じ場所に存在しながら、お互いがお互いの死角に住んでいるのですよ。なので、通常見えません。あなた方が見えるのは、、ですよ」


「知っている……?」


「二つの世界がお互いに干渉するためには、お互いが認識していることが必要です。お互いに死角が存在せず、お互いに目を合わせている状態。目を合わせるためには、お互いの波長が合っていなければなりません。ピエール刑事。あなたが今日見たものは、ほんの一部でしかないのですよ」


「え……」


 マライアに頬ずりをし始めたマランを阻止するように、ディティがマランに手を伸ばす。マランはそれを嫌がるようにディティの手をはたくと、マライアの頬に縋り付いた。


「……すべての者と波長が合えば、ファントムパラディそのものが見えます。同じ場所に存在していますから。先ほどのように迷い込む形ではなく、自由に行き来することも可能です。まぁ、人間とファビュラスベート……いえ、ファントムパラディそのものの波長が合うことはあり得ませんから、まずない話ですが。マランはずっと僕とともに行動し、こちらの世界に干渉しまくってますので、波長が単調で、普通の人でもファビュラスベートという存在がいることを知るだけで、波長が合って見えるようです。あのボアもこちらの世界に来て結構時間が経っていますから、同じようなものなのでしょう。ピエール刑事が見えていないだけで、今も目の前にいるんですよ? 認識の境界線を挟んだファントムパラディでは、ですがね」


 ディティの言葉を聞いていたピエール刑事は、ポカンと口を開けている。ディティに抵抗を続け、マライアから離れようとしなかったマランはついに捕らえられ、ディティに無理矢理ポケットの中に詰め込まれた。


「さて、あのボアを捕らえなければなりません。これ以上放っておくと、さらに被害者が出てしまいますからね」


「あの暴れ馬をどう捕まえると?」


 険しい顔をして問いかけたロイド刑事に、ディティは人差し指で下唇を押し上げながら、「う~ん」と考えた。


「そうですねぇ……。とはいえ、早く保護しないとあのボア自体が水分を放出し過ぎてボロボロでしたし、あまり二つの世界の干渉を許すのは、アドミニストレーターとしても好ましくありません。ボアは興奮状態でしたので、捕まえるのは一苦労ですけれど……」


「どうするんですか……?」


「馬には手綱です」


 そう言うと、ディティはコートの中に手を入れ、不思議な白色をした長い紐のようなものを取り出した。


「それは……? ていうかディティさんのコート、どうなってるんです?」


「なんでも収納できる魔法道具なので。これはですね、伸縮可能な不思議な手綱です。どこまでも伸びるし、どこまでも縮みます。これを使ってボアを止めます」


「じゃ、じゃあ、あのベルは……⁈」


 ピエール刑事は興味津々で目を輝かせている。その様子にディティが優しく笑いかけ、ロイド刑事は怪訝そうな顔をした。


「あれも魔法使いが使う魔法道具の一つで、どこまでも響く大きな音を発する不思議なベルです。ボアは霧の濃い森の中に住んでいるので、目が退化してほとんど見えません。代わりに耳が発達していて、微かな音でも敏感に聞き取ります。なので、大きな音がすると驚いて逃げていくんですよ。危なかったので一時的に追い払いましたが、ボアが身を守るために放出した霧によって、お二人がファントムパラディに迷い込んでしまった、というわけで……。そこまで遠くには行けないでしょうから、すぐ見つかると思います。ただ、お二人のどちらかに協力してほしいのですが……いえ、とりあえず準備をしましょう。お二人は路地の外で待っていてください」


    ◇



     ディティに促されて二人は路地の外に出た。機嫌の悪そうなロイド刑事の顔色をうかがい、ピエール刑事が恐る恐る声をかける。


「その……不思議な人ですね」


「人ではない、魔法使いだ」


 ロイド刑事は壁にもたれかかり、懐中時計を取り出して、時間を確認する。時計の針はちょうど正午を指し示し、ロイド刑事は目の前の大通りを通っていく馬車を見た。


 馬車の上には小さな花のような不思議な生物たちが乗っていて、楽しそうにおしゃべりをしている。ロイド刑事は顔をしかめたが、ピエール刑事は気が付かない。見えていないようだ。


「それにしても、ロイド刑事は全然驚きませんね。ディティさんと会ったことがあると言っていましたし……あ! もしかしてロイド刑事も魔法使いとか……」


 ロイド刑事がピエール刑事を睨みつけた。ピエール刑事がすくみ上る。


「……あまり、あちらの世界のことに興味を持たない方がいい」


「へ?」


「関わりすぎると戻れなくなる。我々は人間だ。異なる世界との干渉が許されるのは、役割を与えられた人ならざる者。我々は向こうの世界から自力で戻ることすらできないのだから」


「……知りすぎるとダメってことですか?」


「そういうことだ。見えなくていいものは見ない方がいい」


 ロイド刑事はそう言うと、路地の入口に背を向けて歩き出した。ピエール刑事が慌てて追いかける。


「離れていいんですか⁈」


「どうせ我々がどこにいても、奴は見つけ出して姿を現すだろう。暇をつぶしに行く。ついてくるなら好きにしろ」


「待ってくださいよ~!」


 すたすたと歩いていくロイド刑事の後を、ピエール刑事が追いかけて行った。


    ◇


「ロイド刑事の頑固さには困りものだなぁ」


 マライアと手を繋いで路地を歩いているディティが呟いた。マライアがディティの顔を見る。


「まぁ、仕方ないんだけどね。さあて、ボアの霧で飛ばされた人たちは、全員レーブフォレにいるのかな? ということは、全員木々の花粉で仮死状態になってるだろうから、死ぬことはないか。レーブフォレに人を襲うファビュラスベートはいないしね。見つけやすそうで助かる~……」


 マライアが不意にディティの手を引っ張った。


「どうしたの?」


 マライアが何も言わずに口を開ける。ディティがマライアの言いたいことに気が付き、コートのポケットを探って、色とりどりの飴が入った小瓶を取り出した。小瓶から飴を一つ取り出し、マライアの口に持っていく。


「はい、あ~ん」


 飴を口の中に放り込み、ディティが可愛くてたまらないというように頬を緩めながら、マライアの頭を撫でた。


「マライアは可愛いねぇ~……ん?」


 ディティが違和感を感じてポケットを見ると、ポケットの中でマランが暴れているのか、ポケットがうごめいていた。


「……マラン~?」


 ディティがマランをポケットからつまみ出し、マランに向けて笑顔を浮かべた。


「先に帰っとこうか」


「キッ⁈」


 ディティが躊躇なくマランをコートの中に放り込み、マランの姿は見えなくなる。ディティはふうと息をつき、マライアと手を繋ぎなおした。


「ボアの出現スポットを把握しないとね。行方不明者はマランに探してもらおう。ご褒美でもあげれば動いてくれるはず。さて、マライア。ちゃんとつかまってね」


 ディティがマライアの腰に手を回して抱き寄せる。そして爽やかな風が吹いたかと思うと、ディティの足が浮いた。二人は上へと昇って行って、上空から路地を見下ろす。


 大通りをあるく人々は二人に気が付かず、いつも通りの日常を送っていた。



 一時間ほどカフェにて暇を潰したロイド刑事とピエール刑事は、様子を見るために路地の入口へと戻ってきていた。カフェでてっきりロイド刑事がおごってくれると思っていたピエール刑事は「図々しい」とロイド刑事に言われ、しょんぼりしながら軽くなった財布の中身を気にしている。


「お、ちょうどぴったりの時間に戻って来てくれましたね」


 路地の中から現れたディティが二人に笑いかける。後ろからマライアもついてきていた。


「さすがですね、ロイド刑事」


「……用意は済んだのか?」


「えぇ。おかげさまで。ただ、お二人のどちらかに協力していただく必要があります」


「協力……ですか?」


 不安げに問いかけたピエール刑事にディティが笑いかける。


「たいしたことはしてもらいませんよ。ただ、私が指示したところで立っていてくれればいいだけです。でも……そうですね。今回はロイド刑事にお願いしましょうか」


 ロイド刑事があからさまに嫌な顔をする。


「なぜ私なんだ」


「聞かなくとも理解していらっしゃるのでは?」


「……おとりか……」


「いやだなぁ、そんな言い方しないでくださいよ。大丈夫ですよ。安全は保障しますから」


「……案内しろ」


 路地に入っていこうとするロイド刑事とディティを引き留めて、ピエール刑事が問いかける。


「ま、待ってください! 僕は何をしたら……」


「ピエール刑事は入り口で誰も路地に入らないように見張っていてください。すぐ戻りますので」


 そう言ってロイド刑事とマライアを連れて路地に入っていくディティの背中を、ピエール刑事は不安そうに見つめていた。


 ディティに案内されて路地を進んでいたロイド刑事は、ある程度進んだところでディティに止められ「ここから動かないでください」と、ディティはロイド刑事の足元に魔法陣のようなものを描いた。


「それから、ぜったいにマライアの手を離さないでください。絶対ですよ? 絶対」


 ディティに釘を刺され、ロイド刑事は渋々といった様子でマライアに手を差し出した。マライアはためらうことなくロイド刑事の手を握り、魔法陣の中に入る。ディティは少し複雑そうな顔をしていた。


「それでは、僕は隠れていますから、本当に、本当にマライアの手を離さないでくださいよ。そうでないと、マライアもロイド刑事も安全の保障ができませんので」


 そう言って姿を消したディティに、ロイド刑事が軽くため息をついた。マライアは大人しくロイド刑事の手を握っている。


「……お前も大変だな」


 マライアに向かって呟いたロイド刑事に、マライアが不思議そうにロイド刑事を見つめた。その顔に、ロイド刑事がふっと笑う。


 その時、あたりに霧が立ち込め始めた。ロイド刑事が険しい顔をして、マライアの手を強く握った。


 霧の中から、ブルイヤールボアが現れた。興奮した様子でぶるぶると鼻息を響かせ、その場で蹄を数回鳴らす。目の周りのヒビは悪化しているようで、毛が生えていない身体はボロボロと崩れてきている。ロイド刑事は息を殺して、その様子を見つめていた。


 その時、不意にマライアがロイド刑事と手を繋いでいる方とは違う方の手で、服のポケットから何かを取り出した。それを見て、ロイド刑事がぎょっとする。


 マライアの手には、小さな鈴が握られていた。マライアは躊躇なく手を振り下ろし、鈴がシャンと小さな音を出す。その瞬間、ボアが二人の方を向いて、見えていないはずのボアとロイド刑事の目が合った。


「ピャアアアア‼」


 ボアが悲鳴に近い鳴き声を上げて、二人に向かって突進してきた。ロイド刑事はマライアの手を強く握り、じっとその場から動かない。マライアは顔色一つ変えず、ボアを見つめていた。


 不意に、ボアの頭上で人影が動いた。気が付いたロイド刑事がはっとして上を見上げる。ボアの頭上から降ってきたディティは、相も変わらず顔に笑顔を張り付けながら、ボアの背中に飛び乗った。


 ディティが素早く手に持っていた手綱をボアの口に引っ掛け、力いっぱい手綱を引っ張る。ボアは甲高い声を上げながら、前足を浮かせて急停止し、背中のディティを振り落とそうと激しく暴れだした。ディティは振り落とされないようにボアを押さえつける。


「プティ‼」


 ディティが叫んだ瞬間、ディティの左耳の耳飾りが光り、ひとりでに動いて空高くに舞い上がっていった。


 光に包まれたその姿は、まるで絵本に出てくる小さな妖精のようで、くるりと巻いた雫の形を反対向きにしたような体の背には、小さな透明の羽が生えている。


 頭に小さな冠を付けた可愛らしい姿をしたファビュラスベートが、ボアを押さえつけているディティの頭上でくるくると旋回すると、光り輝く粉が降ってきて、粉がディティとボアに降りかかった。その瞬間、激しく暴れていたボアが徐々に大人しくなり、足の力が抜けて、その場に崩れ落ちる。ディティがひらりとボアの背中から降り、ボアは、大人しく眠りについた。


「任務完了、です」


 ディティが二人に向かって笑いかける。ロイド刑事はただ茫然と一連の出来事を見とどけ、マライアはボアが大人しくなったのを確認して、ディティに向かって駆け寄っていった。ディティは少し驚いて、嬉しそうに手を広げて、マライアを受け止めようとする。


 だが、マライアは華麗にディティの腕を避け、動かなくなったボアに駆け寄り、優しく、その硬い身体を撫でた。ディティがとても複雑そうな顔をする。


 そんなディティを慰めるように、プティがディティのそばへと飛んでいき、ディティは悲しそうにプティに笑いかけて、手を差し出した。プティはディティの人差し指にとまって羽を休める。


「プティ……もう一仕事頼むよ……」


 プティは答えるようにディティのそばでくるりと回ると、羽を光らせながら路地の出口へと飛んで行った。ディティは軽くため息をつくと、ボアに近づいて、動かないボアの身体を撫でた。


「さて、これで今後、行方不明者が出ることはないでしょう。お仕事終了です。お疲れさまでした」


 ディティがロイド刑事に笑いかける。ロイド刑事は息をついて、その場を去ろうと、ディティに背を向けた。


「ですが、個人的に、ロイド刑事。お話があります」


 ディティの声にロイド刑事が立ち止まる。ロイド刑事が振り返ると、ディティはそれまでの優しそうな笑顔からは一変して、怪しげで、不適な笑みを浮かべていた。ロイド刑事が怪訝そうに眉を顰める。


「今回の件、すべての犯人はこのボアでしたが、不思議なことがあります」


「……なんだ」


「ブルイヤールボアはレーブフォレに住まう、温厚なファビュラスベートです。レーブフォレは霧に包まれ、人が立ち入れば仮死状態になってしまうような危険な森ですが、その代わり、脅威となるような攻撃的なファビュラスベートはいません。ボアはそもそもツタ科の植物に寄生され、その植物が作る養分を糧として生きているので、狩りの必要もなく、攻撃的になる必要がありませんから、いくらこちらの世界にきてしまい、錯乱状態になったとしても、私たちと出会った時のように、人を襲うような行動をすることはまずないでしょう。せいぜい、逃げるぐらいです。にもかかわらず、なぜ、このボアは私たちを見て、真っ先に攻撃的な姿勢を見せたのでしょう? それに……」


 ディティが動かないボアの身体に巻きついたツタに咲く、大きな白い花をどかすと、ボアの身体には銃痕のような穴が開いていて、そこからヒビが入り、ボアの身体が崩れていた。


「この傷はなんでしょう?」


「……」


「心当たりがおありのようですね」


 ロイド刑事は答えない。マライアはボアをいたわるように、優しく身体を撫で続けていた。ディティの目は冷たい。


「また、のでしょう?」


 ディティの問いかけに、ロイド刑事は答えない。険しい顔をして、ディティの顔を見つめている。


「ボアの霧を例外として、ファビュラスベートがこちらの世界に来てしまう、または、人がファントムパラディに行ってしまう、という事例が起きる条件は、お互いが隔たれた二つの世界に存在し、認識の壁があるにも関わらず、お互いのことを認識してしまうことです。たまたま波長が合い、目が合ってしまった場合、そのどちらかが別の世界へと引きずり込まれてしまう。それが、認識の壁を越えてしまった者の代償です。それは、よくご存じですよね?」


「……」


「あなたはとても珍しい存在だ。人であるにも関わらず、限りなく私たち、世界の狭間に住む者に近しい。生まれつきの波長がファビュラスベートと合いやすいため、普通の人よりもファビュラスベートを見てしまう確率が高い。だからこそ、あなたはこれまで、このような事件に巻き込まれることが多かった」


 ロイド刑事は答えない。それまで冷たい色をしていたディティの瞳が、一瞬、柔らかい色に変化した。


「……気持ちがわからないわけではありません。あなたを責めるつもりもありません。これまでの人生、そのことで、どれほどあなたが辛い思いをし、罵られてきたかは私が想像するまでもないでしょうから」


 ロイド刑事が軽く唇を噛んだ。親にすら信じてもらえず、嘘つきだと罵られ、他の人には見えない者に怯え、孤独な日々を過ごしてきたこれまでのことを思い出し、ロイド刑事の瞳には、口に出せない怒りの色が見て取れる。


「ですが、今回のことは見過ごせません」


 ディティの笑みが消え、鋭い眼光がロイド刑事をとらえる。ロイド刑事が息を飲んだ。


「これまでも、こういうことは多々あったはずだ。あなた自身がファントムパラディに迷い込むこと、あなたと目が合ったことで、ファビュラスベートがこちらの世界に来てしまうこと。こんなことを言うと失礼にあたるかもしれませんが、あなたはそういう事態に対して慣れているでしょう。それなのに、あなたは今回、目が合ったことで出現したボアに対して発砲した。なぜです? そのような行動をすることで、事態が大事になることは、容易に想像できたはずだ」


 ロイド刑事はディティから目を逸らし、ボアに出会った時のことを思い出していた。


 仕事帰り、暗い路地を歩き、妻が待つ家に帰る途中。ふと路地の方を見た瞬間、襲った違和感に目を凝らすと、急に視界がどこかも知らない、不思議な森の中に引きずり込まれ、目の前に現れた白い馬のような、不思議な生物。


 お互いに数秒見つめあい、ロイド刑事はコートのポケットに入れた銃を取り出して、その生物に向かって発砲した。弾は生物に命中し、生物は奇声を発して逃げて行った。


 その姿を見送って、気が付けばもとの場所に戻って来ていたロイド刑事は、路地に背を向けて家に向かって歩き出した。


 発砲したロイド刑事を支配したのは、なにとも言い表せない、積み重なった恨みと怒りだった。


「あなたが発砲し、ボアを傷つけたことで、ボアは人間を敵とみなした。行方不明者は全員、ボアに出会う前に霧によって、ファントムパラディに飛ばされたため、怪我はなかったようですが、最悪の場合、大怪我をしていたかもしれません」


 ロイド刑事は目を逸らしたまま黙っていた。ディティの鋭い眼光を避けるように。


「……あなたがファビュラスベートを憎む気持ちもわかります。ですが、ファビュラスベートが悪いわけではないのです。ファビュラスベートは、あなたがこの世界で暮らしているように、ファントムパラディで平穏に暮らしているだけ。たやすく、傷つけていいはずがないのです。化け物だと、銃を向けていいはずがないのです。……あなたのことですから、理解しているのでしょう?」


 最後に優しく問いかけたディティに、ロイド刑事がちらりと眠っているボアを見た。身体はボロボロで、銃痕が痛々しい。


「……悪かった」


 絞り出したような言葉にディティがふっと笑い、もとの胡散臭い笑顔に戻った。


「まったくですよ! あの広いレーブフォレで行方不明者を探すこっちの身にもなってください! まぁ、全部マランがみごとに発見したので、記憶処理を施したのちにお家にかえしておきましたよ」


 ディティがさらりと言った言葉に、ロイド刑事が眉を顰め、ため息をついた。


「私はいいのか?」


「えぇ、いつも通りそのままに。ピエール刑事は忘れてしまいますがね」


    ◇


 ディティたちが路地で話している中、ピエール刑事は路地の入口で、そわそわしながら待っていた。路地の中をちらちらと覗きながら、落ち着かない様子でうろうろと歩き回る。


 その時、不意に光る何かがピエール刑事に向かって飛んできた。


「わぁ‼」


 ピエール刑事が驚いて声を上げる。飛んできたのは、ディティに仕事を任せられたプティで、プティはピエール刑事の周りをくるくると回り始めた。


「へ? え? 妖精? すご……」


 ピエール刑事が驚きながら、光り輝くプティに見とれる。プティはその間に鱗粉をピエール刑事の周りに舞い散らせ、ピエール刑事はそんなことにも気が付かず、プティの鱗粉はピエール刑事の周りを取り囲んでいった。


「……ん?」


 鱗粉を振りかけられたピエール刑事の目がだんだん虚ろになっていく。それを確認したプティは羽ばたき、ディティの元へと帰っていった。


 残されたピエール刑事ははっとして、わけがわからないというように目をこする。


「僕……何してたんだっけ……?」


 呟いた声は、大通りに響く騒音に掻き消されていった。


    ◇


「だって、ロイド刑事の記憶を消したところで、またすぐにでもファビュラスベートを見てしまうでしょう。その場合、逆に無知であったほうがあなたを危険に晒すことになる。それならば、記憶を消さず、対処していただいた方が、私としても助かります」


 肩をすくめながら言ったディティに、ロイド刑事がため息をつく。


「本来なら、絶対にありえない話ですけれどね。二つの世界は交わってはいけない世界。認識の壁を超えることは、代償が伴うものですから、一般人を巻き込むことはできません。ファビュラスベートのことを知った人は全員、もれなくプティの鱗粉を振りかけます。あなたは本当に、特別な存在ですからね。それとも、一度忘れてしまった方が、楽ですか?」


「……結構だ」


「そうですか。それでは、私は帰ります。ロイド刑事も、路地の入口で訳も分からず、うろうろしているピエール刑事を早めに帰して、自分もお家に帰ったらいかがです?」


「言われずとも」


 ロイド刑事が今度こそディティに背を向けて、帰ろうとする。それを、ディティが呼び止めた。


「もういっそのこと、私たちと同じ世界に来たらどうですか? あなたには素質がある。力を制御し、今までより楽に暮らすこともできるでしょう。魔法使いになれば、いろいろ便利ですよ?」


 ロイド刑事がちらりとディティの方を見た。ディティは歓迎するような笑顔を浮かべている。マライアもじっとロイド刑事を見つめていた。


 ロイド刑事はフンと鼻を鳴らすと前を向き、ディティたちに背を向けながら答えた。


「結構だ。愛する妻を置いてはいかん」


「……そうですか。残念です」


 ロイド刑事が去っていく。ディティはたいして残念そうに思っていない様子でその背中を見送り、ボアとマライアの方を向いてほほ笑んだ。


「さて、帰ったら、このボアの治療と、レーブフォレの確認と、マランにご褒美をあげないとね」


 ディティが本をコートの中から取り出し、ページを開いて、ボアに向かってかざす。ボアの身体が光に包まれ、粒になったかと思うと、本のページの中に吸い込まれていった。


「まったく、ロイド刑事にも困ったものだよ。頑固で頭が固い。でも、まぁ……」


 ディティが振り返り、去っていったロイド刑事を見つめた。ロイド刑事の周りでは、たくさんの小さな妖精たちが飛び回っている。だが、その姿はロイド刑事の目には映らず、ディティはあきれたように息をついた。


「ファビュラスベートにあれだけ好かれるのだから、いい人であるのに変わりはないんだよなぁ」


 マライアが立ち上がり、ディティを急かすようにコートの裾を引っ張った。ディティがそれに気が付き、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、マライアの頭を撫でる。


「僕たちも帰ろう。お腹すいた? 晩御飯、何がいい?」


 ディティが嬉しそうにマライアに笑いかけ、マライアは撫でられるのが嫌なのか、少し怪訝そうな顔をする。ディティはそのことに気が付かないことにして、何も言わずにマライアと手を繋いだ。マライアは何も言わず、その手を離そうともしなかった。


 手を繋いだ二人の姿が徐々に消えていく。後ろの風景に溶け、霧のように消えていく二人の存在を、大通りを歩いている人々が認識することはなく、ただ一人の人間を除いては、二人のことを記憶にとどめておくこともできずに、二人は世界の狭間へと帰っていく。


 ふと、何かに気が付いたディティが振り返り、人差し指を立てて口元に当てると「シーッ」と、こちらに向かって笑いかけた。


    ◇ 

ファビュラスベートビブリオテーク  著者 オフィーリア・マルクスフィア


 バロンショーヴ・スーリ『蝙蝠風船』

 一本足の蝙蝠のようなファビュラスベート。大きな羽を持ち、飛ぶことができるが、羽を休めるさいは羽を風船のように丸め、羽の中に空気をためて浮袋にし、空中をぷかぷかと移動する。木々などに足を引っかけ、羽を休める姿は、黒い風船そのものである。


 ボンボン・グノン『飴のように甘い猿』

 リスと猿をたしたような姿をしたファビュラスベート。淡い桃色の毛並みに、猿のような大きな耳と、リスのような大きな尻尾と短い手足を持つ。甘いものを頬袋にため込む習性があり、毛並みからは甘い香りがする。


 スペクトルアルブル『お化け大樹』

 ファントムパラディの恐怖の巣窟オルールニドに生えている、動く大樹。幹に恐ろしいお化けの顔が刻まれており、触手のように伸縮可能な枝で捕らえた獲物を口に放り込んで栄養にする。スペクトルアルブルからとれる木材は上質な魔法道具の材料になるが、取りすぎは厳禁。


 ブルイヤールボア『霧に隠れし一角獣』

 空気中の水分を吸収し、養分にするツタ科の植物に寄生された、一角の生えた白い馬の像のようなファビュラスベート。毛はなく、肌は石灰のように固い。花が余分な水分を霧として放出するため、常に霧に囲まれている。目が退化しているが、耳が発達しており音に敏感。夢見の森レーブフォレに住み、温厚な性格をしている。霧は境界を曖昧にする性質を持つため、人間世界に迷い込むと失踪事件が多発するので注意が必要。


 マドモアゼルフルール『花の貴婦人』

 おしゃべり好きな、小さな花の精のようなファビュラスベート。髪や服が花弁になっており、手足は葉のような形をしている。花弁が作る花粉には幻覚作用がある。人間界に住み着いている個体も多い。


 クリンクリン『妖精の粉』

 小さな妖精のようなファビュラスベート。人間に友好的な種族であり、温厚で平和的な種族。鱗粉には睡眠作用と忘却作用がある。暗闇で光り輝くため道案内としても有能。

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