第32話 「警察にマークされてるんだってね」

 運転が荒れないようにゆったりとハンドルを握る。顔はあくまで笑顔。心の中だけで 違うだろー!と叫ぶ。


 能力には個人差がある。それは了解している。出来ない人に「やれ」というのはおかしいと思う。でも下村先輩は、出来ないふりをして、さぼっている。歩合はいらないよ、と謙虚なふりして、遊んでいる。配達区域を越境して猫の写真を撮りまくっている。

 おまけに「それにね、早きゃいいってもんじゃない。丁寧な仕事、これが一番大事」と先輩面を振りかざす。


 休憩のために一度営業所に戻り、コンビニ弁当を腹に詰める。これさえも機械的な作業の一部に感じる。味わう余裕がない。時計を見るとすでに午後の配達指定時間に差し掛かっている。疲れる。みんなが下村先輩と組みたくないという意味がよくわかった。


 下村は満面の笑みを野田に向け、無邪気に問いかけた。


「なあ、野田ってさあ、警察にマークされてるんだってね」


 唐揚げが野田の箸から転がりおちた。


「た、たまたま被害者の方と面識があったというだけですよ。マークされてなんていません」


 先輩はスマホを弄りながらダルそうに相槌を打つ。


「ふうん、そお? 今日はドキドキだよ。もしかしたら隣にいるのが犯人かも、なんてさ。アタシも廃工場に捨てられたらどうしようって」


「じょうだんキツイですよぅ」


 無神経なセリフを口にしているわりには、興味のなさそうな下村の態度。その視線は手元のスマホの中、猫画像に釘付けになっている。反論するのはやめた。きわどい冗談をあえて口にして、後輩と打ち解けようとしているのかもしれない。いいほうに極振りして考えたならば、だが。


「でも、あそこ、猫いっぱいいるから、ご希望なら捨ててあげますよ」


「おお、こわ。でも、ほんとあそこは癒されるよねえ」


「ほんとはいつも素通りですからよくわかんないんですよね。その写真は、先輩が撮ったんですか?」


 下村のスマホを覗く。猫の接写画像、背景には廃工場がピンぼけで写っている。


「うん、こういうの、集めるのが好きでね。野田はサバトラ派? ミケ派?」


「ええっと……。配達中に写真撮ってるってほんとですか」


「うん、まあ、ヒマなときだけね」


「廃工場の写真ってことは、下村先輩は以前、拓真町を担当してたときがあったんですか。今は主に真池町回ってますもんね」


 野田が拓真町を担当しているのはここ3年間ほど。それ以前に下村先輩が担当していたのだとしたら納得がいく。

 今現在、下村が担当している真池町は車で片道15分ほど離れている。少し距離があるのだ。


「ああこれ、さっき撮った写真」


「さっき? ……まさか、第一倉庫に納品したとき『トイレに行ってくる』といってなかなか帰ってこなかったのは……嘘でしょ」


「嘘なんか言わないよう。配達で疲れたときにエネルギーもらいによく行ってるんだよ。今日はとくにクタクタでね。あそこはいいんだわ。パラダイスよ」


「……よく、行ってる?」


「そうそう。猫からしか得られない栄養があるんだよね。ストレスがたまったら野田だって解消するでしょ。風俗で抜いたりとかさ、がっはは」


「いや、風俗は行きませんけど」


「えー若いのに。今度一緒に行こうよ。親睦を深めに。後輩のきみに奢らせてあげるからさあ」


 先輩はバンバンと肩を叩いた。冗談のつもりか、脱臼しそうな勢いで。そんなに力が余っているなら、午後はとことん走らせてやるからな、と心に誓う。


「ここからはまじな話。あそこらへんで車両とめたときは気をつけてね。エンジンをかける前に必ず猫バンバンしてね。絶対だよ」


「猫バンバン……」


 猫バンバンとは──自動車のエンジンルームなどに入り込んだ猫を、エンジンを動かす前にボンネットを叩いて驚かし、外に逃がす行為である。ほどよく温まったボンネットの中は猫にとっては居心地がよいらしく、また、狭いところを好む性質から、こっそり忍び込んでしまうことがある。今や運転するものの常識と言っていい。


「ボンネットだけじゃなくてね、タイヤとボディの隙間とかリアサスペンションも気をつけないと。音におびえて出てこない子猫もいるから、叩くだけじゃなくて、視認も必要だよ。猫ちゃんの命を救うために、やんなきゃダメだよ」


「は、はい」


「アタシは正義感が強くてね、お客さんとか通行人とかにもよく注意しちゃう。でもさあ、なかにはブチ切れる人もいるんだ。パラダイスの近くは猫バンバン強化地帯だから重点的に声かけするんだけど、注意を無視する人いるんだよね。だからアタシが代わりにバンバンしてやったことあってさ。怒鳴られたことあるよ」


「他人の車を勝手にバンバンしたら、そりゃ怒鳴られるでしょうね」


 先輩の仕事はなんでしたっけ、と問いたい気持ちをぐっと抑え込む。

 猫を愛する熱量はたいしたものだ。呆れたことに、ぼくは感銘を受けていた。ここまで自分を信じて突っ走れるなんて、ちょっと羨ましいと思える。


「ところで、これ、指定無視されて不在だったよ」下村はひとつのダンボールを持ち戻りのパレットにぽいっと放った。


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