第五話

 酩酊の中、半覚醒と眠りの間を往復していたシェントゥは、ふと横たえた頭の辺りに、熱と気配を感じて目を開けた。

 いやそもそも、臥所に寝かせられていたことに、この時点で気づいた。何もなさから察するに、自分自身の部屋だ。

 星舟の部屋であれば、手慰みのための月琴やら努力の跡が垣間見える使い古しの料理帖やら竜の舌には合わない秘蔵の美酒やら、とにかく覇道に行くには無駄に過ぎる数々が散在しているはずだった。

 それは、この熱の源、隣に腰掛けている夏山星舟の介助によるものだろう。


「まだ寝てて良いぞ」

 と、目覚めに気づいた人間は、手にした文書から一つしかない目をシェントゥへと傾けながら言った。


(……なんともまぁ)

 毎度のことながら、面白味もなければ覇気もない月並みな言いざまである。

 トゥーチ家在籍時は、まだ気概を見せていたはずなのだが。


 サガラの目があればこそ、無用の負けん気を出して自身を奮わせていたのだろう、と彼女は推測する。

 本来隠さなければいけない相手に丸わかりの敵愾心を見せ、意欲を見せない時に腑抜けているとはこれ如何に。

 そのちぐはぐな姿勢に、癇の虫が刺激される。


「自分に構ってるヒマあったら、仕事してください」

「してるっての、今。お前のおかげで割とはかどってる」


 であれば机に向かって筆を執るのが正しい姿だろうに。何を看護の片手間に書類の片付けなどしているのか。


「なぁシェントゥ」

「シェントゥじゃないです……いやシェントゥでした。あぁもう、頭がどうにかしてる……なんですか」

「さっきの、わざとなんだろ」


 こちらに上半身ごと向いたためか、ぎしりと寝台が軋んだ。


「お前があんな下手打つわけないからな。酔い潰れたことを理由に、オレもこうして早く切り上げることができた、だろ?」

「……どうとでも、ご自分に都合の良い解釈してくださいよ」

「あ、そう? じゃあまたお願いしようかな。この手、もう二、三度は使えそうだしな」

「…………」

「冗談だって」


 一世一代の会心の策のように笑いかける星舟に、冷視を浴びせる。

 もっとも、もしこの程度の低い『冗談』で彼女が怒っていると取られたのならば、それこそ解釈違いというものだ。期待もしていない相手に、何を怒るというのか。


「貴方相手にわざわざ打ち明ける気にもなりませんが、自分にも日々思い煩うことがありましてね。こと、今日は特別、痛飲したい気分だっただけです」

 寝返りを打ってうつ伏せになりながら、シェントゥは言った。


「この時勢、何かに酔わずにはいられない。自分も、ハンガやここの連中も、そして貴方自身も」

 枕に口元を埋め、吐息混じりにこぼせば、己の内から酒気が反芻する。


「彼らの酔いを無理に覚まし、現実に引き戻すことは、あまりに酷ではありませんか。それをするだけの資格が、星舟、あなたに、あるとでも……」


 勢い思いの丈を吐き出したがためか。

 彼女の意識は、そのまま再びじんわりと滲んで揺らいで沈んでいった。


 〜〜〜


「眠ったか」

 あえて声に出してその反応を窺う。身じろぎの様子さえないことを見届けた星舟は、彼女の身柄へと手を伸ばした。


 そして、その身を浮かせて寝具を整えて、きちんと布団に収めてやる。

 こうして肌に触れてみると、確かに女らしい身体つきだと分かる。

 よくも心身ともに抑圧し、間者として一年も徹し切れたものだとあらためて感心する。

 あの、何も報いることのないであろう男のために。

 否、あの性根で、死命を無償でさせるからこそ、やはりサガラ・トゥーチは他者の心を掌握し操縦することのできる怪物なのだろう。


 そんな彼から離れて、シェントゥは何故自分たちに合流してきたのか。あるいは結局皆が怪しむ通り、彼女自身が戯れた通り、まだ繋がっているのか。


「……その理由は確かにオレには分からないけどさ。あと、経堂たちの手前、あんまし言えねーし」

 枕に突っ伏し寝息を立てる彼女の背を布団越しに指の背で撫でる。


「オレは、お前が来てくれて嬉しかったよ」

 そう、伝える。

「たぶん、オレ独りだと潰れてた」


 自身の感情、そして起こりつつある肉体の変容ゆがみ。それと肌に合わない環境での板挟みの中、虚勢を張り、愛想笑いを作るたび、己が擦り切られていくような心地が絶えずしている。

 だがシェントゥや経堂、恒常子雲らの、上官を上官とも思わない、忌憚ない態度と距離感こそが、未だ変わらず夏山星舟を己たらしめている。


 きっと彼女は自分にとっての梅茶だ。

 どれほどに渋かろうと辛かろうと、己を現に繋ぎ止めている。

 だから、自分もかくあろう。

(ここまで、良い子になり過ぎていた)

 どれほどに疎まれることになろうとも、ともすれば争うことになろうとも、真の安堵のため、楽土のため。


「ありがとう。シェントゥ」

 

 こんな時にしか見せられない弱気。紡ぐことの許されない感謝の想い。彼女の手を取って、その甲を自らの額に押し当てながら、伝える。


 そして、気恥ずかしさからすぐに離れ、書類を小脇に足早に退出したのだった。




 己が去ったその間際、枕に突っ伏したままの彼女が、激しく両脚を暴れさせたことなど、知るべくもなかった。

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