第5幕(大詰)照明探偵~事件にライト投射~


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 6月下旬、岩倉椿は、南座からほど近い、建仁寺の塔頭寺院の一つ、両足院を訪れていた。

 祇園界隈では建仁寺はあまりにも有名である。

 しかし、そこではなく、両足院を訪れる観光客は少ない。

 少ない要因の一つに一般客に開放してる期間が短い事が挙げられる。

 毎年、開放している期間は、6月初旬から7月上旬と春の観光シーズンからずれている。

 これは、ある植物の見頃に合わせているからだ。

 だから、毎年数日前後のずれがある。

 今日は、南座は休館である。

 数日後また7月公演に向けて稽古が始まる。

 毎月、色々な出し物が上演される南座。

 岩倉椿は、照明主任である。

 長い歴史を持つ南座。

 照明主任は歴代、男性が務めて来た。

 椿が、初の女性主任誕生である。しかも30歳の若さである。

 南座のある四条通りを八坂神社がある東方向に歩く。

 5分も歩くと右手に折れる花見小路が姿を見せる。

 ここは電線が地中化され、邪魔な電柱もなく歩きやすい。

 電線がないだけで、視界が一気に広がる。

 多くの観光客が突き当りの建仁寺の入り口を目指していた。

 入口入ると多くの人が右手の拝観入口を目指すが、椿はその流れに乗らずに、左手に曲がる。

 小さな入口が左手に見える。

 お茶席と拝観料を払う。

 本堂からもその植物が見えるが、椿はつっかけを履き、庭を巡る。

 心字池の周りに群生する植物に出会える。

 1年ぶりの再会である。

 椿は毎年両足院にこの植物を見に来ている。

 植物の名前は半夏生(はんげしょう)と云う。

 緑色の葉っぱと、白いものが見える。

 遠くから見ると、白い花のように見える。

 しかし、近づいてよく見ると白いのも葉っぱだった。

 白と緑の表裏の葉っぱなのだ。

「面白い構造だなあ」

 椿の背後で声がした。

 振り向くとそこに、歌舞伎役者の中林勘五郎が立っていた。

 舞台稽古では見せない柔和な顔立ちだ。

「今日はお休みなんですか、椿さん」

 椿が自分の名前を呼んでくれた事に驚いた。

「私の名前知っていたんですか」

「もちろん。南座初の照明主任誕生も知ってますよ」

 中林勘五郎は有名な歌舞伎役者。

 それなのに、南座の一照明係の名前を知っていた。

「前任者の笠置主任はどうしてますか」

「定年でやめて、今は大津の会館にいます」

「そうでしたか。あなたと笠置主任との数々のバトル、噂で聞いてます」

「そんな噂まで東京にまで」

「はい。今はスマホで何でも記録出来ますからね」

 そう云って勘五郎は片目をつぶった。

 そして勘五郎は椿にスマホを見せた。

 舞台稽古で椿と笠置との云いあいの動画だ。

「私が撮ったんじゃないですよ」

「つまり拡散されているんですか」

「そうです」

 この時、椿は照明調光室にいた。

 だから姿が映っているのは笠置だけだ。


「本当にいいんですね!」

 椿の声だ。

 初めて画像を通して聞く自分の声に少し椿は違和感を抱く。

「早よしろよ!」

 笠置の切れた声と同時に舞台が真っ赤に染まる。

 舞台のボーダーライト1ボーダーから5ボーダー

 サス、ソースフォー、FQ全て真っ赤(#22)に染まる。

 舞台明かりだけではない。

 上手下手フロント、第1、第2シーリング、バルコニーライト全て真っ赤に染まる。

 さらに輪をかけて笠置がトランシーバーでこう云った。

「センタースポットライト係!一人2ピン(2台)で#22プラステートつけてフォローしろや!」

 忘れもしない歌舞伎「五条橋」の場面だ。

 どんどん舞台が真っ赤に変わる光景を見て歌舞伎役者の顔色も真っ赤にどす赤く変化した。

 椿は2階にある照明調光室から、再三再四椿は確認した。

「本当にいいんですね」

「本当にやりますよ」

「私知りませんから」

「笠置さん、責任取って下さいね」

「私は命令に従ったままですから」

 明かりの修正ボタンを叩きながら椿は口走る。

 それは

(そんな照明したら、歌舞伎役者怒りますよ)

 と云うメッセージが込められていた。

「ぐだぐだ云わずに早よやれよ!」

 案の定その真っ赤な明かりを見て歌舞伎役者の怒りも真っ赤に染まる。

 笠置は何を思ったか

「わかりました。もっと赤くやります!」

 と云うやいなや、上手サイドフォローの川口繁にこう云った。

「花道フォローライト2台そこから#22で舞台照らせよ!」

 と叫び舞台係りには、ローホリと云う舞台奥に並べているライトの色変えも指示した。

 これが今も照明業界で語り継がれる「五条橋事件」である。

 歌舞伎役者は、最初の薄暗い明かりを見て

「この明かりはちょっと」

 とつぶやいただけで、一言も

「赤くしろ」とは云ってない。

 笠置の勝手な頭の動きの結末だった。

 上手舞台袖で見ていた、タツミ舞台棟梁沢田でさえ

「おいおい、大丈夫かあ」

 とつぶやいた程で、素人目に見ても完全な

「アウト照明」だった。

 テレビ業界で云う「放送事故」と同じだった。

 それでも唯一の救いは、これがまだ舞台稽古で本番でなかった事だろう。

 椿は、スマホの画面見ながら苦笑した。

 笠置がいない今となっては、全ては思いでの引き出しにしまっている一コマに過ぎない。

「さあ、お茶席行きましょう」

 勘五郎の声で椿ははっとして現実に戻された。

 目の前の茶室に入る。

 女亭主が深くお辞儀した。

「ようこそおいで下さいました」

 二人もお辞儀した。

「勘五郎さん」

 女亭主が声かけした。

「初めてどすなあ」

「そうだ」

「そしたら、この茶室の事は」

「全く知らない」

 大きな声で元気よく答えた。

 茶室には二人と亭主のみ。

「この茶室は犬山にある(如庵)の写しどす」

「写しってなんだ?」

 勘五郎が椿の耳元で囁く。

「そっくりそのまま再現したものでございます」

 椿が答える代わりに亭主が口を開く。

「そっくりそのままかあ」

 勘五郎は感慨深くつぶやく。

 お茶席からも半夏生の白と緑が目に飛び込む。

 2方向に本来ある襖は取り払われていた。

 だから初夏の風が心地よい。

 今年の梅雨は空梅雨で、雨が少なく天気が良い。

 まだあの夏の湿気を含む、身体もこころも重くなる季節が顔を出していなかった。

「ああ、気持ちいいなあ」

 勘五郎はその場で大きく伸びをした。

「今日は息子さんは」

 椿は尋ねた。

 来月都座は勘五郎、勘士郎親子公演である。

「俺より、祇園の舞妓とのデートが優先してるんだろう」

「そんな方いるんですか」

「知らない」

「まあ無責任だ事」


 舞台稽古が始まる。

 歌舞伎では演出家はいない。

 公演の座頭、幹部役者が演出を兼ねていた。

 勘五郎が一番力を入れていたのが、

「仁木弾正・床下の場」だった。

 これは「伽羅(めいぼく)先代(せんだい)萩(はぎ)」の演目の最後の場面である。

 妖術師仁木弾正が花道のセリであるスッポンから出て来る。

 スッポンから出て来るのは人間でない幽霊、妖怪と決まっている。

 仁木弾正は、連判状を咥えて悠々と花道を去って行く場面である。

 この前の場面でネズミが出て来て、スッポンに引っ込む。

 入れ違いに仁木弾正の登場となる。

 つまりネズミの正体は仁木弾正だった。

 舞台稽古の時、勘五郎は客席にいた。

 息子の勘士郎に自分の役、仁木弾正をやらせていた。

 これは観客の視線で舞台、花道入りを観たかったのである。

 勘士郎演じる仁木弾正の前後を面(つら)明かりを持った黒子が仁木弾正と共に歩き出す。

 面明かりとはお皿に蝋燭を灯した長い棒である。

 黒子は仁木弾正の後ろと前にいる。

 後ろの黒子は、前を向いて仁木弾正の歩調に合わせる。

 前の黒子も同じように、仁木弾正を誘導するように前へ進む。

 黒子は勘五郎の弟子、中林勘吾と勘八が担当していた。


 面明かり(後ろ)➡勘八

 仁木弾正    ➡勘士郎

 面明かり(前) ➡勘吾


 この場合、前の面明かり担当の勘吾が一番難しい。

 と云うのも、勘吾は仁木弾正と向かい合う形でしゃがみ、面明かりの棒を仁木弾正の足元にやりながら、後ろ足で花道を歩く。

 つまり引っ込む前が見えない。

 これが難しいのは、勘五郎も代役の勘士郎も当事者の勘吾もわかっていた。

稽古にも熱が入る。

「じゃあやってみようか」

 勘五郎の一声で稽古が始まる。

 息子の勘士郎が仁木弾正役で花道を歩き出す。

 2,3歩歩き始めた所で、

「ダメダメ!」

 勘五郎の駄目出しの声が場内に響く。

 このやり取りを椿は、花道の揚幕の中で聞いていた。

 稽古なので、揚幕は開けたままだった。

 普段は、役者の待機場所の揚幕の中。

 今回ここに、一台のスポットライトが仕込まれていた。

 照明器具の種類はソースフォー。

 灯体の所に、上下左右に切り込み用のシャッターがついている。

 これでシャッターで切り込み、光りを四角にして集める。

 先ほどから勘士郎の顔を当てていた。

 俗に云う「お迎えライト」だった。

 勘五郎が席を立ち、花道の近くまで行く。

「お前、今、どこ歩いているの」

 突然の質問に勘士郎は絶句した。

「どこって。花道ですけど」

「バカ野郎!」

 ひと際甲高い声が響く。

 一瞬にして場内を凍り付かせた。

「お前の役どころは何だよ」

 勘五郎は、息子の勘士郎にぐいっと顔を近づけて聞く。

「はい。妖術師仁木弾正です」

「そうだよ!妖術使いが、普通に花道歩いてどうするんだよ!」

「と云いますと!」

「お前バカだろう。だから歩くな」

「と云いますと」

「同じ聞き返しするな!」

「では、どう歩けば」

「歩くな!宙を舞う!」

 二人のやり取りを聞いていた椿は思わず、くすっと笑った。

 緊張の糸が幾十にも張り巡らされた場内に、小さな笑いは響く。

 勘五郎は笑いの出どころを確かめるために烏屋口に目をやる。

 椿は、はっとして口を自らの手で押さえた。

「笑われてる!ほらっ」

 勘五郎は揚幕を指さした。

 勘士郎は、その指先を辿る。

 椿と勘士郎は目が合う。

 椿は、慌ててスポットライトの後ろに隠れた。

「はい、もう一度!」

 勘士郎が再び口に連判状咥えてやり始める。

「違う!」

 今度は一歩踏み出したところでストップかかる。

「だから花道を歩くな!宙を舞え!」

 傍から見れば、無茶ぶりだろうが、勘五郎の云いたいのは椿にもよくわかっていた。

 確かに勘士郎の歩き方は、ただ花道をゆっくり人間が歩いているだけで、妖術を使う歩きではないのだ。

 何回かの駄目出しが続く。

 そのたびに、あちこちで大きなため息が出る。

 時間経過と共に、裏方は容赦なく大きなため息をするようになる。

「違う!」

 勘五郎の怒りは頂点に達した。

 今まで花道際の客席まで来ていたが、今度は自ら花道に上がった。

 勘士郎と向かい合う。

 今にも殴り合いの喧嘩が始まりそうな気配だ。

「おい、衣装!」

 勘五郎が叫ぶ。

 上手袖にいた衣装係が仁木弾正の衣装の予備を持って走って来た。

 恐らくこの展開になるだろうと先読みしていた衣装係だった。

「下だけ!」

「はい!」

 袴を履く。

「はい、音!」

 歌舞伎の音楽はテープではなく、生演奏である。

 舞台下手の簾内の中で演奏される。

 笛、太鼓の音が流れる。

「お前は揚幕の中から見ていろ」

 勘五郎に云われて、勘士郎は揚幕の中に入る。

「そこに立つと、照明さんのライトの光の邪魔だろうが!」

 勘士郎は、背中がやけに熱いと感じて振り返る。

 ライトを操作する椿と目が合った。

「すみません」

 椿はにっこりとほほ笑む。

 本役の勘五郎の仁木弾正である。

 花道を歩く。

 さっきまでの勘士郎の足さばきとは全く違っていた。

 まるで本当に花道から一尺(約30cm)は浮いているような感じなのだ。

 前後の面明かり担当の黒子と共に揚幕の中に入る。

 勘五郎はスポットライトのレンズを睨みつけたまま瞬き一つせずに近づく。

 椿は勘五郎とスポットライトの間に、段ボール紙で出来た、シャットアウト用の四角い紙を入れる。

 光りが途切れる。

 勘五郎の顔が素に戻る。

「どうだ」

「はい」

 返事するだけが精一杯の勘士郎だった。

「勘士郎、このお迎えライトは何でここにある?」

 勘五郎はスポットライトを指さして聞く。

「何で?」

「そう。何でだ」

「ライト。つまり演者を照らすためです」

「当たり前だ。じゃあ質問代える。他の芝居やった時、ここにいつもライトあるか」

「ありません」

「何でだ」

 数秒の間。

 二人の黒子の弟子も立って話を聞く。

「わかりません」

「じゃあ、ここで検証する。お前はここで私を見ていろ!」

 勘五郎が再び花道まで戻る。

「照明さん、上手サイドフォロー、センタースポットライトの光りお願いします」

 勘五郎が上手フロント、3階席奥のセンタースポットライト室にそれぞれ顔を向けて声かけした。

「椿さんは、お迎えライトなしで」

「わかりました」

 スイッチを切る。

 勘五郎が花道をゆっくりと歩く。

 ある個所へ来ると、顔が一気に暗くなった。

「どうだ、勘士郎。私の顔はどうなった」

「暗くなりました」

「何故だ?」

 勘五郎の質問の矢が再び勘士郎に突き刺さる。

 勘士郎は答えられない。

「バカ野郎!そんな事も解らず、お前は花道を歩いていたのか」

「はあ」

「椿さん、説明してやってくれ」

「わかりました。3階席奥にあるセンタースポットライトが今まで投射されて明るかったんですが、2階席のひさしで遮られて光りが届かなくなったんです」

「そうだったのか」

「で、黒子の持つ面明かりはどうしてる」

「今まで通り照らしたままです」

「そうだ。面明かりがあるのに、顔が暗くなったら可笑しいだろう」

「そうだったのか!」

 勘士郎は大きくうなづいた。

「だから椿さんのお迎えライトの出番となるんだ。よく覚えておけ」

「はい!」

「足払い。雲を歩け!」

「はい」

 この場の雰囲気で、勘士郎は返事するだけだった。

 これで終わりの空気が流れ始めた。

「おい、勘士郎、次は面明かりの役をやれ!」

 これに一番驚いたのは、弟子の勘吾だった。

「旦那、それは幾ら何でも」

「幾ら何でも何だ!」

「お坊ちゃまは、中林屋の御曹司です。そのお方が、我々のような黒子の役やらせるのは、幾ら何でも可哀そうです」

 意を決して勘吾は一気に口を開き話した。

 また暗黒の重い空気が漂う。

「黙れ!おい勘士郎、やれ。勘吾と交代しろ!」

 有無を云わせない迫力に誰も口を挟まない。

 南座支配人、東京演劇部のプロデューサーも客席に座っていた。

 しかし誰も口を挟まない。

 歌舞伎幹部役者が一番偉いのだ。

 誰も逆らわない、逆らえない世界なのだ。

 勘吾は無言で黒子の衣装を勘士郎につける。

 面明かりのレクチャーをその場で簡単に教えた。

 前代未聞の展開だった。

 仁木弾正役を本来の勘五郎がやった。

 勘吾は、花道の下手側の(芸ウラ)のエリアに行く。

 ここなら花道と客席との間に通路がある。

花道際に中腰になり、勘士郎のそばで一緒に自分は通路を歩く。

「お坊ちゃま、後ろ足で歩くのは、怖いですけど、私がいてます。お坊ちゃまは、旦那の顔を照らす面明かりの棒に集中して下さい」

「わかった」

 二人の会話が逐一椿の耳に入る。

 今、勘五郎は、舞台袖で仁木弾正の衣装に着替えていた。

 つかの間の、休息時間でもあった。

「何だか梨園の御曹司も大変ねえ」

 揚幕係の田上夏美はそう云いながらくすっとほほ笑んだ。

 夏美は、昨年祖父が揚幕係を引退してその後継者になった。

 南座も他の劇場の揚幕係は歴代、男が担当していた。

 初の女性揚幕係として注目を浴びた。

 揚幕の内側、烏屋口はこれから花道から出て舞台に向かう役者の待機場所でもあり、憩いの場所でもある。

 歌舞伎や他の芝居に精通していないといけないのだ。

「確かに」

「歌舞伎は、やはり、男の世界よねえ」

「舞台に出るのは、男だけですから」

「やはり、私達女は、この世界では不利です」

 夏美は力強く断言した。

「どうしたの夏美ちゃん」

「うん、ちょっと悩んでる」

「何を」

「果たしてこのまま揚幕続けていいのって」

「根本的な問題よねえ」

「椿さんはいいよねえ」

「何が」

「だって、照明って云う技術を持ってるから」

「夏美ちゃんだって、揚幕の技術持ってるでしょう」

「そんなもん、他では通用しません」

「照明だって、他では通用しません」

「でも、世間で照明って認められてますよね」

「揚幕だって」

 そこまで云い掛けて、椿は言葉に詰まった。

 確かに、今、世間の人に仮にアンケートを取ったとしよう。

 やはり照明の方が圧倒的に認知されている。

 それは、目に見えるものだからだ。

 一方の揚幕。

 芝居、特に歌舞伎を見ない人にとっては、揚幕の意味もそれがどこにあるのかも知らない。

 舞台に勘五郎が出て来る。

 一気に場内の空気が張り詰める。

「皆さん、お待たせ。じゃあ花道入りからお願いします」

 小道具係が連判状を渡す。

 狂言作者が、下手の簾内に近づく。

「では参ります。お願いします」と声かけした。

 析頭を一つ鳴らす。

 通し稽古ではなくて、場当たり稽古。

 椿も他の関係者も思った。

 何故、勘五郎がここまで、仁木弾正の花道入りにこだわるのか。

 そもそも、歌舞伎で舞台稽古はあっさりしている。

 せいぜい場当たり稽古してすぐに通し稽古一回のみ。

 新劇、商業演劇から見れば、実にあっさりしている。

 それでいて完成度は高いのだ。

 仁木弾正役の勘五郎が花道スッポンの上に立つ。

 照明が、地明かりから本番照明に切り替わる。

 簾内から笛、太鼓の生音が流れる。

 これで一気に妖艶な世界に引き込まれる。

 勘五郎がすり足でゆっくりと花道を歩く。

 椿も夏美も声を失う。

 今、自分が見ているのは本当に妖術師かもしれない。

 しかも、花道から少し浮いているのではないかと一瞬思った。

 椿も夏美も目頭に手をやり擦った。

 錯覚。

 身体が浮くはずがない。

 しかし、浮いているように見せかける勘五郎の演技力、いやオーラに皆騙されているのだ。

(でも浮いている)

 皆そう思った。

 先程の、勘士郎とは月とすっぽん。雲泥の差は、一目瞭然だった。

 まじかで見ている勘士郎は、固まった。

 迫力に負けていた。

「お坊ちゃま!動いて!」

 勘吾が駆け寄り耳打ちする。

 しかし勘士郎は動かない。

 まるで金縛りにあったかのようだ。

 どんどん勘五郎は、勘士郎に近づく。

 このままではぶつかる!

 勘五郎の足取りはゆっくりと動かない勘士郎に歩み寄る。

 当然、ぶつかり稽古は中断すると一同は思った。

 しかし・・・

 勘五郎の足が、勘士郎の腹の中にめり込む。

 一瞬にして勘士郎は、花道、芸ウラに飛ばされた。

 面明かりの棒が宙を舞う。

 勘吾は片手でそれを掴み、片手で勘士郎を抱きかかえた。

 すぐに勘吾は、勘士郎とバトンタッチした。

 勘五郎の迫力は、半端なかった。

 お迎えライト操作していた椿は、鳥肌が立った。

 勘五郎の仁木弾正に睨まれて殺されると思った。

 ライトの光は強烈で、勘五郎の両眼を覆う。

 勘五郎からすれば近づけば近づくほど、光りが拡散して風景が見えなくなる。

 だから実際は椿の顔も見えないはずなのだ。

 しかし、そう思えない程、勘五郎の睨みは、椿をも金縛りにしそうな気配だった。

「はい」

 椿は、遮断段ボール紙をライトの前に出す。

 一気に光りが消えていつもの揚幕の明かりになった。

「お疲れ様でした」

「お疲れ」

 勘五郎に蹴り飛ばされた息子の勘士郎が揚幕の中に来た。

「お疲れ様でした」

 勘士郎はその場で、膝まづく。

「勘士郎」

「はっ」

「勘吾によく教われ」

「はい」

「それから」

 勘五郎はそこで言葉を区切り、一瞬椿の方を見た。

「照明の事も勉強しろ」

「照明ですか」

「そうだ。役者が芸を勉強するのは当たり前。他の役者と違い出す、一歩も二歩も前へ進むなら、照明、大道具、小道具、音響も勉強しろ。それがお前を成長させる」

「わかりました」

「ねっ椿ちゃん」

 ここで勘五郎はにやりと顔に、笑いを初めて生まれさせた。


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 都座から歩いて五分もかからない、五(ご)花街(かがい)の一つ先斗町の通りを椿と夏美は歩いていた。

 道幅が2メートルもない街並みである。

 昨今、電線地中化されて一気に空が広く感じる二人だった。

 四条通りから北方向の三条通りに向かって歩いていた。

 右側の店は、鴨川に面していて、今はどこの店も床(ゆか)を出していた。

 床は臨時のもので、5月から9月までの季節限定のものだった。

 床から鴨川、遊歩道が一望出来た。

 二人は、先斗町歌舞練場のすぐ隣の「卑弥呼(ひみこ)」に入る。

 二人は、店の中を通り抜けて、床に案内された。

 椅子席で4人テーブルで、それぞれ観葉植物で仕切りされていた。

 椿がまず勘士郎を見つけた。

 と同時に夏美は勘吾も見つけた。

「お待たせしました」

 今夜は、勘士郎からのお誘いだった。

 思いのほかあれから稽古は早く終わった。

 時間はまだ午後7時過ぎで、空は明るい。

 勘士郎が弟子の勘吾を呼び、椿は夏美を誘ったのだ。

 勘士郎から2対2で飲もうとなる。

 椿の席は床の端で、ここから鴨川と遊歩道がよく見えた。

 京都の夏の風物詩、遊歩道に等間隔で座る恋人達の姿が見える。

 恋人達は鴨川を見ているので、こちらからは後ろ姿しか見えない。

「カップルか」

 勘士郎も気づいたようだ。

「昔は男女の恋人だけでした。今は男同士、女同士も増えました」

「そう云われてみればそうだ」

 まだ日が沈まないのでよく見えた。

 乾杯して食事が始まる。

 遊歩道から一人の男が椿に手を振っていた。

 偶然居合わせた観光客だと思って無視した。

 すぐに、勘士郎の愚痴が始まる。

「やってられないって!」

 一声から勘士郎の声が辺りに響く。

 役者は腹式呼吸で常日頃から発声しているから、やたら響く。

「お坊ちゃま」

 勘吾がたしなめる。

「すまない。椿さん、夏美さんどう思いますか。雲の上を歩けって」

 勘士郎は先程の稽古で父、勘五郎から云われた言葉を蒸し返した。

「雲の上を歩く。まるで雲を掴む話ですね」

 椿は素直に答えた。

「椿ちゃん、座布団3枚!」

 勘吾が必要以上に気を使い、盛り立てようとしていた。

「それ、いいから」

 勘士郎は勘吾に云う。

「でも勘五郎さんが仁木弾正やった時、揚幕から見てましたけど、本当にこのまま浮いて歩くような感じでした」

 夏美は率直に云う。

「そうだよなあ。悔しいけど」

「お坊ちゃまも頑張ってますよ」

「私も思った」

「でしょう」

 勘吾は、勘士郎を褒めてくれたとあって顔をほころばせた。

「じゃなくて勘五郎さんの雲歩きの方です」

 椿もはっきりと口にした。

「お二方、ちょっと云い過ぎ」

「いや、はっきりとプロの二人に云われた」

「プロじゃないです」

「いや、幕内の人間だから、プロだ」

「どうしたらいいんでしょうかねえ」

「俺と親父、何が違う」

 勘士郎は椿と夏美を交互に見比べて聞いた。

「足使い」

 まず夏美が云う。

「それは解ってる。どう違うの」

「間の取り方」

 椿がポツンとつぶやく。

「間?何の間だ」

「右足と左足の交互に出す時間が最初と最後で微妙に違うの」

「それは気づかなかったなあ。もっと詳しく云ってよ」

 勘士郎は、椿だけを観ていた。

「照明の仕事してると、何秒でどうなるか、凄く気になるの」

「何で?」

「近頃のムービングライトの出現から」

 椿はさらに説明した。

 ムービングライトは、登場人物を頭上から追うシステムが出来る。

 例えば、中央に立ってる人物が花道に行きかけて、戻るシーンがあったとする。

 稽古の時、どの位置からどの位置までで、秒数設定が出来るのだ。

「そこまで進化してたのか」

「で、話を元に戻しますけど、お父様の勘五郎様の足使い、最初と最後では2秒違うんです」

「つまり最後はそれだけ早くなる」

「そうです」

「でもそれだけじゃないようねえ。勘吾、お前はどう思う」

「そうですねえ」

「遠慮なく云え」

「はい分りました。抽象的で申し訳ないんですけど、旦那の仁木弾正は鬼気迫る感じなんです。旦那のこころはあの時、封印して仁木弾正になってるんです」

「役に成りきるってか」

「それ以上です」

「で、どうなりきるんだ」

「わかりません」

 勘吾が即答したので、勘士郎も笑った。

「解らねえのかよお」

「直接お父様に聞いたらどうですか」

 夏美が根本的な事を口にした。

「それ、随分前にやった」

「で、どうでした」

「一言。教えてやらない。自分で探せって」

「親子なのに、冷たいんですねえ」

「親子だからこそです」

 勘吾は目をむいて答えた。

 丁度その時、仲居さんがやって来た。

「お連れ様到着です」

「お連れ様?お前、誰か追加で誘ったの」

「いいえ」

「じゃあ椿さん、夏美さん」

「いいえ、私達だけです」

 4人が不思議がる中、一人の男がやって来た。

 黒の着流し、雪駄姿。

「矢澤竹也師匠!」

 勘士郎が、思わず立ち上がった。

 それを見て他の者も追随した。

 義太夫三味線奏者の第一人者で、今月の南座にも出ている。

 勘士郎とは、長い付き合いである。

「今晩は」

「今晩はじゃねえよ。何でここがわかったの」

「さっき、遊歩道歩いていたら、わかったの」

「じゃあさっき、手を振ってたのは、あなたでしたか」

「正解」

「師匠、何で義太夫三味線持ってるの」

「義太夫三味線の流しをやっていらっしゃいます」

 仲居さんが笑顔で答えた。

「昔ギターの流し流行ってたけど、三味線流しって聞いた事ない」

「義太夫三味線です。ではごゆっくりと」

 仲居が去る。

「では、一曲やりますか」

 竹也は、義太夫三味線の調律始める。

「何やるんだよ」

「創作浄瑠璃です」


 創作浄瑠璃

雲(くもの)足(あしで)未来(むかうみらい)行(へ)世界(せかい)景色術(けしきじゅつ)

 ♬

親父の足は   浮いていた

浮世離れの   足さばき

浮いた浮いたと 大騒ぎ

自分の足元   見つめたよ 

一ミリたりも  動かない

焦りまくって  バタバタと

動かす力    技量の差

芸の力の    差は歴然

それでも前を  向いて行く

立ち向かう先  一つの光り

それを求めて  歩むのだ

一歩ずつ前へ  歩むのだ

未来の世界   掴むのだ


 しんみりと一同耳を傾けていた。

 ふと椿は勘士郎を見た。

 手に小石を乗せてじっと見つめていた。

 両肩が震えていた。寒いのか。いや違う。泣いていたのだ。

 義太夫三味線のあの、哀愁の世界を増幅させる音色が余計に涙を量産させていた。

 椿も震える勘士郎の両肩を観て、ぐっと来ていた。

 ふと辺りを見渡す。

 周りの人たちも自分達のお喋り、会話をやめて自分たちと同じように耳を傾けていた。

 いつの間にか、床舞台と客席だった。

 椿は初めての体験だった。

 日頃聞きなれた義太夫三味線の音色。

 それを日常世界の床で聞くと全く違う世界が見えた。

 義太夫三味線はどの世界でも似合う。

 そう思った。

 舞台なら、マイク、照明の光が輝き、際立たせる。

 しかし、今は、それらは全くない。

 それでも義太夫三味線を弾く矢澤竹也は光り輝いていた。

 だから感動の糸がそれぞれのこころの中に絡まるのだ。

 椿のグループは全員泣いていた。

 夏美はこぼれ落ちる涙をそのままにして顔を上げていた。

 20歳の若さだから肌が涙で光り輝いていた。

 勘吾はうつむき、勘士郎と同じ姿勢だった。


 公演初日。

 歌舞伎公演の初日は、各部署も緊張の膜が幾重にも張られている。

 役者はもちろん、各部署の裏方も同じだった。

 照明は、毎日舞台の明かりを全灯する。

 舞台、上手下手フロント、バルコニー、シーリング。

 バルコニーは2階客席の真ん中に吊られている特設ライト。

 シーリングとは、その名の通り、大天井に設置されている。

 南座には第1と第2シーリングがある。

 客席、大天井の電球、場内をぐるっと取り囲む提灯明かり。

 全てLEDに切り替わったので、玉切れは起きない。

 しかし念のために点灯する。

 センタースポットライト係りも明かりチェック。

 上手フロントサイドフォローは、ランプ球なので、たまに切れる。

 これにムービングライトのチェックも入る。

 灯体の横のスイッチオンを表示する赤いランプの点灯確認。

 さらにムービングライトなので、前後左右に動くかチェックする。

 照明チェックタイム終わると、大道具係による、舞台装置のセッティングが始まる。

 同じ時間、イヤホンガイド係は、子機を持って場内を歩き回る。

 電波の遮断がないかのチェックである。

 大道具の家のセットが組まれる。

 小道具係が大きなボテを持って現れる。

 第1場に必要な小道具を置く。

 火鉢、座布団、仏壇等。

 同時に照明ステージ係も動く。

 家の欄間の内側に照明器具を吊る。

 ここは客席からは見えない。

 家の装置も自立ちと引き枠に分かれる。

 自立ちとはその都度、組み立て、バラシを行うセット。

 一方、引き枠は大きな台車に家を組む。

 これを舞台袖、奈落に収納する。

 出番の時だけ、舞台に乗せる。

 引き枠の出現で大道具の手間が大きく減った。

 昔の大道具は、全て自立ちだった。

 歌舞伎役者は、楽屋入りする時は、楽屋口から入る。

 これが鉄則である。

 勘士郎が楽屋口から入り、頭取部屋前の着倒板の前に立つ。

 着倒板とは、役者の出勤簿みたいなものである。

 檜板に達筆な墨文字で、出演する役者、長唄、義太夫三味線奏者の名前が書いてある。

 名前の上に小さな穴がある。

 着到棒をそこにさす。

 頭取はこれを見て誰がまだ楽屋入りしていないか、確認出来る。

「お早うございます」

 頭取の鴨川登志夫が声かけして来た。

「初日おめでとうございます」

 まだ父の勘五郎は、来ていない。

 エレベーターで屋上に上がる。

 お社がある。

 すでに一升瓶が何本か立ててある。

 熨斗紙が巻かれている。

 出演者、長唄三味線一同、義太夫三味線一同の名前もある。

 目を閉じ拝む。

 拝む内容はどこの劇場でも同じだ。

「本日、無事に舞台を務めさせて戴くようにお願いします」

 目を開ける。

 振り向くと、勘吾が立っていた。

「お坊ちゃま、これを」

 勘吾が手のひらを開けた。

 黄色のお札に「車折神社」の赤文字が書かれてある。

「嵐山の車折神社の末社芸能神社のお守りです」

「有難う」

 こうした心遣いが近頃、富に感じるようになった。

 まだ幼い頃も同じようにされた記憶がある。

 その時は、周りのお付きの人、弟子が御膳立てしてくれてるだけしか思わなかった。


初日幕が開く。

日を追うごとに、裏方も慣れて来る。

転換中の大道具の仕事も早くなる。

それぞれの動きがかみ合って来た。

それは、「お迎えライト」操作する椿も同じだった。

勘五郎が、揚幕を見つめ、口に連判状を咥えて歩みだす。

このライトの光の増減は、2階の調光室とは連動していない。

手元のスイッチの入り切りで行う。

何故なら、真正面から見えるのは、揚幕のこのポジションだけなのだから。

どのタイミングで勘五郎がこちらを向くのか。

向いた時には、すでに光りが当たっていないといけない。

だから向いてからスイッチ入れると、ワンテンポ遅い。

向く直前にスイッチ入れる。

光りの強弱つける調光ダイヤルもついている。

ゼロから1のメモリに上げても光りは投射しない。

その辺りの匙加減も難しい。

それは揚幕係も同じだった。

あまり早く揚幕を開くと、役者の入りが遅く感じられる。

客席から見て、揚幕が開ききった時には、勘五郎の身体がもう入りきる感じなのだ。それだと気持ちいいのだ。

 そんな時に事件が起きた。

 朝、楽屋入りした勘五郎が、身体の不調を訴えた。

 すぐに近くの南座と提携している真藤医院の町医者にかかる。

 真藤医院へは、監事室の竹田陽子と弟子の勘吾がついて来た。

 真藤一夫は、先代親の代から中林屋の京都後援会会長をしていた。

 運ばれて来た勘五郎を見るなり、

「あんた、働きすぎや」と云いのけた。

「へへへへ」

 勘五郎は薄笑いした。

 ベッドで横たわるとすぐに点滴を打たれる。

 勘吾と陽子が呼ばれた。

「今日は、親父さん、休演です」

 様子を聞かれる前に、真藤ははっきりと云った。

「舞台に出れない程、悪いんですか」

 勘吾が聞く。

「あんたもわかってるやろ。年寄働かせたらあかんで」

「はあ」

「勘吾、監事室さん、ちょっとこっちへ」

 手招きをする勘五郎を見て、真藤は席を外した。

「今日の仁木弾正の役」

 勘五郎はここで大きく息を吸う。

「代役は、お前。勘吾がやれ」

 思わぬ言葉に勘吾は、目を見開く。

「旦那ちょっと待って下さい。代役はお坊ちゃまでしょう」

「いいや違う。勘吾、お前がやれ」

「じゃあお坊ちゃまは」

「お前がやってる役や」

「ちょっと待って下さい。中林屋のお坊ちゃまに面明かりの棒持たせて、私が仁木弾正の役やるなんて」

「何だ。不服か」

「そんな、滅相もない。でも」

 真藤はカーテン開けて入って来た。

「目の前に転がり込んで来るチャンスは数少ない。一生の内に一度あるかないかぐらいやで」

「先生」

「さあやりなはれ」

「これはわしからの命令。断るなら、今、たった今ここを立ち去れ」

「わかりました」

 陽子がスマホ取り出した。

「監事室さん、ちょっとお願いあります」

 陽子はスマホを切る。

「何でしょうか」

 勘五郎の近くに二人は顔を寄せた。


 楽屋に戻る二人。

 勘吾は、鴨川に報告した。

「それ事実なの」

 鴨川は聞き返した。

「そうです」

 陽子は先ほどの会話をスマホで録音していた。

 それを再生した。

「前代未聞やな」

 と鴨川はつぶやいた。


           ( 3 )


 今月南座の昼の部開演は11時。

 開場は10時半。

 場内放送は、開場して15分後に行われる。

 と云うのも、開場直後の観客は色々忙しい。

 番付(筋書)を買い求める者。

 イヤホンガイド貸出に駆け付ける者。

 お手洗いに行く者。

 昼の幕間のレストランの予約取る者。

 売店へお弁当買いに走る者。

 それらの用事を済ませようとあちこち動く。

 それが少し落ち着いて来るのが、開場して15分後なのだ。

 場内アナウンスは、まず南座の施設の案内から始まる。

 ひと昔前までは公衆電話の位置も放送していた。

 スマホの普及と共に、場内の公衆電話の数も急減した。

 今では、場内1階左右一台ずつとなる。

 設置場所の放送もなくなった。

 今日の場内放送されたのは、これだった。


「お客様にご案内申し上げます。

 本日伽羅先代萩・床下の場の仁木弾正の役を務めております、中林勘五郎は、体調不良のため、代役にて務めさせて戴きます」


 一瞬、間をおいて場内が大きくどよめいた。

 本来、役者が休演するのはよくある事だ。

 その場合、代役を誰がするのか、アナウンスするのが普通だった。

 しかし、それはなかった。

 場内放送聞いた観客の何人かが案内所に駆け付けた。

「勘五郎さん、休演なの」

「そうなんです。申し訳ありません」

 案内チーフの林田ゆり子は、満面の笑顔で答えた。

「代役は」

「それが、わからないんです」

「わからない?ああ、まだ決まってないんやね」

 客は自分で答えを勝手に導き、帰って行く。

 イヤホンガイドのチーフは、台本持って走っていた。

 イヤホンガイドの解説はすでに、録音されている。

 当然仁木弾正の役の解説も、勘五郎としてやっている。

 これをカットする必要がある。

 新たに代役の名前を入れる時間があいので、カットだけとなる。


 楽屋モニターで聞いていた義太夫三味線奏者の矢澤竹也は、丁度使用する義太夫三味線の調律をしていた。

 ふと手を休める。

 代役が誰なのか、聞きたかったのだ。

 義太夫三味線はもちろん、生演奏である。

 同じ場面でも役者によって弾き方を微妙に変えるのが普通だった。

「代役がやる。そうなの」

 それだけしか云わない放送。

 矢澤竹也は別に怒りはしなかった。

 それまで、何度も同じような場面に遭遇していたからだ。

 目の前で見たら、その時にわかる。

 そんな気楽さが出るのも、芸歴50年のなせる技なのだ。

 観客の反応と同時にツイッター上で、つぶやきが多数寄せられた。


 ●中林勘五郎休演。代役の名前云わない。これってどっきりなの?

 ●新手のドッキリか?

 ●代役と云っておいて、本人が出ましたって云うベタな展開では?

 ●だとしても、目的は何?さっぱりわからん

 ●単に現場が混乱してて、今は誰か云えない

 ●見ればわかる! 

 ●代役の名前を明かせない!とんでもない芸能人が出るとか

 ●それあり得る。廃業した歌舞伎役者とか。

 ●それって、本当にドッキリ大賞でしょう!

 ●代役の名前が代役!

 ●代・役さん!

 ●それ面白い!


 もはや、大喜利状態となっていた。

 中には、場内アナウンスが流れている場内の映像をそのままアップしているツイッターもいた。

 ネット検索1位が「代役」に躍り出ていた。

 場内掲示の張り紙を撮影したものもあった。

 リアルタイムで、ハプニングがこうして全世界に発信される。

 世界中の市民が、特派員となっていた。 

 椿の手元にも情報が届かない。

 お迎えライトの高さをどうするか、椿は迷った。

 お向かえライトは三脚の上に立っていた。

 この高さは、もちろん中林勘五郎の身長に合わせていた。

 万が一三脚が倒れて、伸ばしている部分が縮んでも再現出来るようにビニールテープで印がしてあった。

 稽古で、勘士郎がやった時の印も違う色でマーキングしていた。

「一体誰がやるのかなあ」

 揚幕の切れ目から場内を観ていた夏美がつぶやく。

 揚幕には、閉めていても揚幕の中から舞台を見れるように、切れ目がある。

 舞台、花道を見て役者の揚幕入りのよきタイミングで開けるのだ。

「誰でしょうねえ」

 椿はそう答えながら、公式南座ホームページ、ツイッターを見る。

 ここでも勘五郎の休演と代役の事は掲載されているが、肝心の代役の名前はなかった。

 こうしてドタバタしながら、伽羅先代萩の芝居が始まる。

 観客も椿も注目はやはり「床下の場」だった。

 ネズミの縫いぐるみが、煙がたかれた、花道スッポンに入る。入れ違いに、口に連判状咥えた仁木弾正が顔を現す。

 顔が見えた瞬間、

「中林屋!」

 3階席の奥から、大向こうが幾つも飛び交う。

 その大向こうを聞いてどっと観客がどよめく。

 代役は、中林一門の誰かなのだと!

 いつもなら出演ない勘士郎が揚幕の中に来るが、今日は来てない。

 やはり、悠長に見てられないのだ。

 仁木弾正は、前後を面明かりの棒を差し出す、黒子に挟まれ、ゆっくりと椿、夏美のいる揚幕を目指す。

 仁木弾正が正面を見る。

 まだこの時点でお迎えライトは点灯させない。

 何故なら、まだこの時点ではセンタースポットライトも上手フロントから当たるサイドフォロー、2つの光の筋が当たっているからだ。

 お迎えライト点灯は、センタースポットライトの光が途切れる前にクロスチェンジの形で行う。

 暗い中、点灯させると、いきなり違う光りの筋が今までと違う方向から投射されるので、違和感が生まれる。

 クロスチェンジだと、センタースポットライトの光が途切れ、やや役者の顔が暗くなるが、その時点でお迎えライトのゲージは100なので違和感が少ない。

 椿には、代役が誰なのかわからない。

 本当に勘五郎本人のような気もして来た。

 誰か来た気配で、横目で見る。

 クロスチェンジの手前なので、完全に横を向けない。

「主治医の真藤先生です」

 監事室の竹田陽子が小声で耳打ちした。

 白衣の真藤と一瞬目が合う。

 真藤が頭を下げる。

 椿も小さくうなづく。

 クロスチェンジし始める。

 ゲージが100を確認。

 センタースポットライトの光が途切れる。

 花道の半分くらいまで来ていた。

 徐々に顔がはっきりとして来る。

(誰?)

 手前の面明かりの棒を持つ黒子も今日はぎこちない。

 恐らく勘士郎だろう。

 ずっと稽古みていたから要領はわかっているはず。

 でもぎこちない。やはり、観るのと実際やるのは違うのだ。

 特に今日は、やけに足のさばきが、稽古の時と違う。

(足の使い)

 椿ははっとした。

 一つのひらめきに近い考えが降臨した。

 しかし、今は目の前の人物にライトを当てる。

 外さないようにする事。

 それに集中しようと思った。

 簾内の鳴り物、笛、太鼓の生音が、妖艶さを盛り立てていた。

 夏美は、揚幕の切れ込みに完全に顔を引っ付けていた。

 面明かり係の黒子の後ろ足を見る。

 ギリギリまで揚幕は閉めたまま。

 そおっと開ける。

 本来揚幕は、威勢よく

「チャリン」と音を立てて開閉する。

 揚幕を吊す大きな輪っかと金属棒との摩擦で音を発生させていた。

 たまに、今回のように全く気配を殺して開けるのもたまにある。

 前の黒子が揚幕の中に入る。

 本火を吹き消す。

 すぐに奈落に向かう。

 それに続いて真藤、竹田も下に降りた。

 仁木弾正役の役者もそれに続く。

 椿は、それを目で追う。

 後ろの面明かり係の黒子も無事に中に入った。

 打ち止めの大きな太鼓の音が鳴りやむ。

「チョン」

 析頭が一つ鳴る。

 場内が明るくなる。

 と同時に大きなざわめきが観客と場内を覆う。

 何人かがスマホを取り出して高速打ち始める。

 幕が閉じで、20秒後にはツイッターのつぶやきがアップされた。


●誰?誰?結局誰が代役だったの!

●白塗りだからわからない

●中林勘五郎です!人騒がせな奴!

●弟子の勘吾かなあ

●大穴で勘八

●そもそも、中林屋一門なのか

●大向こう「中林屋」と云ってました

●大向こう、間違えて違う屋号かける時ある

●それは一般観客がやった大向こう

●プロの大向こうは間違えない

●勘士郎に一票

●勘五郎に一票


 またしてもツイッターは、大喜利状態だった。

 役者、付き人、真藤先生、竹田陽子も去り、再び揚幕の中は椿と夏美の二人だけとなった。

「椿」

 思いつめた顔で夏美が声かけした。

「結局誰だったの」

「そうねえ」

 椿はお迎えライトの目印を観ていた。

「そうかあ」

「ねえ、わかったの?今回の事件!」

「ええ。照明探偵。事件にもスポットライトの光を浴びせます」

 力強く椿は答えた。

 それを観て夏美は、拍手した。

 

 昼1回公演の南座。

 熱気が去り、客席と舞台がつかの間の眠りにつこうとしていた。

 観客の入った熱気の劇場。

 観客が全くいないどこか寂し気な劇場。

 この大きな2つの落差の中を楽しめたのが劇場関係者だった。

「今日は、忙しいのにすみません」

 客席に居並ぶ今回の事件関係者に椿は頭を下げた。

「挨拶はそれぐらいでいいだろう」

 すぐに勘五郎が反応した。

「今回の事件の解明をしたいと椿君が云って来た時、私は違和感感じた。事件ってあったのか?主演の私が体調崩して、代役たてた。何も事件じゃないよ。劇場公演ならよくある事だよ」

「そうです。よくある事です。ただ一つの事を覗いてね」

「ただ一つ?何だ」

 勘五郎の姿勢が前のめりになる。

 他の者も同じ姿勢を取り出す。

「ええそうです。それは代役の名前を明かさなかった事です」

 椿は、市原支配人を見る。

「何故代役の名前を云わなかったのか。いえ、云えなかったんです。あの時点では」

「えつどう云う事ですか」

 夏美が尋ねた。

「それを今から解明したいと思います」

 椿は、白いボードの横に立つ。

「時系列で見て行きましょう」


●勘五郎倒れる

●真藤医院に行く

●本日の舞台は無理と判断

●勘五郎、仁木弾正役を降りる

●仁木弾正役には代役を立てる


「ここまではわかりますよね」

 一同大きくうなづく。

「そして代役決まりました。弟子の勘吾さんでした」

 勘吾が無言でうなづく。

「とここまでなら、代役発表してもよかったのです。でも出来なかった」

「つまり、実際の舞台、本番はそうではなかったの」

「夏美ちゃん、そうなの」

「じゃあ誰が仁木弾正役をやったと云うんだね」

 夏美の代わりに勘五郎が聞く。

「代役は、直前になって代わりました。それは勘吾さん、あなたと代役の人とで相談して決めたんですね」

「そうです」

「ちょっと待った!勘吾が代役やってない?じゃあ誰なんだ」

「代役、あの時仁木弾正役をやったのはあなたでしたね」

 椿はパネルを横にずらす。

 一台のスポットライトが現れた。

 三脚付きで、丁度客席に座る人物に投射出来るように角度もつけてあった。

 椿が手元のスイッチをオンにする。

 一条の光が、客席に座る一人の人物に投射された。

「勘士郎さんだった!」

 思わず夏美は叫んだ。

「ちょっと待った!椿さん、証拠はあるのか」

「はい。このスポットライトはお迎えライト。揚幕の中に設置されているものです。稽古の時、それぞれ顔の位置が違うので、このようにビニールテープを三脚の棒に巻いています」

「そんなもん、証拠にならん」

「勘五郎さん、あなたもあの時そばで見てたじゃないですか」

「椿さん、勘五郎さんは倒れてうちの病院にいてたんだぞ」

 今度は真藤医院の真藤が反論した。

「いいえ、あの時勘五郎さんはそばにいました」

「ちょっと待って。揚幕の中にあの時、勘五郎さんの姿なかったわ」

 監事室係の陽子が云う。

「陽子さん、揚幕の中にじゃなくて、花道にですよ」

「花道!」

「そうです。前の面明かりの棒を持って後ずさりしてたのは、勘吾さんじゃなくて、勘五郎さんです。つまり」


●仁木弾正役➡勘士郎

●面明かり(前)➡勘五郎


パネルをぐるっとひっくり返して見せた。

 客席のどよめきが起きた。

「証拠は!証拠はあるのか!」

「ええもちろん。これ見て下さい。この映像は毎日舞台を録画している照明部から提供です」

 モニター映像が映し出される。

「よく見て下さい。前の面明かりの人、随分身体が上下してます。つまり日頃仁木弾正役やってるんで、つい足元のさばきが、仁木弾正になってしまった。そうですね」

「いや違う!違う!こんなもん証拠になるか!」

「親父、もういいよ。椿さん、あなたの云う通りです」

 静かに勘士郎は答えた。

「はい、その通りです。代役の代役促したのは私です」

「そうなるか、どうか、賭けに出たんですね」

「ああそうだ」

「何でストレートに息子を指名しなかたんですか」

「それが出来ないのが、勘五郎の性格なんじゃ」

「あの病気も仮病でしょう。あなた方仕組んだんですね」

「そうじゃ」

「監事室の竹田陽子さんも知ってました」

「ああ、はい。でもどうしてそれを」

 今度は揚幕内部のモニター監視カメラ映像を椿は見せた。

「ここ見て下さい。皆さん仁木弾正の役者じゃなくて、面明かりの黒子さんだけ見てました」

「ああ、そうかあ」

 同時に関係者から同じ言葉がつぶやかれた。

「嘘はつけないなあ」

 勘五郎はそう付け加えた。

「勘五郎さん、今回の全ての事、思いついたのは、あの両足院の茶室とあの草花を見て思いついたのでしょう」

 椿は、静かに語り出した。

「何それ、椿さんもっと我々にもわかるように話して」

 夏美が会話に侵入して来た。

「わかりました。今月の公演前、私は建仁寺の塔頭寺院両足院の茶室(如庵)で勘五郎さんとお逢いしました」

 一同は再び耳を傾ける。

 この茶室は、犬山の茶室(如庵)の写しである事。

 写しとは、そっくりそのままである。

 ここの庭には半夏生が咲いていた。

 半夏生は白い花と思われているが、葉っぱの表面が白く、裏は緑のままである。

「つまり、仁木弾正の役を息子にやらせて、自分は面明かり役の黒子になる。半夏生の白が息子、緑が自分だった」

「まさにその通り。いやあ半夏生の植物は面白いねえ」

「自分と息子の芸をそこに見出すなんて。それともう一つあるでしょう」

「ああ、如庵」

「そうです。茶室(如庵)の写し。芸の写しを思いついた」

「確かにそうだ。ただ芸の写しは難しい」

 勘五郎はそう云って勘士郎を見た。

「父から息子へ芸の写しをやっても、そこには魂の写しも同居してないといけないと私は思ってる」

「親父・・・」

「その芸の魂は、またお前の代で少しアレンジしていけばいい」

 勘士郎は、黙って大きくうなづいた。

 一滴の涙が頬から肩に落ちた。

「私からの報告は以上です」

 椿が頭を下げた。

 勘五郎が手を叩き始めた。

 それが伝播して他の者も拍手し始めた。

 勘五郎が椿に近づく。

「南座照明探偵、ここに誕生!」

「まあそれはそのう」

「椿、いいじゃない!照明探偵、事件の証明もやる」

 と夏美が云うと

「事件にもスポットライト投射します!」

 案内の林田ゆり子もそう云って続く。

 拍手が広がる。

 一同は天井を見上げた。

 今まで薄暗かった場内がどんどん明るくなった。

「どうなってるんだ」

 ついには場内提灯も点灯する。

 舞台も明るくなり、ムービングライトが作動。

 舞台に吊られているムービングライトの灯体は上下に何度もスイングする。

 さらにシャッフルされて回転上下左右の動きが加わる。

 場内にいた全員の顔が照明の光りで輝き、顔に模様が出来ていた。

「照明探偵かあ」

 勘五郎は椿の顔を見ながら、もう一度つぶやいた。


                 終わり

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