第30話 「今日は地獄だからな」

「おはようございまーす」


 タイムカードを打刻。軽く体操をして筋肉をほぐす。同僚に声をかけるときは緊張した。


「おう、来てくれて助かるぜ」「やっぱ、お前がいないときついわ」


 ほっとした。同僚の態度は以前と変わらない。屈託なく野田に接してくれる。「がんばれよ」「踏んばれ」と言って肩を叩いてくれる。訊きたいことはあるだろうに、飲み込んで見守ってくれている。野田は心中で感謝した。


「おはよう、野田くん。昨日から大手通販サイトがセール始めてて、今日は荷物が多いんだ。よろしく頼むね」


 後藤所長が構内でアルバイトと肩を並べて仕分けをしている。額に汗が光る。呼び戻されたのには、なるほど理由がある。アカブタ運送がブラックでなかったら、溜まっていた有給休暇を取らされて自宅待機だったかもしれない。ルーティン作業を筋肉でこなす職業でよかった。


「所長。次のシフト出来ました。確認お願いしマッチョ」荒川がやってきた。野田を見つけるとにやりと笑った。「おう、なんか目の下にクマがあるぜ。ちゃんと寝てるのか」


「あれ、今日は休みじゃなかったっけ」


「休みだぜ。それ以上言うなよ」


「はあ、お疲れさまです……」


「とはいえ、シフト作りはついでなんだ。実は日比野ちゃんから頼まれごとがあって。ま、それはいいか。今日は荷物が多くて痺れるぜ。ケツの穴締めて走れよ」


 日比野響子からの頼まれごととはなんだろう。気になる。だが余計なことを考えさせてくれる余裕はなさそうだ。


「ぼくが休んだ穴を埋めてくれてありがとう。迷惑かけてすまない」


「おまえのせいじゃねーだろ。それにおまえの穴なんか緩すぎて物足りなかったぜ」


 荒川はいつものように野田の髪をわしゃわしゃと乱した。


 後方からカメラのシャッター音と「はう……!」という奇声が聞こえた。振り返るとスマホを握り、左胸を抑えて小刻みに震えている日比野がいた。


「どしたの、日比野さん。体調が悪いの? まさか心臓発作……?! 荒川、すぐに救急車を!」


「お、おう!」


「待って、違うの。尊くて。あまりに尊すぎて」深呼吸を繰り返し、日比野は呼吸を整えると、恥かしそうに笑った。「ふう、やっと落ち着いた。ごめんなさい。驚かせちゃって。ダメね、すぐに顔に出ちゃうのはまずい。気をつけなきゃ。あ、野田さん、おはようございます~。今日も一日がんばってくださいね~。ね、荒川さん、例の件なんだけど、このあと時間とれるかしら」


「いいっすよ」


「例の件……?」


「あ、野田はもう行ったほうがいいぞ。今日は地獄だからな」


 仕事量が多いだけなら慣れている。荒川は昨日、通常の二倍の量をこなしている。負けてはいられない。

 親密そうな荒川と日比野のようすにもやもやしていると、所長が「ちょっとこっちへ」と手招きした。


「わたしは午後から品質会議で本社に出かけないといけないんだ。はあー。労務管理データも更新しないと。忙しいよ」


「大変ですね」


 品質会議が何のための会議だかは、よくは知らない。所長のようなスーツ組にとっては仕事の重要な核になるらしい。現場の配達員が昇格して所長になることは可能だが、殆どの配達員が出世を望まず、昇進試験を受けない。頭を使ったり気を使ったりするよりも、体力を使うことの方が性に合っているからだ。ぼくもその一人だ。


「でね、今日は下村さんと組んでもらうんだけど」


「二人体制ですか?」


 猫好きの下村先輩。日比野に見せてもらった、サボタージュの証拠写真を思い出す。その写真はもともと荒川が撮影したものだった。少しだけ気分が落ち込む。


 物量が多いとき、二人一組でチームを組むことはある。繁忙期にはアルバイトとチームを組むこともある。珍しいことではなかった。

 だが下村先輩と組むのは初めてだ。昨日、猫を追っかけて仕事をさぼると聞いたばかりだったので縁を感じる。


「運転は野田くんで、配達は下村さんでいいんじゃないかな。楽ができるよ」


「大先輩を走らせるのは厳しいでしょう」


「見張ってないとサボる人だからね。他の人には断られちゃって、ごめんね。よろしくお願いしますね」


「はあ、え?」



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