第一話『蛮族達の午後』その1

――――濃紺のうこんの瞳が、刃のように輝いていた。


 視界から背景が消し飛ぶほどの衝撃に、少年は息を詰まらせた。

 今、彼の目の前にあるのは、この世のどこにも存在しないはずのもの。


 すみ色の髪からただよう椿の香り、き通る白い肌、少し太い眉。まっすぐに通った鼻梁びりょうまで、『彼女』の顔を構成する記号と配置は、あまりにも奇跡的だった。

 しかし、その姿を見た者に印象を残すのは、前述した顔の造形でも、しげもなくさらされた少女らしい肢体したいでもない。

 から放たれる輝きだ。


 そして、この少年もまた、その輝きの犠牲者であった。


◇     ◇     ◇


 晴れ渡る空のもとに、爆音がこだましていた。 

 エコカーが車業界のシェアを牛耳ぎゅうじるようになって、はや数年。その潮流ちょうりゅうをあざ笑うかのように、マフラー改造済みのラリーカーが、新緑の山道を時速百キロで駆けていく。しかしその正体が、白黒で塗り分けられたパトカー仕様のGTRだと気づく者はいなかった。


「――、いやあ、災難だったねえ」


 ハンドルを握る中年警官は、くわえ煙草のままでほがらかに笑った。


 車の中にはしっかりと爆音と振動が伝わっており、とても会話が成立するような状態ではない。……はずが、運転手と同乗者は構わず話を続けている。もちろん、彼らが互いの話を適当に聞き流しているからこそ、可能な芸当だ。


「引っ越してきたばかりじゃ、道なんて分かんないよねえ。七期山しちごやまは地元の人でも泣いて逃げ出す魔境まきょうでね。熊だのガスだの、何でも出てくるし、下手すると死んじゃうよ? あっはっは!」

「笑い事じゃねえだろ、おっさん……」


 ナビシートから返ってきたのは、少し低めの声だった。


 年の頃は十五、六といったところだ。だらしなく前を開けた赤いジャージの下に黒のTシャツ。ジーンズは洗いざらしだが、スニーカーからバッグにいたるまで、スポーツメーカーで統一されている。ところがそれらを着こなすのは、スポーツマンシップなど生涯えんのなさそうな、ガラの悪い目つきの少年だった。


 日に二本しか出ない山道バスに、この少年が乗り遅れてしまったのが、すべてのはじまりである。


 G県の一角をになう七期山は、日本有数の霊山として修験者しゅげんじゃ達にあがめられてきた。だが、近年は火山性ガスの噴出や、危険な野生生物の目撃情報も多数寄せられており、地元住民でさえ、おいそれとは近寄らない。


 無謀むぼうにも徒歩で山越えを試みた少年は、運悪く、入山直後に熊とニアミスしてしまう。そして散々山の中を彷徨さまよった挙句あげく、やっとたどり着いた神社の境内けいだいで、緊急逮捕されたのだ。


 このあり得ない対応には、少年も大いに不満だった。


「……なぁ、あの頭がぶっ飛んだ女は、マジで公務員ケーサツだったのか?」

「こんな田舎の駐在にしとくのはもったいないよ。彼女、やる気あるからねぇ」


 たしかにる気はあったな、と、少年は眉間へしわを寄せていた。


 神社に現れたエキセントリックな婦警によって、問答無用で駐在所へ連行された赤ジャージの少年は、その後、事情聴取とは名ばかりの極悪な尋問を受けていた。ところが、少年の気の強さがわざわいし、話がこじれてしまったわけである。


「でも別に、不良ってわけじゃないんだよね?」

「顔できめつけんな」


 結局、尋問開始から二時間後に駐在所へ戻ってきたこの中年警官の計らいで、少年は解放されたわけである。

 ただし、いまだに手錠は掛けられたままなのだが。


「つーか、逮捕するかよ!? 普通!」

「そりゃあ仕方ないよ。こんなド田舎で『ウチの禁足地きんそくちに凶悪犯が侵入した!』なんて通報があったら、駐在所からパトカーぶっ飛ばして駆けつけるのが普通なんだってば。あーあ、僕も銃、撃ちたかったなぁ」

「お前ら二人とも、懲戒免職ちょうかいめんしょくになっちまえ」


 凶悪犯こと、大槻勢十郎おおつきせいじゅうろうは口をひん曲げた。


 GTRのタコメーターは50から100km/hをせわしなく行き来している。

 法定速度などという概念は、ハナから存在していない。駐在所を出てすでに四十分。この中年警官が「家まで送ろうかあ?」と言ってくれなければ、間違いなく勢十郎は野宿する羽目になっていただろう。


 防弾仕様の車窓から、勢十郎は春の峠道を眺めていた。


「なぁ、さっきから同じ景色が続いてねえか?」

「自然だけが取り柄のド田舎だからねえ。そういえばこの前釣りに行った時も、異常進化したブラックバスを見かけたよ。!」

「説明はいいから前見て運転しろッ。それとハンドルから手を離すんじゃねえッ!」


 血相を変えた勢十郎が男の顔を押し戻すと、パトカーはやっと蛇行を中断した。


 縦揺れするパトカーの足下は、舗装道路から砂利じゃり道へと変貌へんぼうし、今では道なのかどうかさえ怪しくなっている。……断言してもいいが、こんな場所に普通の人間は住まない。


「それ以前に家なんてあんのかよ? こんなところに……」

「あれえ? さっき、自分の家って言わなかったっけ? 赤ジャージ君?」

「だから前を見ろつってんだろうが……ッ! 今向かってるのは、じいさんの住んでた屋敷で、俺は一度も田舎に帰った事がねえんだよ」

「まぁ、最近の子はそんなもんだよねぇ」


 軽口を叩き合う間にも、勢十郎の中にはじわじわと不安が広がっていた。

 

 明日から毎日、この悪路を通って登校しなくてはならないのだ。

 屋敷には祖父の愛用していたスーパーカブがあるらしいが、状態は確認するまで分からない。分からないが、両親の勧めに従い、原付の免許だけは取っておいた勢十郎である。


 物思いにふける彼を現実へ引き戻したのは、パトカーの急停車だった。


「はーい。ここからは歩きだよ」


 中年警官の軽い口調にかされた勢十郎は、しぶしぶ車を降りていく。

 

 すると案の定、そこにはろくでもない光景が広がっていた。

 日差しを遮る針葉樹と広葉樹の混合林は、人の手つかずのジャングルそのものであった。勢十郎の足元にうっすらと見えている獣道は、鬱蒼うっそうい茂るやぶの中へと続いており、あちこちから鳥獣の叫び声がしている。


 しばし言葉を失った勢十郎だが、気を取り直し、赤ジャージの肩口にドラムバッグのベルトを食い込ませた。


「どーも、ありがとうございました。じゃ、そろそろ手錠を外してくれ」

「気をつけなよ。君の話通りなら、その家、今じゃ誰も住んでない『幽霊屋敷』なんだろう? 未確認生物のコロニーになってても、何も不思議はないからさぁ」

「ああ。わかったから、手錠をはずせ」

「ばいばい~」

「…………」


 勢十郎が無言で両手を掲げると、中年警官はようやくふざけるのをやめ、ポケットから鍵を取り出した。


「……外れたよ。じゃ、今度こそ気をつけて。世の中、悪い人だらけだからねぇ」

「うるせえよ、不良警官」


 言われるまでもなかった。

 こんなろくでもない人間が、公職にくような世の中である。


 それ以上何も言わず、勢十郎が山の奥へわけ入っていくと、一分とかからずに中年警官の姿は見えなくなった。


 日も高い時間帯のはずなのに、ひどく視界が薄暗い。

 繁茂はんもするシダ植物を蹴散らして、勢十郎は獣道をひた進む。七期山の磁気に当てられたコンパスの針は、ずっと挙動不審に揺れていたが、もはや引き返すわけにもいかなかった。戻ったところで、彼には野宿の未来が待っているだけである。


……ところが、その十分後。


 ジャングルをかき分けて竹林へ出た勢十郎の前に、とんでもないものが現れた。




「――、マジかよ……?」




 うすく霧のたちこめる山間やまあいに、その大屋敷は堂々と鎮座していた。

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