第56話 知ってしまった幸せ

「アーネスト侯爵閣下。を返していただきたい、今すぐに」


 赤の騎士から一歩前へ出た男が突然放った言葉にゼフィランサスは耳を疑う。


「――、だと?」


 その男は拳を握り、「はい」とゼフィランサスの瞳を真っ直ぐに見つめた。その目には憎悪の念さえ宿っているように見える。


 ウィステリアを自分の娘だなどと、訳の分からないことをいうその男をゼフィランサスは無視した。


「ハートラブル公爵閣下」


 その男から目を逸らし、公爵へ移すとゼフィランサスは差し出された書類の一部分を指し示す。


「この契約書は、私の娘のものではありません」

「ええ、そうでしょうね」


 整えられた微笑みを崩さない公爵に、ゼフィランサスは苛立ちを隠せない。


「では、なぜ……?」

「今、あなたの娘はローズマリー嬢、お一人でしょう? 確かに公爵家うちの花屋の店主はローズマリー嬢ではありませんもの」

「ウィステリアでも、ありません!」


 公爵は堪えきれないとばかりに「ふふっ」と笑いを漏らす。ゼフィランサスは怪訝な顔をした。


「そうね、契約書ここに『ウィステリア・アーネスト』の名はありませんわね」


 公爵は隣に立つ男にチラリと視線を送った。

 視線を受けた男は小さく頷くと、胸元から書類を取り出し、ゼフィランサスへと差し出した。


「これは……!」

「アーネスト侯爵閣下。もう一度だけ、言います。を返してください」


 ゼフィランサスはゴクリと喉を鳴らした。そして拳を握りしめ、その男を睨みつける。


「除籍は撤回する! ウィステリアは私の娘だ!」


 男は首を左右に振った。


「いいえ、侯爵閣下。ウィステリア・アーネストは除籍され、さらには家からも追放されました。その時点で、もうあなたの娘ではありません。そして、彼女は正式に私の娘――“リア・クレメンタイン”となりました」 


 その男――ハイデ・クレメンタイン伯爵は、目を細めると語気を強めた。


「私の娘リアを今すぐに返していただけなければ、誘拐として警吏に通報させていただきます」


 ゼフィランサスは大きく息を吸い込んだ。


「何だと……? ウィステリアは私の娘だ! 自分の娘を取り戻して、何が悪い! 通報したところでウィステリアが私の娘であることに変わりはない。困るのはあなたの方です、クレメンタイン伯爵!」


「ふっ、あははははっ!」


 甲高い笑い声。ゼフィランサスは目の前の発生源に目を瞬かせた。


「ああ……可笑しい! ねえ侯爵、まさかそれ本気でおっしゃってるの?」


 戸惑うゼフィランサスに公爵は呆れ顔を向けた。


「公爵家と花屋の契約書、よくお読みになった?」


 トントン、と契約書を細い指先で示す。


「私が契約しているのはね、ハートラブル公爵領の商業ギルドに登録しているアシュリー生花店の店主リア・クレメンタインなのよ」


 ゼフィランサスはすでに混乱しているのか、瞳を左右に揺らした。


「ウィステリア・アーネストは現在、リア・クレメンタインとしてハートラブル公爵領の領民である、ということなの。この私が証明している。あなたはそれに不服、という認識で、よろしいのかしら?」


 それはすなわち、公爵家に喧嘩を売っている、ということだ。


 ゼフィランサスは、ぶんぶんと首を左右に振り「いえ」と答える。そして、苦し紛れに続けた。


「ウィステリアは――屋敷ここにはおりません……!」



 ◇◇◇◇



「リア」


 囁かれた声に弾かれたようにハッと顔を上げる。

 ――ずっと、聞きたかった声だ。




 真っ暗な地下室。

 ジメジメした空間に、冷たい石の床。


 光が入らないその部屋で、あれから何時間、いや何日経ったのかも分からず、リアはただ両足を抱えうずくまっていた。


 たった3か月だけれど、楽しく、自由に過ごせた日々を思い浮かべていた。

 あの、ヒマワリのプロポーズも。


『リア。僕はリアのことだけが今までもこれからも大好きだから――結婚しよう』


 あの幸せな日々が頭から離れない。一度、知ってしまった幸せはそう簡単には消えてくれない。厄介なものを手に入れてしまったものだ。


 リアはそっと目を閉じた。


「リア」


 聞き間違いだろうか。ついに幻聴さえ、聞こえてくるほどに自分の精神は病んでしまったのか。と、リアが両足を抱え込む腕に力を入れた瞬間。


「リア!」


 確かに聞こえた愛しい声に、リアは顔を上げた。そこにはホッとした表情でわずかに微笑む婚約者の姿があった。


「やっと、見つけた」

「……アッシュ……!」


 鍵を開け、駆け込んできたアッシュがリアを抱きしめる。それも一瞬で身体中をチェックするようにペタペタと触り始めた。


「……っ!」


 最後に、リアの顔を見たアッシュが息を呑んだ。そして、その顔は険しいものへと変化していく。

 今まで薄暗くてよく見えていなかった。側で見て初めて分かったのだ。


「――ねえ、叩かれたの?」


 リアは思わず左頬に手をあてた。触ってみると、確かに熱を持ち腫れている。

 アッシュから視線を逸らし、唇を噛みしめた。


「絶対に……許さない!!」


 リアが抑えている手の上から、覆うようにそっと手を重ねると、アッシュはキラリと瞳を光らせた。

 それを見たリアがその黄金色の瞳を食い入るように見つめる。


「あ……アッシュ……その瞳の色、は――」


 藤色の瞳を見開いたリアにアッシュは優しく目を細めると、柔らかく微笑んだ。


「僕もリアに話したいことがあるんだ。すべて話すから……帰ったら、聞いてくれる?」


 ついこの間、リアがアッシュに伝えた言葉だ。

 リアの答えは、もうすでに決まっている。


「――ちゃんと聞くわ。アッシュが話したいこと、すべて」

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