第一章:梅と酒、髀肉の嘆

第一話

 ……痛飲していようといまいと。

 夏山星舟の朝は早い。

 夜明け、頭痛と共に起き上がり、いつどうやって戻ったか朧げな記憶しかない部屋を掃除し、無理矢理に中断させられた庶務の後片付けをする。


 そして南方領司令官級の制服たる長マンテルを羽織り、サックに軍刀を吊ってあてがわれた官舎を出る。

 政庁本棟の勝手口より台所に入り、食器のいくつかと、食材の残りを拝借する。

 貫雪つらゆき産の梅をきつめの紫蘇、赤酢に漬けて干したものを、濃茶を沸かしてその中に投じる。


 まず一杯、自身で中の果肉ごとに飲み干す。

 むろん、味など度外視。ただ二日酔いの脳を覚ますための刺激物だ。


「ゔぇーい」

 吐き気とともに種を吐き出すと、いくらか気分もましにはなった。

 二杯目を淹れて盆に載せ、上の階へと持っていく。


 先には宴会場だった名残が著しく顕れているその広間の文机に、ハンガは突っ伏している。


「おはようございます。御前様」


 と、星舟は彼女の腕のぎりぎりの範囲外より薫りを風下へと流しながら、朝の挨拶をした。

 ぶん、と膝下のすれすれを剛腕一閃、通過する。

 その風に少しばかりひやりとしながら、

「朝早くより申し訳ありません」

 朝は朝でもすでにしてそれほど早い時刻ではないのだが、あえてそう言いつつ、

「しかし、そろそろ身なりだけでも皆の範たるを示していただかなくては。着替えは昨晩のうちに侍女に部屋に持って行かせましたので、まずはそちらに御着替えを。その間に、こちらの片づけは手配しておきますので」

 と諫めて促す。動かすための手土産に、例の梅茶を差し出したうえで。


 一瞬わずらわしげに星舟を盗み見上げたハンガではあったが、仕方なさげにのろのろと身じろぎを始め、湯呑を受け取る。

 そして一息で種ごと飲み下すと、

「あー、脳漿に染みるぅー!」

 吐息とともに、健全ならざる感想を漏らした。

 その一連の所作がどことなく自分と似ていることが、なんとなしに星舟は嫌だった。


星坊セーボー

 空の器を片づけた星舟の横顔に、南方の女傑は尋ねた。

「お前さん、ウチに来てどれぐらい経つ?」

「二年でしょうか」

「まぁずいぶんと、手慣れたもんさね」

 しみじみとそう褒めてくる。これが東方領主兼帝都で実権を握るかのサガラ・トゥーチから発せられた言葉であれば、まず裏があるだろう。

 が、彼女は掛け値なしに、その瞬間に過った感慨をそのまま口に上らせて発散しているだけである。


「最初は、この茶を淹れる作業ひとつにも苦労しました」

 と星舟は苦笑を浮かべた。

「『朝来るのが早過ぎる』と下段蹴りを脛に喰らい、『梅干しに蜂蜜なんぞ混ぜるな』と左目の詰め物を抉られそうになり、寝ぼけて繰り出した裏拳で膝の皿を割られそうになり……今となっても、唯一残った方の目を閉じれば、その時の思い出が痛みや恐怖と共に蘇ってきます」

「……そりゃ、思い出じゃなくて『根に持ってる』って言うんだ」

 髪をバサバサとかき乱しながら、ハンガは苦い顔をした。

「悪かったぁね、あたしは兎角寝起きが悪い」

 それを理由に横暴を正当化されても困るのだが、今は眉を下げて受け入れるしかないのだろう。


 その星舟を横目で眺めつつ、

「まぁ割と、お前さんはそういうのを受け入れたよねぇ」

 と目元を緩ませた。


「ブラジオの旦那なんかは生前、『気持ち悪い笑顔を貼りつかせて揉み手で竜に擦り寄ってくる東方領の佞臣』とかなんとかと吐き捨ててたみたいだけど」

「誇張し過ぎじゃないですかね……」


 いくらなんでもあんまりな死者の物言いであった……正直、気持ち悪い笑み云々は自他ともに認めるところだが。


「では、何故御前様はそんな自分をお抱えに?」

「ま、アルジュナおじ様の御遺言だしね。無下にもできないさ。助けてもらっておいて飾り物ひとつで褒美をなぁなぁにしようとサガラ坊ちゃんのやり口も気に食わなかったし」


 訊いてみれば、何とも味気ない返答である。

 自身の才覚が鳴禽となって遠近に渡り飛んだというわけではなく、結局は他者の温情や因縁という籠によってのみ活かされている文鳥に過ぎないというわけか。


 傍で佇む星舟の様子を眺めて、ハンガは

「けどいい買い物だった」

 と言った。


「まぁウチは死んだダンナ以外こんな調子だし、内向きのことなんざダンナに丸投げで困り果ててたんだが、お前さんがきてくれてアレコレと差配してくれて……大助かりさ。なんだかんだ、ここにも親しんだようだしね」

「ありがとうございます」


 親しむこととなんか慣れたことはまた別だ。

 声にして訴えたいところをぐっと抑える。

 この二年で感情の、特に怒りの統制は、自分でも出来るようになったという自負が、星舟にはある。

 唐突な無茶振りや理不尽な横暴に晒されたとして、笑顔を無理やり作って忍耐を擦り減らすのではなく、諦めの境地で、ありのままの事実として受け入れることが出来るようになった。そのうえで提言すべきことをするようになったと思う。たとえその大多数が耳に入らなかったり理解されなかったとしても。


『あ、これ予習ナテオでやったとこだ!』

 という塩梅に。


 諸事その境地に至れば、陰で衝動のままに悪態をつきながら壁を蹴る、などと言う無作法などするべくもない。


「お前さんの頑張りを見てさ、あたしらもここまで散っていった多くの竜の死を無駄にしないために、出来ることは何でもしたいと皆と話し合っていたところさね」

 粘り強く働いた結果、信頼を勝ち取った手応えがある。

 今その言質も取り、確信を得た。


 然れば、と星舟。懐中にて温めていた腹案を取り出して、


「ありがとうございます。では早速ながら申し上げますれば、この南部領。東方領に比較すれば手狭なれども、山海に恵まれこれらの幸を海運にて巡らせれば盤石な経済基盤を築くことが能いましょう。ただ惜しむらくは、それらの儲けを内々の浪費にて消耗してしまっているという点こそ最大の難でございます。されば、外に銭を回すことは大いに結構なことですが、出来ますれば今より酒盛りの頻度と規模をそれぞれ三分の一ほどに減らしていただきたく。詳細とその試算は、こちらにまとめましたので、是非ともお目を通してくださいますよう」

「あ、悪い。そりゃ無理だわ」


 キッパリと、サッパリと。

 ハンガは笑って即答した。


 〜〜〜


「死ねっ!」

 星舟は陰で衝動のままに悪態をつきながら、壁を蹴った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る