財布を拾っただけなのに

丸子稔

第1話 意外な展開

 まだ薄暗さの残る午前六時、俺はアパートの四階にある自室を出て、階段へと続く廊下を歩き出した。

 そのまま階段を降りていると、三階と二階の間に財布が落ちていることに気付き、悪いと思いながらも俺は中を覗き、そこに免許証が入っていることを確認した。


──高橋裕香か。割と美人だな。年齢も近いし、これをきっかけにお近づきになりたいもんだな。


 そんなスケベ心を抱きながら、俺は免許証に書かれている303号室を訪ね、呼び鈴を押した。

 しばらく待っていると、ドアが少しだけ開き、「こんな朝早くになんの用ですか?」と、警戒心を露わにした女性がパジャマ姿で現れた。

 彼女の酒臭い息を嗅ぎながら、俺は「さっき、三階と二階の間の階段で財布を拾ったんですけど、中を見たらここの部屋番号が書かれた免許証が入ってたので、届けにきました」と丁寧に説明し、財布を差し出した。

 彼女はそれを見た途端、「まあ、それはどうも御親切に!」と態度をガラリと変え、「中でお茶でも飲みませんか?」と誘ってきた。


「そうしたいのは山々なんですが、今から会社に行かないといけないんですよ」


 後ろ髪を引かれる思いでそう言うと、彼女は「じゃあ、今晩ウチに寄ってください。腕によりをかけてごちそうを作りますから」と、すがるような目で懇願してきた。


──これは予想以上の展開だな。もしかしたら、料理以上のことも期待できるかも……


 俺は色んなことを妄想しながら、「分かりました!」と元気よく返し、そのまま彼女の部屋を後にした。


 会社に着いてからも、俺のニヤニヤは止まらなかった。

 考えまいと思っても、どうしても彼女のあのすがるような目が頭から離れないのだ。


「おい早瀬、お前何一人でニヤニヤしてんだよ。気持ち悪いな」


 同僚の指摘もまったく気にならないほど、俺は舞い上がっていた。



 そのまま終業時間を迎えると、俺はすぐさま会社を出て電車に飛び乗った。

 帰宅ラッシュと重なり、いつもなら苦痛の時間だが、今日に限ってはそれさえも楽しく思えるほど、俺の心は満たされていた。


 やがてアパートに着くと、俺はすぐに彼女の部屋を訪れた。

 一旦自分の部屋に戻って、シャワーを浴びた方がいいかなとも思ったが、それよりも一刻も早く彼女に会いたいという気持ちが勝り、俺は期待を胸に通勤かばんを持ったまま呼び鈴を押した。


『はーい。今、開けますね』という甘い声とともに、笑顔の彼女が出迎えてくれることを想像していた俺だったが、実際は全く違っていた。

「遅かったですね」という低い声とともに仏頂面で現れた彼女は、いきなり「私の財布から三万円抜きましたよね?」と、言い掛かりをつけてきた。

 思わぬ展開に、一瞬パニックになりかけたが、俺はなんとか平常心を保ちながら、「俺はそんなことしてませんよ!」と強く否定した。


「でも、五万円入っていたはずなのに、この財布には二万円しか入ってないんですよ」


「それは、俺が拾う前に誰かが拾って、そいつが抜いたんじゃないんですか?」


「そいつって誰ですか?」


「さあ?」


「この期に及んで、とぼけるのはやめましょうよ。本当はあなたが抜いたんでしょ? 正直に言えば警察には内緖にしておきますので、早く返してください」 


「だから、俺はそんなことしてませんよ! そもそも、もし俺が抜いたのなら、わざわざあなたに財布を届けるわけないじゃないですか!」


「私も最初はそう思っていました。でも、それは自分が犯人であることを隠すための芝居だったってことに、後で気付いたんです」


「はあ? なんで俺がそんな面倒なことしなくちゃいけないんだよ」


「無論、自分が疑われないようにするためですよ。いいですか? このアパートは四階建てで、言うまでもなく最上階は四階になります。あなたは今朝、二階と三階の間の階段で財布を拾ったと言ってましたよね? ということは、お金を抜いた犯人は三階か四階の住人ということになります。私がマンションに帰ったのは夜中の三時だったから、あなたが私の部屋を訪れた六時の間に、あなた以外に財布に気付いた住人は極めて少ないということになります。あなたは、私が財布を落としたことに気付いて警察に届けたら、真っ先に自分が疑われると思って先手を打ったんでしょ?」


 女性の勝手な言い分に怒りが込み上げながらも、財布を届けた動機が不純だったため、俺は何も言い返せないでいた。


 



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