第7話 会いたくない人


「そんなこと、知っているわ」


 エルダー園芸店の跡取りで、『エルダー』という姓を持っている。なぜそんな当たり前のことを、さも意を決したように言うのか。リアは首を傾げた。


「今は詳しく話せないけど、時が来たら、必ず僕の口から話すから。それまで待っていて。――約束だよ?」


 今度は忘れないでよね、と念を押すようにぎゅうっと手を握られる。リアは目をパチパチと瞬かせ、細かく首を縦に振った。


(園芸店を継ぐのに、何か特別なことが必要なのかな? 能力とか? それに『姓』を持っているってことは、爵位を持っているということよね……)


 リアが知る限り、『エルダー』という姓の人物で、爵位を持つ者はいない。

 妃教育の一環として、貴族の名を覚えるのは当たり前のこと。学園を卒業するまで、王太子の婚約者だったのだから。妃教育は、ほぼ終わっていた。


 ――それが何を意味するのか。


「さて、体調はどう? ――うん、もう大丈夫そうだね。そろそろ仕事に戻ろうか」


 リアの額に手をあて、うんうんと頷くとアッシュは腰を上げた。そして、流れるような仕草でリアの手をひく。まるで、どこかの王子様のようだ。


(まぁ、当たり前か。学園を卒業しているのだし)


 エルレスト学園では、一通りのマナーを教えてくれる。平民であれ、卒業後、貴族と関わる商売をしたりするからだ。

 もちろん、卒業記念パーティーでも必要である。貴族でない限り、パーティーなど人生でそう何度もあるわけではない。だからこそ皆、必死で覚える。

 前世が平民のリアには共感しかなかった。この世界では貴族だったのだけれど……今や同格であるのだから意識レベルまで同等だ。


 アッシュに手をひかれたまま、花でできたアーチをくぐり、出口までの道をゆっくりと進む。これが仕事でなければ、至福のひとときであったのに、とリアは口を引き結んだ。


 そんなリアの心を読んでいるかのようにアッシュは歩みを緩める。


「おや? 君たち、どうしてここに?」


 突然、聞こえてきた覚えのある声にリアはハッとして、アッシュの背に隠れた。


(大丈夫――顔は……見られていないはず)


 繋がれたままのアッシュの手をぎゅうっと握り、リアは小さく震えた。


「花の手入れをするために参りました、庭師でございます。――王太子殿下」


 繋がれていた左手を離さず、後ろに回し、右手を胸にあてて頭を下げる。リアもアッシュの背に隠れたまま、頭を垂れた。


(お願い! どうか、気づかれませんように……)


 リアはぎゅっと目を瞑る。婚約を解消してから、まだそう日が経っていない。今、一番会いたくない人物の一人だ。そんな人に出会ってしまうなど……なんという運のなさか。


 先ほどまでのウキウキした胸の高鳴りが、まさか違う意味の高鳴りになってしまうなんて想像もしていなかった。

 ドキドキする胸の鼓動を何とか抑えようと、リアはグッと息を殺した。


「そう……でも、これから使うからもう出ていってくれる?」

「かしこまりました」


 アッシュは下げていた頭を再度深く下げ、リアを背に隠したまま、歩き出そうとした――その時、


「ねえ、君」


 明らかにアッシュに向けられた言葉ではない。


 リアは恐る恐る振り返ると、頭を下げた状態で、「はい」と返事をする。なるべく顔が見えないように。


「これ、落としたよ? 君のじゃない?」


 王太子アドルフの指差すところに、薄紫色のハンカチが落ちていた。確かに、リアのものだ。


「あ、ありがとうございます!」


 慌てて拾い上げると、頭を深く下げてから、リアとアッシュは足早にその場を立ち去った。




 温室庭園の外に出ると、止めていた息を「はあ」と大きく吐き出す。


「ぷっ……ハハッ」


 不意に聞こえてきた笑い声にリアは首を捻った。

 その笑い声が徐々に大きくなっていくと、リアの眉根は徐々に狭まっていく。


「いや……ごめん、ヒヤヒヤしたね?」


 どうやらアッシュは肝が冷えすぎて、笑わずにはいられなくなったらしい。

 そんなアッシュを見たリアも、ホッとして一緒に笑い始めた。


 綺麗な青空に二人の笑い声が吸い込まれていた。



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