3(夜のコンビニ)
当時のあたしはどの部活にも入っていなかった。
部活なんてバカバカしいし、時間の無駄だからだ。誰かといっしょになって同じことをしたり、たいして意味があるとも思えない順位や賞状のために努力することに、本気になんてなれっこない。
というわけで、あたしはいわゆる帰宅部だった。放課後になると、さっさと家に帰ってしまう。学校からの行き帰りは、主に自転車。
たいして距離があるわけじゃないので、移動時間は短い。途中に有名な観光スポットがあるわけでも、おしゃれなお店があるわけでもない。だから大抵は、家まで直行してしまう。
帰ってからの時間の過ごしかたは、いろいろだ。さっさと勉強や宿題にとりかかることもあるし、だらだらとマンガを読んでることもある。どこかに出かけることもあるし、稀には(小遣いが必要な時なんかは)店の手伝いをすることもある。
帰宅時には、商店街を通ることになる。そこに住んでいるのだから、当たり前の話だ。
前にも軽く言及したとおり、商店街は寂れている。大半の店はシャッターを閉じていて、路上に放置されたままの死体みたいにゆっくり朽ちかけている。誰もがそのことを嘆いたり、憤ったりしているけど、どうすることもできない。
人間の生活も好みもニーズも変わったのだから、不必要なものは淘汰されていく運命にある。進化というのは、基本的に残酷なものなのだ。
建物も寂れて、アーケードの屋根も寂れて、閉じたシャッターまで寂れているけど、それでもまだ営業している店はある。
うちの店もそうだけど、例えば魚屋なんかもそうだ。別に、近所の主婦が新鮮な海の幸を求めてやって来る、というわけじゃない。地元の料理屋なんかに品物を卸す需要があって、それで続いているだけの話だった。
あたしが自転車に乗って前を通りかかると、今頃になって届いたらしい魚を検分していたおじさんが、顔を上げて声をかけてきた。
「よお、カズちゃん!」
生まれてこのかた商店街で暮らしているのだから、大方の店主とは顔見知りになっている。
「今、帰りかい?」
むやみにでかくて威勢のいい声に、あたしは自転車をとめざるをえなかった。時々もらう魚のこともあるので、無碍にすることはできない。
「そうだけど――」
あたしはクーラーボックスの中に、氷といっしょに横たわる魚を見ながら言った。
「何、これ? 鯛?」
「チダイだな。花鯛なんて呼ばれることもある」
と、魚屋のおじさんが説明してくれる。ゴム長靴に合成皮革の前掛けをつけ、短い白髪頭にハチマキという、いつもの格好だった。
「ここんとこの鰓が赤いので区別できる。背びれの形も違う。知りあいがたまたま釣りあげたって持ってきてな、どうしようか考えてるところだ」
「ふうん」
切り身にしてくれるんならありがたい話だけど、このままもらっておろすのは難しそうだな、とあたしが考えていると、
「今のところ、こいつをおすそわけする予定はないなぁ」
と胸中を見透かされたような発言をされる。
「……考えてねえし、そんなこと」
あたしは人としての最低限の尊厳を守るため、相手の言葉を否定した。おじさんはそんなあたしの乱暴な言葉づかいに対して、
「女の子がそんなアオザメかオオカミウオみてえに噛みつくもんじゃないぜ、カズちゃん」
と、困ったもんだとでもいうふうに肩をすくめてみせる。その魚屋的な表現はどうかと思うけど、あたしもそのことに関しては否定しない。
だからちょっと謝っておこうかな、と反省したあたしに向かって、おじさんはかなり余計な一言を口にした。
「リサちゃんだったら、もっと女らしい言葉づかいをするんだけどなぁ」
母親の話は禁句だということを、おじさんは忘れてしまっているらしい。あたしは思わず、本当に不機嫌になって言ってしまった。
「あたしが母親に似なきゃならない理由でもあるってわけ、おじさん?」
おじさんはようやく気づいたらしく、うっかりしたという表情を浮かべた。そうして、頭をかきながら言う。
「こいつは失言だったな、すまんすまん。しかしカズちゃんも、すっかり口はばったくなっちまったな。小さい頃はあんなに可愛かったのに」
年よりの(というほどの歳でもないけれど)困るのは、こういうところだ。すぐに人を子供あつかいする。その上、実際にこっちの子供時代のことを知っているのだから、性質が悪い。
あたしはフグのようなふくれっ面を浮かべてから、さよならも言わずにその場をあとにした。
「…………」
何とも言えず気分がくさくさして、集中力が続かない。あたしは読んでいたマンガを放りだして、クッションに頭を埋め、畳の上に横になった。
それから猫のしっぽみたいな、それなりに長さのあるため息をつく。
確かに、自分が子供っぽいことをしているのはわかっていた。魚屋のおじさんは、何も悪意や皮肉を込めてあんなことを言ったわけじゃない。ただ世間一般のやりとりとして、ああいう言いかたをしただけのことだ。怒ったり不機嫌になったりする理由はない。
とはいえ、母親のことを出されると冷静でいられなくなるのも事実ではあった。あの人のことは、あたしの中でいまだにどう処理していいのかわからない、厄介な残留物なのだ。指先に残った火傷の痕とか、治りきってない骨折箇所みたいに。
あたしとしては、そんな面倒な一切はすぐにでもごみ箱に放り込んでしまいたかった。嫌な気持ちも、心を痛めつける記憶も、気分を乱す感情も、何もかも。
けどそうするには、あたしにはまだ力がなさすぎた。現実的にも、精神的にも、あたしにできることは多くない。都合よく何もかも厄介払いしてしまうなんて、そんなことは不可能だった。
あたしはまだ子供で――そして、それがすべてだ。
明日は休みだっていうのに、このままだとろくな休日にはならなそうだった。せっかくの空白が、ずいぶん目減りしてしまっている。できるなら、何とかして取りもどしておきたい。
もう一度ため息をついてから、あたしは起きあがった。頭を乱暴にかきむしりながら(確かに、母親だったらこんなことはしないだろう。髪型には人一倍気を使う人だったから)、簡単な準備をして部屋を出る。あたしには気晴らしが必要だ。
途中、居間で野球中継を見ていた父親に声をかけられた。
「あれ、カズ。こんな時間にどこに行くんだ?」
「ちょっとコンビニ――」
あたしはそれだけ告げると、さっさと廊下を通りすぎてしまった。
一階に下りて、裏口から外に出る。通学用とは別の、クロスバイクを引っぱりだす。夜中の九時ともなると、商店街のアーケードなんて人っ子ひとりいない。やけに威嚇的な街灯があたりをまぶしく照らしていた。
あたしはジャージのズボンにトレーナーという、ほぼ部屋着のままの格好で自転車を走らせる。夜中になると、この時期でもさすがに肌寒かった。誰かがわざわざ冷やしておいたみたいな、そんな雰囲気が空気の中にはある。
アーケードを離れると、夜の闇があたりを覆った。まるで柔らかく千切った和紙みたいな暗闇だ。冬とは違ってずいぶん湿気を含んで、ぼんやりしている。
たいして距離があるわけじゃないけど、あたしは自転車を疾走させた。自転車のよいところは、いろんな悩みを置きざりにできるくらいのスピードが出せるところだ。特に今日みたいな日には、その特性が重宝される。
小さな橋を渡って、信号を曲がり、道をしばらく行くと、目当てのコンビニが見えてきた。暗闇の中で煌々と周囲を照らすその建物を見ると、あたしは何故か竹取物語を思い出してしまう。「その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。――」
すみっこのほうに自転車を止めて鍵をかけ、入口に向かう。外から見るかぎり、コンビニの中に人影はない。店員が一人、所在なげに棚の整理をしていた。
ふと、自動ドアに近づいたところであたしは気づいた。建物の向こう側、半分くらい暗がりに沈んだところに、誰かいる。段差のところに座って、何をするわけでもなくじっとしているみたいだった。
それだけなら、あたしだってそこまで気をとめたりはしなかっただろう。この世にどれくらい、夜のコンビニで、駐車場近くに空しく座っている人間がいるのかは知らないけど、いてもおかしくはない。何しろ、世界は広いのだ。
けど、その空しく座っている人間にどうも見覚えがある、となると話は別だった。本当に知っている人間なのか、そうだったらどうしてそんなところにいるのか、確かめたくなるのが人情というものだ。
というか、あたしにとってはそれが人情なのだ。
あたしはつかつかと、その人の近くまで歩いていった。見当違いだったら、それだけのことだ。お互いにちょっと気まずい思いをして、別れてしまえばいい。
でも、もしも――
その人が誰なのか確認して、あたしは声をかけた。
「何してんの、こんなところで?」
相手はおもむろに顔を上げた。光源が不足してるぐらいでは、その容貌に影響を与えることはできないらしい。
「あんた、吉野ゆきなでしょ。あたしと同じクラスの」
彼女は特に驚くでもなく、珍しがるでもなく、あたしの顔を見つめた。どこか、ぼんやりしている。歯車がいくつか欠けてしまった時計みたいに、心がうまく働いていないという感じだった。
そんな生気を欠いた表情でも、吉野の美少女ぶりは健在だった。彼女に見つめられて、あたしは知らず知らずのうちに鼓動が早まるのを感じた。
しばらくして、吉野は口を開いた。とても静かな口調で、あたしの最初の質問に答える。
「――朝を待ってるの」
何とも詩的にして感動的な表現だった。あたしは携帯を取りだして、明日の天気を確認する。
「せっかくのお言葉だけど、明日の日の出まであと九時間くらいあるね。それまで、こんなところで座って待ってるつもり?」
吉野は何とも言わなかった。冬への備えを怠った、どこかの道楽者のキリギリスみたいに、ただ力なく首を振っただけ。
「本気で、そんなこと考えてるの?」
あたしが念を押すと、吉野はこくんとうなずいた。風に揺れる花みたいに弱々しいわりには、妙に頑固な感じで。
「…………」
もちろん、あたしは吉野と親しいわけじゃない。彼女が転校してきてからだいぶたつけど、クラスの誰も彼女と親しい人間なんていない。実のところ、こうやって口をきくのもあたしには初めてのことだった。
あたしは彼女に対して、何の義理も責任も負ってるわけじゃない。特別な興味関心や、何らかの権利があるわけでも。
でも気づいたときには、あたしはこう言っていた。
「――あたしの家に来る?」
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