第13話 見習い天使の雲隠れ (2)

 俺たちは住宅街の暗がりの中を黙って肩を並べて歩いていた。

 夜空には少しだけ欠けた月が浮かんでいる。時刻はもうすぐ七時。お茶をごちそうになるだけのつもりだったのに、すっかり川田さんの家に長居してしまった。秋の薄暮は短い。とっぷりと暮れ切った夜道を柊木ひとりで帰すわけにもいかない。「そんなに遠くないから」と遠慮する柊木を押し切ってここまで一緒に歩いてきた。二人とも言葉少なく歩みを進める。澄んだ秋の夜の空気が頬を冷ます。


「どういうことなのかしらね」


 葉の落ちた街路樹の下で柊木がぼそっとつぶやいた。主語も目的語もまるでない文章だったが、言いたいことはよく分かった。俺も柊木も考えていることは同じだ。俺たちは一メートルほど間隔あけて並んで歩いていた。街灯に照らされた影が、四方に伸びる。柊木のローファーがこつこつと音を刻む。


「……俺たちが話していた見習い天使のユアは、『川田結愛さん』としてかつて人間界に実在していた、ということ、だよな」


 あの写真の少女は間違いなく見習い天使のユアだった。由乃さんの二つ年上だと言っていたから、生きていれば今十九歳か二十歳のはずだ。


「一つ、ユアちゃんは昔、川田由乃さんのお姉さんの川田結愛さんという人物だった。二つ、ユアちゃんは、天上界では年を取っていない。少なくとも見た目は。三つ、ユアちゃんは、川田結愛さんだったころの記憶は一切ない。四つ、お母さんも川田由乃さんも、ユアちゃんが見習い天使になって私たちの前に出没していることは知らない」


 柊木が立てた人差し指を頬にあてて、判明した事実を一つずつ整理していく。


「ユアは川田さんを見ても取り立てて反応しなかったもんな」

「うん。ユアちゃん、川田さんが肉親だったことを、まるで認識していなかったね」


 少なくとも血のつながった自分の妹であることが分かっているなら、ユアが川田さんを見た時にもっと別な反応をしていたはずだ。しかし、そういうそぶりは初めてダンス部を覗きに行った日から一切見せていない。


「そうだよな」

「結局、川田結愛さんが原因不明の急病で亡くなったこと、それだけしか事実として分かっていることはないのよね。川田結愛さんとユアちゃんは、他人の空似なのかしら」


 俺は並んで歩く柊木を横目に見ながら、頭脳をフル回転させてうなった。料理配達のバイクが音を立てて俺たちを追い抜いていく。柊木の長い髪がふわりと揺れた。


「うーん、ダンスが上手かったり、性格が底抜けに明るかったり、ユアは川田結愛さんの性質を引き継いでいるとしか思えないぜ? なにより写真がそっくりだったじゃないか」


 柊木は前を向いたまま黙ってうなづいた。俺は話を続ける。


「でもさ、柊木、川田結愛さんはユアっていう見習い天使になっていますよ、と俺たちが言っても、簡単には信じてもらえなくね? それを証明する方法がどこにもないし。頭おかしいと思われて終わりな気がするんだよな」

「そうなのよね。だから、ご家族に下手なこと言って変に期待されたり、未練をぶり返させたりするのは、誰の得にもならないのよ」


 柊木はひとつため息をついた。そして下唇の端を噛みながら、暗くなった夜道をてくてくと歩いていく。街灯の下を通るたびに、物思いにふける彼女の表情を照らし出し、そしてまた暗がりににじませる。


「ユアちゃんは川田結愛さんそのものよね、話を聞く限り。ただ、記憶がつながっていないだけで」

「これからどう接すればいいのか。こりゃ難題だな」


 戸惑いがそのまま声になって出ていく。いつでもどこでも楽しく歌って踊っているユアの真実。あなたたちの想い焦がれたユアは今でも元気に飛び回っていますよ、とお母さんと川田由乃さんに伝えてあげたい。しかし、現実には大きな壁が立ちはだかっている。


「そうね。川田さんにはユアちゃんが見えていない。川田さんのお母さんにも。ユアちゃんが見えるのは石塚と私だけ」


 柊木はそう言ってしばらくうつむいたまま歩き続けた。そう。それなんだよ。俺たちだけがユアを見てユアと話してユアと笑い合うことができる。ユアの頑張りをお母さんたちに伝えられないのはあまりに歯がゆい。


「ねえ、石塚。私たちがユアちゃんをかわいそうだとか言うのって、大きなお世話なんじゃないかな」


 柊木のセリフに俺はうっと返答に詰まった。こいつは物事をクールに割り切って考えることができるヤツなんだな。うつむいた視線をつま先で蹴るようにして、柊木はぽつりぽつりと言葉をつなげる。


「少なくとも、ユアちゃんにはユアちゃんの目標があって、一生懸命へこたれずに頑張っているのを私たちは知っているし、川田結愛さんは人間界からお別れしちゃったけど、ご家族がそのあたりもう気持ちの整理をつけていることも知ってる。だから、それをかわいそうだとか、ユアちゃんは見習い天使になっているんだとか、私たちが外野から口挟むのは、なんか違う気がするんだ」


 そこまで言って一息つくと、歩きながら顔を上げて、柊木は俺を見据えた。意志の強さが視線に現れている。


「ね、石塚。私の考えって、冷たすぎるかな?」


 こいつは、無愛想で変態性癖の持ち主だ。しかし、その言葉は決して冷酷ではない。むしろ暖かさがあった。必死に頑張るものに対する敬意と、思い出を大切にすることへの賛意にあふれている。


「いや、そんなことはない。ユアに対しても、川田さんに対しても、これまでどおり普通に接するべきだ、そう言いたいんだろ?」

「うん。ユアちゃんが昔のことを思い出したり、川田さんが今の見習い天使のユアちゃんの存在に気が付いたりしない限り、なんだけどね」


 俺と柊木にだけ見える見習い天使のユア。ユアは自分の前世、人間界での記憶がない。一方で人間界の川田結愛さんは夭逝し、遺された川田由乃さんたちは、今の見習い天使ユアが人間界で活動していることを知らない。

 両方を見ることができる俺たちだけが、ユアと川田結愛さんの繋がりが見えてしまっていることになる。そう、俺たちだけが。俺たちが余計な口を挟まなければ、それぞれがそれぞれの想いのもと、変わらない日常を積み重ねて行くのだろう。あえて事実を知ってしまったからといって、それをかき乱す権利は、俺たちにはない。

 柊木はそう言っているのだ。その考えは俺にもよく分かった。


「柊木。よく分かったよ。しかしおまえって……」

「……なに?」

「おまえって、思ったよりもいいやつなんだな。どうしようもないド変態だけど」


 途端にバンと背中を叩かれた。川田さんから借りた薄い本を詰め込めるだけ詰め込んだ通学カバンのスイングは、見た目以上に重い一撃だった。


「いてー! なにすんだ!」

「べぇーだ。変態は余計よ!」

「そこ否定すんのかよ! 尿道とか肛門とか書いてあるBL漫画で喜んでるやつが変態じゃなかったら、誰が変態なんだよ。まったく、まさか自分の尿道とか肛門の心配しなきゃならんとは思わなかったぜ」

「はあ? あんたのになんて興味ないから! 一切ないから!」

「ほお、じゃあ誰のなら興味あるんだ?」

「ばーか。三次には興味ないの、私は。あれは穢れを知らない二次の世界だからこそ楽しめるの!」


 柊木はもういちど舌を出してべぇーと言い捨てると、カバンを振って走り出した。


「じゃあね! 送ってくれてありがと。あそこ私の家だから! また明日、学校でね!」


 ◇


「一部にそういう話が出ていることは知ってる」


 翌日の朝の始業前。

 飄々と登校してきて前席に腰掛けた糸田に、座るやいなや「どうやら三年女子の間で糸田と誰かを掛け合わせるのが流行ってるみたいだぞ。おまえ知ってるのか?」と耳打ちしたら、途端に眉をひそめ、苦虫をかみつぶした表情で吐き捨てるように言った。


「まったく、雫のやつ、許さん。人をおもちゃにしやがって」

「また贅沢言ってるぜ。雫さんにおもちゃにされてるなんて、どんだけご褒美なんだよ」

「俺にメリットなんてなんにもねーんだよ。ケンジロー、おまえ、見知らぬ上級生の女子に『ちょっとお願い。一回でいいから渋坂先生とキスしてるとこ見せてくれない?』とか頼まれて嬉しいと思うか? あいつら全員頭おかしいから俺はキライだ。虫唾が走る」


 まあ、糸田の言うことは分からんでもない。BL女子の頭のおかしさは俺も身をもって体感したばかりだ。


「て、ことは雫さんもBL女子なのか」

「いや、雫は面白がってるだけで、自分ではそういう趣味はないな。どっちかっていうと、つーの方がBL好きだ」


 つーとは糸田の妹、ダンス部の一年生糸田つむぎのことだ。あの人気爆発中の糸田紡をつーと呼び捨てで呼べるのは、兄である糸田だけに許された特権だ。俺も含めて他の一般生徒が軽々しくそんな呼び方をしたら、親衛隊にまじぶっ殺されかねない。


「てゆーか、朝っぱらからなんの話だよ。いきなり」

「いや、ダンス部の川田さんが超絶BL女子だったみたいで、おまえの話もちらっと出てさ。しかし川田さんのBL好きは常軌を逸していたなあ」


 俺は昨日の顛末をかいつまんで糸田に聞かせた。


「ダンス部四天王の川田由乃さんか。天然ぼけキャラだとはつーから聞いてるけど、腐女子だというのは初耳だ」

「なんだ、糸田でも知らないことあるのか。かなり強烈なBL好きだったぞ。控えめに言ってキチガイレベルだ」

「おまえから川田さんの話が出るなんて珍しいな。何があったんだよ」


 あー、それ説明しづらいんだよなー。

 柊木が間違えて悪魔退治スプレーを直射して、それを吸い込んだ川田さんに副作用が出て、ほっておくと危ないから送って行ったらでかい家に招待されて、そしたら柊木とBL談義で爆盛り上がりしたから。

 ―――まじムリ。言えないことだらけすぎて、笑う。こんなん言えないし、言っても信じてもらえない。


「いや、ちょっとな」


 俺は定番のセリフで糸田の質問をいなすことしかできなかった。


「ふーん、ま、興味ないけどな。おまえと柴崎遥香の進展具合とかも一切興味ない」


 ん? なんでこんな話の途中で柴崎さんが出てくる? と不審に思っていたら、糸田がいつもどおりの低いテンションに戻って言葉を続けた。


「来てるぜ、柴崎、ほら。おまえのこと呼んでほしいみたいだ」


 見ると教室の後ろ入り口から柴崎さんがそおっと顔を覗かせていた。

 おっと。これは朝からついている。俺は羽の生えた天使のような足取りで速攻席を立ち、全速力で教室の入り口にすっ飛んでいった。その途中で、柴崎さんの脇をすり抜けて教室に入ってくる柊木と目が合った。ここしばらく毎朝ユアと登校してきていた柊木が今日は一人だ。


「お、柊木。おはよ。今朝はユアは一緒じゃないのか?」


 柊木とユアが登校してくると一気に教室の中が明るく騒々しくなっていた。自席で前を向いていても、柊木がユアを連れて教室の中に入ってくるのが分かったぐらいだ。しかし、教室全体が今日は妙に静まり返っている気がする。強力なノイズ発生源であるユアがいないとこんなにも違うものなのかと思う。


「おはよう。今朝はいなかったのよ、ユアちゃん。夜はどこ行ってるのかな」


 柊木はきれいな眉をひそめて心配顔をしている。


「なんか天使専用のすみかがあって、そこに毎晩帰ってるらしい。昨日そう言ってた。しかし、ちょっと心配だな。どこに雲隠れしちゃったんだよ、ユアは。まったく」

「姿が見えないと心配になるわよね。こっちから探しようがないから。考えてみたら、私たちの方からユアちゃんにコンタクト取る手段って、まったくないのよね。それより、いいの?」


 柊木は背後の教室の入り口をちらりと流し目で見た。あ、柴崎さんのこと忘れてた。


「あ、そうだった。また後で。昼はどうする?」

「いつものとこ」

「オッケー。俺も行くから」


 それだけ言い残して柴崎さんのもとに駆け寄った。


「おはよう、柴崎さん。朝から俺に用事?」


 柴崎さんは廊下に誘い出すように身体を動かした。登校するクラスメートの邪魔にならないように俺も柴崎さんに合わせて移動する。教室の入り口から少し離れたところまできて柴崎さんはやっと口を開いた。


「あの、石塚くん、今日ね、ちょっとお話がしたいの」


 お? あいさつも抜きにいきなり、これは!


「時間取れないかな?」


 取れます取れます! なんなら今からでも!


「ぜってーいく! 死んでもいく! 尿道攻められても行く!」

「にょ、尿道?」


 あ、しまった。今話してるのは柴崎さん、ド変態の柊木じゃなかった。あわてて手を振って前言を撤回する。


「あ、ごめんごめん、こっちの話。で、今日の放課後だよな。どこ行けばいい?」

「もし、よかったら昼休みにね、屋上に来てほしいの。B校舎の」


 屋上! これは間違いない! 喜んでいいのか? ひゃっはーしちゃってもいいのか? あ、昼休みは柊木と昼飯食べる約束したんだったっけ。うーん、どうするかな。ユアのことどうするか、ちょっと相談したかったんだけど……。


 俺は、柊木の顔を思い浮かべながら少しの間逡巡する。なぜか頭の中で、全裸で絡み合う美少年たちと、それを嬉々として眺めているセーラー服姿の柊木を想像してしまった。

 うげー。なんちゅうもん思い浮かべさせてくれるんだ、柊木。俺にそのケはないぜ、ひとかけらも。なんか尻の穴がむずむずしてきたよ。やべー。

 しかしなあ。ユアも心配だからなー。どうするか。ユアのこと相談できるの柊木だけだしなあ。そうだ! 柊木と話した後、屋上行こう。うん。それがいい。


「石塚くん、来てくれる? お昼、屋上に」

「もちろん! 行きます! 必ず行きます!」

「じゃあ、お昼ご飯食べる前に、来てね。お願いね」

「喜んで!」


 あ、しまった。昼飯食べる前に行くって言っちゃったよ。どうすんだ、俺。


「絶対来てね!」


 柴崎さんは念を押して自分の教室に戻って行った。

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