幕間2 代々木公園老人殺害事件

 二〇〇七年六月十七日日曜日早朝。東京都渋谷区の代々木公園は喧騒に包まれていた。

『至急、至急。警視庁から各局、警視庁から各局。渋谷区代々木公園にて男性の遺体発見の通報あり。捜査員は現場に急行せよ。繰り返す……』

 停車しているパトカーの無線からそのような声が聞こえる。代々木公園の遺体発見現場近辺は、警視庁の捜査員や鑑識の人間で一杯になっていた。

 この辺りを管轄している代々木署の刑事課に所属する戸上基弘とがみもとひろ警部も、この連絡を聞いて現場入りした刑事の一人であった。つい最近まで警部補で、四月に警部昇格を果たしたと同時に、それまで所属していた世田谷署から現在の代々木署へ転勤したばかりである。年齢は三十八歳。まずまず順調な出世コースといった感覚であるが、本人は事件一筋で、あまり出世には興味がないようであった。

「現場は?」

 パトカーで到着するや否や、先着していた部下の刑事に戸上は状況を尋ねた。

「この先の茂みです。すでに本庁の刑事さんも来ています」

「やっと出てきたか。担当は誰だ?」

「国友警部です」

 その言葉を聴いて、戸上は少し驚いたような顔をした。

「『黒紳士』のお出ましか」

 そう呟きながら現場に着くと、痩身のスーツ姿の男がすでに遺体を見下ろしていた。

「あなたが担当ですか?」

 その男は、戸上に気付くと、遺体を前にしているとは思えない穏やかな声で尋ねた。

「はっ、代々木署の戸上と言います」

「捜査一課の国友です。今回はよろしく」

 男……警視庁刑事部捜査一課第一係係長の国友純一郎くにともじゅんいちろう警部は、そう挨拶した。年齢は五十歳過ぎだが、すでに髪には白髪が混じっている。三十年近く捜査一課に在籍する捜査一課の生き字引とも言える存在で、紳士的で穏やかな物腰とは裏腹に、一切容赦なく犯人を追い詰める捜査姿勢から「黒紳士」という異名を刑事や犯罪者からつけられていた。階級は警部であるが、捜査一課の中ではほとんど警視と同格扱いをなされており、一課の大ベテランとして今でも数多くの犯罪と戦い続ける毎日を送っている男である。戸上のような人間にとっては、雲の上のような存在であった。

「これまでの経緯は聞いています。これが五件目との話ですが」

「ええ。ここへ来て、ついに殺しです」

 戸上は悔しそうに言った。実は、半年ほど前からこの代々木公園を中心として、いわゆるホームレス狩りが多発していた。被害者はこの公園を根城にしているホームレス、もしくは深夜にこの公園を通りかかった年配の人間である。いきなり複数の人間に教われて袋叩きに遭い、ぐったりして身動きが取れなくなったところで財布などを奪われる。すでに四件同様の事件が発生し、しかもそのうちの一人が意識不明の重傷を負うに至り、管轄する代々木署でも厳重な警戒がなされていたのだが、まんまと五件目を起こされた上に、殺害に至らしめてしまった。戸上も赴任直後からこの事件に関与しており、内心じくじたる思いを抱いていたのである。

「後悔するのは後でも充分です。今は一刻も早く事件を解決しましょう」

「……はっ」

 国友の言葉に、戸上は唇をかみ締めながらそう答えた。

「問題のホームレス狩りですが、今までの被害者の証言から複数犯である事と、若い男性のグループだという事はわかっていましたね」

「はい。被害者の証言では、おそらく高校生か大学生くらいのグループだと」

「少年犯罪という事ですか」

「殺しまで起こした以上は、今までのように逃がすつもりはありません」

 戸上は怒気を含んだ声で答えた。

「被害者の身元は?」

 国友が近くにいた初動捜査班の刑事に尋ねる。

「それが、遺体は財布も携帯電話も所持しておらず、衣服にネームらしいものもないため、現時点で身元の確認はできていない状態です」

「身元不明ですか」

 パッと見ると、六十代前後の男である。髪は完全に白髪になっていて、六月にもかかわらず茶色のコートを羽織っている。体中に見られる痣は暴行によるものだろうか。

「ホームレス……ではないようですね。この格好から察するに」

「通行中の老人というのが妥当ですね」

「死因は?」

「解剖してみないと何とも。多分、打撲によるショック死だとは思いますが」

 遺体を診ていた検視官はそう告げた。

「いずれにせよ、この遺体の身元確認が第一ですね」

 国友は遺体をジッと見つめながらそう呟いた。


 代々木署に正式に捜査本部が設立され、本格的な捜査が始まったのは、遺体発見の数時間後、十七日の夕方であった。

「犯行の性質から見て、これ以降も同様の犯罪が繰り返される危険性がある。いいか、絶対にこれ以上の犯行を繰り返させるな!」

「はっ!」

 捜査本部長である代々木署署長の言葉に、居並ぶ刑事たちが応じる。

「検視官の話では、直接の死因は後頭部強打によるショック死。今までの犯行でも、被害者は最初に後頭部を殴られ、その後集団リンチを受けている。同一犯と見て間違いないだろう。被害者の身元は不明だが、これについては情報公開を行い、情報提供を呼びかける。同時に、代々木公園周辺への聞き込みを重視し、犯人・被害者双方の情報を調べるものとする。一刻も早い犯人逮捕を目指せ。以上!」

 その言葉と同時に、刑事たちが部屋を飛び出して行った。

 戸上も聞き込みに出かけようとしていたが、部屋を出る際にふと振り返ると、正面のホワイトボードに貼り付けられた写真を見ている国友の姿が目に入った。気になって引き返し、近くに寄る。

「国友警部、どうしましたか?」

「ええ、少し」

 国友はそう言って自分が見ていた写真を示す。それは、発見された遺体の写真であった。

「これが何か?」

「いえ、どうもこの顔に見覚えがあったものですから」

 思いがけない事を言い始めた。

「見覚えがあるんですか?」

「はい。ですが、それが何なのか思い出せません。確かにどこかで見たような顔なのですが……」

 国友は首をひねっていた。

「警視庁の刑事が見覚えある顔となると、やはり犯罪者絡みでは?」

「そうだとは思いますが。ただ、どうも気になります」

 国友は写真を見ながら言った。

「思い出せないのなら仕方がありません。とにかく、聞き込みに……」

「……そうですね」

 国友も腰を上げた。と、その時、間を見計らったかのように捜査本部のドアが開いた。

「失礼、国友さんいるか?」

 ドアから顔を出したのは、一見すると二十代後半に見える優男であった。どこか女性受けしそうな端正な顔つきだが、その表情のどこかに暗いものを感じる。何より、若い見かけに反した白髪で、背広に白衣を羽織ったその異様な格好が、戸上にとっては印象的だった。

「ああ、圷さんですか」

 国友はそう言った。

「ああ、じゃないよ。呼び出したのはあんたじゃないか」

 男……圷は顔に似合わない乱暴かつ砕けた口調で、頭をかきむしりながら近づいてくる。一見二十代に見える外見とのギャップが激しすぎる。

「この方は?」

圷守あくつまもる警部。警視庁刑事部鑑識課係長。さすがに名前くらいは知っているのではないですか?」

 国友にそう言われて、戸上は心当たりがあった。

 警視庁鑑識課の奇才。それがこの圷守という男の異名である。入庁から鑑識一筋で、その鑑識技術は「鑑識の神様」と称されるほどの腕を持っていた。こう見えて実は四十代前半になっており、現在捜査一課で一番の検挙率を誇る斎藤班の斎藤孝二主任警部や、最年少就任記録を持つ現在の捜査一課長とは同年代の人間らしい。

 実際、十数年前、つまりこの男が入庁した直後に優秀な刑事ばかりを集めて発足した特別捜査班のメンバー候補になったという逸話がある。本人が人付き合いを拒む性格だった事が災いして候補から外れたそうだが。現在警部にまで昇進し、鑑識課の係長になっているという。

「で、国友さん。俺なんかに何か用か?」

「まず、これを見てもらえませんか?」

 国友はそう言うと、先程の写真を見せた。

「遺体か」

「見覚えはありませんか?」

「まさかその確認のためだけに呼び出したのか?」

 圷はやや呆れたように言う。が、写真を見つめるその目は真剣だった。

「確かに、どこかで見たような気はする。どこの誰かまではわからんが」

「やはり、あなたも見覚えがありますか」

 戸上は戸惑っていた。

「どういう事ですか?」

「つまり、この男は私と圷さんの両方に見覚えがあるんですよ」

 国友はそう告げた。

「お二人に見覚えがあるという事は……やはり何かの犯罪絡みという事でしょうか?」

「どうでしょうかね。何か違う気もしているのですが」

 と、その間に圷は正面に書かれた事件のデータを見ていた。

「ホームレス狩りか」

「一応はそうなっていますが」

 それを聞いて、圷は手元の写真を見ながらしばらく何か考えていたが、

「この遺体、まだあるか?」

 と、不意に尋ねた。


「結論から言うが、この遺体、今までの被害者のものとは明らかに違う」

 翌日の深夜、捜査本部が置かれている代々木署の小会議室で、圷は国友と戸上の前で報告していた。

「いきなりもう一度自分に検視をやらせろと言った時は驚きましたが、やはり何かありましたか」

「まったく、あのまま荼毘に付されていたら取り返しのつかない事になっていたところだ」

 圷はそう言いながらも、話を続けた。

「今までの四件、つまり生存した四人だが、医者のカルテなんかを見る限り、最初に背後から一撃され、倒れたところを複数の人間でリンチされている。この最初の一撃に使われた凶器だが、被害者が生きている事もあって詳しく調べるわけにもいかず担当した医者もわからなかったようだが、俺の見立てでは傷口の写真を見る限り棍棒状のものだ。鉄パイプか木刀、死んでいないところを見れば竹刀辺りが適当かもしれない。当然、棍棒だから出血もあり、実際に現場周辺には血痕が飛び散っている」

 ところがだ、と圷は続けた。

「まず今回の被害者、一切の出血が認められない。実際、担当した検視官も解剖まで明確な死因がわからなかったようだしな。最終的な死因は後頭部強打によるショックで今までものと同一だが、俺の見立てでは凶器が違う」

「というと?」

「極端に言えば、フライパンだ」

 戸上は思わずメモする手を止めて圷を見た。

「フライパン?」

「言い方がまずかったか。簡単に言えば平たい鈍器ってやつだ。要するに、フライパンの底みたいな平べったい部分で思いっきり叩いたってのが筋だ。そうすれば挫傷が起こらないから出血は起こらず、内出血によるショック死が引き起こされる。『出血なき撲殺』ってやつだな。フライパンというのは極端にしても、スコップの平べったい部分で殴ったって言えばわかりやすいか」

「なるほど」

 国友は頷いた。

「次に、もう一度遺体の司法解剖をやってみたんだがな」

「司法解剖もできるんですか?」

 戸上が呆れたように言う。通常、司法解剖は鑑識ではなく嘱託医が行うものである。

「こう見えて一応東大の医大卒でな。結局地方公務員試験を受けて警察になったが、その時に趣味で取った医師免許も持っている」

「趣味で取ったって……」

「話を戻すが、この手の内出血の場合、傷も平たくなるから複数の傷が見逃されやすい傾向がある。で、その辺りを調べてみた結果、頭部への傷が少なくとも同箇所に三つ確認できた」

「え?」

「つまり、あの被害者、後頭部の同じ場所ばかり狙って三回連続で殴られている。同じ場所で、しかも傷は平たい鈍器で殴られたものだ。担当した検視官は一回と見たんだろうな。まぁ、無理はない。俺だって三回分見つけたのが限界で、下手をしたらそれ以上あるかもしれない」

 その言葉は、事件の根幹を揺るがすものだった。

「つまり、どういう事ですか?」

「……立ったまま三回殴られたという可能性は少ないでしょうね。おそらく、犯人はまず後頭部を一度平たい鈍器で殴って被害者を昏倒させ、その後倒れた被害者に向かって、たった今殴った場所とまったく同じ箇所を続けざまに最低二回は殴った事になります」

 国友が冷静に言った。圷がそれに続く。

「さらに、犯人はあえて出血のない平たい鈍器を使っている。撲殺最大の欠点は出血がある事だ。今の鑑識はDNA以外にも血液からいろんな事がわかるからな。飛沫血痕に代表されるように、血痕のつき方や飛び散り方から被害者の行動まで完璧に推測できてしまうし、実際にそこから足がつく事も多い。この犯人、わざわざこんな殺し方したって事は、その血痕によるリスクをわざわざ回避したようにしか見えない。という事は……」

 続く言葉は戸上にもわかった。

「最初から殺しが目的、と言う事ですか?」

「少なくとも、こいつはホームレス狩りのやるような犯行じゃない。財布ならともかく携帯までないとなると、いよいよこいつは身元隠しが目的だ。それに、体中についた傷には生体反応がなかった。こりゃ、死んでからリンチしたって事だ。何度も相手の頭を殴っているやつが、相手が死んでいるにもかかわらずわざわざリンチするなんて、明らかに偽装工作と見るのが筋だ」

「じゃあ、この事件は……」

「ホームレス狩りに見せかけた正真正銘の計画殺人。ホームレス狩りの模倣犯って事だ。少なくとも、俺はそう判断するね」

 圷はフッと笑いながら断言した。

「さて、そうなるとこの仏の身元が気になるところだが、国友さん、どうなったんだい?」

 圷の言葉に、国友はこう答えた。

「被害者が宿泊していたホテルを近隣で見つけました。二ヶ月以上も宿泊していたとの事です。従って、この人がホームレスでない事は明白です。ただし、ホテルの記録に書かれた名前と住所はでたらめでした。一般への情報提供もあまり効果ない状態です」

 その時だった。ドアが開いて別の刑事が顔を出した。

「国友警部、被害者を知っているという男が尋ねてきていますが」

「本当ですか?」

「それが……」

 刑事は何か煮え切らない表情をしている。

「何かあるようですね」

「ええ。少し、意外な人でしたので」

 国友はしばし考えた後、

「会ってみましょう」

 と言った。三人は部屋を出て、署のロビーに出る。

 と、その先にいた人物を見て、国友と圷は驚いた表情をした。

「お久しぶりですね。国友さんに圷さん」

 そこにいたのはスーツにアタッシュケースの男……私立探偵・榊原恵一だった。

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