遠くへ


 *


 走って、走って、走って。

 疲れると、歩いて、歩いて、歩いた。

 当てもなく、足の感覚がなくなるくらいに。

 財布も傘も持たず、雨に濡れる。スマホは持っていたけれど、電源を切っていた。でも、昨日みたいに無計画なわけじゃない。

 わざとだった。死に場所さえ見つかればいいから。

 お父さんが平常心を保っていれば、そのうち警察に捜索願を出すかもしれない。もちろん連絡は絶ちたいし、むやみに公共交通機関を使って痕跡を残したくなかった。

 何より、ここで歩みを止めたら、いろんなものが一気に押し寄せてきて、気がおかしくなりそう。

 今はただ、遠くへ。

 そんなことを考えながら足を引きずっていると、ふと、頭上や背中に感じていた雨の冷たさが消えた。

 見上げれば、背の高い木々に囲まれている。森に入ったらしい。

 一度気を抜いたら、糸が切れたように力が入らなくなってしまった。

 体が求めるまま、その場に倒れ込む。

 湿った土の、におい。降り注ぐ雨の、かすかな音。

 雨は嫌いだ。大嫌いだ。いい思い出なんか、ひとつもない。

「あたま、いたいな……」

 なんだか苦しい。もしかしたら、本当に死ぬのかも。アユも死に際、こんなふうに苦しかったのだろうか。謝っても謝りきれない。

 いっそ、ここで死ぬのもいいか、なんて思う。本来ならこんなに穏やかな場所じゃなく、海で溺れるか、それが無理なら崖から落ちるくらいの覚悟でいたのだけれど。

 ママ。分かってるよ、ママ。今の私じゃ、同じ場所にはいけないよね。

 だけど私はもう、生きていられないから。生きていたくないから。無限に広がっていたはずのあの子の未来を、奪ってしまったから。

 大切なふたりの笑顔を思い浮かべながら、ゆっくりと意識を手放そうとしたとき、

「あなた、こんなところで何をしているの?」

 きれいに澄んだ声が、それを引き止めた。

 見ると、女の人がしゃがんでこちらを覗き込んでいる。艶のあるしなやかな栗毛に、黒のローブを着た人。その肩には、グレーっぽい毛をした不思議な生き物がのっている。

「マダム。こいつ、魔女じゃないよ」

 不思議な生き物の一言に、「あなたに言われなくても分かってるわよ。初対面の人に『こいつ』だなんて失礼でしょう?」とたしなめる女性。

 魔女? っていうか、

「え、今、しゃべ……った?」

 ふわふわする思考の片隅でどうにか状況を理解し、力なく驚きを口にすると、マダムと呼ばれた女性は「あら、トワイの言葉が分かるの? めずらしい」と目を丸くした。

「それに、秘密の森に迷い込む人間なんて、そうそういないのよ。素質がありそうね」

 素質? さっきから何を言ってるんだろう、この人たち。

 内心で小首をかしげる私に、彼女は姿勢を正してこう言った。

「ねぇ、あなたさえよければ、一緒に来ない? 見たところ、家出でもしてきたんでしょう?」

 ストレートな物言いに、

「家出……ははっ、そうかもしれません。一緒に、ですか。せっかくですけど遠慮しておきます。私、ここで死のうと思うので」

 乾いた笑いを漏らして答える。すると、彼女はさして残念がるでもなく、驚くでもなく「そう」と返した。

「ここを死に場所にするのは構わないわ。止めもしない。死ぬ日を自分で選ぶのは自由だもの」

 淡々と告げて「ただ……」と続ける。

「それは、逃げではない?」

 はっとした。

 逃げ、かもしれない。思えば私は、家族のことからも仕事のことからも、何かと理由をつけて逃げてばかりだ。

「あの――」

 あなたについていったら、どうなるんですか? 体を起こしてそう尋ねようとしたけれど、

「……っ」

 頭を持ち上げると、目の前が眩んでうまく起きられなかった。

 その様子を怪訝に思ったらしいマダムは、そっと私の額に触れ、

「ひどい熱ね」

 と呟いた。言われてみれば体が火照っている。吐く息も熱い。

 なんだ。さっきから妙に苦しいなと思っていたら、死にかけってわけじゃなくて、単に具合が悪かったのか。昨日から雨に打たれてばかりだし、無理もないけれど。

 呆気なく解明された事実にこっそり落胆していると、突然、マダムが重大なことに気づいたように目を見開いた。

「この気配。あなたまさか、未亜みあの?」

 思いがけない言葉に、私も息を呑む。

「どうして、ママの名前を……?」

 間違いない。マダムが口にしたのは、大好きなママの名前だ。偶然か必然か、私の芸名にとてもよく似た名前。

 私の反応に、彼女は「あぁ……そう。そうなのね」と噛みしめるように言って顔をほころばせた。

「忘れるはずがないわ。ミアは娘みたいなものだもの。それで、彼女は元気?」

 明るい声で訊かれ、思わず視線を逸らす。

「ママは……十年以上前に亡くなりました。ずっと、病気だったので」

 どうにか涙をこらえて返答すると、彼女も何かを察したように表情を暗くしたが、

「あなたは、来るべくしてここに来たのかもね」

 すぐに明るさを取り戻し、私をひょいと抱き上げた。

「えっ? ちょっ、どこへ……」

 拒否しようとするも、「いいから」と制される。

「詳しい話は後よ。これからどうするにしても、まずは元気にならないと。部屋ならひとつ余ってるから、貸してあげる」

 元気にって、死のうとしてたんですけど……?

 なんて思いつつ、一度体調不良を自覚したら、だるくてもう動けなかった。

 まあいいや。この際、どうにでもなってしまえ。死ぬつもりだったんだから、怖いものはない。ママの知り合いってことは、不審者ではないだろうし。

 マダムの歩みに合わせて伝わるわずかな揺れが眠気を誘い、まぶたを重くしていく。

「ねぇ、こいつ魔女にするの?」

「だから、こいつとか言わないの。本人が決めることよ」

 マダムと不思議な生き物のそんな会話を最後に、最初とは違った意味で、今度こそ意識を手放した。


 一晩高熱で苦しんで山を越えた後、マダムはベッドの傍らで、魔女やママのことについて聞かせてくれた。

 私が迷い込んだのは、普通の人間には見えないはずの秘密の森で、たくさんの魔女が集落をつくって暮らしている。ここはその一角である、わたげ荘。

 魔女には、親の魔力を受け継いだ先天的な魔女と、師から魔力を分け与えてもらった後天的な魔女との、二通りがいるそうだ。

 ママは、マダムとも親交があった優秀な月魔女の夫婦の間に生まれた一人娘。幼い頃から修繕の魔法が得意で、マダムのところにもよく遊びに来ていたんだとか。

 言われてみたら、母方の祖父母や親戚には会ったことがない。

 それに、修繕の魔法。この話には、私の知っているママにも通ずるものがあった。

 どんな物でも、最後の最後まで大切にするママ。まるで魔法のように、素敵に生まれ変わらせるママ。

 だからこそ、こんな絵本みたいな非現実的な話を、すんなり受け入れられたのだと思う。

「でも、あの子は森の中で魔法を使って周囲を喜ばせるより、町で人間の子供に混じって遊んだり勉強したりするほうが好きでね。両親に頼み込んで、人間のふりをして学校にも行っていたわ」

 なんともママらしい。ときに友だちと無邪気にはしゃぎ、ときに生真面目な表情で机に向かう姿が、目に浮かぶようだった。

「そして二十歳のとき、ずっと想い合っていた男の子と一緒になるために、親元を離れて人間として生きる道を選んだ。彼だけは、ミアが魔女だったことを知っているはずよ」

 ずっと想い合っていた男の子――きっとお父さんのことだろう。

「先天的な魔女が人間になるには、長すぎる寿命と魔力を悪魔に喰ってもらう必要があるのだけれど、喰われすぎて短命になったり、代償として呪いをかけられたりするの。ミアが病気で早くに亡くなったのは、そのせいなんじゃないかしら」

 ちなみにワタシはこう見えて百二十歳よ、とマダムは笑う。

 思えばママはいつも、自分の体がどうなろうと、医者から何を言われようと、けっして動揺せず、すべてを受け入れている感じがあった。自分の運命を最初から悟っていたとすれば、それにも納得がいく。

「ミアが家を出てしばらくすると、ふたりで穏やかに暮らしたいって、彼女の両親もこの森を出たの。人間になった我が子とは、実質血縁もなくなってしまうから、きっと寂しかったんだと思う。今頃どうしているでしょうね」

 一通り話を聞き終えると、私も自身のことを打ち明けた。

 ママの死後、お父さんが再婚して、腹違いの弟ができたこと。

 成長するにつれて様々な葛藤が生まれ、ママのところへいきたくなってしまったこと。

 自暴自棄になった私のせいで、弟までうしなったこと。

 あらためて死に場所を探すうち、ここで力尽きたこと。

 そして最後に、宣言する。

「私、死ぬのはやめます。代わりに魔女にしてください。今の気持ちのままじゃ、とても家族のところへは帰れないし、ママが見ていた世界を、私も見てみたいから」

 私の決意を聞いたマダムは、

「ミアは月魔女で、ワタシはここの長である花魔女。あの子が見ていた世界とは少し違ってしまうかもしれないけど、仲間が増えるのは大歓迎よ。花魔女になる唯一の条件は、なんらかの罪を犯していること。悲しいことにあなたはそれも満たしているし、きっと腕のいい魔女になるわ。なんてったって、ミアの娘なんですもの」

 そう言って、優しく目を細めた。かと思えば、「ただし」と人差し指を立てる。

「あなたのお父さんとも顔見知りだけど、ご家族には自分で話をつけなさい。誘拐犯扱いされるのはごめんよ」

 真剣ながらも、どこかおどけたような一言に、私も微笑み交じりで「はい」と答えた。

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