第2話 見習い天使が現れた (2)


「し、柴崎さん! す、好きです。お、お、俺と、つ、付き合ってください!」


 B校舎の端、当校の敷地の南西の角。そこに戦前からあるという大きな古い桜の木の下で、俺は一世一代のセリフを口にして、頭を下げた。

 長い沈黙。校舎の向こうにあるグラウンドから運動部の掛け声が遠く風に乗って聞こえてくる。

 ……っていうか、そろそろ顔上げてもいい? いい加減腰痛くなってきたんだけど。

 今日を迎えるにあたって、俺はさまざまなシーンを想定して、徹底的にシミュレーションしてきた。喜んで抱き着いてくる柴崎さん、嬉しくて顔を覆って泣き出す柴崎さん、はずかしそうにうつむき、そして消え入るような声で「いつまで待てばいいのかと思ってた」とつぶやく柴崎さん。成功シーンは何十パターンも想定した。もちろんいきなりビンタを食らうとか、ごめんなさいと頭を下げられるという失敗シーンも、何パターンか想定はした。

 想定はしたが、これまでの柴崎さんの態度からして、失敗シーンは俺的にどれもあまりしっくりこない。やはりこれは成功パターンのどれかになるはずだ。間違いない。俺はそう確信に近い手応えを感じていた。だからこそ告ったんだ。

 ところが、現実はそのどれとも違っている。お辞儀の姿勢を二分近く続けるなんて、俺のシミュレーションにはなかったんだけど……。


「あの、私……」


 透き通った声が聞こえて、俺はやっときをつけの姿勢に戻った。柴崎遥香さん。ふんわりとしたゆるい髪型、少し垂れ目の濡れた瞳。控えめな中にも芯のある態度。


 俺は、俺は、そんな柴崎さんに惚れたんだああ!


 そんなことを心の中で叫びながら、今この状況で最も重要な柴崎さんの第一声に全聴力を傾けた。

 さあ、行こう、柴崎さん! キミの一言で俺たちのグローリー・デイズが始まる! 俺といっしょにビクトリー・ロードを歩いて行こう!


「私、石塚くんのこと、あんまりよく知らないから……。お友達に、なりましょ? あ、ごめんなさい、もう行かなきゃ。じゃあね」


 言葉の真意を確かめる間もなく、柴崎さんはスカートを翻して走って行ってしまった。ほんのりと残り香が漂う。古桜の根元の小さい広場で、俺はひとりぽつんと取り残された。


「……」


 唐突に訪れた無音の空間。今のはなんだったんだろう。古桜の枝の向こうには青空が透けている。とんぼがするすると、枝を避けて飛んでいた。

 柴崎さんが去って行った校舎の角をじっと見つめながら、俺の脳内にばっちり録音された柴崎さんのセリフを、一つ一つ巻き戻して検証する。

 俺のことをよく知らない。

 友達になりましょう。

 ということは、つまり……、友達から始めて、俺のことが分かれば、付き合ってくれるということじゃないか!!

 さすが! 柴崎さん、奥ゆかしすぎて鼻血が出るぜ!!


「いやっほおおおおい!」


 俺は拳を天に向かって突き上げた。

 我が人生に一片の悔いなし! ついに俺にもカノジョができるー!!


「うおおおおおお!!」


 ほとばしるパトスに任せて古桜の幹を思いっきり蹴った。この喜びの衝動は、古桜にケリを入れるぐらいしないと消化できない。どすんと入れた渾身のケリにわさわさと幹が揺れて、かなりの量の少し枯れ始めた葉が舞い落ちた。


「きゃっ、なんなのよ! やかましいわね!」


 不意に女子の声が聞こえた。髪の毛にふりかかった枯れ葉を払いのけて、古桜の幹の向こう側に、ふらりとセーラー服姿の背中が立ち上がる。スカートをぱんぱんと払って振り返ったその女子は、恨みのこもった視線でこっちを睨みつけていた。


「うおっ、人がいるの気が付かなかった、悪い。そんなとこにベンチがあるのか。あれ? 柊木じゃん。なんでそんなところに?」


 桜の木の向こうで怒った顔を向けているのは、同じクラスの柊木千紘ひいらぎちひろだった。柊木は、綺麗で物静かではかなくて薄幸の、少しミステリアスな雰囲気の文学美少女、というのが同じクラスの男子の間での評判だ。

 いや、それは少し誉めすぎだな。実際のところは「無口で不愛想で根暗」というのが正直な印象。俺も、なんというか、無表情な日本人形みたいな印象を持っていた。同じクラスになってからほんの数回しか言葉を交わしたことがない。

 しかし、柊木は俺の眼前ではっきりと不満げな顔を見せて、鋭く声を上げていた。


「なんでじゃないわよ。読書の邪魔しないでくれる?」

「ああ、そりゃ、悪かった悪かった。ちょっとやむを得ない事情があってだな。というか、柊木、いつからそこにいた?」


 柊木はまだ、セミロングの黒髪にまとわりついた葉っぱと枯れ枝を「もう」と言いながら摘まんでは捨てている。


「最初からいたわよ。まったく、人が静かに読書してるところにずかずか乗り込んできて。そうかと思ったら大声で騒ぎだして」

「そうか。もしかして、俺の、いや、俺たちの会話……全部聞こえてた?」


 柊木ははっとして、しまったという表情になった。そして、きまり悪そうに小さくうなづく。

 そうか。聞かれてたか。でも今日の俺は寛容だ。むしろ聞いていてくれて嬉しいぐらいだ。ちょっと恥ずかしいけど。俺はわざと鷹揚に腕を組んで柊木に言う。


「まあ、そういうことだから。柊木、はからずも俺の、いや俺たち二人の輝かしい歴史の立会人になってくれたんだな」

「石塚さ、盗み聞きしちゃったのは私が悪かったんだけどさ、あんた、もしかして、今のあれで告白成功したとでも思ってる?」


 柊木はなぜか憐れむような顔を俺に向けて、心持ち悲しそうに俺に告げた。いや、なんでそこで憐れむ?


「あの柴崎さんの言い方、あれはどう聞いてもお断りの言葉だよ? 石塚、分かってる?」


 はあ?


「あれがOKに聞こえるなんて、あんた、どんだけ恋愛経験値低いのよ」


 えええ?


「そうですよ。告白した時の返事で『友達になりましょう』っていうのは『二度とそのきたねーツラをわたしの前に見せるな、このクソ野郎』っていう意味ですよー。『カリスマJSサイオン・ユキが教える❢❢ めっちゃ簡単★ 人間界攻略パーフェクトブック入門編』に書いてありましたよー」


 ああああ?


「だよねー。あなた、小学生なのによく分かってるわね。興味ない男から告白されたけど、迷惑でしょうがなくて、一刻も早くその場を去りたいときに適当に言うのにぴったりのセリフだよねー」

「そうですそうです! あれえ? おねえさんにもわたしのこと見えているんですか? それは、めっちゃラッキーですー。わたし、ユアっていいますー。よろしくお願いしまーす♡」

「あら、あなたユアちゃんっていうのね。かわいい。よろしくねー」

「おいこら、なんでユアまでここにいるんだ!」


 俺は、どこからか忽然と姿を現したユアと、なぜか意気投合している柊木に向かって声を上げた。


「まあ、ユアちゃんこっち来て座りなよ。それはともかく、石塚、もっと冷静にならなきゃいけないよ。石塚も座る?」


 柊木は古桜の太い幹の向こう側に、俺とユアを導いた。数歩歩くと幹の影から小さなベンチが視界に飛び込んできた。ベンチの上には文学書らしい文庫本が伏せて置いてある。

 柊木はベンチの前まで行くと文庫本を手に取って、端に詰めて腰を下ろし、俺に目配せをした。俺は柊木の反対側の端に腰を下ろす。俺と柊木の間に「よっこらしょ」と見た目に似つかわしくないじじくさいセリフとともに、ユアがちょこんと腰かけた。


 俺たちの通っている県立杉崎高校は高台の上に校舎がある。その敷地の西の端にあるB校舎のさらに奥、学校の敷地の南西の隅には、学校だけでなく一帯のシンボルにもなっている古い桜の木があった。その古桜の裏側にベンチがあるなんて知らなかった。ベンチの向こうはすぐフェンスで、その向こうは眼下に街並みが広がっている。覗き込むと二十メートルほど下のに俺たちが登校時に登ってきている通称「杉高坂」が正門へと続いている。南側は住宅街だ。ここらへん一帯からはどこから見上げても高台の上のこの桜が目に入る。


「なんだ、ここ、こんなに見晴らしいいんだな」

「きれいですねー」


 俺とユアは街並みを見て、揃って声を上げた。


「でしょ? 他の生徒にはナイショだよ。見晴らしだけならここよりB校舎の四階とか屋上の方が良く見えるんだけどね。あまり人も来なくて穴場なんだよ、ここ」


 柊木にそう言われて振り返ってみると、頭上は古桜の枝に覆われている。たしかに校舎の窓から見たら、ちょうどここは桜の枝の影になってベンチは見えないし、杉高坂から見上げても、この場所はちょうど死角になっている。一年半登下校しているが、擁壁と古桜の枝と校舎しか見えた記憶がない。気付かなかったわけだ。


 柊木は満面のどや顔で俺たちを見た。しかし日頃ほとんど話したことのない柊木が、こんなに快活に話すヤツだったとは。俺は少し驚きながら柊木を見つめた。いつも静かに本を読んでいて、清楚でマジメな感じ、表情に乏しくて、どちらかというとクールビューティー系氷の女、みたいなイメージを抱いていた。

 大方のクラスメイトもそういう印象を持っていると思う。それが証拠に柊木が昼休みに騒いだりしているのを見たことがない。そんな柊木が今は、表情豊かに話しているのがとても不思議な感じだ。


「で、ユアちゃんはここになにしに来たの? お兄さんに会いに来たの?」


 柊木は気さくな感じでひとまずユアに話しかけている。柊木の言う「お兄さん」ってのは文脈的に俺のことかな? ユアのこと、俺の妹だと思ってるのか。

 ああ、そう言えばそうだった。早くユアをホントの父兄のところに連れてってやらないと、校内で迷子になったと思って親が探しているかもしれない。


「違うぜ、柊木。ユアは俺の妹じゃない。そう言えば、ユアの人探しを手伝うって言ったんだっけな。じゃあ、ユア、行くか」

「え、人探し? ユアちゃんは石塚の妹さんじゃないんだ」


 柊木がユアの頭越しに不思議そうな顔を向けた。

 まあ、確かにこのシチュエーションで女子小学生がいたら、俺とユアは兄妹で、なんらかの用事で妹が兄を訪ねて学校に来たというのが一番自然な解釈ではある。


「実は、違う。さっき昇降口のところで声をかけられた。ユアはPTAの母親と一緒に学校に来て、はぐれて迷子になってたみたいなんだよ。ほら、今日、PTAの会議あるって先生言ってたじゃん。そんで俺がユアの母親を探すの、手伝ってやろうかと思ってさ」


 とりあえず、ひとまずユアを親元に連れてってやろうかと立ち上がろうとしたところで、ユアが声をあげた。


「ケンジローさん、それ、違いますよー。別にわたしはママを探してたんじゃないんです。それに、わたし、めっちゃラッキーなんで、もう人探しはしなくてよくなりましたー」


 ユアはすくっと立ち上がって、街並みに顔を向けた。そして、バレリーナのようにくるっとターンを決めてこちらに向き直った。透き通る青空を背景に、スカートの裾を持ち上げて優美に膝を折る。

 その姿はいやに手慣れた、堂々としたものだった。


「わたしは見習い天使のユアでーす。ケンジローさん、おねえさん、よろしくお願いしまーす♡」


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