第三章 事件捜査

 東京都豊島区山手線大塚駅から五分くらいの場所に大谷ビルという五階建ての雑居ビルがある。かなり年季の入ったビルで、周囲に乱立するビルに埋もれているため、とりたてて目立つビルというわけでもない。が、普通なら世間の注目を浴びる事もないだろうこのビルで、その凶悪犯罪は発生した。

 二〇〇七年四月二十日金曜日午後十時頃。深夜になると人通りが減る都心特有の例に漏れず、この大谷ビルの周辺もめっきり人通りが少なくなっていた。大谷ビルにはいくつかのテナントが入っているのだが、この時は四階にある『住吉ライフ保険』という生命保険会社の窓だけに明かりがついている状態であった。大谷ビル周囲はビジネス関係のビルが多く飲食関係のテナントは少ない。よって、周囲は他の場所に比べても特に閑散とした状態で、強いて言うなら大谷ビルの道路を挟んだ正面にある三階建てビルの一階にコンビニがある程度だ。そのコンビニにしても、昼間こそビジネスマンたちで賑わうが、夜になるとほとんど客もいない。

 事件の一報が入ったのは、そのコンビニからだった。正確には、夜勤をしていたコンビニ店員からの通報である。

「前のビルから、銃声みたいなものが聞こえたんですが……。気になるので調べてもらえませんか?」

 それが通報の内容であった。付近では最近暴力団構成員によるサラ金会社への銃撃事件が起きており、通報者としても気になったのだろう。通報を受けた警視庁の一一〇番指令センターは、直ちに近隣を警邏中のパトカーに無線連絡。最寄りの池袋警察署に所属する一台のパトカーが問題の大谷ビルの正面に停車した。大谷ビルは、何事もなかったかのように静まり返り、四階だけに明かりがついている。

 巡査の一人が通報したコンビニに事情を聞きにいき、しばらくすると戻ってきた。

「店内にいたので銃声かどうかはわからないが、何か破裂音のようなものを聞いたそうです。しばらく放っておいたそうですが、やはり先日の事件があったために気になったという事で通報したとの事です」

 気になったのか、通報者のコンビニ店員も心配そうにこちらを見ている。巡査とコンビを組んでいる巡査部長が首をかしげた。

「例の銃撃事件は、暴力団構成員の人間が組と敵対していたサラ金会社を襲撃したというものだったな」

「はい。ですが、この一件で警察介入の口実ができて、今は問題の組もおとなしくなっているはずですが」

「……何にせよ、銃声があったというのは気になるな」

 二人は、念のためにパトカーのトランクに積んである防弾ベストを身につけ、大谷ビルに入っていった。廊下は入口からエレベーターまでの最低限の照明しかついておらず、エレベーターの隣にある非常階段は真っ暗であった。

「とりあえずは明かりのついている四階か」

 二人の警官はエレベーターのボタンを押した。すぐにドアが開くが、中は何事もないようだ。

「おい、君はここで待ってろ。発砲者がまだいるとしたら、階段から下りてくる可能性もある」

「了解」

 巡査が頷き、エレベーターには巡査部長だけが乗った。ドアが閉じ、四階に向かう。途中でエレベーターが止まるような事はなかった。巡査部長は万が一他の階に発砲者がいたとしてもエレベーターが使えないようにエレベーターを強制停止させるボタンを押した後、慎重に四階の廊下を進んだ。

 廊下の向こうにドアがいくつかあるが、そのうちの一つから明かりが漏れている。ドアにはすりガラスがはまっていて、『住吉ライフ保険』というテナント名が書かれていた。巡査部長は辺りを警戒しながら近づくと、ゆっくりドアをノックした。

「ごめんください、警察です。誰かいますか?」

 中に呼びかける。が、全く応答がない。明かりがついている以上、誰かがいるのは間違いないはずなのに。巡査部長の表情が険しくなった。念のために手につけている手袋を確認してからドアノブをひねると、鍵はかかっていない。巡査部長はゆっくりとドアを開け……直後、部屋の中にあるものが目に飛び込んでくる。

「ウッ!」

 その瞬間、巡査部長は呻き声をあげた。

「こ、これは……」

 どうやら、そこは受付室のようだった。待合用のためかいくつか来客用のソファが置かれ、奥へ続くドアの横に受付用のデスクがある。

 そのデスクの前で、スーツ姿の男が血まみれになりながらうつぶせに倒れていた。確認するまでもなく絶命しているのは明らかであったが、そこは警察だけあって一応遺体に近づき、そっと脈を取る、が、思った通りすでに脈はないようだった。ザッと見た限り脳天を銃でぶち抜かれているようで、発砲があったのは間違いないようだ。巡査部長は、すぐに無線で本部に通達した。

「至急、至急! 池袋12(「池袋警察署所属パトカー12号車」の意味)から警視庁!」

『警視庁、どうぞ』

「通報にあった大谷ビル捜索中に、同ビル四階『住吉ライフ保険』事務所内にて男性の遺体を確認。他殺の可能性あり。至急、応援求む!」

『警視庁から池袋12。遺体発見、了解。直ちに近隣の警邏車両を優先的に向かわせる。遺体の状況は?』

「頭を銃で撃ち抜かれている。通報にあった発砲は事実の模様」

『警視庁、了解。近くに発砲者はいるか?』

「現在捜索中。今のところ、それらしき人物は確認できない。逃走している可能性が高い」

『警視庁、了解。それでは、周辺に注意した上で、現場の保存に努められたし。必要があれば発砲も許可する』

「池袋12、了解」

 いったん無線を切る。自然と巡査部長の視線は隣室に向かった。見ると、内開きのドアの下の方で倒れている死体の手が引っかかっているせいか完全に閉まりきっておらず、一センチ前後の隙間がある。が、そんな状況にもかかわらず向こうからは物音一つしない。

 巡査部長はゆっくり立ち上がると、息を呑みながらドアに手をかけた。今度もドアはすんなり開く。そして、ドアを開けて中を覗いた瞬間、巡査部長はこれがとんでもない大事件である事を改めて認識するに至った。

「こ、これは……!」

 思わず口走る。室内は惨劇としか言いようのない状況だった。

 そこは事務所だったようで、いくつかのデスクが並べられている。その一番奥にあるデスクの椅子に座るような状態で、初老の男が後ろにのけぞったまま息絶えていた。後ろのカーテンに血しぶきが飛んでおり、こちらも脳天を打ち抜かれているのが一目瞭然である。

 さらに、部屋の隅にある金庫の前で、若いOLらしき女性が血溜まりのできた床の上でうつぶせになって倒れていた。こちらは頭を打ち抜かれた後、さらに背後から背中に一発撃たれているようで、周辺は血の海と化していた。そして、血しぶきが飛び散った金庫は大きく開いており、明らかに中身が持ち去られた様子である。

「強盗殺人……」

 巡査部長は直感した。と、外が騒がしくなり、パトカーのサイレンが木霊する。応援が駆けつけたようだ。が、その前にこの惨状を報告しなければならない。

「至急、至急! 池袋12から警視庁! 先程の事案の続報! 捜索の結果、室内からさらに二体の遺体を確認! 他殺と思われ、室内の金庫が荒らされており、強盗殺人事件の可能性がある! 直ちに捜一(捜査一課)の出動を求める!」

『……警視庁から池袋12。確認する、現場に他殺体と思しき遺体がもう二体ある。この内容でよろしいか、どうぞ』

 さすがに信じがたいらしく、向こうも戸惑っているようだ。

「池袋12、その通りである! 部屋の中で三名が血まみれで倒れている! 至急、一課の出動を求める!」

『……警視庁、了解。直ちに捜一に出動要請を出す。引き続き現場保存に努められたし」

「池袋12、了解!」

 無線を切ると、今度は一階で待機している巡査に無線連絡を送った。

「四階の部屋で遺体を三体確認。犯人はまだこのビルにいるかもしれない。応援と一緒に一階からビルを捜索してくれ!」

『い、遺体ですか?』

「詳しい事情は後だ。今は捜索を優先してくれ」

『りょ、了解!』

 思わぬ事態に、巡査は少々気後れしているようだが、巡査部長はここから離れるわけにはいかない。何より、巡査部長自身もこの凄惨な現場にかなり青ざめ、気絶しそうなのを必死にこらえている有様だった。

「冗談じゃないぞ!」

 その後、警察によってビル中が捜索されたが、そのほかの階や部屋からは犯人も遺体も発見されず、この凶悪な強盗殺人事件は、犯人逃亡という非常に厳しい現実の下、その姿を白日の元にさらけ出した。


 後の世に「豊島区生命保険会社強盗殺人事件」と呼ばれる事になる大事件が発生した瞬間である。


 三人の人間が残虐な手口で殺害されるという大事件である、すぐさま警視庁捜査一課が動き、閑散としていた大谷ビル周辺は大騒ぎとなった。同時に近隣の池袋警察署に捜査本部が設置される事が決定し、夜中にもかかわらず百人体制の大規模捜査チームが設立された。

 鑑識が現場に入り、本格的な捜査が始まったのは遺体発見からわずか数十分後の事であった。同時に、警察は近隣で大規模な検問を実施。何しろ、犯人は拳銃を持ったまま逃走している可能性が高いので、これは当然の処置であった。しかし、結局この検問には何もかからず、拳銃を持った強盗殺人犯が野放しになっているという最悪の状況下で捜査が始まった。

 警視庁捜査一課からは、斎藤孝二警部率いる第三係が現場入りした。斎藤は今年四十歳になる警視庁のベテラン警部で、現在の捜査一課の中でもトップクラスの検挙率を誇っている。警視庁がこの事件をどれほど重要視しているかがうかがい知れた。

 同日午後十一時過ぎ。現場に到着した斎藤は、すぐさま四階へと上がり、鑑識活動が終わりかけている死体発見現場に足を踏み入れた。

「お疲れ様です」

 先着していた斎藤の部下の新庄勉しんじょうつとむ警部補が斎藤に気がついて顔を上げた。こちらは三十代前半。ノンキャリアではあるが、射撃の名手であり、オリンピックの射撃で入賞したというキャリアを持つ。刑事としても非常に優秀で第三係の主任刑事を務めており、現在では斎藤の右腕として活動していた。

「ああ、ご苦労さん」

 斎藤は手袋をしながら新庄の元に歩み寄った。

「急な呼び出しだしで戸惑ったよ」

「私もです。一課長直々の命令だそうで、慌てて家から飛び出してきました」

 新庄がやや苦笑気味に言う。

「それだけ大きな事件って事なんだろうがな」

 そう言いつつ、斎藤は現場を眺めた。

「状況は?」

「遺体が三つ。受付があるこの部屋に一体と、隣の事務所に二体。男二人に女一人です」

「死因は?」

「正式には解剖が必要ですが、おそらく射殺です。全員脳天を打ち抜かれていますので、ほぼ即死かと。金庫が開けられていますので、現状では強盗殺人の可能性があります。もちろん、断言はできませんが」

 新庄はあくまで慎重に言った。斎藤は頷くと、足元に倒れている男の死体を見下ろした。

「遺体の身元はどうなっている?」

「この部屋と隣の部屋は住吉ライフ保険という生命保険会社がテナントとして借りているんですが、受付室に倒れているこの遺体はその住吉ライフ保険専務の舛岡勝義ますおかかつよし。隣の事務所で椅子に座った状態で打ち抜かれている初老の男が住吉ライフ保険社長の広沼辰則ひろぬまたつのり。そのすぐ近く、金庫の前で血みどろになって倒れている女性が住吉ライフ保険社員の七井佐和子なないさわこ。全員、免許証などから確認しました」

 新庄がメモを見ながら答える。

「全員この会社の人間か」

「状況的に、残業中に襲撃されたと言うのが妥当でしょうね」

 斎藤は軽く頷くと、質問を重ねる。

「銃弾は何発確認された?」

「四発です。舛岡に一発、広沼に一発、七井に二発。七井は脳天を打ち抜かれて倒れた後、背後からさらに一発撃たれています。部屋のガラスは防音ガラスですが、さすがに四発も撃ったためかそのうちの一発の銃声が向かいのコンビニにまで響いていたようです」

 斎藤はしばらく整理するように何事か考えていたが、さらにこう尋ねる。

「他の社員はどうなっている?」

「金庫内に保存してあった社員名簿で確認した結果、この会社は社員六名という小規模な会社です。先程、副社長に連絡が取れましたので、遺体の確認に来てもらうよう連絡しました。副社長の名前は新開隆正しんがいたかまさ。他の二人の社員は品倉譲しなくらゆずる下木恵理しもきえりです。社員二人にも名簿の電話番号で連絡を取りましたが、現在連絡がついていません。目下の所、彼らが第一容疑者という事になります」

 新庄のその言い方に、斎藤は少し眉をひそめた。

「どういう事だ? 強盗殺人の疑いが強いなら、普通は外部の犯行と考えるのが筋だと思うが。実際、この辺では最近サラ金に対する暴力団への銃撃事件も起きている」

「ところが、そう断言できない状況でして」

 新庄は事務室に続く受付室のドアの横の壁にくっついている機械を指差した。テンキー式の暗証番号入力装置盤のようだ。

「あれは?」

「小規模とはいえ、ここは生命保険会社です。大金が動きますので、セキュリティ装置の一つや二つ、ついていてもおかしくありません。詳しくは会社の人間に聞いてみないと何とも言えませんが」

「……もし、あれがこの会社の人間にしか開けられないとなると、事務所内で殺人を起こせるのは社員だけ、という事か?」

「まだ可能性に過ぎませんが」

 と、ちょうどその時、初動捜査班の刑事が飛び込んできた。

「警部、ここの副社長と名乗る男が来ていますが」

「多分、新開です」

 新庄が小声で言い、斎藤は頷きながら指示を出す。

「わかった。通してくれ」

 しばらくして、初老の気の弱そうな男が姿を見せた。

「新開さんですか?」

「はい、住吉ライフ保険副社長の新開隆正と申します。あの、社長や舛岡君が殺されたというのは……」

「本当です。犯人は逃走中です」

「そんな……」

「遺体をご確認していただけますか?」

 新開は恐る恐る受付室に転がっている遺体を見たが、

「ま、舛岡君!」

 と、小さく呻いた。

「舛岡専務で間違いないですね?」

「は、はい」

「隣の部屋にもあるのですが、ご気分が優れないようでしたら休まれてからにしましょうか?」

「い、いえ、大丈夫です」

 新開は顔を青ざめさせながらもそう言った。

「では、お願いします」

 斎藤は隣の事務所に入るように促す。新開がオズオズと入ると、すぐ正面に広沼社長の遺体が目に入った。

「しゃ、社長……」

 もはや、新開は茫然自失といった感じであった。

「もう一人、女性社員と思われる遺体があるのですが」

「下木君ですか?」

「いえ、運転免許証によれば七井佐和子という名前のはずですが」

「七井……ああ、三日ほど前に雇ったと社長から連絡がありましたよ」

「連絡?」

「私、一週間前から関西へ出張していまして、今日帰ってきたばかりなんです。出張先からそのまま家に帰りましたから、自宅最寄りの品川駅で社長に連絡した後今日はここには来ていませんが……まさか、社長がこんな事になるなんて……」

 という事は、七井佐和子は雇われてからわずか三日で射殺の憂き目に遭った事になる。いずれにせよ、免許証の名前と顔写真は遺体のものと一致している。もう一人の遺体がここに雇われていた七井佐和子であるのは疑いようの無い事実なので、斎藤としてもそれ以上は深く突っ込まなかった。それよりも、彼には聞いておくべき事がある。いったん部屋の外に出て、斎藤は改めて新開に尋ねた。

「お聞きしたい事があるのですが、よろしいですか?」

「何でしょうか?」

「室内を調べた所、室内の金庫が開けられて中身がなくなっている様子でした。あの金庫の中には何が?」

「普段は社員や顧客の個人情報なんかの極秘書類が入っています。実際に保険を支払う期日付近になると、現金も入れていました」

「今日はどうですか?」

「私の出張も、関西のある顧客に対する支払いに対する交渉でして。それがまとまりましたので、数日前辺りから現金が入っていたはずです」

「いくらですか?」

「そうですね……大体、五千万円ですね。今日辺りそれにかかわる残業が行われていたはずですが」

 斎藤と新庄は目配せを交わした。金庫の中には書類こそ入っていたが、現金は入っていなかった。ちなみに、中にあった履歴書は身元確認の手がかりにもなっている。

「では、このセキュリティシステムについてお話し願えませんか?」

 斎藤は受付室手前のテンキー入力盤を示しながら尋ねた。

「パッと見た限りでは、何桁かの数字を入力する形式だと思うのですが」

「はい。六桁の数字を入力するとドアが開く仕組みです。番号は一週間ごとに変更されます」

「前回の変更は?」

「五日前だったかと」

 つまり、それ以前の番号を覚えていてもドアは開かないわけだ。

「では、番号を知っているのはここの社員だけという事ですか?」

「はい」

「ですが、その仕組みだと社員が一緒ならば他人も入る事ができるんですよね?」

 新庄がそんな突っ込みを入れる。

「確かに、応接する場所が事務所内にあるので日中の業務時は客を入れますが、午後六時の業務終了後は絶対に事務所内に他人を入れないという事が社則で決まっています。大金がある場合もあるので、この点については全社員が徹底しているはずです」

「でも、例えば社員が入れるつもりがなくても、社員が出入りしている時を狙って強引に入る事もできるのでは?」

「そのために、業務時間外に受付室に社員以外の人がいる場合、社員は絶対に事務所に通じるドアを開けないという事になっていました。理由としては、今おっしゃられたような可能性を排除するためです」

「つまり、事件が起きた時間に少なくとも事務所内に入れる外部の人間はいなかった?」

 実はこの質問、一種の罠である。斎藤はまだ新開に事件発生時刻を告げていない。ここですんなり答えると、新開が事件発生時刻を知っていたという事になり、事件に関係しているのではないかという疑いが生じる事となる。が、新開はその罠に引っかかる事はなかった。

「その時間がいつなのかは知りませんが、残業の時間帯だったならそうなりますね」

「事件が発生したのは午後十時頃とされています」

「そうですか。だったら業務時間外ですから、間違いなく事務所内に社員以外の人を入れる事はありませんね」

 斎藤はここで質問の角度を変える。

「ところで、先程の話だとあなたは品川駅から社長に電話したとの事ですが、いつの事でしたか?」

「ええっと……確か午後七時頃だったと思います。新幹線が到着したのがその時刻ですから間違いありません。簡単な業務連絡と、社に寄らずに帰る旨を伝えただけですので、五分ほど話しただけですが」

 つまり、少なくとも時間まで社長が生きていたのは間違いないと言う事になる。ただし、あくまで新開が嘘をついていなければの話ではあるが。

「御参考までにお聞きしますが、犯行時刻のアリバイは?」

「家にいました。家にかかってきた警察の電話で事件の事を知ったんです。妻が証人ですが、確か家族は証人にならないはずでしたな」

「ええ」

 斎藤の返事に、新開は残念そうな顔をする。斎藤は、再びドアの事に話題を戻した。

「この事務室へのドアですが、一度閉めたら開かない仕組みですか?」

「そうです。オートロックシステムになっています。だから、出入りしたらすぐ閉めるようにと常日頃から言われていました。もしかして、そのドアは開いていたんですか?」

 新開が素朴な疑問をする。

「ええ。舛岡さんの手が下の方で引っかかっていて、完全に閉まりきっていなかったんです。犯行を終えた犯人が逃走する際にドアを閉めようとしたところ、偶然手が引っかかったと考えています。そうでなければ、ドアを閉めない理由などありませんから」

「そ、そうですか」

 新開は顔を青ざめさせながら返事する。

「廊下から受付室に入るドアには、このテンキーシステムはないんですね?」

「ええ、お客の出入りも多いのでさすがに通常の鍵だけです。会社を閉める際に社長が鍵をかける事になっています。ただ、営業時間中は普通に開いていますが、営業時間終了後は防犯の意味もこめて内側から鍵をかけるようにしています。来客があった場合は受付室にいる人間がドアを開ける仕組みです」

「逆に言えば営業時間外でも受付室までは部外者が入る事ができる?」

「営業終了後にも色々と出入りする人はいますから。もっとも、その際は入り口のインターホンで連絡して、社員に鍵を開けてもらう必要がありますし、先程も言ったように客が去るまでは事務室のドアは絶対に開けない事になっています」

 そのため、事務所の隅に小さなトイレまで備え付けられており、完全に閉じこもる体制ができあがっているのだという。

 斎藤は軽く頷いていたが、質問をさらに切り替えた。

「ところで、確認しますがこの会社の社員数は何人でしょうか?」

「私を含めて六名です」

「殺された三人とあなたを除くと、あと二人いるわけですね?」

「ええ。品倉君と下木君ですね」

 新開は頷きながら答えた。

「その二人が今どこにいるかわかりますか?」

「残業していなかったと言う事は、帰宅していたんじゃないでしょうか? 出張帰りですので、私としてはその辺りはわかりかねますが」

「先程から連絡をしているのですが、連絡がつかないんです」

 そこで新開は少し考え込むと、こう尋ねた。

「失礼ですが、どの電話番号に連絡を?」

「金庫内にあった社員名簿に書いてあった番号ですが」

「ああ、それは自宅の電話番号ですね。携帯電話の番号についてはよく使うので社長が別にまとめてどこかに保存しているはずです」

「どこですか?」

「そこまではちょっと。それに、全員がそれぞれの番号を登録していますから、あまり問題ありません」

 新開はそう言うと、自分の携帯を取り出した。

「連絡しましょうか?」

「お願いします」

 新開はその場で携帯をかけた。

『ハァイ、もしもし……』

 しばらくすると、電話口の向こうからだるそうな声が聞こえてきた。

「下木君かね? 新開だ」

『わかっていますよ。ちゃんと画面に名前出ていますし』

 電話の相手……下木恵理はどこか疲れたような声で答える。

「今どこにいる?」

『どこって、自分の家ですけど……』

「さっきから電話が鳴っていなかったのかね?」

 新開が斎藤の方を気にしながら聞く。

『ああ、あれ副社長だったんですか? いやぁ、会社なら携帯にかけてくるだろうし、体がだるかったものですから』

「だるかった?」

『副社長、社長から聞いていないんですか? 四日前から熱が三十九度を下回らなくって、ずっと寝込みっぱなしなんですよ。季節外れのインフルエンザだとは思うんですけど、はっきりしないんです。病院で薬もらったけど直らないし、もう散々です』

「今日、休んでいたのか?」

『そうです。だから、仕事の書類関係は社長に聞いてくださいよ』

 そこで、斎藤が携帯を代わった。

「失礼、こちらは警察ですが」

 その瞬間、電話の向こうで息を呑む声がした。

『は? え? 警察?』

「実は、事務所の方で事件が起こりまして、新開さんに連絡を取ってもらったんです。先程の電話も、警察からです」

『け、警察が何を? 事件って何?』

 斎藤はあえて淡々と告げた。

「事務所に強盗が押し入りまして、残業していた社員三人が殺害された上、金庫の中に会った現金が強奪されています。それで、その件についてお話を伺いたいのですが」

『ちょ、待ってよ。殺害って、どういう事!』

 相手は混乱しているようだ。

「被害者は社長の広沼さん、専務の舛岡さん、社員の七井さんの三人です」

『え? 何? 殺されたって……本当なんですか……』

 だるそうな声が、ますます小さくなっていく。

「本当です。もし、動けないと言うのでしたら、そちらに伺いますが……」

『え、はぁ、そうしていただければありがたいですが……嘘……殺害って……』

「すぐにお伺いします」

 斎藤はいったん電話を切ると、女性刑事を含めた数名を下木の家に派遣するよう指示した。

「相手は混乱している。落ち着かせてから話を聞くように」

「了解」

 初動捜査班の刑事が現場を飛び出していく。その間に、新開はもう一人の社員に電話をかけていた。

『もしもし?』

 相手が出る。

「私だ。新開だ」

『何ですか、こんな時間に? 何かトラブルでも起こりましたか?』

 電話の相手……品倉譲はこちらの事件について知らないようで、のんきにそんな事を聞いてくる。

「今どこだ?」

『どこって……家ですけど……』

「どうして電話に出なかった?」

『電話? いや、だって携帯には……』

「携帯じゃなくて自宅の電話だ」

『あ……あぁ。寝てたんで気がつきませんでした』

 どうも話が要領を得ない。

「すぐこちらに来られるか?」

『何かあったんですか? 残業の事なら、他の三人に聞いてくださいよ』

「君は残業しなかったのか?」

『体調が悪くって、定時で帰らせてもらいました。下木さんも風邪みたいだし、なんか流行っているみたいですよ』

「何時に?」

『何時って、どうしてそんな事聞くんですか?』

「いいから!」

 新開が苛立ったように言う。

『定時と同時だから、午後六時頃ですけど』

「それからずっと家にいたのか?」

『ええ、まぁ。本当にどうしたんですか?』

 そこで再び斎藤が電話を代わる。

「失礼。こちらは警察です」

『警察?』

 向こうの声色が変わった。

「実は、事務所で事件が起こりまして、少々お話を伺いたいのですが」

『事件って、どういう事ですか?』

「強盗が侵入して、残業していた社員三名が殺害されました」

 下木同様、率直に告げる。

『さ、殺害って……』

「お話を伺いたいので、すぐにこちらへお越しいただけますか?」

 有無を言わせぬ口調で斎藤は言った。

『は、はぁ。わかりました』

 品倉はおびえたような声で答えると、電話を切った。

「ところで、遺族の方の連絡先はわかりますか? 自宅にかけてみたんですが、こちらもつながらなくて」

 斎藤は新開に質問した。

「社長は一人暮らしです。去年奥さんを病気で亡くして、娘さん夫婦も仕事の都合で韓国のソウルに出ていらっしゃるとか。七井君については、何せ入社したばかりなので私には何とも」

「専務の舛岡さんは?」

「一人暮らしですが、別居中の奥さんがいらっしゃるはずです。子供はいないと聞いています」

「その別居中の奥さんの住所はわかりますか?」

「さぁ、さすがにそこまでは」

 新開は申し訳なさそうに言う。とはいえ、これは逆に新開が知っている方がおかしい。斎藤は少し考えた後、新庄に振り返った。

「被害者の七井の住所はわかっているな?」

「はい。社員名簿に載っていました」

「行ってくれないか。遺族がいるかどうかも確認したい」

「わかりました」

「それと……」

 斎藤は新開に気づかれぬように小声でこう続けた。

「品倉の自宅周辺の聞き込みも頼む」

「臭いますか?」

「新開が出張、下木が風邪で欠勤となると、今日この事務所にやってきて唯一生きている人間は午後六時に帰宅したと言っているこの男だけの可能性が高い。何か知っている可能性は大きい。それにさっきの電話、どうも返事が曖昧だった。自宅にいたというのは嘘かも知れない。自宅の住所は名簿に載っていたからわかるな?」

「はい」

「やつが本当に午後六時以降に自宅にいたのかどうか。その辺りの事を重点的に頼む」

 新庄は頷くと、部屋を飛び出していく。

「さてと、困った事になったな」

 今までの新開の説明だと、受付室ならともかく、事務室まで入る事ができるのは暗証番号を知っている社員六名だけという事になってしまう。うち三名が殺され、残る該当者は三名。しかも、全員に確定的なアリバイはない。

「典型的なフーダニットの問題か」

 斎藤は小さく呟いた。しかし、まったく外部犯の可能性を考慮しないというわけにもいかない。いくら人がいる時に開けないとはいっても、そこは人間の決めたルールだ。例外があったのかもしれない。また、社員の誰かが、暗証番号を流失してしまった可能性も否定できない。

「暗証番号が流出した可能性はありませんか?」

「いや、そんなまさか……」

 新開は絶句した。

「可能性の問題としてどうでしょうか?」

「……その辺りになってくると、もはや個人の良心の問題ですので」

 新開は青ざめた表情で答える。

「最終変更されたのが五日前という事でしたが、あなたも知っていたわけですか?」

「五日前の朝、社長から電話で教えてもらいました。メールではなく口頭です。電話を受けたのは滞在していた大阪のホテルで、番号は暗記しましたからどこにも記していません」

「誰かに話した事は?」

「ありません。というより、どんな状況で教える必要性が生じるんですか?」

 新開はやや怒ったように言った。

「失礼、一応の確認です」

 斎藤はそう言って頭を下げる。

「ところで、このビルに防犯カメラはありませんか?」

「ビルの入口に一台あるはずですが」

「見る事はできますか?」

「このビルの管理会社が設置したものなので、そちらの許可がないと」

「管理会社の名前は?」

 新開はある会社の名前を告げる。

「ありがとうございます。また聞きたい事ができたらお呼びするかもしれませんので、ひとまず別室で待機しておいてください」

「わかりました」

 新開は一礼すると、他の刑事の案内で部屋の外に出て行った。それを見送ると、斎藤はすぐにこの大谷ビルの管理会社に連絡を取った。


 それから三十分後。連絡を受けた管理会社の人間が、防犯カメラを管理する警備会社の技術者を連れてやってきた。

「こちらです」

 管理会社の職員が一階の奥にある小部屋の鍵を開ける。そこが防犯カメラを管理している部屋だった。

「防犯カメラの場所は?」

「ビルの入口と、各階のエレベーターホールに一台ずつで、計六台ですね」

 警備会社の技術者が答える。

「録画は?」

「当然してあります。分量は二十四時間で、二十四時間経つと上書きされるシステムになっています」

 事件発生から一時間少ししか経っていない現時刻なら問題はないという事だ。

「見る事はできますか?」

 技術者は黙って機械を操作し、正面のモニターに映像を出した。

「これが午後七時頃の入口の映像です」

 薄暗いビルの入口がしっかり映っている。画面の隅には日付と時刻も打刻されており、撮影時刻も秒単位でわかるようになっていた。

「この時間を意図的に変更する事は?」

「できません。そのような工作ができないように、最初に設定したら壊れるまで我々にもいじれないような仕組みになっています。そもそも、それを可能にするためにはこの機材に触れなければいけませんが、この部屋には管理会社が保管している鍵がないと入れません」

 技術者の話に、管理会社の職員は頷く。

「この鍵は社の方で保管してあるもので、部長以上の人間二人の立会いがなければ借り出す事ができません。私自身、先程副社長と管理部長立会いの下、この鍵を借りてきました」

 つまり、カメラそのものへの細工はほぼ不可能という事である。

「では、事件当日の午後五時から午後十一時までの映像を焼き直しできますか?」

「やってみましょう」

 技術者が作業に取り掛かる。

 住吉ライフ保険の営業終了時刻が午後六時。事件発生が午後十時なので、余裕を持って一時間ずつ足し、計六時間分を検証しようと言うわけだ。

「このビルに入っているテナントの状況は?」

 作業の間に、斎藤は管理会社の職員に尋ねた。

「三階と五階に現在入っているテナントはありません。四階に住吉ライフ保険の事務所。二階に法律事務所。一階にこのビルの管理事務室と個人経営の音楽教室があります。ただ、管理事務室の管理人は非常勤で、普段はほとんど無人になっていて、各部屋の鍵はテナントを借りている人がそれぞれ管理する事になっています」

「他の二つのテナントに関する今日の人の出入りは?」

「少々わかりかねますね」

 それを聞いて、斎藤は廊下に待機していた所轄の刑事に調査を命じる。結果はすぐにで出た。

「このビルに入っている他の二つのテナントについてですが、電話で確認したところ、法律事務所の方は大阪で行われている大きな民事裁判に出席している関係で、現在事務所の職員総出で出張中のため、三日ほど前から臨時休業になっているそうです。一階の音楽教室は午後四時には閉めるとの事で、今日も経営者が午後四時に部屋を閉めています」

「つまり、今日の午後五時以降にこのビルに出入りしているのは、すべて住吉ライフ保険の関係者という事になるか」

 と、技術者が顔を上げ、六枚のDVDを差し出した。

「ここにそれぞれのカメラの六時間分の映像を焼き直ししてあります。まずこれを提出しておきます」

「ありがとうございます。それでは、今この場でいくつか映像を確認してもよろしいでしょうか?」

「構いません」

「では、入口のカメラの映像をお願いします」

 技術者が操作し、午後五時以降の映像がモニターに流れる。

「早回しします」

 技術者が告げ、直後からテープが早回しされる。

 まず、午後六時頃、ビルの中から出てくる人影が見えた。

「止めてください」

 斎藤の指示で、カメラが停止する。背広姿の男なのだが、出て行く場面ゆえに後姿しか映っておらず、表情まで確認できない。とはいえ、これに該当する人物はおそらく一人しかいない。先程の電話で、午後六時頃に帰宅したと証言した品倉である。

 斎藤は手帳に正確な時間を控えると、続けるように指示を出した。再び映像が早回しされる。と、それから少しして、午後六時半頃に別の人影がビルから出て行った。

「これは……」

 斎藤は戸惑った。映っているのはスーツを着た女性。品倉同様、出て行く場面ゆえ表情は確認できない。しかし、斎藤はその格好に見覚えがあった。被害者の一人、七井佐和子である。

「七井は一度外に出ているのか」

 が、その後は特に出入りする人間もなく、ひたすらだんだんと薄暗くなっていく入口が映っているだけである。

 やがて、問題の時刻が近づく。銃声がしたという午後十時前後の時間帯だ。斎藤の表情に緊張が走った。

 と、午後九時半頃、カメラに誰かが映った。その表情はカメラにはっきりと映っている。午後六時半頃に一度ビルを出て行った七井佐和子である。格好も出て行った時のままで変化はない。彼女は薄暗いビルの入り口をキョロキョロしながら、そのままエレベーターに向かった。行き先はほぼ間違いなく四階の自社であろう。どうやら、一度帰宅した後、再び呼び出されたらしい。

「七井は一度退社した後、再出社したという事なのか」

 後で七井の電話を確認する必要があると、斎藤は考えた。それからしばらくは静かな光景が続く。

「ん?」

 不意にそれは映った。時刻は午後九時五十分頃である。

「止めて」

 斎藤が告げ、技術者が映像を止める。モニターの画面にはビルの中に入っていく不審な人物がはっきりと映っていた。

「こいつだ」

 斎藤は一人呟く。映像に映っていたのは、黒っぽいコートに身を包み、帽子とマスクで顔を隠した、見るからに怪しい人物であった。カメラの位置からは帽子で顔が隠れてしまっており、その表情を見て取る事はできない。男女の区別すら不可能である。

 カメラに映っていたのはわずか十秒ほどであるが、明らかにその人物はビルの中に侵入していた。

「エレベーターホールの映像を映してください。一階です」

 技術者は黙って別のモニターに一階エレベーターホールの映像を出した。該当時刻、先程映った謎の人物がエレベーターホールの前に立つのが映っている。その人物はエレベーターのボタンを押したが、よく見るとその手にも手袋がはめられている。

 やがて、エレベーターが到着し、その人物はエレベーターに乗り込んでしまった。ドアが閉まり、上部の階表示のランプがどんどん上がっていく。そして、そのランプは四階で停止した。

「四階の映像を」

 一階エレベーターホールの映像が消え、四階エレベーターホールの映像が映る。ドアが開き、中から先程の人物がゆっくりと四階に足を踏み入れる姿がはっきり映っていた。そのままカメラの視界から消えるが、消えたのは住吉ライフ保険の事務所のある方の廊下だった。

「どうやら間違いなさそうだ」

 時間的にも符合する。この不審人物が事件の関係者、もっとはっきり言えば最有力容疑者であるといってもいいであろう。

 その後、しばらく映像には何も映らなかったのだが、午後十時五分頃、再び先程の人物が少し急ぎ足で四階エレベーターホールに現れると、再びエレベーターに乗り込んで姿を消した。映像を一階エレベーターホールに切り替えると、四階から降りてきたエレベーターからその人物が飛び出す映像が映っており、入口のカメラにも駆け足で外に飛び出していくその人物がはっきりと記録されていた。手には大きめのアタッシュケースが握られており、その中に強奪したであろう現金が入っていると想像するのはたやすかった。

 そのわずか数分後、すなわち午後十時二十分頃、ビルの前にパトカーが停車するのが確認され、ビル内に入っていく警官の姿が記録されていた。おそらく遺体を発見した警官であろう。つまり、犯人の逃走から警官の到着まで数分の差でしかなかったわけだ。

「しかし、それなら検問にかからないと言うのはおかしな話になるが」

 斎藤は小さく呟きながら考え込んだ。検問は遺体発見のわずか数十分後に実施されている。犯人の逃走から検問実施まで大きく見積もっても三十分前後。そんな時間に逃げ切れる距離などたかが知れているはずである。

 考えられる可能性は、この近隣の建物に逃げ込んだか、何らかの手段で検問実施以前に遠くに逃走したかのいずれかである。

 その後の映像も確認したが、後は警察がやってきて本格的な捜査が開始される映像しか映っていない。つまり、当日の犯行時刻にビルに出入りしたのはこの不審人物だけという事になるのだ。ビルにいた時間はわずか二十~三十分。とんでもない早業の犯行である。

「だが、この映像からでは犯人を特定するのは困難だな」

 斎藤は唸った。明らかに、カメラがある事を意識して姿を隠すような格好をしている。逆に言えば、あらかじめカメラの存在を把握しておかなければこんな芸当は不可能に近い。

 と、所轄の刑事が顔を出した。

「警部、品倉という男が来ていますが」

「来たか」

 社員の一人の品倉譲であろう。斎藤は後の処理をその刑事に任せて、部屋の外に出た。


 品倉譲は警察関係者が行き来するビルの入口の辺りで、落ち着かないように辺りをキョロキョロ見回しながら立っていた。年齢は二十代後半だろうか。スーツに薄いコートを羽織った姿で、カメラに映っていた姿とほぼ酷似していた。

「品倉譲さんですか?」

 斎藤が呼びかけると、品倉はビクッと肩を震わせ、斎藤を見た。

「そ、そうですが」

「ご足労いただき、ありがとうございます。警視庁捜査一課の斎藤です」

 斎藤は警察手帳を示しながら挨拶する。

「本当なんですか? うちの社で殺人があったというのは?」

 品倉はそう尋ねた。

「はい、残念ですが」

「誰が殺されたんですか? 犯人は?」

「社長の広沼さん、専務の舛岡さん、それに社員の七井さん。以上三名です。犯人は未だ逃走中と見られています」

「そ、そんな……」

 その瞬間、品倉は愕然とした様子でよろけた。

「大丈夫ですか?」

「い、いや、すみません……少し、ショックで……」

 品倉はそう言いつくろったが、斎藤は目を細めた。その様子は、明らかにただ殺人が起こった事にショックを受けているというような生易しいものではなかった。

「先程の電話では、品倉さんは自宅にいたという事ですが、間違いないですか?」

「は、はい。間違いありません」

「それにしては、電話に出なかったようですが」

「言ったでしょう。寝ていたんですよ」

「風邪だとか」

「悪いですか?」

 品倉はふてくされたように言う。

「いえ、確認のためです」

「もしかして、俺を疑っているんですか?」

 品倉は青ざめたように言う。

「どうしてそう思うんですか?」

「だ、だって、そんな事を聞くから……」

「関係者全員に聞いている事ですよ」

 斎藤は努めて冷静に言い、品倉はふてくされたような表情を浮かべた。

「ところで、ご足労ですが、遺体の身元を確認していただけませんか?」

 その瞬間、品倉の表情は見るからに悪くなった。

「ど、どうして。もう副社長が確認しているんじゃないんですか?」

「よくおわかりですね?」

「い、いや。副社長から電話に警察が出たから、もう副社長が来ているんじゃないかと」

「ええ、確かに来ていますよ。ですが、一応事件の直前まで被害者の方々と会っていたのはあなたなので、確認していただければと」

 その瞬間、品倉は激しく首を振った。

「か、勘弁してください! 俺、血を見るのが苦手なんですよ」

 斎藤はそんな様子をジッと見ていたが、

「そうですか。では、無理強いするわけにもいきませんね」

 と、あっさり引っ込んだ。その瞬間、品倉はホッとしたように息を吐いた。

「話は変わりますが、あなたは事務所に入る際のテンキーの番号を知っていますか?」

「え? はぁ、そりゃ、社員の一人ですから当然……」

 そう言ってから、ハッとしたように斎藤を見る。

「い、言っておきますけど、だからって……」

「確認です。それと、その番号を社員外の他人に話した事は?」

「そんな事、するわけないじゃないですか」

 品倉はそう言って否定した。

「そうですか。それでは、事件についていくつかお聞きします」

「さっきからずっと質問ばかりですけど」

「午後六時頃、あなたはこのビルから退社した。間違いありませんね?」

 品倉の愚痴を無視して斎藤は続けた。

「ええ」

「その後真っ直ぐ自宅に帰った」

「さっきからそう言っているでしょう」

 品倉はイライラしたように言う。

「失礼。では質問を変えましょう。退社する直前、会社にいたのは?」

「社長と専務、それに七井さんと俺の四人です」

「退社する時、その三人は残っていた?」

「ええ」

「ここの退社時間は午後六時でしたよね」

「はい。ですが、今日は近日行われる現金支払いに関する残業があったんです。俺は風邪を引いていたんで先に帰りましたけど」

「なるほど、つまり、あなたは七井さんが帰った事を知らない?」

「ええ、そうなります」

 その瞬間、斎藤は眉を動かした。

「あなた、疑問に思わないんですか?」

「はい?」

「七井さんが帰ったと私が言ったのに、あなた疑問に思わなかったみたいじゃないですか。普通は『え、彼女も帰ったんですか?』くらいの事は聞きそうなものですが。残業があるという事は知っていたんですよね。つまり、あなたみたいに風邪でも引いていない限りはまず帰るはずはない。それなのに今の受け答えという事は、まるで七井さんが自分より後に退社したのを知っていたみたいじゃないですか」

 その瞬間、品倉の表情がよりいっそう真っ青になった。

「淡白に答えすぎましたね。語るに落ちるとはこの事です」

「ち、違う! 彼女も帰るって事を帰る直前に聞いただけだ!」

「どういう事ですか?」

「帰る前に、彼女が『私も気分が悪いから、少ししたら帰ります』と社長に言っているのを聞いた。ただ、それだけです」

「……なるほど。それなら問題ありませんね」

 斎藤は頷く。品倉はホッとしたような表情をする。その瞬間を斎藤は見逃さなかった。

「では、あなたはいったん退社した七井さんが、再び残業しに戻ってきた事も知っていたという事で間違いありませんか?」

「は?」

 一息ついたところにいきなり核心を突く質問をされ、品倉は表情を凍らせる。

「な、何を言って……」

「あなた、さっきの電話でこう言っていますよね。『残業の事なら、他の三人に聞いてくださいよ』と。つまり、あなたは七井さんが帰宅しているのを知っていながら、残業していたのが七井さんを含めた三人であると知っていた事になる」

 今度こそ、品倉は顔面蒼白になった。斎藤の表情が厳しくなる。

「どうして、あなたは一度退社した七井さんが再び戻ってきた事を知っているんですか! ちなみに、この事実は我々警察でさえ、防犯カメラを確認するまで気付いていなかった事です。何しろ、当事者が死んでしまっていますからね」

「そ、それは……」

 品倉はしどろもどろになってしまった。

「この事実を知る事ができるのは、実際に現場にいた人間だけ。つまり……」

「じょ、冗談じゃない!」

 品倉は叫んだ。

「俺は……俺はやっていない!」

「では、どうして七井さんの退社と再出社の事実を知っているんですか」

 品倉はわなわなと震えていたが、やがてガクリとうなだれ、小さな声で答えた。

「俺、佐和子のやつと一緒にいたんです」

「どういう事でしょう?」

「言葉通りです。退社した後、午後七時頃から佐和子のやつと一緒にその……ホテルにいたんです」

 嘘を暴かれ、品倉の声は今にも掻き消えそうだった。

「どこのホテルですか?」

「この近くのビジネスホテルです」

「ホテルの名前は?」

「『ホテルトーシマ』です」

「どうして七井さんと一緒に?」

「……言わなくてもわかるでしょう」

 品倉は泣きそうな声で言った。

「あなた……七井さんは入社三日目ですよ」

「だからなんだって言うんですか! それに、どちらかって言うと、彼女の方から言い寄ってきたって感じで……」

 品倉の言い訳めいた言葉に、斎藤は不快そうな表情をした。

「つまり、風邪も嘘だったと?」

「そ、そうです」

「呆れましたね」

 斎藤は心底呆れたような声でそう言いつつも、さらに突っ込んだ質問をした。

「それで、彼女とはいつまでホテルに?」

「それが、途中で寝ちゃって。午後八時過ぎ頃までの記憶はあるんですけど……。午後九時十五分頃に起きたら、その時には部屋にいませんでした。机にメモが残っていて、『社長から呼び出されたから、会社に残業しに行きます』って」

「そのメモは?」

「その、捨てちゃいました。いらないものはすぐ捨てるたちで」

 そう言いながら、品倉はかなりしおらしい表情をしている。確かにこの説明なら、品倉が七井の退社と再出社を知っていた事に説明がつく。

「今の話、間違いありませんか?」

「誓って間違いありません。本当です」

 品倉は真剣な表情で言う。だが、いずれにしろこの男に犯行時刻のアリバイがないのは事実である。

「いいでしょう。それでは、少し奥でお待ちいただけますか?」

「わ、わかりました」

 品倉はそう言うと、うなだれながら奥の方に消えていった。

「さて、どうしたものか」

 斎藤がそう呟いた時だった。不意に携帯が鳴った。相手は新庄である。

「私だ」

『新庄です。今、七井の自宅の調査を終えました。そちらは?』

「予想通り、品倉は嘘をついていた」

 斎藤は事の顛末を新庄に告げる。

『七井と品倉がホテルにいた、ですか』

「念のため、予定通り品倉宅周辺の聞き込みを頼む。そっちは何かあったか?」

 斎藤の問いに、新庄は報告を開始した。


 七井の自宅が入っているマンションに到着した新庄は、六階にあるという彼女の部屋の前に立っていた。隣には、同じ第三係所属の竹村竜たけむらりゅう警部補が控えている。

 こういった聞き込みの際、刑事は通常二人組で行動するものである。竹村は所轄の交通課から本庁捜査一課に異動してきた変り種で、同年代である事もあり、新庄とは相性が良い方であった。元交通課という事で運転技術については一目おかれている。

「さて、どうしたものかな」

 竹村はドアを見ながらそう言った。表札は出ていない。インターホンを鳴らしてみたが、応答はないようだ。

「家族はいない、という事か?」

「地方から上京して一人暮らし、というタイプじゃないか?」

 新庄と竹村は短く意見を交わす。

「となると、管理人から鍵を借りる必要があるが……」

 新庄がそう言った時だった。

「ちょっと、人の家の前で何をしているんですか!」

 突然、女性の呼び声がかかった。振り返ると、小さいバッグを持った長髪の若い女性がこちらを睨んでいる。

「人の家の前、とは?」

「そこ、私の部屋なんですけど」

 新庄の言葉に、女性は怒り顔で言う。

「ここは七井佐和子さんの部屋だと聞いたんですが」

「あなたたち、誰?」

 新庄と竹村は、黙って警察手帳を出した。

「警察?」

 女性は訝しげに二人を見た。

「ここ、七井佐和子さんの部屋で間違いありませんよね?」

「佐和子に何かあったの?」

 女性の顔色が変わった。

「あなたは?」

「わ、私はルームメイトの湯船鞠美ゆふねまりみです」

 女性……湯船鞠美が自己紹介した。

「ルームメイト、ですか?」

「私と佐和子、ルームシェアしているんです」

 まったく関係ない人間が二人で一つの部屋を借りて共同生活するルームシェア。つまり、七井佐和子とこの湯船鞠美はルームシェアをしていたという事らしい。

「実は、七井さんが事件に巻き込まれまして……」

「事件って……どういう事ですか?」

 鞠美は声を震わせた。つらい役回りだが、告げないわけにはいかない。

「単刀直入に申し上げますが、彼女は会社で何者かに襲撃され、亡くなられました」

 その新庄の言葉に、鞠美は一瞬呆然とした後、

「嘘……」

 と、小さく呟いた。

「ここではなんですから、入らせて頂いても?」

 竹村の言葉に、鞠美は呆然としたまま小さく頷くと、バッグから鍵を取り出してドアを開けた。

「どうぞ」

 二人は小さく礼をして中に入る。入ってすぐの場所にダイニングがあり、その中央のテーブルに二人は案内された。

「襲撃されたって……佐和子は殺されたって事ですか?」

「そういう事になります」

「いったいどうして?」

「彼女が住吉ライフ保険という会社に入った事はご存知ですか?」

「聞いていました。佐和子、嬉しそうにしていて……」

「その会社に何者かが侵入して、残業していた社長と専務共々殺害されています」

 無残な話に、鞠美は顔を背ける。

「ひどい……」

「失礼ですが、あなたは被害者とどういう関係ですか?」

「同じ大学の出身なんです。両方とも明政大学経済学部の出身で、在学中はサークルも一緒でした。私は同じ大学の大学院生。佐和子はこの不景気で卒業した後も就職がなかなか決まらなかったんですけど、最近になってやっと会社が決まって喜んでいたんですよ」

 鞠美は涙ぐみながら言った。

「七井さんのご家族は?」

「東北の方だと聞いています。彼女だけ大学に通うために上京してきたんです」

「ご家族の方の連絡先を教えて頂けますか?」

 鞠美は辛そうな表情ながらも、固定電話の横に置いてあった住所録を見ながらある住所を書いた。どうやら、そこに二人の緊急連絡先を書いてあるらしい。

「七井さんと最後に話されたのは?」

「今朝、出かける前です。私、ついさっきまで大学の図書館で勉強していて、今帰ってきたばかりだったんです」

「何か、変わった様子はありませんでしたか?」

「いえ、特には。いつも通りです」

 鞠美は首を振った。

「七井さんはどのような方でしたか? 性格とか」

「おとなしい子でした。私とは馬が合って、うまく付き合ってきたつもりです」

「何か人に恨まれるような事はありませんでしたか?」

「そんな……絶対にあり得ません」

 鞠美は涙声でそう言う。特に新しい情報はないようだったが、それでもやるべきことはやらねばならない。

「大変厚かましいお願いですが、彼女の部屋を見させて頂いても構いませんが? 一応、調べておく必要がありますので」

「……わかりました。どうぞ」

 鞠美の案内で、刑事たちは七井佐和子の部屋に入る。一般的な女性らしい部屋で、一通り調べてみたが特に注視すべき特徴はなさそうだった。

「後日、再びお伺いする事になるかもしれませんが、その際はよろしくお願いします」

「わかりました。どうか……佐和子のためにも一刻も早く犯人を捕まえてください。お願いします」

 鞠美は頭を下げてそんな事を頼む。

「全力を尽くします。それでは」

 新庄と竹村はそう言って七井宅を辞した。


「……そうか、ご苦労」

 新庄の報告に、斎藤は頷いた。

『では、予定通り品倉の聞き込みに』

「頼む」

 通話が切れる。

 と、下木の聞き込みに行っていた刑事たちが戻ってきた。

「どうだった」

「社員の下木恵理に話を聞いてきました。体調が悪いっていうのは本当ですね。その場で測ってもらったんですが熱が三十九度前後もあって、あれは芝居じゃなさそうです。とはいえ、無理をすれば犯行が不可能というわけでもなさそうですが」

「アリバイは?」

「そんな状態なので自宅マンションに篭りっぱなしで、証人らしい証人もいません。彼女も上京組の一人で、独身ゆえに一人暮らしです」

 そう言うと、刑事は事情聴取の時の事を話し始めた。


「社長たちが殺されたなんて……」

 病床にもかかわらず、下木恵理は具合が悪そうな表情でベッドから起き上がって刑事たちの話を聞いていた。同僚三人が殺され、犯人が逃走中と聞き、ただでさえ具合が悪そうな恵理の顔色はますます悪くなっていた。年齢は三十歳前後だろうか。病気のため少しやつれたように見える。

「これは関係者全員に聞いている事ですが、事件当時のアリバイをお聞きしてもよろしいですか?」

「……見た通り、ずっとここで寝ていたからアリバイなんかありません」

 不快そうな顔をしながら、恵理は吐き捨てるように答えた。刑事は質問を続ける。

「失礼ですが、入社してどれくらいになりますか?」

「もう七年くらいになるはずです。それが何か?」

「いえ、念のための確認です。ところで、事務室入口のテンキーの事はご存知ですか?」

「ええ、もちろん」

「確認ですが、テンキーの番号を社外の誰かに教えた事はありますか?」

「するわけないし、この前番号が変わった直後にこの風邪を引いたから、ここ数日はお医者さんくらいしか人に会っていません。だから、教えようにも教える人がいなかったと思います」

 至極真っ当な回答である。だが、刑事としてはここで引っ込むわけにはいかない。

「殺された広沼社長、舛岡専務、新人の七井佐和子について何か他に知っている事はありますか?」

「七井という新人については知らないけど、他の二人についてなら七年も付き合っている間柄ですから、まぁ、それなりには」

「具体的には?」

「元々あの会社は、十年くらい前に住吉貢太郎すみよしこうたろうという人が設立した会社で、広沼社長は当時の副社長、新開副社長や舛岡専務は設立当時からの古参社員だと聞いています。でも、私があそこに入った年に、住吉前社長が売上金の使い込みか何かで広沼社長、新開副社長、舛岡専務から糾弾されて、結局辞任に追い込まれたとか何とか」

「広沼社長、もしくはあの会社に恨みを持っている人間は?」

「恨みといわれても……もちろん、こんな商売だから恨みを持っている人間はいるとは思いますよ。けど、だからって殺人に発展するほど恨まれていた記憶はありません。そもそも、話を聞いている限りだと、これって強盗殺人なんですよね? 恨みとか関係ないんじゃないんですか?」

「さっきも言ったように一応の確認ですよ。話を戻しますが、先程出てきた住吉前社長はどうですか?」

「まぁ、辞めさせられた恨みはあるだろうけど、でも今年で六十五歳くらいのおじいちゃんです。刑事さんが言ったみたいな事件を起こす体力も気力もないはずですけど。それに、社長だって事務室に入れないでしょう」

「他に、品倉と言う社員がいますね」

「ああ、坊やね」

「坊や?」

「甘ちゃんって事です。仕事も何もかもが甘い坊や。それが社長や私なんかの一致した意見でした」

 それに、と恵理は続けた。

「あの子、どうも金庫から横領しているみたいだったし」

 その話に、刑事たちはざわめいた。

「本当ですか?」

「一週間くらい前、つまり新開副社長が大阪に出張に出かけたあたりだったかしら。最近、金の流れがおかしいって、専務の舛岡さんが私に帳簿を調べるように頼んできたんです。それで軽く調べてみたんですけど、確かに収支の帳尻が合っていませんでした。で、色々調べた末に、疑いの矛先が向いたのがあの坊やだったわけです」

「その話、確かですか?」

「はい。もっとも、調べている途中で風邪を引いて最終報告はまだできていなかったから、今の段階では決定的証拠のない疑惑の段階でしたけど」

「この事を知っていたのは?」

「私と専務だけじゃないかしら。社長や副社長は多分気づいていません。ちゃんと調べ上げて確かな事がわかってから、専務から社長に報告する手筈でしたから」

 そう言い終えると、恵理は小さくため息をついてベッドに横になった。

「すみません。疲れたんでこの辺にさせてもらえませんか?」

 それを合図に、質問は打ち切られる事になった。


「横領か」

 斎藤は渋い表情になった。

『本人に突っ込んでみますか?』

「いや、それに関しては捜査二課から捜査員を呼んでもらって、証拠を押さえてからだな。だが、横領となると品倉に動機が浮かぶ」

 そもそも、今日の残業は関西でまとめられた保険金支払いに伴うものだった。その際、改めて帳簿などの確認も行われるだろうから、横領がばれかねない状況だったと言ういになる。あくまで現段階では推測に過ぎないが、横領がばれる前にいっそ、と考えてもおかしくないのも事実だった。

「さて、これからどうするかな」

 斎藤は渋い顔で現場のビルを見上げた。



「……以上が大まかな事件の流れです」

 覆面パトカーの中で、斎藤の話は終わった。後部座席で、榊原は腕を組みながら黙ってそれを聞いていたが、すぐに質問を開始した。

「話を聞く限り、内部犯だった場合の第一容疑者は品倉譲か?」

「そうなります。あの後、問題のビジネスホテルに確認した結果、品倉が該当時刻にホテルにチェックインしていた事が確認されました。ホテルのフロントにある防犯カメラにもその姿が映っています。つまり、品倉がホテルにいたという事に関しては事実だと判定できます。品倉がホテルを出たのは、新開の電話で我々からの呼び出しを受けた直後。ですが、問題のホテルは非常階段が常に開いている状態で、フロントを横切らずとも出入りする事が可能です。事実、彼が一緒にいたと言っている七井佐和子もフロントやホテルのカメラの映像では確認されていません。品倉の証言が正しいなら、彼女は非常階段からホテルに入ったものと考えられます」

「新庄警部補がやったという品倉の自宅周辺の調査は?」

「聞き込んだ結果、該当時刻に彼の自宅の電気が消えていた事、隣人が預かっていた宅配便を届けにインターホンを押したにもかかわらず反応がなかった事が確認され、ホテルの件も含め、彼が自宅にいた可能性はなくなりました」

「では、品倉がやっていたという横領の疑いはどうなった?」

「捜査二課が残されていた帳簿などを押収して計算しました。結果、横領らしきものが行われていたのはほぼ確実だという事です。ただし、限りなく疑わしいものの、下木恵理の言ったように間違いなく品倉がやったという決定的証拠はなく、実行犯が誰なのかは現在も調査中との事ですが」

 それと、と斎藤は続けた。

「殺された七井の携帯に、事務室の電話からの着信が午後九時時頃にありました。話を総合する限り、殺された広沼社長から七井に対する再出社要請の電話かと思われます。品倉の証言しているメモの時間帯とも一致しているので、間違いないかと」

「肝心のメモは?」

「すでに処分された後らしく、残念ながら発見されていません」

 榊原は斎藤に対して的確に質問を加えていく。一方の瑞穂は、想像以上に多くの情報が錯綜していたためか、やや混乱状態にあった。

「現状、テンキーの存在から考えると容疑者は三人。六人の社員のうち生き残った新開、下木、品倉です。三人ともテンキーの番号を知っていて、なおかつ事件当時のアリバイがありません」

「その中で、最も怪しいのが品倉、というわけか」

「ですが、動機面が怪しいだけで、こちらも決定的証拠がないのも事実です」

 斎藤が悔しそうに言った。

「現状の捜査方針は?」

「品倉は当然として、他の二人にも尾行をつけて監視しています。現状では、証拠の発見が最優先事項ですね」

「ふむ……」

 榊原は何事か考え込む。そこへ、瑞穂がまだ少し混乱した様子で声をかけた。

「あの、探偵さん。思った以上に情報が多いんですね」

 少なくとも、その情報量は先日読んだミス研発刊の冊子に載っていた小説や評論の中で言及されている事件の情報量を軽く上回っているのは間違いなさそうだった。

「この程度の情報、処理できないようでは探偵などやっていられない」

 榊原は淡々と言い、さらにこう続けた。

「情報は多ければ多い方がいい。これだけ数多くの情報があっても、たった一つの情報ですべてがひっくり返る事さえある。だからこそ、情報はあるだけ集める。そしてそれを的確に処理し、組み立てる。新しい情報が出たら、今まで構築してきた情報にそれを組み入れ再構築する事も必要だ。一種の情報処理能力だが、どの情報が重要になるかまったく判断できない事件捜査においては、この能力は必要不可欠だ」

 榊原の言葉に、瑞穂は黙り込んでしまった。

「もうすぐです」

 と、不意に運転席から斎藤が告げた。そうこうしているうちに、覆面パトカーは速度を緩め、あるビルの前に停車した。

「ここか」

 榊原が窓から外を見上げると、まったく明かりのついていない薄暗い五階建てのビルが目の前にそびえ立っていた。

「現場の大谷ビルです」

 斎藤が言い、榊原は頷くと、ドアを開けて外に降りた。瑞穂も慌てて後に続く。

「事件後、犯人が逮捕されていないため警察が封鎖したままで、他のテナントも休業状態です」

「まぁ、当然か」

 そう言うと、榊原はビルの正面に立った。入り口には、テレビドラマなどでありがちな『KEEP OUT』と書かれたテープが張られている。

「入っても?」

「構いません」

 斎藤の許可が出たので、榊原はテープの下をくぐる形でビルの中に入った。

「ええっと、私も入ってもいいんですか?」

 瑞穂の問いに斎藤はしばらく考えたが、

「構いませんが、手袋をした上で、我々の指示に従ってください」

 そう言うと、白い手袋を瑞穂に渡した。見ると、榊原も白い手袋をしている。おそらく、右手にぶら下げているアタッシュケースから取り出したのだろう。右手に黒いアタッシュケースを下げ、左手をスーツのポケットに突っ込んで歩いているその姿は、会社帰りに何の気なしにふらりと立ち寄りましたと言わんばかりの雰囲気をかもし出していて、どこか不思議な感覚がする。そんな榊原を見ながら、瑞穂は手袋を受け取ってそれをつけると、斎藤と一緒にビルの中に入った。

 ビル内は薄暗く、奥にあるエレベーターホールの照明がついている程度だった。

「エレベーターは使えるのか?」

「電源は入っていますから乗れるはずです」

 斎藤の言葉に、榊原はエレベーターのボタンを押した。ドアが開き、中から明るい照明がホールに漏れ出す。三人はエレベーターに乗り込むと、四階を目指した。

「そう言えば、犯人は現場に行く時も、逃走の時もこのエレベーターを使ったんだったな」

「ええ。カメラにしっかりその姿が映っていました」

「聞きそびれていたんだが、再出社した七井の行動はどうだった? 玄関のカメラに映っていたという事は聞いたんだが」

「あの後、映像を検証した結果、七井は真っ直ぐ一階エレベーターホールからエレベーターに乗り込み、間違いなく四階で降りて、現場となった部屋に向かっています」

「七井がその時間に現場に向かったのは間違いないという事か」

 そうこうしているうちに、エレベーターは四階に到着した。とはいえ、照明が点いていないため、エレベーターの中から見ると四階の廊下は真っ暗である。

「電気を点けます」

 斎藤はそう言うとエレベーターから降り、手近にあった電灯のスイッチを入れた。と、廊下の蛍光灯が点滅しながら点く。

「事件当時、この蛍光灯は?」

「エレベーターホールを除き消灯されていました。節電対策で、業務時間外は切っていたみたいですね」

 こちらです、と、斎藤はエレベーターホールを右に曲がって廊下を進み始めた。その一角、瑞穂たちから見て右手の方向に、『住吉ライフ保険』の文字が曇りガラスに書かれたドアが見えた。

「そこが現場です」

 三人はそのドアの前で立ち止まった。

「入りますか?」

「……いや、その前に」

 と、榊原はどこかあさっての方向を見ながら答えた。瑞穂が視線を追うと、ここからさらに廊下を進んだ先の突き当たりにあるドアにその視線は向けられている。

「あのドアがどうかしたんですか?」

 瑞穂が尋ねるが、榊原は無言でそのドアの方に歩いていく。

「何のドアですか、これ?」

「まぁ、大方の予想はつくが」

 榊原はそう言いながら、ドアノブを調べている。

「プッシュ式の簡単な鍵か」

 そう言うと、榊原はドアノブから出ている出っ張りを押し、そのままドアノブをひねった。ガチャリという音とともにドアが開き、外気が廊下に流れ込む。同時に外の喧騒が響いてくる。

「やはり、非常階段か」

 榊原はそう呟きながら外に出た。ビルの側面に張り付くような形で、金属製の階段が設置されている。

「こういう非常階段には、普通は緑色の標識がついているはずじゃないのか?」

 榊原が中の斎藤に呼びかける。

「何でも、電気系統が故障したとかで一時的に取り外しての修理中だったみたいですね」

「事件当時、このドアの鍵は?」

「閉まっていました」

「そうか」

 そう言いながらも、榊原は何か考え込んでいる。

「少し、ドアを閉めるぞ」

 不意にそう言うと、榊原は外に出てドアを閉めた。何をするのかと思って残された二人が見ていると、不意に小さな金属音が響き、しばらくしてカチッという音とともに、何もしていないにもかかわらず、ちゃちなプッシュ式の鍵が押し込まれて鍵が閉まった。

「あれ?」

 瑞穂は思わず声を上げたが、斎藤はなるほどと言わんばかりの表情でそれを見ている。と、不意に外からドアノブがひねられ、鍵がかかっているのを確認したと同時に再び小さな金属音が響き、今度は鍵が開いた。ドアが開き、榊原が相変わらず片手にケースを提げた姿で中に入ってくる。

「鍵はかかったか?」

「ええ」

 榊原の問いに、斎藤は小さく頷く。

「あの、今のは一体?」

 榊原は黙ってケースを持つ手とは反対の手で何かを取り出した。

「針金、ですか?」

 それは一見すると、長さが数センチ少々の針金だった。

「クリップを伸ばして針金状にしたものだ。とはいえ、この程度でも外側の針金に突っ込んでいじっていたら、簡単に鍵の開閉ができた。どうやら、この非常階段の鍵はあまり当てにならないものらしい」

 榊原はそう結論付け、針金をポケットにしまった。

「でも、これが何か役に立つんですか?」

「わからんね。ただ、さっきも言ったように情報はあるだけ望ましい。無駄かどうかは後で判別する。とにかく、今は一つでも多くの情報がほしい」

 そう言った後、榊原はさらにこう付け足した。

「それに、玄関以外に出入り可能となると、いろいろ不審な点も出てくる」

「どういう事ですか?」

「追々話すよ。さて、現場に入るかな」

 瑞穂の問いをそうはぐらかすと、榊原は問題の部屋のドアの前に立った。

「一つよろしいでしょうか?」

 と、斎藤が突然瑞穂に向けてこう言った。

「深町さん、でしたね。このドアの向こうは正真正銘の殺人現場です。血痕の処理も終わっていませんので、かなりショッキングな光景があると予想されます。それでも、このままついて来ますか?」

 瑞穂は一瞬迷った。が、ここまで来て後には引けない。

「大丈夫です」

 瑞穂は強がりつつも、しっかり頷きながらそう言った。榊原はそんな瑞穂を黙って見ている。

「……そうですか。では、覚悟してください」

 そう言うと、斎藤はドアを開け、手近にある明かりのスイッチを点けた。

 とたんに、何とも言えない生臭い臭いが漂ってきた。鉄の臭いと言うか、あの独特な血の臭いである。

「これは、予想以上にひどいな」

 中を見ながら榊原が発言した。瑞穂も臭いに耐えながら中を覗く。

 部屋の中は血まみれだった。先程の話ではこの部屋は受付室のはずで、殺されていたのは舛岡専務だったはずだ。話では舛岡専務は脳天を打ち抜かれて死んでいたという。その言葉を裏付けるかのごとく、部屋の中には飛び散った血痕が所狭しと付着していた。そして、床にはすでに乾いた血溜りと、それに沿って張られた人型のテープが残されていた。

 斎藤に対して強がってはいたものの、さすがにこの光景を見て瑞穂は少し意識が遠のきかけた。が、とっさに首を振って正気を保ち、その場に踏ん張る。とはいえ、生涯で初めて見る殺人現場は、想像以上にショッキングなものであった。

「大丈夫かね?」

 榊原が少し心配そうに瑞穂に尋ねる。正直、瑞穂としても精神的にはかなりきていたのであるが、大丈夫と言った手前、弱音を吐くわけにもいかない。

「へ、平気です」

 と、瑞穂はかなり無理をした声で顔を引きつらせながら答えた。榊原はなおも少し険しい表情をしていたが、やがて「そうか」と短く答えると、それ以上突っ込む事なく部屋の様子を観察していた。

「あれが、問題のテンキーです」

 斎藤が事務室に続く扉の横にある機械を指差す。

「あの番号を知っているのは社員の六人だけだったな」

「はい」

「ちなみに、番号の変更は誰が?」

「殺された広沼社長だけがその方法を知っていたようですね。一週間ごとに広沼社長が変更していたようです」

「テンキーの指紋は?」

「拭き取られていました。誰の指紋も残っていません。おそらく、犯人が拭き取ったものかと」

「そうか……」

 その答えを聞いて、榊原は少し考え込みつつも、さらに質問を重ねた。

「拭き取ったという事は、犯人は事件当時テンキーを使っているわけか」

「我々もそう考えています。でなければ拭く必要がありませんからね」

「やはり、そうなってしまうか」

 榊原は何を考えているのか、少し真剣な表情でジッとテンキーを見ていた。

「隣も見ますか?」

「頼む」

 斎藤は躊躇する事なく部屋に入ると、手袋をした手でテンキーを押した。

「変更はされていないのか?」

「変更する広沼社長が死んでいますからね。変更しようがないんですよ。番号は新開副社長から教えてもらいました」

 認証を確認する音が鳴り、ドアが開く。斎藤が先に入り、部屋の明かりを点けた。榊原も特に気にする様子もなくあっさりと受付室を通って、そのまま事務室に入る。

「え、ちょっと」

 さすがに瑞穂は躊躇したが、こうなっては先に進むしかない。

「ああ、もう! わかっていますよ、覚悟決めればいいんでしょ!」

 と、やや八つ当たり気味に言って部屋に足を踏み入れ、できるだけ血痕を踏まないようにしながら事務室に入った。

 部屋の中はいくつもの事務机が置かれ、その上に書類が散乱し、パッと見た感じは少し散らかった事務所といった風景だった。だが、正面の社長席と思しきあたりに飛び散っている血痕と、隅の方の金庫の前に形成されている血溜りが、ここが殺人現場である事を嫌でも思い知らせる。

「広沼社長はあの正面の社長席に座った状態で殺されたんだったな」

 これだけの光景を目の当たりにしながら、榊原は眉一つ動かす事なく淡々と質問を続ける。

「ええ」

「という事は、犯人はドアを開けて広沼社長が何かアクションを起こす前に引き金を引いた」

「その可能性が高いですね」

 二人の会話を聞いて、瑞穂はその光景を想像する。部屋に入ってきた闖入者を見て驚くが、間髪入れずに引き金が引かれ、立つ事すらできずにそのまま脳天に銃弾を受けてのけぞる広沼。現場を見ているだけに、その想像はやけに臨場感のあるもので、想像した自分自身に鳥肌が立ってしまうほどだった。もっとも、顔を知らない広沼社長と犯人の表情は靄がかかっているのだが。

「七井佐和子はここでうつぶせに倒れていた、と」

 瑞穂が我に返ってみると、いつの間にか二人は金庫のそばにまで移動し、乾いた血溜りを見下ろしていた。

「確か、七井だけは二発打ち込まれていたな」

「脳天に一発、背後から背中に一発です」

「どっちが先だ?」

「わかりませんが、致命傷は明らかに頭部への銃撃です。背中の銃弾は右胸を貫いていましたが、少なくともこの銃弾単体で即死する事はないというのが検視官の意見です」

「それにしても、三人全員が脳天を打たれて即死か」

「かなりの腕前だと思われています。少なくとも、一度も銃器を扱った事がない人間の犯行ではありません。何より、広沼社長が立つ暇もなく撃たれたとなれば、射撃地点は事務室の入口近辺です」

 瑞穂は、今自分が立っている地点から社長席の方を見た。目測だがざっと五メートル弱。あそこに座っている男の頭を撃つのは至難の業だという事は、素人の瑞穂にも何となく想像できた。

「ちなみに、容疑者たちの射撃の腕前は?」

「それが、七井を除く五人の社員は何回かグアムに社員旅行していて、その際に射撃を経験しているとか。七井にしても大学時代に一時期ではありますがライフル射撃部に所属していたとかで、結局のところ、殺された人間も含めて社員全員に射撃経験があったという事になります」

「何ともできすぎた話だ」

 榊原はやや苦笑しながら言った。

「被害総額は五千万円か。これだけの事をしている割には少なくも感じるが」

「小さい会社ですから、これでも大金です」

「確か、ここに金が入れられるのは取引前の数日間だけだったな」

「はい」

「その情報を入手できるのは、社員だけか?」

「正確には、社員と取引相手、または保険金の支払い相手です。もっとも、今回の取引相手だった大阪の保険金支払い相手にはアリバイが成立していますので、今回は考慮する必要はないかと」

「となると、行き着く先は社員に戻ってしまうわけか」

 榊原は唸った。

「気になりますか?」

「気になるというより、社員が犯人だとするとどうしてここまでの事件を起こす必要があったのかが引っかかる。金がほしいならそれこそ品倉のように横領すればいいだけの話だ。自社に強盗殺人というのはどうもな」

「金銭以上の恨みがあったとすればどうでしょうか」

「というと?」

「品倉については金銭もさる事ながら、横領発覚の阻止という別の動機もあります。それに、新開副社長なんですが、七年前に先代の住吉前社長が辞めさせられた事件の際、最初住吉前社長を擁護する立場にありながら、突然手のひらを返したような裏切り行為を行い、まんまと今の広沼社長に取り入って辞職を免れたと言う経緯があります」

「ほう」

「しかし、そんな経緯ですから、副社長の地位にいたとは言え、広沼社長からほとんど信用されていなかったとか。ただ、彼の手腕は得がたいものだったので、広沼としても馘首できなかったようですね。彼がいなくなると、それこそ経営が成り立たなくなるとかで。広沼は社長としての器はあっても、現実的な営業方面については新開の手を借りないとどうにもならない状態だったとか」

「舛岡専務がいるんじゃないのか?」

「舛岡専務は有能ですが、それゆえに常日頃から社長の座を狙っていたとか。自分の座を脅かしかねない舛岡専務よりは、気に入らないとは言えとりあえず野心らしきないものがない新開のほうが安心という事だったのでしょう。下木恵理や品倉譲はとても新開の後釜になるような器ではない。そんな状態がずっと続いていた」

 ところが、と斎藤は続けた。

「最近になって、七井が入社してきました。調べてみたんですが、彼女は早応大学経済学部の秀才で、営業能力も高く、広沼も将来は自身の秘書職として新開の代わりをさせようとしていたらしいと、事件の前日に広沼と一緒に飲んだという旧友の一人が証言しています」

「新開にしてみれば、自分の地位が危うくなっていたわけか」

「七井入社時、彼はすでに大阪ですが、電話でこの話は聞いていたと思われます。何より、事件発生が彼の帰宅した当日というのが気になると言えば気になりますね」

「下木恵理は?」

「彼女は七年前の住吉前社長辞職騒動の年に入社した人物で、若いですが、社内ではお局様のようなポジションにいたようですね。彼女、舛岡専務からの頼みで横領を調べていたと言っていましたよね」

「ああ。実のところ、違和感はあったが」

「でしょうね」

 斎藤も同意する。が、瑞穂はさっぱりわからない。

「あのー、違和感って何ですか?」

「いくら何でも、横領と言う格好のネタを手に入れた舛岡が、調べるためとは言えすんなりその事実を他人に話すなどという事があるだろうか。今聞いた話だと、舛岡は野心家だったようだし」

 榊原はそう答えた。

「我々もそれは思ったんです。そこで軽く調べた結果、どうも舛岡と下木は組んでいたのではないかと」

「組んでいた?」

「一言で言えば、愛人関係ではないかと」

 斎藤はあっさり言ったが、瑞穂にとっては少しショックだった。

「もしかして、舛岡が妻と別居したのは……」

「舛岡が誰かを愛人にしているようだと問題になったから。あの後、何とか別居中の奥さんと連絡が取れて、その際に話を聞けましてね。そこで判明した事実です。ただ、当の奥さんもその愛人が誰かはわかっていなかったようですけど」

「舛岡と下木は組んでいた、か」

「ただ、この二人は金でつながっている関係だったようで、いつ破綻してもおかしくなかったようですね」

「横領の話を聞いた下木が一方的に舛岡を裏切って、舛岡を殺した上で金を独り占めにし、その罪を横領の疑いがある品倉に着せようとした」

「ありえない話とは言えません」

 二人の話を聞いていた瑞穂は、よくもこれだけきな臭い話を思いつけるものだと少々嫌な気分になっていた。

「三者三様に動機あり、アリバイなし、か」

「しかし、事件時の不審な行動などから判断して、我々は品倉をとりあえずの第一容疑者と考えている段階です」

 榊原はケースを持っていない方の手を口に当てて何事か考え込んでしまった。

「どうでしょうか、他に何か情報が必要ですか?」

 斎藤が尋ねる。

「どうだろうな。ある程度は集まったとも思えるが……」

 榊原は曖昧に答える。と、その時だった。突然斎藤の携帯が鳴った。斎藤は素早く電話に出る。

「斎藤だ。ああ、新庄か」

 相手は話に出てきた部下の新庄警部補のようである。

「どうした、何があった……何だと?」

 途中から斎藤の表情が険しくなる。

「本当か。状況は? ……わかった、私もすぐに向かう。今、現場のビルだ。ああ、実は榊原さんに来てもらっていてな。引き続き、そちらの指揮を頼むぞ。では、後で」

 斎藤は携帯を切り、深刻そうな表情で榊原を見た。

「榊原さん、ちょっと厄介な事になりました」

「と言うと?」

「監視していた品倉が行方をくらましたそうです」

 エッ、と瑞穂は思わず声を上げた。

「明らかに捜査員の裏をかくような失踪でした。自宅マンションの管理人室裏にある裏口から脱出したようです」

 瑞穂は思わず榊原の方を見たが、榊原は一際険しい表情を浮かべていた。

「この段階で品倉がなぜ失踪する?」

「わかりませんが、とにかく急いで品倉を探さなければなりません。嫌な予感がします」

「……確かにな」

「出ましょう。我々も新庄と合流します」

 三人は部屋を出ると、エレベーターホールに向かった。その途中、瑞穂は榊原がこう呟くのを聞いた。

「この展開、最悪の場合は……」

 そう呟く榊原の表情が、今まで以上に厳しいものである事に、瑞穂は気がついていた。


 ビルを飛び出た三人は、覆面パトカーに飛び乗ると、品倉の自宅方面に向かった。

「品倉が消えたのは二十分程度前です。歩く距離には限界がある。タクシーなどを拾われていなければ何とかなるんですが」

「さすがに、その辺は楽観的な希望だろうな。逃げた以上、どんな手段を使っても一刻も早く遠くに行きたがるのが逃亡者の心情だ」

 榊原は冷静に告げる。いきなりの急展開に瑞穂は実のところ思考が完全に追いつけていないのだが、それでも何か事件が大きく動こうとしているという事はよくわかった。

 と、不意に無線が入った。

「こちら、斎藤」

『新庄です。品倉の自宅周辺の聞き込みで、品倉らしき男がタクシーに乗ったという目撃情報が出ました』

「車種は?」

『目撃者の話では黒のタクシー。ナンバー、社名ともに不明。都心方向に走っていったとの事ですが、詳しい行き先は不明』

「下木と新開の動向は?」

『現時点で動きはありません。ただし、自宅内にいるかどうかの保障もありません』

「確認しろ。理由は何でも良い」

『了解』

 無線が切れる。

「タクシーとは、最悪の展開か」

 榊原の表情が渋くなった。

「問題はどこに向かったかですね。黒のタクシーなんて都内に何百台と走っています」

 斎藤もハンドルを握りながら答え、続けざまにこう問いかけた。

「榊原さん、やつが犯人だったとした場合、向かう先は予想つきますか?」

 榊原は少し考えたが、やがて慎重な口調でこう答えた。

「普通に考えたら金の保管先だな。盗まれた金は関係者の自宅からは見つかっていないのだろう?」

「はい」

「となると、誰が犯人であれ金は他の場所に隠してあるわけだ」

「でも、それがどこかは……」

「あぁ、これまでの情報だけではわかりかねる。ただし、それは品倉が犯人だった場合の話だ」

 その言葉に、瑞穂は決定的に違和感を覚えた。さっきからどうとも言えない違和感はあったのだが、今の一言でそれがはっきりした形だ。瑞穂は思わず榊原に問いかけていた。

「あの、探偵さん。一つ聞いていいですか?」

「何だね?」

「さっきから聞いていると、探偵さんはその品倉って人が犯人だとは思っていないようですけど、その辺りどうなんですか?」

 瑞穂の問いに榊原はしばし黙っていたが、

「どうしてそう思う?」

「現場にいた時から違和感はあったんです。斎藤さんが品倉を怪しいと言ってる割にしつこく他の情報を聞きたがっていましたし。でも、今のではっきりしました。今の言い方のニュアンスじゃ、そう聞こえます」

「……そう聞こえた、か」

 榊原はそう呟いた。

「でも、どうしてですか? 私も探偵さんと同じ話を聞いていましたけど、どう考えても一番怪しいのは品倉じゃないですか」

「……確かに、一見すると品倉が怪しい。それは間違いのない事実だ」

「じゃあ……」

 どうして、と聞こうとした瑞穂の言葉をさえぎって、榊原はこう言った。

「せっかくだ。今日の教訓として、一つ覚えておきたまえ」

「はい?」

「犯罪者は、そこまで間抜けじゃない」

 呆気にとられている瑞穂に対し、榊原は言葉を続ける。

「特に、今回のように最初から計画をしているような計画犯罪の場合は、間抜けな犯罪はまずありえない」

 いきなり言われて瑞穂は当惑したが、それに構わず、榊原はこう続けた。

「いいかね。犯罪というのは、捜査する方は当然として、実際に犯罪を起こす方も必死だ。文字通り、犯罪の失敗は自身の破滅を意味するからだ。だからこそ、こういった計画犯罪をするような犯罪者は真剣だ。少なくとも、そう簡単に捕まらないように自分の総力をもって知恵を振り絞る。これを捜査する人間は、犯人が自分の人生を賭けの対象にして命懸けで考えた犯罪計画と真っ向から立ち向かう必要に迫られる。相手は自分の人生を賭けているんだ。捜査する側も生半可な覚悟で挑むべきではない」

「それってどういう……」

「要するに、だ」

 榊原はこう締めくくった。

「計画犯罪を立てたような人間が、こんなに簡単に怪しまれるよう間抜けな所業をするとは、私には到底思えない。まぁ、それだけの話だがね」

 そう言って、榊原はジッと正面を見つめた。瑞穂もそれ以上何も言えなくなった。と、再度無線に連絡が入った。

『至急、至急。警視庁から各局、警視庁から各局。品川埠頭の倉庫街で銃声があったという通報あり。付近捜査車両は至急現場に急行せよ』

 警視庁の一一〇番指令センターからの要請のようだった。

「品川埠頭で銃声か」

 斎藤が厳しい表情で呟く。と、別の無線が飛び込んできた。

『新庄です。新開隆正、下木恵理の在宅を確認』

「二人ともいたか」

『ええ。ですが、すでに品倉失踪から三十分は経過していますので、確認が遅すぎたかもしれません』

「引き続き捜査を続けてくれ。それと、品川埠頭で銃声があったという通報があった。念のためだ、我々はそちらに向かう。そっちからも品倉の顔を照合しておいてくれ」

『了解』

 通信を終えると、斎藤は品川埠頭方面にハンドルを切った。

「気になるか」

「この時期に銃声と言うのがいささか。それに、現金を隠すとなると、埠頭の倉庫街は絶好の場所です。やつの自宅からタクシーで向かった際の時間も一致しますし、嫌な予感がするんです」

 斎藤はそう言ってサイレンを鳴らすとアクセルを踏む。それからしばらくして、再び通信が入った。

『至急、至急。警視庁から各局。品川埠頭において男性の遺体を発見との報告あり。緊急手配中の品倉譲と同一人物の疑いが強い。捜一(捜査一課)捜査員は至急現場に急行せよ』

「予感が的中したようですね」

 斎藤が苦りきった表情で言った。榊原は、その知らせを黙って聞いていた。


 斎藤のパトカーが到着した時、品川埠頭の一角は警察の照明で明るく照らされていた。すでに何台ものパトカーが停車し、捜査員たちがウロウロしている。瑞穂にとって、それはドラマでもなんでもない、生まれて初めて見る正真正銘の殺人捜査現場である。その現場特有の張り詰めた緊張感は、瑞穂を緊張させるのに充分過ぎるほどの効果を持っていた。

 斎藤はその近くに覆面パトカーを停めると、後ろを振り返った。

「申し訳ありませんが、ここでお待ち願えますか? さすがにこの段階で一般人を現場に入れるのは難しいので」

「構わんよ」

 榊原が答え、斎藤は外に飛び出していった。

「品倉が死んだんですね」

 瑞穂は少し声を震わせながら言った。

「そのようだ。通報内容から考えると、おそらくは拳銃で死んだんだろう。自殺か殺人かはわからないが」

 その後しばらく、榊原と瑞穂は無言のまま過ごした。榊原は榊原で何かを真剣に考えているようでもあり、瑞穂は瑞穂でそんな榊原に声をかけにくく思っており、なおかつ、今日一日で体験した非日常的な出来事に、未だに現実味のない感覚を抱いていた。パトカーの外から事件を捜査する捜査員たちのざわめきが伝わってくる。

 しばらくそのような状態が続いたが、やがて瑞穂がポツリと尋ねた。

「聞いてもいいですか?」

「何だね」

 榊原は何かを考えながらも瑞穂の言葉に返事をした。

「さっきの続きですけど、探偵さんは品倉が犯人じゃないと思っているんですよね」

「確信とまでは言わないが、品倉が犯人と言う構図に不信感を覚えているのは事実だ」

 榊原は慎重に言った。はっきりするまで慎重に考えて断言しないところが、この探偵の性格を現しているようだと瑞穂は思った。

「もし、品倉が犯人じゃないとしたら、他にいるわけですよね、真犯人」

「そうなる」

「テンキーの話から、品倉を除いて残る容疑者は二人。当然、普通に考えたら残り二人に犯人がいる事になります」

「なかなか論理的な話だ」

「でも、今までの情報の中に、犯人を特定できるだけの情報がありましたか? 両方ともアリバイはなく動機はある。でも、それだけです。決定的な証拠らしいものは存在しない」

 瑞穂の発言を、榊原は黙って聞いている。

「答えは二択。でも究極の二択問題です。探偵さん、品倉が犯人でないとすれば、一体どっちが犯人なんですか?」

 榊原はしばらく沈黙していたが、やがてこう言った。

「なるほど、君はなかなか柔軟な考え方ができる人間のようだ。確かに、君の言う通りでね。テンキーや金の情報を知っていたかどうかの有無から判別すると、犯人は間違いなく内部の人間だ。したがって、品倉が犯人でないとすれば、残る二人のいずれかが犯人なのは自明。だが、それを証明する決定的な証拠は、現状ではないと判断せざるを得ない。それ以前の話として、品倉にしても怪しいというだけで何か決定的な証拠があるというわけでもない。全員が平等に怪しく、平等に証拠がない。それがこの事件の特徴だ」

 榊原は試すように瑞穂を見た。

「一つ聞いてもいいかね?」

「何ですか?」

「君のいう容疑者は社員三名、すなわち、品倉、新開、下木だ。では、それぞれが犯人だった場合、この事件はどのような説明がつくと思う?」

 急に難しい問いを投げかけられて、瑞穂は少し戸惑ったように考えたが、やがてポツリポツリと話し始めた。

「そうですね……もし品倉が犯人だとしたら、動機は何度も言われているみたいに横領隠しだと思います。当日、品倉は七井と一緒にビジネスホテルに泊まっていますけど、実はこれ自体がアリバイ作りの工作だったんじゃないでしょうか。当初の予定では、彼女を眠らせるか何かしてこっそり抜け出し、アリバイを作って強盗に及ぶつもりだった。でも、七井は途中で部屋を出てしまった。メモが残っていたと本人は言っているけど、実際は本人から直接聞いたと思います。いずれにしても、この時点でアリバイ工作は無駄になり、彼女も殺さざるを得なくなった。そして、彼女が再出社したのを見計らってビルに突入し、三人を射殺して金を奪い逃走。ホテルに戻ったんじゃないでしょうか。でも、警察の動きが予想以上に早く、追い詰められて自殺に走った」

「なるほど、真っ当な推理だ」

 榊原はそうコメントして先を促す。瑞穂は緊張しながらも言葉を続けた。

「新開か下木が犯人の場合、品倉の行動は単なる偶然という事になると思います。この場合はシンプルで、残業しているのを知っていたいずれかがビルを襲って三人を殺害してから逃走という話になります。トリックも何もありません」

「この場合、今回の品倉の逃走劇と死はどうなる?」

 瑞穂は頭を振り絞って懸命に答える。

「えっと……二つ考えられると思います。一つは動機はわからないけど品倉が勝手に自殺したというケース。もう一つは、二人のいずれかが品倉に罪を着せて殺害したというケースです」

「なるほどね」

「探偵さんはどう考えているんですか?」

「まぁ、少なくとも勝手に自殺というのはどうかと思う。私の考えが正しいなら、今回の品倉は、凶器の拳銃で死んでいるはずだ」

 と、斎藤が戻ってきて運転席に乗り込んだ。

「見てきましたが、微妙なところですね」

「と言うと?」

「品倉はこめかみを銃で打ち抜いて死んでいました。右手に拳銃。この拳銃ですが、詳しい検査は必要とはいえ、鑑識の話では例の強盗殺人で使われた凶器と同一のものではないかと」

 瑞穂は驚いた表情で榊原を見た。が、榊原はやはりかと言わんばかりの表情で質問を続ける。

「つまり、自殺であれ他殺であれ、品倉が問題の事件に何らかの関与をしていたのは間違いないという事か?」

「少なくとも何の関係もなく勝手に自殺したというのはないでしょうね。彼自身が犯人で追い詰められて自殺したか、それとも誰か他の人間に罪を着せられて殺されたか」

「判定できないか?」

「死体に拳銃を握らせる事は可能ですからね。自殺とも他殺とも言えない状況です」

「もし自殺なら、犯人死亡で事件解決か」

「殺人なら、犯人に更なる殺人を起こさせてしまった事になります」

 どちらを採るかで事件の構造がガラリと変わる。

「一つ聞きたいが、強奪された金は見つかったか?」

「それが、どこからも見つかりません」

「そうか、見つからないか」

 榊原は何か納得したように頷いた。

「いずれにせよ、品倉が死んだ以上、これから残り二人の社員からの事情聴取を行います。この際ですから同席されますか?」

「いいのか?」

「こちらとしては、藁にでもすがりたい気持ちです。榊原さんがいてくだされば、これ以上心強い事もないのですが」

 榊原は少し考えたが、逆にこう問い返した。

「この場で確認したいが、品倉殺害当時、すなわち銃声があったとされる時刻の両名のアリバイは?」

「通報があったのは午後七時半頃。通報者はこの埠頭にある倉庫の管理会社の人間です。一方、我々が両名の所在を確認したのは午後七時時四十五分頃となります」

 瑞穂は改めて自身の腕時計を見た。現在時刻は、午後八時を過ぎた辺りだ。

「十五分か」

 榊原は呟いた。

「探偵さん、十五分って何ですか?」

「銃声がしてからすぐに各自宅に戻ったとして、この場所から自宅への移動に使える時間だ」

「下木恵理の自宅からここへは、それこそ我々のようにサイレンを鳴らして突っ走りでもしなければ、車でも十五分では来られない距離です」

「だからといって、電車というのはもっとないだろうな」

「下木はアリバイ成立ですか」

「そうなるな。もし彼女が犯人だったとしても、彼女自身がここに来ていないのは確実だろう」

「その場合は事実上の遠隔殺人になりますね」

「関係のない人間に事件の凶器を握らせて引き金を引かせる。かなり難しいトリックが必要になるな」

 榊原の言葉に、斎藤の目が光った。

「となると、残るは新開?」

「新開の自宅は最寄り駅が品川だったはずだな。確か、事件当夜に品川駅から広沼社長に電話していたと本人も言っていたはず」

「はい。自宅からここまで、車を使えば片道五分程度です」

「来られない距離ではない、か。ただし、その場合はどうやって警察の監視の目を逃れたかが問題になる」

「監視していた刑事によれば、表立って目立った動きはなかったと」

「奥さんがいるはずだな」

「軽く話を聞いた限りですが、奥さんは新開と一緒にいたと証言しています。もっとも、家族間のアリバイは無効になってしまいますが」

「無視するわけにもいかないか」

 榊原はそう言って、ジッと何かを考えているようだったが、

「他に何か不自然な事はなかったか?」

「実は、死んだ品倉ですが、携帯電話が見当たらないんです」

「携帯が?」

「所持していたのは前回の事情聴取の際の話から間違いありません。ただ、その携帯電話の所在がわからないのです。それから……死んだ品倉の表情なんですが……」

「表情がどうかしたか?」

 斎藤は少し戸惑ったように告げた。

「どういえば良いのか、簡単に言えば、驚愕の表情といったところでしょうか」

「驚愕の表情?」

「何かに驚いて、そのまま表情が固まってしまったような……。何とも表現が難しい表情のまま死んでいました。これが写真です」

 斎藤は懐からデジタルカメラを取り出し、榊原に渡した。榊原はそれを確認する。

 一枚目は死体の全体像で、倉庫の壁にもたれかかって座り込んだまま息絶えている男の写真だった。私服姿で、垂れ下がった右手には拳銃が握られており、頭はうつむいた状態である。右のこめかみから糸のように流れ出ている血が確認できた。

 そして二枚目であるが、鑑識によって倉庫の床に寝かされた死体の表情の写真だった。その顔は、苦悶や安らぎというようなものではなく、文字通り、驚愕と表現するのが一番しっくりするものであった。

「驚愕の死体、というわけか」

 その言葉を発する榊原を見て、瑞穂は思わず目を疑った。その表情は、今までと違ってどこか確信に満ちたものだったからである。

「間もなく新開と下木に対する事情聴取が始まります。どうされますか?」

 斎藤が尋ねる。が、榊原は今度は考え込む事なく、しっかり前を見ながらこう告げた。

「どうやら、同席する必要はなさそうだ」

 その言葉に、一瞬ではあるが、車内が静まり返った。

「どういう事でしょうか?」

 斎藤が慎重に尋ね返す。それに対し、榊原はこう答えた。

「話を聞く人間は一人で充分という事だよ」

 榊原の言葉に、瑞穂は混乱した。

「探偵さん、それって……」

「ああ」

 榊原は断言した。


「犯人がわかった」


 その言葉に迷いは一切なかった。

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