第18話 目の下の隈の原因

佳澄のちょっと寝付けなかったが、ちょっとでないことに気づいたのは週次の佳澄との打ち合わせの場でだった。


あれから3日経過しているのに、佳澄はまだ目の下に隈を作ったままだった。


打ち合わせでの佳澄はいつもと同じで、寝不足で頭が回っていないという程じゃない。


目に隈ができやすい体質だけなのかもしれないけど、ここ数ヶ月で佳澄のこんな顔を見たのは今週に入ってからだけだった。


「余計なお世話かもしれないけど、メンタルヘルスの窓口に相談したら?」


精神的な負荷で、心の病に掛かる人は、今までにも少しだけど見ている。そういう時はもう自分では止められなくて、周りが声がけやサポートを自発的にしないと手遅れになるだけだった。


佳澄もその状態に入ろうとしているのかもしれない。


この会社にもカウンセリング窓口が設置されているので、自発的行動のきっかけになればと思って口にしてみた。


「…………仕事に原因があるわけじゃないから」


佳澄は不妊治療をしている。それは体にも心にも負担が掛かることだと浅い知識の中では理解しているつもりだった。


「佳澄、佳澄は諦められないのかもしれないけど、佳澄の心と体に負担がそこまで掛かってるなら、いったん止めるとか、旦那さんと話をしたら?」


どうしても子供が欲しいから不妊治療を頑張っているのだろう。でも、それがもう崩壊に近いのなら、時間を置くのも一つの選択だと口にした。


「葵、わたしね、流産したの。土曜日に少し出血があって、病院に行ったら駄目だった」


不意に佳澄がワタシを見据えて、そう告げる。


佳澄は会社ではワタシにも敬語を使う。でも今日はそうじゃなくなっているということは、それだけ追い詰められているということだろう。


重い佳澄の言葉に佳澄を見つめたままワタシも動けなくなる。


「もしかしてシステムトラブル対応で無理をしたから?」


「それは違う。妊娠初期の流産は先天的な異常のことがほとんどだから、わたしが悪いだけ」


「そんな風に思い込まないで。ごめんなさい。無理矢理言わせて。でも、それなら今はゆっくり体を休める時期なんじゃない? 言いにくいならワタシが言おうか?」


佳澄は体だけじゃなくて、心も傷ついている。


「……家にいる方が余計にしんどいんだ」


「そっか……」


夜も眠れずに目に隈を作っているような状態なのだ、確かに一人でいれば余計に考えを沈み込ませるだけかもしれない。


「2回目なんだ。妊娠もし辛くて、やっと着床しても育たない。今度こそはって思っていたけど、流石にちょっと心が折れちゃった」


「簡単に切り替えるなんて難しいよね。旦那さんは何て言ってるの?」


「……不妊治療をしてるとね、お互い心が蝕まれて、何で一緒にいるのかわからなくなるんだ。初めは一緒に不妊治療に行っていたのに、今は一緒に行くこともなくなって、業務的に状況報告をし合うだけ。この人じゃなかったらこんなに苦しまなかったかもしれない、なんて思ってきちゃうんだよね。だから、どっちが悪いって言い合いをしたきり口をきいてない」


ワタシも真依を怒らせて、やっと会話をしてもらえるくらいにはなった。同じように佳澄も家庭内でトラブルが発生していたのだ。


でも、佳澄のトラブルはどちらも傷ついて前を向けなくなっている分、糸口を引き出すことすらできていない。


「不妊の原因は旦那さんにあるってこと?」


「どっちにもあるって言われてる」


「それで余計に難しくなってるんだ」


「まだ34だから時間はあるって周りは言うけど、今でも無理なのに年々妊娠しにくくなるだけじゃない」


「そうだね。ちょっとゆっくりして、どうするか旦那さんと改めて話をしたら? 佳澄も旦那さんももう精神的には限界でしょう? 今の不妊治療を続けること以外にも子供を持つ選択肢はあるから、そういうことを含めて話してもいいんじゃないかな? ワタシみたいな子供を持つことを考えたこともない人間が言うべきじゃないかもしれないけど」


「そんな人ほどあっさり子供を産んじゃうんだよ」


「ワタシに限ってそれはないよ。ワタシはどんなことがあっても今のパートナーといるつもりだから」


「そう……」


溜息を吐いた佳澄に、今日はこのまま会議室で仕事をすることを提案する。


「麻倉さんにはワタシとの会議が長引いてるって連絡しておくから、ここでちょっとゆっくり仕事しなよ」


今のワタシにできる精一杯がそれだった。





定時に家に帰ると、真依は先に帰っていて、夕食の準備をしていた。


ただいまのキスはまだできないけど、真依を背後から抱き締める。


「葵? なに? どうしたの?」


「佳澄が流産したらしいの。不妊治療をしてやっと妊娠できても、なかなか育たないって、今週ずっと寝られていないらしいんだ。佳澄に引きずられないようにしようって誓ったばかりなんだけど、ごめん」


「それで、葵はどうしたいの?」


「ワタシができることはないって思ってる。ワタシは佳澄のパートナーじゃないから。でも、辛そうで見ていられなくて、何かしたくなっちゃって駄目だなって」


「周囲にそんな人がいたら、何かをしてあげたくなるのは普通でしょ。でも、やっぱり夫婦の問題は夫婦でしか解決できないんじゃないかな」


「そうだよね」


「……葵が佳澄さんを気にするのはいいけど、悩んで欲しくない」


「気をつける。一人だと悩んじゃうから、真依に話をするのはいい?」


「そうしろって言ったのは私だからいいけど……」


真依が手を止めて、向きを変えてくる。真依を見下ろすと真依と目が合った。


「何があってもワタシが好きなのは真依だから」


「それじゃあ、そういう行動をちゃんと取って」


頷きを返しても真依の視線は離れない。


これはキスをしてもいいってことだろうかと顔を寄せる。


真依が目を閉じて承諾を示してくれて、そのまま唇を重ねた。


久々の真依の唇に、体は熱くなって、幾度もキスを繰り返す。


「もう……ご飯の用意してるのに」


「真依、そろそろ寝室に戻って来ない?」


どさくさに紛れてだけど、こういうのはチャンスがないと言い出せない。


「どうしようかなぁ……まだ葵を許したわけじゃないけど」


「それは分かってる。でも、長引けば長引くほど戻って来づらいでしょう?」


「そうだけど……」


真依が迷っているということは、ちょっとは戻って来てもいいと思い始めているということだった。


「ワタシが迷わないように、真依を傍に感じていたい」


しょうがない、というそぶりを見せながらも真依は前向きに検討をしてくれたようで、夕食後にワタシはベッドシーツを替えるように依頼される。


真依は引きこもっていた部屋の方を片づけて、持っていった荷物を運び戻している。


これはもしかして、今日の夜は期待していいかもしれない。


移動作業が終わってから交代でお風呂に入って、真依が髪を乾かすのを待った。


でてきたら、今日は早めに寝ようと誘いを掛けるつもりだった。


「葵、バス周りの消耗品が少なくなってきたから、週末に買い出しに行きたい」


「じゃあ、土曜日に行こうか」


今まで当たり前にできていたことだけど、こういう会話ができるまでに戻れたことに喜びはある。


「何?」


「今日は早めに寝ない?」


「葵はすぐ調子に乗るんだから」


真依の言葉はちょっとだけ語気が強めだけど、本気で怒っているわけじゃないことは分かった。


顔を近づけてキスをして、行こう? ともう一度誘いを出す。


しょうがないなぁ、と立ち上がり掛けた所でワタシのスマートフォンが鳴った。


視線をスマートフォンに向けると、ディスプレイに『佳澄』の文字が表示される。


選りに選ってこのタイミングでなくてもいいのに。

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