32 自然悪の魔女

 かつて人々の前に姿を現し、問うた夢に応じた力を人間に与えて回ったとされる悪魔・昏山羊くらやぎ。これまでに昏山羊と取引を行ったり、目撃したりした人間たちの証言からその容姿については一貫した報告が上がっており、一般に浸透しているものとしては"巨大な闇雲を背負った山羊頭の巨人"というものだった。

 これ以外の悪魔の目撃情報が存在しないことから、悪魔は昏山羊以外には存在しないとされていが、混迷していた人間社会の中には宗教的なシンボルとして悪魔信仰や黒魔術を系統化する集団も現れた。かつてから世界各国や宗教史の中で様々な悪魔やその姿が描かれてきたが、特にキリスト教世界における悪魔の概念と昏山羊の容姿はある程度の親和性と蓋然性を持つ結果となり、一部に限った範囲ではあるが迎合的な解釈する組織もあったという。

 


 では、ここに新たに迎えられた人造の悪魔である鯵ヶ沢露樹の姿はどんなものであったか。

 獏による夢想世界における様々な恩恵と独自の操作体系を用いて、佐呑島を舞台に裏工作に裏工作を重ねたこの事変の張本人であるボイジャー:キンコル号が敷いた悪魔誕生と契約を目論んだレール。その過程において、キンコルは獏の特性を利用し、佐呑島という現実座標に紐付けられた広大な夢想世界のフィールドに罠を設置した。罠にかかったことも悟らせないまでの擬態を披露した獏により、集った襲撃者や迎撃者が発する夢のエネルギ―は獏の仮想的な体内へと蓄えられ、高まり続けた戦闘の激しさに応じてその何割かの力が獏へと注がれ続けた。本来、冠域を実現させるだけのエネルギーはそれだけでも非常に莫大な想像力と精神性を必要とされるため、冠域が乱立した状態の海賊王戦や、死を迎える度に冠域による不死効果が作動する不死腐狼戦で得られたエネルギーは巨大なタンクに注がれた高純度の燃料として、最終的に露樹へと捧げられた。

 だが、露樹の人間としての夢想世界における耐用値はあくまでも月並みな水準だった。多くの実力者が自身の冠域の生成深度の限界値に苦労する要因として、単純な出力の限界点の他に自身の固有冠域やイメージ効果の出力上昇に己の耐用値が対応できないという点が挙げられる。深めすぎた冠域の深度や無謀すぎるスケールの物質創造による負荷は直接夢を見る人間の脳を蝕み、度を超えた行使を行えば当然使用者の命も危ぶまれる。固有冠域はその自身が最強であれる世界の創造という目的を持つために、使用者自身が意図的に操作しない限りはその出力は最適化され、過剰出力による自身への精神汚染を防いでいる。しかし、露樹は膨大な量の燃料を蓄えられるような精神構造ではなかったため、それを補い、かつ出力のブーストを可能とするために、ガブナー雨宮とキンコルが発動させた獏の追加効果によって奪取された固有冠域が強引に結びつけられた。

 

 獏による骨格と肉体の提供を受け、自然悪の体現者である鯵ヶ沢露樹はその真価を発揮した。

 悪魔に見紛う新生命の創造。彼女の持つ特異な精神性に裏打ちされた魔改造を経て、彼女の"魔法使い"の夢が歪さを孕んだまま成就してしまったのだ。


―――――

――――


「なんだ……これは…?」

 瞠目した孟秋蒋メン・チュンチャン中尉。強かな体制至上主義者と云われる天童大佐の右腕として知られる忠実かつ優秀な軍官であり、その名を知る誰もが彼を高尚に評価するだけの逸材であった。そんな彼が今では自然と声は裏返り、身が鞭で打たれたように弾んでしまっている。全身に流れる野性的な本能が全力で逃走を急かすように、心臓がしきりに跳ね踊る。


 周囲を包んでいた球体が破れ、大量の海賊船の残骸が犇めく死の海の光景が再来する。だが、周囲の夢想世界の座標が急激な変化に処理が追い付かずにバグを起こしているように、重力や物理法則を無視した奇妙な空間バランスが展開されていた。

 繭のような球体に囲われていた各人は周囲の適当な位置にテレポートしており、その高さも距離もまちまちに別たれていた。そんな面子が一様に見せた居竦みの姿勢には、一種の協調性のようなものが感じられるほどだった。


 鯵ヶ沢露樹が採った姿。それは三つ首の竜のそれであった。一見したのみではその規模がわからないほどのあまりに大きな胴体を持ち、ジェットコースターのレールのように錯雑と聳えた秀麗な三つの頸。体躯の図りしれない大きさからすればおよそ小顔極まりないであろうドラゴンの凶悪な面もまた、それだけの大きさでクジラの全体ほどの規模を有している。

 

「あれは、グラトン号の持つ光喰醜竜フール・ベヘモト……」

「え?」 

 バゼット・エヴァーコールの漏らした恐ろしい言葉に、思わずオルトリンデは間抜けな声をあげた。

「いや、在り得ない。…固有冠域は個人の魂に紐付き、空間の生成の仕方は使用者によって異なる。冠域のメカニズムは超高度な暗号化方式に似るというが、その設計図は使用者の夢にのみ保存され、再現は困難を極める。……先程のキンコルが物語った儀式の全容からして、おそらくは獏が他者から奪った冠域を機構の内部で独自に解明し、別の存在に適合するように最適化していると見るべきか……それでも、とても説明されて納得できる技術とは言い難いがな」

「冠域を奪って、別の人間の為に最適化するって……さすがに冗談でもキツイなぁ」

 ボイジャー:グラトン号が戦闘の軸として据えていた固有冠域である光喰醜竜。これを展開することにより、自身を中心とする一定範囲内に特殊な因果律を設定することができ、結果として彼がイメージにより生み出した竜の頭と人間の体を融合させる効果がある。彼が扱う冠域の中では八つの竜の首頭はグラトン号の捕食器官として、あくまで体の一部として運用するものであったが、獏は悪魔として露樹を降臨させるために用意する魂の筐体としてこのグラトンの光喰醜竜を利用したのだ。

 結果として生み出された巨大な竜の体。その竜の貌つきはグラトンが従えていた竜よりもなお厳かな禍々しさを放ち、オオトカゲのように強靭な爪を持った太い脚は宙を掻くように蠢いている。翅こそ持たないがその巨大な体躯は宙に留まっており、胴体を超える大きさの長い尾は逆巻く竜巻のように戸愚呂を描きながら動き続けている。



[んん。ンー。……はい。変身終わったかな?……へー、これが新しい私。なんか変な感じ]

 竜の牙の並んだ顎は動いていない。先ほどのキンコルと同様に、周囲の人間に無差別に届くテレパシーのような声によってその場の者たちに露樹の声が届いた。


[えー…皆さん、どうも。多分あなた方の夢を食べさせてもらった者です。なんかこんな竜に成っちゃうくらいの御馳走だったんで、そこまでは良かったんですけど。……まぁ、なんか私に用事がある人がいるんですよね。あの、意地悪な人たちかな?]

 露樹が三つに増えた頭で周囲の人間たちを漫然と見回した。時折、個人に向けて視線を落とすことはあれども、一人一人に興味があるような素振りは見せなかった。そんな露樹の頭の一つに向け、キンコルは宙を滑って近づいた。朱色の装束は露樹から発せられる旋風によって大きくはためいている。


「これは間違いなく歴史的な瞬間になるだろう。いや、なるんじゃない。もう既に人類史誕生以来の最も偉大で尊い転換点は迎えて終えている。さぁ、新世界の幕開けだ。"自然悪の魔女"。僕の作った悪魔。人類に仇を為す天敵よ。この俺に究極反転という神に届く魔法を掛けるんだ‼」


[いいよ]

 拍子抜けするほど端的な回答に、キンコルは歪んだ髑髏の笑みで答えた。悪魔との取引が如何なるものであるかなど、凡庸な人間たちに推し量る術などないが、おそらくはもう少し問答を繰り広げそうなものだ。だが、露樹はキンコルが生み出した人造悪魔である。彼の持つ儀式に対する絶対の自信もあり、その場の者らにはおそらくキンコルは既に悪魔の取引の要となる過程を終えているのであろうという予想を持つのは自然なことだった。


[とてもとても不愉快極まりないけど。貴方の魂をわざわざ捧げてもらった以上はその個人的な望みを果たさせてあげる。究極反転ね。うん。多分、簡単だよ思うよ]

 竜の三つ首が強張り、顎が上向きに開かれる。大きすぎて正確に捉えることが難しかった竜の頭だが、その円らな双眸が真紅の光を生み出し十字の軌跡を纏うことで貌の外周を照らし、凶暴性をそのまま顕したような竜の骨格をありありと見せつけた。

 開かれた顎の奥から虹色の煙が噴き出す。誰に言われるまでもなく、なんとなくの感覚でもそれが所謂"魔法"に相当する力の発動であると察しがついた。魔法の煙は勢いよく口から噴出され、三つあるうちの二つの竜の頭がキンコルを挟みこむ形で煙を浴びせかけた。残る一つの頭はキンコルの周囲を煙をかき分けながら旋回し、ひとしきり周り終えると今度は反英雄や不死腐狼の近くへと寄り、赤く光る眼光を尖らせながら睨んで廻った。


[なかなか強引で一方的な要求だよね。私は君の世界を想う尊い魂とやらを与えられ、贅と死力を尽くした馳走によって持て成された。でもそれって、あくまでも私の栄養補給だったり、君の願いを叶えるための燃料の投入ってのが本質なわけだよね]

「何かそこに問題があるだろうか。悪魔としての受肉がお前にとって幸か不幸かは大した問題ではない。囚われていた貴様に僕は自由を与え、死にゆくのみの人生に解放という可能性を与えた。そして、貴様が追い求めたであろう魔女にならんとする夢もまた歪な形だが叶えて見せた。この契約における両者に明らかなメリットが存在し、契約が成立したからこそ、その取引を前提として受肉が成立した。今更後ろ指さされることなど何もない」

[いーや。違うね」

「…なんだと?」

[フェアじゃないよね。フェアじゃ。そもそも私が無実であるのにも関わらず、不当な扱いを受け、拘留され、投獄され、尊厳を奪われた。受けた精神的な苦痛、現実世界で損なった貴重な時間。私の人生を邪魔してくれたのに、それを悪魔として生きれるから代わりに許してね、って言われて納得できると思う?]

 竜の頸がじっとりと戸愚呂を狭め、骸骨との隙間を埋めていく。

「己が無辜であると信じて止まない…それ故の自然悪だが、そこまで開き直るとこちらも気分が悪い。……お前がこれまで奪ってきたものと釣り合うだけの拘束を実現できたかと言われれば、俺は間違いなくノーと答えるさ」

[ふーん。でも、私は何も悪いことしてないよ。君たちは自分が冤罪で自由を奪われたことがないだろうから、教えてあげるけどさ。……ただそこに居ただけでお前は悪だと言われ、人から人として扱われない。これってとっても悲しいし、腹立たしいし、どうにかして復讐してやりたいって思うの?わかるかな]

「もういい。余計な問答を繰り広げるつもりはない。お前は私を究極反転させるために俺が作った僕だけの機能だ。原初V計画の延長にある鯵ヶ沢露樹という新たな悪魔に投じたリソースは、およそ私が究極反転を可能とするために必要となる最低量。お前は私との契約によって悪魔としての力を享受された一方で、私に魔法をかけることによる燃料の消耗によってほぼ全ての力を失う。…バカでかいだけの生贄が生意気な口を利くんじゃねぇよ」


[あはは。そうね。そんな気がする。多分、私がちゃんとやりたいことをやるには、お腹も減るし体も重いし、いろんな要素が全然足りてない気がする。でも、私はこんな悪魔の姿になってさ……ずぅっと生き続けたいとは思わないわけ]


 竜の双眸が三つ首の先で真紅に燃える。


[私は叶えるよ。意地悪で、業突く張りで、嫌みたっぷりで、自分を正義と勘違いしている哀れな君の夢を。……でも、悪魔との契約は何より『等価交換』を尊重しなきゃいけない。だからさ、君が叶える平和な世界の実現っていうのに等しい価値の望みを私は叶えなきゃいけない」

「何を……」

[まぁ。現実世界の方で楽しく待ってなよ。君は望み通り、世界を支配する力を手に入れて目覚める。悦びなよ、究極反転成功だよっ。代わりに私は人類を滅ぼすね。平和な世界で一人で生きてなよ]


 三つ並んで生えた竜の頸の中央の一本が巻いた戸愚呂を急激に締め付け、力のままに骸骨であるキンコルを絞めつけた。骨だけの不思議な存在に竜の締め付けに堪えるだけの耐久度はなく、即座に全身が骨粉と化してすり潰されてしまった。骨は辺りに充満した虹色の煙と混じって霧散し、残る二本の頭は吐いていた煙を止めて再び錯雑と宙に絡み合った。


[とまぁ、そういうことだから。君たちには悪いけど死んでもらうよ]

 竜は笑った。大きく開かれた顎から再び虹色の煙が吐き出され、それが寄り集まって四本の巨大な炎の柱を形成した。それを知る者が見れば、間違いなくその技は擲火戦略小隊長であるバゼット・エヴァーコールの冠域固定に基づいた大技の焔柱だった。


「なんてことだ…」

 特異な詠唱手段と精神性、加えて特別に頭一つ抜けた才能があってこそ実現できた人間離れした大技を無詠唱で成立させた露樹に対し、当の本人であるバゼットは言葉を失い立ち尽くした。


[これは、誰の技だろうね。まぁ実際はどうでもいいんだけど。強そうだから使うね]


「あまり舐めるな。こンの小娘が」

 不死腐狼/アブー・アル・アッバースが声を上げる。ただでさえ浮いていた体をさらに高く跳躍させ、空中にてその姿を一回りも二回りも大きな人狼へと変化させる。露樹の悪魔化の儀式の完成段階で獏が彼女に完全に接続されたため、既に獏が有していた夢想世界の拘束能力が解かれている。従って、今の不死腐狼の周囲には小規模ではあるが彼の冠域が発動し、姿を人狼に変化させる夢想解像までを実現させていた。

 人狼が宙を急激に滑空し、息を巻きながら三つ首のうちの一つに飛び掛かる。鋭利な爪を立て、一切の手加減を無しに切り込んだ。ボイジャー級の耐久度では一撃で屠ってみせる強力な爪撃だが、これを受けてなお竜の厚い鱗には一切の損傷が生じなかった。


[舐めてんのはどっちだろうね]

 四本の炎の柱が人狼めがけて振り落される。人狼は避けるべくして体勢を整え、回避を試みるも大きすぎる炎の柱に呑まれてその身を一挙に焼き焦がされる。


「固有冠域展開:熾天」

 展開されたボイジャー:オルトリンデ号の固有冠域。付与された空間飛翔能力によって少女の体はぐんぐんと高度を上げながら急上昇し、露樹の姿が目視でギリギリ確認できる程度の高さまで到達する。


「爆弾作るのとかニガテなんだけどな……今はやるしかないか…ッ!」

 擲火戦略小隊の十八番。超高度からの無差別爆撃。通常時は隊員に冠域効果を掛けて滞空能力を付与するのみの役割に徹していた彼女も、ここ一番の局面となって自身の想像力に任せて爆弾を精製した。構造が曖昧であるためにとにかく量を投じる選択肢を採り、手当たり次第にとにかく精製した爆弾を宙へと預ける。

 その効果の程は定かではなかったが、少なくともそれが露樹に対して有効な攻撃手段でないことにはすぐに察しがついた。そして、次の瞬間に目に飛び込んできた光景に彼女は言葉を失う。恐るべき巨体を持ちながら、ボイジャーであるオルトリンデを遥かに凌ぐ速度で急上昇してくる竜の姿が眼下に迫ってきたのだ。


「………ッ‼?」


――――――――

 

 急上昇を行い、一分と立たずに降りてきた巨竜。

 三つ首の頭のうちの一つ。禍禍しい獣牙の備わった顎の端にはオルトリンデのものと思われる細腕が垣間見えていた。


「………………」


[つまらないね。皆さん]

 竜は真紅の瞳で残る人物に視線を回した。

 そこで一人の少年と視線が交錯し、言葉を投げる。


[おや。意外とやる気がある人もいるみたいじゃん]


「まぁね。こっちから見たアンタは結構面白いし、ちょっと興味がある」

[気が強いだけじゃ勝てないよ]


「勝つのが目的じゃない。闘争も目的じゃない。今はただ、見極めたいんだ」


[ふーん。恰好いいじゃん]


「ここが最期だと思えば…多分俺は死ぬだろう。でも、違う。やっと掴みかけた、生きるってことの意味をしっかりと見つめ直したい。まだまだ死ねないと思うからこそ、俺はアンタの前に立つよ」

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